魔術。
古代ギリシャにおける魔術とは「怪しげなもの」全般を指し、医学薬学なども魔術としばしば混同されていた。
魔女と呼ばれる者たちは、即ち異端だった。
異国の者。歳をとっているのに未婚の者。異常な言動をする者。社会が定めた行いから逸脱する者。
そして───女でありながら、男たちの知らない知識を持つ者。
そのような、社会と周縁化している者を、人は魔女と呼んだ。
侮蔑と、畏怖を持って。
人里離れた山間部。
三つの道が一つに集まるその先に、古びた神殿があった。
周囲には草木が生い茂り、木々の影が神殿を覆っている。陽の光さえ、ここまでは届きにくい。
静謐が古びた石造りの神殿を包んでいた。
風が外の木々を揺らしても、神殿の中には届かない。
己の重厚な足音だけが世界に響いていた。
風の音、鳥の声、獣の気配。山にあったものが此処にはない。
暗闇が支配する石畳の上を歩けば、目の前に灯りが見える。
それは松明であり、闇夜の月光のような道標でもあった。
その向こうに、一人の女がいる。
若くも、年老いても見える、長い髪の女だった。
「
「御身は───」
夜を削ったような美しい黒髪は、風が吹いていないというのにたなびいていた。
満月のような黄金の瞳が私を貫いた。
低く落ち着いた、雪のような声が耳の奥を揺らしても、直ぐには答えを返せない。
今まで体験したことのない思いに、私は掻き乱されていた。
しまった。
さりとて何かを言わざるを得ないので、一先ず名乗りを挙げることにした。
「私は───」
「知ってるよ。だからぁ、天に名高きヘラクレス
考えが纏まらない。彼女の問いに答えを返せない。
怪しげな薬の匂いを微かに感じて失敗を悟ったのは遅かった。
「智慧───学びを、得たいと思って」
「
「
大地に接して天を泳いで血に塗れて誰かを殴って闇の中に居て。
私はくるくる回る幻に囚われてしまった。
「見ることは光が目に入ること。聴くことは音が耳に入ること。嗅ぐことは匂いが鼻に入ること」
「
落ちて、堕ちて、そのまま───
「ヌゥン!!」
「‥‥‥ハぁ。これだから《鋼》は‥‥‥」
とりあえず全身に力を入れて幻を弾いた。
幻術の元となる光、音、匂いをねじ伏せれば意識を取り戻せるのである。
「そんで?何故にアタシに教えを乞うワケ?」
「
さて、今回重要なのは魔術ではない。
もっと身近で、致命的な問題を解決するためである。
「私の母上‥‥姉上?妻?は博識で、知的な女性なのです」
「しかし私は田舎の村の出‥‥彼女の知識についていけておりません」
「あーハイハイ。惚れた女と一緒の話題が欲しくて来たタイプね」
「一応言っておくけど、
偉大なる女神ヘカテーによる
「おいヘラクレスゥ!今から冥界に叩き落とすけどお使いくらい出来るよな!」
「はい
「ステュクスの川くらい泳げるよなぁ!」
「はい
「この本に書いてある
「はい
「今から私が全力で追うけど逃げ切れるよな!」
「はい
「
「はい
「であれば冥界に赴き、その全てを並行して行います」
「ウッス!」
学び‥‥?ホントに学びかなこれ。
一見おかしな光景だが、人ならざる神々における学びは人と違って当然ではある。
メティスの息子であり、いずれ全能に至る者であるヘラクレスには万道への才覚が備わっている。
そこに『あらゆる分野での成功を約束する』とまで言われたヘカテーの教授が合わされば、当然メキメキと成長していった。
特に農業の面で、その能力は発揮された。
ある日ヘカテーが神殿の植物園を見に行くと、以前には存在しなかったはずの植物が、整然と並んでいた。
一株、二株────ではない。
広大な畑のように、1mを超えるのではないかというほどのものが見渡す限り生えていた。
「‥‥‥オマエさ。誰に教わったのコレ」
「もちろん
「な訳ないだろうが!こんなん教えてねえって!」
「村で農業もやっていたので」
「にしてもおかしいだろうが!なんでプロメーテイオン*1が増殖してんの!?」
「しかし‥‥
「言ったけど!やり過ぎだろバカ弟子!」
このようにして、ヘラクレスの意外な才能はヘカテーによって発掘されたのである。
二柱はとても相性が良く、竹馬の友、義理の姉弟、魂の半身とも言える程仲が良かった。
「
「いいだろ別に。偉大な
「ならせめて起きている時にしてください」
「おや、急に物分かりが良くなったじゃないか」
「もしかして
「
「クソガキ!」
誰がなんと言おうと仲が良い。殺し合っていないのだから仲が良いのだ。
「‥‥‥」
これを面白く思わなかったのはアテナである。
ヘラクレスの側には助言の女神でもあるメティスの要素を持つ彼女が居たのだ。
当然、今まではヘラクレスが持たぬ知識に直面したらば彼女が助けをして来た。
にも関わらず、ぽっと出の女神───ヘカテーの方が地母神の源流に近いがヘラクレスとの関わりとして───にその座を奪われたのだ。
「‥‥‥」
ヘラクレス。《鋼》。我が息子。弟。夫。
無防備に寝ているその状態ですら、私では傷付けることが難しい。
「‥‥かぷ」
手を噛む。ゴツゴツしていて堅い。顎に力を入れても、少しの痕が残るのみである。
青い目の刺青を入れた胸に爪を突き立てても意味がない。彼は傷付かない。
無論権能を用いて本気で害そうと思えば話は変わる。その場合、即座に起きて反撃出来るだろうが。
何故、この男は私の前で睡眠を取れるのか。
このような無防備な姿を晒しているのは、何故なのか?
侮りから来るものなのか、それとも信頼故の事なのか。
「‥‥‥わからない」
知恵の女神がこのザマだ。目の前の生命のことなど分かっていない。
部屋の外に出る。闇の中でこそ私は冴える。
「悩んでるネェ。恋の病かい?」
薬草を煎じながらけひひ、と常人ならば震えるような笑いをする老婆。
女神ヘカテー。『
月、魔術、豊穣、浄め・贖罪、出産、冥府、狩猟、境界・十字路など、その象徴は多岐に渡る。
古代ギリシャにおける女は支配される者。奪われる者だった。
しかし魔女ヘカテーはそのような社会常識から逸脱し、逆転を起こし、女でありながら支配者になった神である。
元はアナトリア半島‥‥現在のトルコ周辺で生まれたとされる女神であり、原初、どのような名で信奉されていたかは残っていないにも関わらず絶大な版図を持っている。
地母神の源流に最も近しい女神であり、後に多くの女神たちと混同・同一視されたが故に。
広大な権能から、三面の女神とも、あらゆる分野での成功を約束する女神とも言われる。
「嗚呼、憐れなメティス。昔の男に捨てられたのをまぁ〜だ気にしてるんだね」
魔術とは神に通ずる業であり、それを極めたヘカテーは全能とまで称される。
その力からゼウスからも特別視され、天上・地上・冥府の通行を自由に行うことを許可されている。
過去を暴くことも、心を覗くこともヘカテーならば可能だろう。
「‥‥‥私が?」
「ゼウスの時は無理矢理だったが、それでも捨てられたことは心にキただろう?」
「そしてアンタの心はヘラクレスに惹かれてる。ゼウスに捨てられた時のように、それ以上に、アレに捨てられるのを怖がってる。アタシにゃ解るさ」
「そのような侮辱、如何に御身であろうと───」
息を呑む。
目の前にいるのは正しく三面六臂の女神。
もしもゼウスが王座を奪っていなければ神々の女王になっていたかもしれない、正当なる王位継承者。
「まァ、アンタの想いも可笑しくない。アタシも同じ冥界の女として、アレに肩入れしちまってるからね」
「
「英雄というカタチの、一つの死の在り方。それがヘラクレスさね」
「‥‥‥‥」
ヘラクレスは最早あらゆる試練を打ち砕く神性である。
神としての新生。ステュクスの川の加護。蒼眼の刺青の防御。
まさに全盛期の、神々の王ゼウスを思わせる力である。
そして、それが己だけによって成されたものではないことが、どうにも面白くなかった。
「痕を残さないかい?」
声を落として、囁くように、老婆は言う。
「‥‥‥何ですって?」
「刺青だよ。アタシがやったように、あの男にカタチで遺すのさ」
アテナの黄金の瞳が揺れる。
唆されていることを自覚してなお、《蛇》の誘いを拒めない。
寝室。ヘラクレスは未だ眠ったまま。
「‥‥‥起こさないのですか」
彼が眠ってる内に刺青を入れるなと怒っていた事は記憶に新しい。
あまり彼を刺激するようなことはしたく無いのだが。
「起こすと絶対文句言うし。ホントにイヤだったら起きて殴りに来るでしょ」
「起きたら結局殴りに来るのでは?」
「だから気付かれない内にやるんじゃん。バレなきゃ良いんだよ」
今更ながら後悔して来た。こんなことをして本当にいいのだろうか。
朝起きて、気付いた時。見捨てられはしないだろうか。
「そら、さっさとやるよ」
罪悪感と不安感を抱いている私を他所に、ヘカテーは好き勝手していた。
「折角プロメーテイオンがこんなにあるんだもん。使わなきゃ損だよねー♡」
プロメーテイオンから作った魔法薬を真夜中にヘカテーに供儀した後、身体や武器・盾に塗りつけると、1日の間だけ刃や火から身を護り、無双の力を得ることが出来る。
ヘカテー本神とも成れば、刺青として魔法薬を使うことでその効果を永遠にすることも出来るのだ。
「どのような形に?」
「そりゃ
右腕からヘカテーが。左腕からアテナが刺青を入れ始め、肩を通り、首元で合流した。
「‥‥‥見捨てない、で」
肌に触れる。熱が伝わる。
助言とは
このように軽率ではなく、一人で考えることでもない。
知恵の女神として、私は、この愚かさを保有してもいいのだろうか?
「冥界の女のよしみで
「生命を理解してない奴に死を支配する権利はないよ」
二人きりに戻る。夜はまだ明けない。
「ヘラクレス‥‥‥」
何故彼は私を優しく抱き締めるのか。
何故こんなに暖かいのか。
「‥‥おやすみ」
分からないまま、目を閉じた。
ヘカテー
かつて神々の王だったクロノスから直々に『万物を支配する王笏』を与えられている。
王笏は王権の象徴。それを与えられるということは、王座の継承にも等しい。
ゼウスが王座を奪い取っていなければ、彼女が正当な神々の女王として君臨しただろう。
気まぐれに与え、気まぐれに奪う。
アテナ
捨てられたくない。置いて行かれたくない。焦りが思考に霧をかけた。
ちょっと誘導されてたけどいつか爆発するものが早まっただけ。
生命がわからない。
ヘラクレス
アテナの話についていくために勉強を始めた。
相変わらず無茶振りされてるけど逆に振り回し返している。
実は農業が得意。もしまつろわぬヘラクレスと農業勝負していれば圧勝だった。
自分の肌に落書きされて眠り続ける程鈍感ではない。
分かりきったことだが、アテナを愛している。