【完結】アドマイヤグルーヴとトレーナーが繋がりを知る物語   作:ポンタ4

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ジュニア編

 家族。血の絆で結ばれていき、そしてこれが途切れることはない。血の絆は愛へと変わり、そして永遠に結ばれ続けていく。どんな形であれ、純粋で純潔で。私が得ようと努力をしても得ることは叶わない。

 孤児。親がいない子供。血の繋がりを絶たれ、あるべきものは無へと変わってしまった。優しい言葉、欲しいもの、触れられた体温。それらは本物ではなく偽物。本物には一切敵う事のない暖かなもの。

 親がいる子供といない子供。どちらが幸不幸か。自分という存在が満たされ、そして証明ができるのか。

 

 答えは決まっている。

 

 だから、私は────────1人でいい。

 

 

 夕暮れの日が背中に当たる。その日はとても暖かくて、まるで包み込んでいるようだった。手を繋いで、少しだけ歩くのを早めていく。あの手の暖かさだけは今でも思い出せる。夕暮れよりも暖かくて、そして大きな手だった。

 その手はもう、今は違うものへ変わってしまった。記憶の中の手を繋いでいる人物は、どんな表情をしていたのか。思い出すことは出来ない。蓋をして、閉じてしまった小さい頃の世界。

 そして閉じた世界から引っ張り出してくれたのは、違う手だった。同じような暖かさと大きさ。すっぽりと覆いこんでしまう程の大きな手。二度と失いたくないと、そう思った。

 親がいる子供と親がいない子供。どちらが愛情をより与えられ、そして大きな繋がりがあるのか。

 

 それは分からない。

 

 だって、俺は───────1人ではないと知ったから。

 

 

 

****

 

 

 あの時の出会いを定義するのであれば、言わば運命の出会い、というのが相応しいだろう。

 トレセン学園で見た彼女の走り。青色の髪と尻尾を風に乗せながら靡かせている姿。彼女の走りは冷たく、畏怖と尊敬を同時に覚えてしまう程だ。周囲のトレーナーやウマ娘達もそう言っていたが、実際に目にしてしまえばそう思うのも納得だった。

 

 彼女の走りを見たトレーナーからの評価はこうだった。

 神童という言葉が相応しいほどの素晴らしい走りだ、と。

 

 そして、ウマ娘の評価も似たようなものだ。

 三冠を取るに値するほどの強い走りだ、と。

 

 実際に彼女の走りをこの目で見た時には一目惚れしていた。今でもあの時の事を思い出そうと思えば、簡単に出来てしまう。

 芝のコースで一人、ひたすらに脚を動かしては視線を真っすぐに見据えている。力強くも、どこか一本の線が通るほどの綺麗な走り。そして最後の直線では荒々しさも垣間見える程。 

 

 だけど、俺にとってあの走りは何処か生き急いでいるようにも見えた。

 まるで走らなければいけない、という使命感に駆られているような。走る事で己の存在意義を証明するような。そんな走りに見えてしまった。

 

 そういえば、彼女にはもう一つ神童、という言葉以外にも付けられた言葉があった。

 孤高。

 確かに、あの走りは誰も引き寄せることがないだろう。

 

 

 アドマイヤグルーヴ。初めて走りを見た時に俺は気になり、トレーナー室のパソコンで彼女の事を調べてみた。既に彼女の事は色々な所で記事にされており、期待されている事が伺えた。

 次のクラシックはアドマイヤグルーヴが中心に動いていくだろう、その言葉は既に繰り返されてしまう程だ。

 模擬レースでも一着を取り続け、多くのトレーナー達がスカウトをしようと目を光らせている。しかし、彼女はそのスカウト全てを断っているようだった。

 

「……珍しい…のか?」

 

 生憎、今年から中央のトレーナー資格を取り、やっとの事で所属した自分には縁がない話だった。それ以上にスカウト、という行為自体も初めてである。本来であればサブトレーナーとして活動をしてから自分の担当を持つことが多いが、自分のことをサブトレーナーとして雇おうとする人もまだいなかった。

 

「…気になる」

 

 椅子に体を預けては、体の上で手を組んでいく。彼女の走りは人を引き寄せる力がある。しかし、同時に人を拒む力もあった。努力をしてきっとあそこまで手に入れたのだろう。

 だが、それ以上に生き急ぐように見えてしまった。走りを生業とする競技者以上の佇まい。まるで、それを否定されたら彼女では無くなるような。

 事実としてトレセン学園から帰ろうとした時、夜遅くまで走っているのを何度も見かけた。そういった子は確かにいるが、彼女の場合は明らかに許容を超えている練習量だ。

 

「…分からないな……」

 

 がらん、としたトレーナー室で一人呟いていく。まだ使われ始めて一ヵ月も経っていない綺麗な部屋。それが何処かみっとも無さも感じてしまった。

 視線を動かしては部屋の中を見渡す。このまま悩んでいても思考を鈍らせてしまうのみ。それであれば彼女に一度会ってみて話をしてみよう。そう思い、立ち上がってはパソコンを閉じていく。向かう先は芝のレース場。そこであればきっと彼女はいるだろうから。

 

 

**

 

 

「トレーナー契約は結構です」

「いや…でも、君の走りならうちのチームで…!」

「いりません」

「それなら私の所で…!」

「しつこいです。トレーニングがありますので」

 

 コース場に辿り着けば既に何人かのトレーナーに囲まれている現場を目撃した。彼女は一貫として態度を崩さず、そしてそのまま走り去っていく。これでは話しかけたくとも話せない。

 

「……なに、あれ?」

「…ね。神童って呼ばれて…お高くとまってるんでしょ」

 

 近くを歩いていたウマ娘二人。怪訝そうな表情を浮かべながら、アドマイヤグルーヴの走りを見届けていく。そのまま歩いていく彼女達の会話は直ぐに違うことに変わっていた。

 孤高。一人になることを望んでいる。あの子があそこまで他者と交わることを拒む理由が掴めなかった。

 彼女の走っていく様子を眺めていく。芝を蹴り上げる度に舞い上がる土埃、それと同時に抉れていく芝の欠片。変わらない一本の線が通った走り。やはり彼女の走りはとても綺麗で、怖くて、そして────────

 

「……可哀想だ」

「ほう…何が可哀想と言うんだ?」

 

 自分の背後から聞こえてきた声。背後に視線を向ければそこには有名な一人のウマ娘が立っていた。アドマイヤグルーヴにもよく似た凛とした佇まい。鹿毛のボブカットに、特徴的な赤のアイシャドウ。少しだけあの子にも似ていた。

 

「エア…グルーヴ…?」

「…私の質問に答えて貰おうか?」

「えっ?あぁ…いや、その…」

 

 まさか誰かに聞かれているとは思ってもいなかった。思わず彼女から視線を逸らしてしまった。

 

「……声に出てたなんて」

「思わず、か。アルヴを可哀想だというトレーナーは初めて聞いたな」

「アルヴって呼ばれてるんだね、あの子は」

「知らなかったのか?」

「最近トレセン学園に来たばかりだから」

「あぁ、なるほど」

 

 彼女は口元に手を添えては頷いていた。その視線は俺ではなく、アドマイヤグルーヴへ。

 逸らした視線をエアグルーヴへ向けた。彼女の瞳は何処か、心配そうなものを含んでいるように思えてしまう。

 

「心配なのか?アルヴのことが」

「心配だとも。大切な後輩の一人だからな。それで……」

 

 彼女は此方を向き「可哀想の理由は?」と聞かれてしまった。一瞬だけ口を開きそうになる。彼女はアドマイヤグルーヴの事を心配してくれている。恐らくだが、それはただのお節介ではない、それ以上の何かだ。先輩後輩という関係性だけではない、それ以上の何かを。彼女は抱えているように思えた。

 

「…生き急いでるようにも見えたんだ」

「生き急ぐ、だと?」

「確かに凄く強い走りをしているし、末脚は見事だよ。走り方も綺麗だしね。ただ…なんだろう…」

 

 言葉が詰まってしまった。思考を巡らし、生き急いでいる理由を話そうと思ってもそれは不可能だった。

 何故かそう思えてしまったから。彼女自身の走りは普通のウマ娘の走りではない。

 ごく一般的なウマ娘の走りはそれこそ楽しみ、時には苛烈に、人を惹きつける力がある。アドマイヤグルーヴもその一人ではあるが、彼女の場合は更に命を賭けているようにも思えた。

 

「……言うなら、後がない、なのかな」

「…そう見えるか」

「君もか?」

「いや、私はそうではない。ただ、無理をしているようには見える」

 

 二人で視線をアドマイヤグルーヴへ向けていく。どうやら一周終えたようで、水分補給とタオルで汗を拭いているのが見えた。

 

「一つ、頼みたい事がある」

「どうした?」

「アルヴをスカウトしてくれないか?」

「えっ」

「えっ、とはなんだ。スカウトをするつもりは無かったのか?」

「そういう訳では無いけれど」

 

 まだ新人である自分がしても良いだろうか。額に手を添えては少し考えてしまう。

 スカウトをするつもりはない、と考えると嘘になる。彼女自身の走りに一目惚れをしているし、心配、という側面も併せ持っている。あの走りと練習量ではいつか限界が来てしまうのではないか、と。

 だが、果たして自分の知識で彼女を支えることが出来るのだろうか。アドマイヤグルーヴという存在を潰してしまうのではないか。それを考えてしまった。

 

「俺は新人トレーナーだぞ?」

「それがなんだ。新人だから、というのは関係ない。アルヴの事をちゃんと見てくれそうだから、私は頼んだのだから」

「そう言ってくれるなら…してみるよ。あの子の走り方は…どこか心配だから」

「ありがとう。とは言ってもアルヴは断るだろうから…私から話しておこう」

 

 それもそうか。もし自分から行けば門前払いをされるのは目に見えている。ここはトレセン学園で過ごしている歴の長い彼女に任せた方が良いだろう。

 

「数日以内にはトレーナー室に向かわせる。そこからは頼んだぞ」

「分かった」

 

 こくり、とエアグルーヴは満足そうに微笑みながら頷いた。

 エアグルーヴが今回は導いてくれるのだ。今は無理に聞かずに引いておこう。そう思い、その場を後にした。

 

 

**

 

 

 その日から数日後。

 トレーナー室でいつものようにパソコンでキーボードを叩いていると聞こえてきたノック音。それに俺は「どうぞ」と一つ声をかけた。

 音を立てて開かれる扉。そこにはアドマイヤグルーヴが立っていた。

 

「失礼します。貴方が…エアグルーヴさんが仰っていた方ですね」

 

 肩に学生鞄を携え、そして此方へ数歩だけ脚を動かしては見据えながら言葉にした。俺は椅子から立ち上がり、彼女へ視線を向けていく。此方からも近づいていき、彼女の正面に立った。

 

「あぁ、エアグルーヴから話は聞いているかな?」

「ある程度は。私の走りを見て…生き急いでいる、なんて言う人は初めてです」

 

 彼女はそう告げながら、片手でもう片方の腕を支えるように掴んでいく。視線がお互いに合ってはいるも一瞬だけ彼女が逸らしてしまう。

 

「まぁ…そう思っただけだよ。それに…君の事が心配だから」

「私が?心配だと?」

「そう。君の事を見てたんだけど…明らかに練習量が過剰だ。これじゃ…君の方が潰れてしまう」

 

 何か思い当たる節があるのか、彼女は視線をまた逸らしてしまう。直ぐに「貴方には関係ありません」と突き放すような言葉を紡いだ。

 

「それに、私にはトレーナーは必要ありませんので」

「それは…どうして?」

「………それも関係ないじゃないですか」

「…分かった。ならこうしようか」

 

 机へと向かっていき、その中から青色のバインダーを取り出していく。その中から三枚の用紙を取り出しては彼女へ提示した。

 何もアドマイヤグルーヴが来るまでただ過ごしていたわけでは無い。彼女を隣で支えられるようにトレーニングプランや日々の過ごし方、そして目指すべきレースを作成していたのだ。

 彼女がより成長できるために何をするべきなのか、何を意識するべきなのか。それらをまとめ、そして説得するための。

 

「これは君の三年間をまとめたものだ。といってもまだ簡易的だけれど」

 

 手にしたアドマイヤグルーヴはその資料を一つ一つに目を通し始めた。ジュニア、クラシック、シニア。ウマ娘にとってとても大事だと言われる三年間をトレーニング、レース、そして日常生活の過ごし方を。

 小さな声で「…どうして」と彼女は呟いた。資料から視線を外しては、明らかに戸惑いの表情を見せている。

 

「理解できません。そこまでして私をスカウトしたいのが…」

「エアグルーヴから言われてるのもあるし…それに、君が心配だから」

「また心配、ですか…」

「気に食わない、とか嫌だ、とかあればそれはそれで構わない。けれど…このままだと本当に体を壊してしまうよ」

「………っ」

「だから、一度俺を信じてみないか?新人だから大層な事は言えないけれど、君を導きたいって想いは本当だ。俺を、利用してもいい」

 

 くしゃり、と資料が握られる音が聞こえる。アドマイヤグルーヴは震え、唇を強く噛みしめていった。

 俺自身として出来るのはここまで。後は彼女の心に響いたかどうか。言葉だけではない、行動としても彼女に見せなければきっと拒絶するだけだろう。

 

「…一週間、待ってくれますか」

「あぁ。待ってる」

「……必ず、その時に返事をしますから」

「ありがとう。その資料は持っていって。もし、変な所があったら遠慮なく言って欲しい」

 

 こくり、と言葉にせず頷く彼女。手にした資料を綺麗に二つ折りにしては、彼女は一度会釈をした。

 トレーナー室から立ち去ろうとする彼女。背を向けた彼女の尻尾はどこか、力なく揺れていた。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 あの人の言葉が理解が出来なかった。いや、きっとこれは理解をしたくなかったのだろう。私の心を見透かしているような、言葉、視線。私という走りを見て、生き急いでいる、というトレーナーは初めてだった。

 トレーナー、というのは訂正。人生で。それが正しい。

 今まで神童ともてはやされ、レースを走る事があれば常に一着を取り続けてきた。私が私であるために。アドマイヤグルーヴという存在が、証明されるために。

 

 だから、否定が出来なかった。あの人の言葉が。

 スカウトも私の走り方も。もし否定をすればそれは───────

 

「………ふっ…!」

 

 いつものようにコース場を走り抜けていく。さっきまでの言葉を忘れるように、脳裏を掠めてしまわない様に、脚を速めた。春だというのに夜は何処か涼しく、そして私の熱を奪うようにも思えた。

 既に周囲には他のウマ娘達はいない。私だけが独占しているトレーニング場。

 いつもの夜風に、いつもの夜空。変わらない世界で私は練習をしていた。

 

 けれど、今日は違った。

 脚の動きが時折、自分の意志とは違うように動くことがあった。やけに力が入ってはスピードを出せず、そして脚に負担がかかってしまう。納得がいくまで、昨日の自分を超えるためにトレーニングを重ねていたが、どうやら今日はそれは出来なさそうだった。

 

「…生き急いでる………私が…」

 

 昔を思い出しそうになる。孤児院に居た時代を。あの時代は、私にとって苦い記憶だ。そして原動力だった。

 皆が私を見ていた。レースになれば私の走りを見て、褒め称えてくれた。

『凄いね』

『強い』

 それらの言葉はどれも私の心には響かなかった。そうであるべきだったから。私はそうでなければいけなかった。もし負けてしまえば、誰も見てくれなくなる。

 

 私は強くなければいけない。孤高でなければいけない。皆に見て貰うために、私という存在を肯定し、アドマイヤグルーヴという一人のウマ娘がこの世界にいたのだ、と。

 だからこそ、今までのトレーナー達の誘いを断ってきた。

 あの人たちは私の走りだけを見て、そして都合の良い言葉だけを持ってきている。孤児院に居た人たちと同じように。

 

 どれもこれも所詮は多数の中の一つ。既に聞いた言葉達の集まり。そんなものが私を見ているとは到底言えない。

 

 けれど、あのトレーナーだけは違った。

 私の走りを褒めるのではなく、心配をした。エアグルーヴさんと同じだった。

 違う、もっと深い所を見ていた。私の走り方ではなく、走る理由の方を。心を見透かすようなそれが、気持ち悪かった。

 

 あの場で私が言葉を濁したのは答えるのが怖かったから。甘えてしまえば、私の心が濁ってしまうように思えるから。

 

 トレーニング場で脚を止め、ベンチに座る。水分補給のために水筒を手に取っては喉を潤わせた。

 喉を通っていく冷たい感覚。何度か嚥下を繰り返していると、気が付けばそれは空っぽになっていた。今度はタオルで汗を拭いていく。

 まだ、迷いがあった。

 

「また今日も、か」

「…エアグルーヴさん」

 

 背後から聞き覚えのある声。其方に視線を向けるとそこにはエアグルーヴさんが立っていた。私の側へ近寄り、そしてベンチに隣に座る。少しだけ、私は避けるように間を空けた。

 

「ちゃんと行ったか?トレーナーの元には」

「行きました」

「…どうだ?スカウトを受ける気はあるか?」

「……分かりません」

「そうか…まぁ、焦ることは無い。じっくり考えて、答えを出すといいさ」

 

 夜風が吹いた。私と彼女の髪が同じように揺れていく。

 エアグルーヴさんの横顔は安らかな表情をしていた。いつもは凛々しいそれではなく、まるで母親のような。

 それが見ていられず、視線を下に向けた。

 

「エアグルーヴさん」

「どうした?」

 

 私は気にかかる事があった。

 トレーナーという存在は私を強くしてくれるのか。

 

「…もし、トレーナー契約を結んだら、私は……もっと強くいられますか」

「あぁ」

 

 瞳を閉じた。あのトレーナーが言っていた言葉。

『利用してもいい』

 それならば、存分にあのトレーナーを利用しよう。私が私であるために。私が強くあるために。

 ゆっくりと瞳を開いた。やけに空気が澄んでいるようにも思えてしまう。

 

 一週間後には回答をする必要がある。それまで資料に目を通して、少しでも理解をしなければ。ゆっくりと私は立ち上がり、水筒とタオルを持った。

 

「…失礼します。エアグルーヴさん」

「ゆっくり休めよ。アルヴ」

 

 そうして私は歩き出した。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 アルヴと出会い、一週間が経った。既に桜は満開を迎え、花弁が散る季節を迎えている。

 俺はいつものようにトレーナー室でキーボードを叩きながら新人としての研修資料の作成をしていた。時折、ちらりと壁時計にかかっている時間を見てしまう。

 外からはトレーニングをしているウマ娘達の声が聞こえてくる。

 まだ彼女は訪れていない。いつ来るのだろうか、それが気になっては手が止まり、また視線は壁時計に行ってしまった。

 

 仮にアドマイヤグルーヴがスカウトを受けてくれるのであれば、とても嬉しい事だ。新人である自分に担当ウマ娘という縁ができる。勿論、あの子が心配なのは当然の話ではあるが。

 彼女が断った場合はそれはそれで尊重をする。無理にスカウトを結ぶのは可笑しな話になってしまうから。その選択を選ぶのも理解は出来る。

 

 一つ溜め息を吐きながら、キーボードを叩くのを止めた。今日はやけに集中できない。

 彼女の答えがどうなのか。当日になるまで緊張はしなかったが、いざその日を迎えれば心臓は高鳴り続けている。

 胸ポケットから手帳を取り出し、一番最後のページを開いていく。

 二つの小さな輪っか結びに薄い青を基調とした、シンプルな手作りのお守り。それを取り出し、手で握りしめていく。胸元に近寄らせ、自分に言い聞かせるように「大丈夫」と。

 これをするだけで心が落ち着いた。

 

 何度か深呼吸を繰り返しているとこんこん、と扉のノックの音が聞こえた。急いでお守りをしまっては「どうぞ」と声をかける。

 数秒後、扉が開くとそこには彼女がいた。

 

「失礼します」

「いらっしゃい」

 

 学生鞄を肩に携え、そして脚を踏み入れてくる。俺も椅子から立ち上がり、彼女に近づいていくと鞄の中を漁り始めた。取り出されたのは透明なクリアファイル。一番上に見えているのは『担当契約書』という文字だ。

 

「…それって」

「契約書です。後はここに貴方の名前を書いて頂ければ…契約となります」

 

 クリアファイルから契約書を取り出し、そして机の上に置いた。クリアファイルの中にはまだ紙が入っており、それは一週間前に渡した彼女を説得するための資料だった。前回見た時と違うのは、あの時には無かった赤色の文字。どうやら彼女が付け足したようだ。

 机に置かれた契約書の前に座り、胸ポケットのペンを取り出していく。そこにボールペンで自分の名前を書いていき、後はハンコだけとなった。

 

 たしかハンコは机の中にしまっているはず。取りに行こうと立ち上がり、向かっている途中でアドマイヤグルーヴから声をかけられた。

 

「一つ、条件があります」

「条件?」

 

 机に辿り着いては引き出しを開けていく。そこからハンコを取り出してはまたソファーへと戻っていった。

 

「私を甘やかさないこと。つまり、弱くさせないことです」

「…弱くさせるつもりは無いよ。契約を結ぶ以上、俺の出来ることを最大限にするだけだから」

 

 そうして、契約書にハンコを押し付けた。強く、しっかりと残るように。ゆっくりと離しては押した場所に赤い印が付いたことを確認し、一つ頷く。これで俺と彼女は一蓮托生の仲というわけだ。

 俺はアドマイヤグルーヴを支え、そして無事に走り抜けられるように。

 彼女は俺を利用して強くあるために。

 

 契約書を手に取り、アドマイヤグルーヴへ渡していく。彼女がそれを受け取った後に俺は「俺からも、一つ条件がある」と伝えた。

 

「トレーニングの…休憩とか休むことについては必ず従うこと」

「……それが条件ですか」

「もし仮に無理をして君が壊れてしまえば、この契約をした意味が無くなってしまうから。だから、必ずだよ。どうしても無理をする時は一言教えて欲しい」

 

 一瞬だけ彼女は何か告げようと口を開いたが、即座に閉じてしまった。だが、直ぐに「わかりました」と彼女は頷いた。

 

「ありがとう。それさえ守ってくれるなら基本は自由にして貰っていいから」

「では…これは提出してきます」

 

 アドマイヤグルーヴが契約書をしまい、そして取り出したのは先ほど視界に映った説得用の資料。

「これを」とその三枚の資料が手渡された。受け取った内容の中身を見れば、彼女がどの路線を目指しているのか、どのトレーニングを重視したいのかがまとめられていた。

 そしてどれもが赤文字で修正を加えられている。まるで、理想ではない、と否定されるかのように。

 

「…手厳しいね」

「甘えは必要ありませんので」

「なるほど、君に見捨てられない様に頑張らないと」

 

 ここまでされるのは中々心に来てしまうものもあるが、彼女の隣に並び立てるようにならなければいけない。

 ただ支えるだけ、体調管理だけであれば自分でなくても問題ない。スカウトを受けてくれたのであれば、それに対しての対価を支払う必要がある。 

 自分にとってそれがトレーニング指導になるのだから。彼女の走りを壊してしまわないためにも。

 

「では…失礼いたします」

「あぁ、明日から頼むよ。えぇっと……アルヴ、でいいのかな」

「構いません。宜しくお願いいたします。トレーナー」

 

 頭を下げた彼女はそのままトレーナー室をあとにした。ぽつん、と残された自分。先程見ていた資料を手にしては、パソコンの置いてある机へと向かっていく。それを横に置きながら、パソコンを眺めた。

 

 まずは第一段階突破。エアグルーヴに頼まれ、そして自分自身も彼女の走りに見惚れている。

 しかしそれ以上に彼女の走り自体やトレーニング方法には心配があった。

 その理由を無理に聞き出してもきっと彼女は拒絶するだけだろう。それならば一歩一歩歩み寄っていき、そしていつかは聞き出せるほうが良いはず。

 仮に聞き出せなくとも、彼女を一人にしないようにしなければ。一人では何事も限界がある。彼女には人との繋がりを絶とうとしていることは、間違いなのだから。

 

 彼女の縁の一つに自分がなれたことへ、安堵を覚えた。

 

 

 

****

 

 

 

 アルヴと契約を結んで、一ヵ月が立ち始めたころ。既に桃色の花弁たちは全て地面へ落ちてしまい、緑の葉が一色に染まり始めている。虫たちの鳴き声が一層煩くなりつつある頃だ。

 いつものようにコース場へ二人で向かっては、トレーニング指導をしている時の事だった。

 

「取材は必要ありません」

「簡単でもいいから」

 

 ジュニア級としてトレーニングしている中で次世代へ向けたインタビューというのが行われている。所謂次のクラシック世代へ上がる際に誰が一番注目されているのか、というものだ。

 毎年の如く行われており、その中で代表としてインタビューに答える生徒が選出されるのだが、アルヴは乗り気ではなかった。エアグルーヴから直接教えて貰い、彼女に伝えて欲しい、ということでトレーニングの休憩中に伝えたのだが、きっぱりと拒否をされている。

 

 ウマ娘というのはファンサービスが大事な側面も備えている。応援されてこそのレースであり、そしてライブなのだ。それを無下にすれば、彼女の事を良く思わない人たちも出てしまうだろう。簡単でも受け答えだけして欲しいのだが、どうしたものか。

 

「本当に一言二言でいいんだ。レースの意気込みとか。答えないと変に探られる可能性だって…」

「他人の評価には興味はありません」

「う、うーん…」

 

 自分という一本の芯を持っているのが彼女の長所でもあり、短所でもある。ブレない、というのは良い事ではあるが、これではブレないのではなく融通が利かないになってしまう。

 取材に答えろ、と無理に言う事も可能だがそれは彼女との距離が離れてしまう。ここは仕方ないが、一度エアグルーヴに伝えて他のウマ娘にお願いをしよう。

 

「分かった…。一応エアグルーヴには俺から伝えておくから」

「お願いします」

「それともう一つ」

「…なにか?」

 

 ジュニア級における夏合宿について話そうと口に出した。

 ここで力を伸ばすことが出来ればクラシック級に入るまでに地力を一気に付けることができる。とはいえ、本格化して間もないため、無理な練習をすることは出来ないがそれでも出る意味はあるだろう。

 

「ジュニア級の夏合宿が始まるけど、アルヴは参加するか?」

「勿論です」

「良かった。それなら申請はしておくよ」

「お願いします。夏合宿のトレーニングは考えているんですか?」

「まだ。これを重視したいとかはあるか?アルヴは差し適正だから、脚の力を付けれるようなトレーニングを中心にするつもりだけど」

「問題ありません。よろしくお願いします、トレーナー」

 

 そう告げて彼女は走り出してしまった。腕時計に視線を移すと予定している休憩時間の10分も早く練習を始めている。

 

「……休憩すらもまともに取りたくない、か。一応最低限はしてるけれど…」

 

 休憩時間中に出来る限り会話をして、彼女の肉体に負荷がかからないように気を遣ってはいるが、上手くいかない事が多々あった。今回も直ぐに話を切り上げられてしまっている。

 トレーニング中はアルヴに何かがあっても良いように目を光らせてはいる。夜間のトレーニングもしていたらしいが、それも中止させて体の疲労をしっかりと取るようにさせていた。

 

 本格化前、または迎えた直後に無理をすることで大怪我に繋がる可能性がある。そうなれば強くなる、ならないの問題では片付かないのだ。

 俺が担当になる前にトレーニングの一週間の予定を見せて貰ったが、授業と寝るとき以外は殆どトレーニングに費やしていた。唯一休みなのは週に一回の日曜日のみ。

 それ以外は朝から晩まで走り込み、体を鍛えている。これでは壊れてしまうのも目に見えていた。

 

 だからこそ、新しいトレーニングプランとしては夜間の練習を無しにして、代わりにストレッチを。土日は休暇としてゆっくりと体を休ませるように変更した。

 勿論、激しいトレーニングをした時は長い休日を取るつもりだ。

 休みの重要性は彼女に伝え、聞いてはくれているがしっかりと響いてはなさそうで。

 

 トレーニングの内容については理解をしており、自分の意図も伝えているためそこだけ問題ないことに余計に頭を抱えそうになる。

 

「…とりあえず、アルヴが無理をしないようにしっかり見ないと」

 

 クラシック級を走れば彼女はきっと注目を浴びるだろう。彼女自身の強さを証明するためにも、まずは陰ながら支える必要がある。

 

「難しいよなぁ…でも…」

 

 一人、腕を組んでは呟いた。その嘆きは誰にも聞こえずに、ただ風によって靡いた葉の音にかき消された。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 トレーナーと契約を結んで、時間が経った。あの人のトレーニング内容については概ね満足している。流石にそこはトレーナー資格を持っているだけの事はある。

 私の事を理解しようとしてくれている。それは構わない。けれど、それがどうにもトレーナーとの距離が近くなっているようで私は嫌だった。

 休みの重要性を説いてくれ、トレーニングの意図も全て説明をしてくれる。私に対してどう導くつもりなのか、一切隠し事を無しで話してくれた。それがちょっとだけ、苦手。

 

 なんでも話してくれるが故に、彼自身を理解しそうになる。彼とはあくまで契約を結んだだけに過ぎない。

 トレーナー自身を理解はしたくはない。けれどトレーナーという存在に付属するものは理解をする。私が彼自身を理解するのは、それは最も忌むべきものだから。

 

 だから、休憩時間を早く切り上げている。少しでもトレーナーと近くに居ない様に、そして彼への些細な抵抗として───────

 

 

 トレーニングを終えては、彼と挨拶をした。そのままその日は別れ、そして寮へと戻っていく。自室へと帰った後には夜間外出申請をいつものように提出した。

 赤と白色の学園指定のジャージ。それに袖を通しては、私は自室をあとにした。

 

 トレーニングをしないで休息に励め、と言われても脚を動かしてなければ落ち着かない。この脚を止めてしまえば、私自身も止まってしまうように思えたから。

 

「…ここ…と、ここ…」

 

 寮から出て、私はその入り口へ。携帯を指でなぞりながら今日のコースを確認していく。ただ走るだけではなく、自分の脚を鍛えるためにその日のトレーニングで足りない部分を補う。

 河原なら直線が多いからスピードが鍛えやすい。高台のある場所なら階段を使ってスタミナとパワーを鍛えることができる。そうやって私なりの方法で鍛えてきた。

 

「……そうね、あとは…ここ」

 

 三つのコースを設定した。町並木が並ぶ場所、ここで脚を慣らしていく。次に高台のある公園。差しの力をしっかりと出せるように階段の昇り降りを繰り返す。最後はその公園の広場で何度も短距離ダッシュ。スタミナを鍛えるために。

 自主トレーニングを開始して寮に帰るまでの1時間以上。ここからは私一人だけの世界。

 

 何度か脚の筋肉を伸ばすように、屈んではストレッチを繰り返す。五分程の簡単なものを終えれば、私は走り始めた。

 

「ふっ……!」

 

 昼は少々ながら夏の暑さが顔を覗かせているが、夜ではそれらは隠されている。走りこみを行うのに良い気温と湿度。そして人の言葉を聞かなくて済む。

 ぶつかってしまわない様に隅の方を走りながら、脚を進めていく。空にはうっすらとした月が昇っており、満月だった。太陽の沈む時に放つ橙色の光、それが月を照らし、まるで明るい光で淡い月明かりを隠そうとしている。

 木々の桜は散り、緑色の葉が実っている。それらが春風に靡くように揺れては、ただ揺らめいていた。

 

───────もう、一ヵ月

 

 存外早いもの。トレーナーと出会い、契約を結んではいつの間にかそれ程の日時が経っていたのか、と。外を走り、風景を見ることで思い出すこともある。

 

「あっ……」

 

 目の前の信号が赤になった。十字路の所で止まり、その場で何度も膝を上げて足踏みを繰り返していく。

 既に会社から帰ろうとしているスーツ姿のサラリーマンに学生服の男女の姿。中には買い物を終えた女性など、町の雰囲気は帰路に着く雰囲気へ変わっていた。

 ふと、私の横で並んでいる親子の会話が聞こえた。

 

「今日の晩御飯はハンバーグよ」

「本当っ!?ハンバーグ!?」

 

 子供の喜ぶ声。それに呼応するように低い男性の声が聞こえた。

 

「運動会で頑張ったからな。今日はお家でご馳走だ」

「やったー!!」

 

 小さな子供が何度もハンバーグ、という単語を繰り返している。

 唇を強く噛んでしまった。この人たちは何も悪くないのに。視線を正面に向けても、まだ赤信号だった。

 

「でもね…僕…今日一位じゃなかったんだよ?」

 やめて。

「ふふっ、そうね。でもね?」

 聞きたくない。

「パパとママにとって──────」

 

 信号が青になった。カッコーという機械式の鳥の鳴き声。

 それが聞こえてしまう前に私は脚を早めた。

 

「……っ…!」

 

 自分を痛めつけるようにただ早く走り続けていく。風の音だけが聞こえるように、私はウマ耳を絞った。

 今日の自主トレは失敗だったかもしれない。

 

 

**

 

 

 これ以上は人の声が聞こえたくなくて、私は早いうちに高台のある公園へ向かった。

 階段を使い、一気に昇り降りを繰り返していく。そこそこ急な角度であるため、太腿にかなり良いトレーニングとなる。

 

 とはいえ連続で行えば息切れをしてしまうため、1分程のインターバルを設けていく。心臓が早く鼓動しており、それらが血液を流していく。汗が垂れ、その度に私はジャージで拭っていった。

 いつもよりも息切れが早い。さっきの町並木で早く走ってしまったせいだろうか。妙に膝も震えている。流石にこれ以上の無理をするのは良くない。

 最後の一回として階段を一気に駆け上がっていく。息を止めては、少しでも長く力を出せるように。本番のレースよりも苦しい事を想定して。

 最後の一段を登り切れば「ぷはっ…」と肺に溜まっていたものを吐き出した。直ぐに空気中の酸素を求めては何度も深い呼吸を繰り返していく。

 

 キーン、と脳内で響くような耳鳴りがする。それどころか誰かが話すような幻聴に似た何かも。余程疲れているのだろう。流石に無理をしすぎてしまった。

 今日は早めに切り上げて帰ろう、と思っては顔を上げようとしたところ─────笑い声が聞こえた。

 

「……?」

 

 心の底から笑っている女性の声。けれど誰かと会話をしてそれが弾んだものではない。狂気にも満ちた、聞いているだけで震えてしまいそうな、心を掴まれそうな。

 この声は広場の方からだった。この時間帯では殆ど人はいないはず。その中で一人で笑っているとなれば余程の狂人か。

 

「……っ」

 

 やっぱり今日の自主トレは失敗だったかもしれない。あの笑い声。私があんな風に笑ったことがあるのは果たしていつだっただろうか。胸の中で言いようの無い靄が湧き出た。

 いつもの私であればきっと無視をしていたはず。けれど今日は何故か気になってしまった。

 

 広場へと脚を運んでいく。近づけば近づくほどに地面を抉っていると錯覚しそうな強い足音。数秒後には私はその正体を目撃した。

 

「なに……あれ?」

 

 一人のウマ娘が走っていた。長い栗毛色の髪と白いヴェール。風に乗って一緒に揺られているのに、何処か不可思議な揺れ方をしていた。

 そして最も理解できないのが、彼女の走りだった。

 一言で表すのであれば、荒々しい。私とは対照的で綺麗ではなく、ひたすらに無我夢中のもの。そして、広場に響き続ける狂気とも取れる笑い声。

 

「……あの子は…、なに…?」

 

 体が震えてしまった。あんな走りをしているウマ娘がいれば注目を浴びてもおかしくない。それなのに、誰からも聞いたことが無かった。

 まるでその場に居ないように扱われている。あれは異形で、この世に存在すらも許されない。

 怪物。脳裏に過ぎったのはその二文字だけ。

 

 だけど、不思議と目が離せなかった。あんなに楽しそうに笑っている。私とは何もかもが正反対。思わず手を握る力が強くなってしまう。

 この感情が何かは分からなかった。あの子への悔しさか、嫉妬か。それとも別の何かか。

 

 ふと、その子は此方へ足を向けては走り出してきた。徐々に近くなっていく距離。逃げようと思っても脚が鉛の様に重く、鎖で繋がれているほど縛られている。

 私の目の前に来て、ぴたりとそれは動きを止めた。走り続けていたのに肩で呼吸をしていない。彼女は視線を合わせず、ただ下を向いたままだった。

 

「なに、かしら…?」

 

 何も言葉を発さない彼女が怖く、私は思わず尋ねてしまった。

 

「…美味しそう」

「えっ…?」

 

 聞こえてきた言葉に理解をすることが出来なかった。発する言葉にしてはあまりにもかけ離れている単語だった。彼女がゆっくりと顔を上げていく。お互いの視線が合うと、その子の瞳は吸い込むほどに深い赤色をしており、そして魅惑的に輝いていた。

 瞼を細め、うっとりとした表情。目の前でご馳走を見つけたかのようだった。

 

「ねぇ……アドマイヤグルーヴさん、よね?」

「……貴方は…?」

「スティルインラブ」

 

 彼女は自己紹介を終え、ゆっくりと私から離れては己を抱き抱えるようにして「あはは、良いわ……とても…!」と楽しそうに笑っている。

 その笑いは純真無垢で穢れの知らない、子供の笑い声に似ている。理解が出来なかった。

 

「……貴方は…一体?」

「えぇ…えぇ…勿論よ。心配しないで…。今も美味しそうだけれど……もっと、美味しい時に頂こうかしら……」

「さ、さっきから何を…!」

 

 脚を力強く一歩だけ踏み出しては彼女を見据えていく。心臓が痛いほどに鼓動している。喉が締め付けられ、乾いた息しか吐きだせなかった。

 

「トリプルティアラ、あれを頂けたら…どれだけ満たせるのでしょうね」

「…満た、せる?」

「メジロラモーヌ以外達成していない偉業。それをもし、ワタシが達成できたなら…どれほどに……あぁ……っ!」

 

 また一人で笑っている。ただただ楽しそうに。彼女は一体、なに。

 

「……だから、待ってるわ…貴方はとても、美味しそうだから」

 

 頬を指でなぞられ、私の顔の輪郭に沿うように伝わらせていく。顎先まで指が到達した。私という存在を確かめるように。ゆっくりと彼女の指が離れ、そして私の横を通り過ぎていった。

 それの足音が聞こえ無くなれば、私は息を大きく吐いた。張りつめられた異常な空気。気が付けば背中は汗で服が張り付いている。まだ心臓の鼓動は早く、痛いと思ってしまう程だった。

 

「……ふざけないで」

 

 美味しそう。私のことを見ながらそう言っていた。人生で初めての屈辱だった。心の底から煮えたぎるようなどす黒い何か。私の走りを、私の事を愚弄している。私の走りは私を証明するための物。あの子を満たすために走るものではない。

 断じて。

 

「トリプルティアラは…私だけのものよ…」

 

 自分に言い聞かせるように、私は一人呟いた。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

「どういう風の吹き回しだ…?」

 

 校門の前でアルヴは今、取材を受けていた。多くの人に囲まれ、カメラで写真を撮られては簡単な受け答えをしている。どの答え方も取材陣を納得させるようなものではなく、淡々としているがまさか受けてくれるとは。

 

 取材の話をした次の日、断りを入れていた彼女が態度を一変させたのだ。

『取材を受けさせて欲しい』と。何かの決意表明のようにも聞こえてしまったが、受けてくれる分には全くもって問題は無かった。その表明から数日後、今の状況に至る。

 

 カメラのシャッター音、それと取材陣の話し声。それまではただ流れ作業のような取材に一つのどよめきが湧いた。

 

 其方に視線を向け、首を傾げてしまった。周囲はざわめきだすも、アルヴは意も介さずにただ取材を続けていた。数度の頷きを見せた彼女。

 既に彼女にとって話すことは無くなったのか、そこから離れ此方へと戻ってきた。

 

「取材、終わりました」

「一体何を答えたんだ?慌ただしいけれど」

「トリプルティアラを取る意思表明です」

 

 トリプルティアラ。過去にメジロの至宝と言われたメジロラモーヌ以外到達していない偉業。クラシック三冠であれば既に達成をしているウマ娘は数人いる。

 しかし、トリプルティアラはたった一人のみ。

 彼女に説得するときの資料でティアラ路線を提案し、彼女もそれを受け入れてくれたが、まさか取材陣に向けてそれを話すとは。

 

「…誰かに影響されたか?」

「関係ありません」

「じゃあなんでわざわざ意思表明を?」

「……なんとなくです」

 

 そう告げたアルヴは、片腕で自分の体を抱きしめるようにして視線を逸らした。

 彼女がここまで闘志を剝き出しにすることが珍しかった。いつもであれば冷静であり、それこそ他人の事を気にすることがないのだ。むしろ自分の心を内を晒さない事の方が多かった。

 現に今、聞こうとしても彼女は閉ざしてしまっているのだから。

 

 だからこそ、今回の取材で他人に向けて発信をすることが珍しかった。彼女に何があったのかは聞きたい所ではあるが、無理に聞いたとしても彼女は教えてくれることはないだろう。

 

 夏合宿まであと一ヵ月と少々。二人で歩きながら会話を進めていく。

 トレーニングは何をするべきなのか、メイクデビューに向けて意識をすることは何か、クラシックを走る際に向けて鍛えるべきはどこなのか。

 二ヵ月間という余りあるように見えて少ない時間をどう使うのかを二人で話し合い続けた。

 

「桜花賞のあとはオークスで、距離もかなり変わるから先にスタミナをつけた方がいいかもしれないね」

「マイルが先なのですからスピードではなく?」

「それは正しいけれど、スタミナは一朝一夕で付くものじゃないからね。スピードもそうだけど、スタミナの持久系は時間がかかるから」

「夏合宿はスタミナを中心に、ですか」

「と、俺は思うけどアルヴの意見は?」

 

 新人トレーナーであるが故に彼女にも意見を尋ねていく。年月の経ったトレーナーであれば、自信を持って提案を出来るだろうが、生憎そうではない。

 

「特にありません。良いと思います」

「ありがとう、じゃあそれで進めるよ」

 

 トレーナー室へと向けていく足取り。アルヴと横並びで歩いていたが、気が付けば彼女の脚は止まっていた。振り向けば彼女の視線は横に向いて止まっている。その視線を追うように向けるとそこには一人のウマ娘がいた。

 長い栗毛色の長髪に、白いヴェールが良く似合う子だ。此方を見つめており、その表情は柔らかく、そして儚さを孕んでいた。

 

「…あの子の事、気になるのか?」

 

 一体あのウマ娘は誰だろうか。何処かで見たことはあるが、如何せん名前を思い出すことが出来ない。それ以上にあの目を引くヴェールを付けたウマ娘がトレセン学園に在籍していただろうか。

 そのウマ娘は何かをするわけでもなく此方をただ見つめているだけ。不気味さというと失礼に値するが、それに似たものを感じた。

 数秒後に彼女は何かゆっくりと口を動かしていた。小さな、そよ風でも消え入りそうな声。

 

「…?何か話して────────アル……ヴ?」

 

 アルヴはただその子を睨むようにして見つめていた。耳を絞り、手を強く握りしめている。

 

「先に、トレーナー室に帰ってますからっ」

「ちょ、ちょっと」

 

 此方の制止を聞くことも無く、彼女は歩き出してしまった。あのヴェールのウマ娘と何かあったのだろうか。感情を露わにしているアルヴが珍しく、脚がすくんでしまった。

 

「…あの」

 

 隣から聞こえた小さな声。既にヴェールのウマ娘は隣に立っていた。

 

「い、いつの間に…」

「先ほど、です。その…アルヴさんのトレーナーさん、でしょうか?」

 

 こくり、と頷きを見せていく。会話をしている感じ、第一印象はお淑やかなウマ娘だ。アルヴがこの子に対して敵意を剥き出しにしている理由が分からなかった。

「先日は失礼いたしました」と彼女は頭を下げて突如謝罪をしてきた。思い当たる節が無い。

 

「どうして謝ってるんだ…?」

「…アルヴさんを怒らせてしまったからです」

 

 怒らせるようなことをする子にはとても見えない。

 俺が理解するよりも早く、彼女は言葉を紡ぎ続けた。

 

「トリプルティアラは私も…目指しています。ですが、その…挑発をしたことは…」

「ええっと…つまり、アルヴと何かしらがあった、ということだね?」

「…はい」

 

 なるほど、合点がいった。

 どういう経緯かは不明だが、アルヴは彼女に触発をされた。トリプルティアラのウマ娘を目指すという事を。そして己が一番相応しいと証明するために彼女は取材に答えたのだ。

 

─────逃げ道をなくすことを

 

 少しだけ頭を掻いていく。

 アルヴは生真面目であり、頑固だ。そして、自分を自然と追い詰めることでより高みを目指そうとしている。その目指す過程があまりにも歪んでいる。

 一人であることが至高であり、孤高であるが故に至れる。必ず限界が訪れてしまう修羅の道だ。

 

 仮に目の前のウマ娘が彼女のライバルとなれるのであれば、それは願ったり叶ったりである。強くなるためには一人だけでは限界があるのだから。

 

「いや、此方こそありがとう。あそこまでアルヴが焚きつけられる、というのであれば、きっと君は余程強いんだろうね」

「えっ…?い、いえ、そんなことは……!」

「もし良ければ、アルヴとも今後よろしくお願いしてもいいかな」

 

 ウマ娘とトレーナーという立場であれば分かり合えない所がある。特にレースにおいては。しかし、ウマ娘同士であればそれはまた別だ。

 ヴェールのウマ娘は小さな声で「わ、分かりました」と答えてくれた。

 

「ありがとう。…それと、アルヴとは何処で出会ったんだ?」

「その…高台のある公園です。学園から少し離れてますけど…」

「……あぁ、そうなのか」

 

 腕を組んでは口元に手を添えた。わざわざその公園に脚を運ぶ、というのであればきっと隠れてトレーニングをしていたのだろう。彼女に休め、と言ってもどうやら理解をしていないようだ。いや、理解はしているがそれをしたくないのだ。体を休ませなければ本番で実力が出せないというのに。

 何か方法を考えないと。

 

「あ、そういえば…名前を聞いてなかったね」

「…スティルです。スティルインラブ」

「スティルインラブ…覚えたよ。じゃあ、アルヴを待たせてるから、これで」

 

 ひらひら、と彼女に手を軽く振ってはその場をあとにする。お淑やかで、人当たりの良さそうなウマ娘。少しだけこの柔らかさと棘の無さがアルヴにもあれば良いけれど、と思ってしまった。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 トレーナー室の鍵を開けて、脚を踏み入れた。ぱたん、と閉じる扉の音。その音が私の心を表しているような寂しい音だった。私の歩く足音だけが嫌になるほど響き渡る。外からウマ娘とトレーナーのかけ声、廊下からは会話の声。

 けれどそれらはこの部屋の中では響くことは無かった。

 

 許せなかった。あの目。私を見ているあの目が、憐れんでいた。

 『ごめんなさい』

 小さく聞こえたスティルさんの声。そして私を見る表情。トリプルティアラを欲しがるウマ娘が、それを私に直接告げたウマ娘が、謝罪をする。

 あの取材を受けた私はまるで───────道化。

 

 昔の事を思い出しそうになった。私の小さい頃、孤児院時代の事。出来ればあまり思い出したくはない暗い過去。汚点。

 アドマイヤグルーヴというウマ娘を作り出し、アドマイヤグルーヴという存在を証明するのには、あまりにも惨めな過去。

 

『可哀想に…親御さんが────』

 うるさい。

『アルヴちゃん。どうしてパパとママが─────』

 黙って。

『一人であんなに頑張って…あれじゃまるで────』

 違う!

 

 私は一人でいい。一人でありたいから、一人が一番心地よくて好きで、それを選んだ。憐れまないで、同情しないで。そんなものが欲しいんじゃない。

 一人でも強くて、一人だからこそ強くて、それを証明したくてトリプルティアラが欲しかった。

 

 クラシック三冠は既に数人のウマ娘によって達成されている。

 学園所属のシンボリルドルフ、ミスターシービー、ナリタブライアン。更に過去を辿れば二人のウマ娘がいる。でも、トリプルティアラはただ一人のみ。

 メジロラモーヌ。メジロの至宝と呼ばれ、レースを心の底から愛したもの。

 

 私はそれに並び立ちたかった。トリプルティアラの二人目、数少ない偉大な一人になって証明したかった。私という存在は可哀想ではなく、惨めではなく、強いウマ娘なのだと。

 

 強いウマ娘に私はならなければいけない。だから、孤児院の頃から走り続け、全て一着を取り続けた。

 走るというのは私にとっての存在証明。遊びではない。己を賭け、勝つことが出来なければ無意味になってしまう。

 勝つからこそ、意味が見い出せる。

 

 だから、スティルさんの謝罪が許せなかった。あの謝罪は私への冒涜。

 

 本当にそれだけ?謝罪と憐れむ目が私にとって最も許せないもの?

 

 心の中で渦巻いていく自問。結局返ってきたのは全て無言だけ。その無言ですら、私にとっては余りにも気持ち悪かった。私は、彼女の何が最も許せないのか。

 答えを出さないように私は奥底へ仕舞い込んだ。見えないように、あの謝罪と憐れむ目が許せないものだと。そう決めつけた。

 

「…………アルヴ?」

「…っ!?と、トレーナー…でしたか」

 

 私の背後から突然声をかけられた。びくり、と体が跳ねてしまい、その声から後ずさるようにしてトレーナーを見据えていく。眉をひそめ、怪訝そうな表情で私の事を見つめていた。

 

「そんな所で立って…どうしたんだ?」

「えっ…?」

 

 自分の立ち位置を確認するように私は周囲を見渡した。どうやら先ほどまで私は扉の前に立っていたようだ。座りもせずに、ただ立っているのであればトレーナーが心配するのも無理がない。

「考え事です」と私は告げた。彼に悟られてしまわないように。

 

「本当か?」

 

 その一言が嫌いだった。私を理解しようとする。真っすぐに見据えて、心を見透かそうとするその言葉が。視線を逸らしてしまう。片腕で自分を抱きしめるようにしては「本当です」と返答した。

「そっか」いつもの返事をする彼。彼は私を避けるようにしていつもの席へ向かっていく。椅子に座った彼はパソコンの電源を付けては「今日は取材で疲れただろう?」と告げた。

 

「疲れてはいません」

「慣れない事をした時は無理をするものじゃないよ」

「そんなことはありません。今日のトレーニングは────」

「元々考えてないよ。休養日にするつもりだったから」

「…では、簡易的なものでも」

「アルヴ」

 

 彼の声が少しだけ低くなった。私を叱責するような声。初めて聞いたかもしれない。

 

「契約の時、忘れた?必ず、ね?」

「………わかりました」

 

 そう言われてしまえば、私は視線を逸らして頷いた。ここまで強く言われてしまえば、流石に従わざるを得ない。ソファーに置いた学生鞄を肩にかけては、一度会釈する。

「また明日ね」彼は柔らかな表情を浮かべながら私に告げた。その表情を見えないように背後を向いて、トレーナー室から出ていった。

 

 そういえば、誰かにあんな風に怒られたのは初めてかもしれない。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 空から降り注ぐ太陽光。そしてそれを吸収した白い砂浜。その砂浜は普段であれば綺麗に見えるかもしれないが、今この状況ではこの身を焦がすような鉄板に見えてしまった。

 あれから時間が経ち、俺とアルヴは夏合宿場に来ていた。既に彼女は荷物の準備を整えており、学園指定のセパレート型の水着にも着替え終えている。砂浜にはまだ誰も来ておらず、どうやら一番乗りの様だ。

 

「それで、トレーナー。今日のメニューは?」

「……もう少しこう…羽を広げようと思ったりはしないのか?」

「必要ありませんから」

 

 やはり、これである。この間から多少なり休むことに彼女は気を遣うようになってくれた。トレーニングの休憩時間もしっかりと守るようになっているし、休養日も守っているようだ。

 ただ、あれからエアグルーヴやスティルからも話を聞く限り、夜間のトレーニングはまだ続けているようだ。一度、彼女にしっかりと伝えないといけないのかもしれない。

 

「まぁ…一応夏合宿前にも話したけど、今回はスタミナを中心としたトレーニングだ。砂浜ダッシュに遠泳、それらを暫く続けたら今度は近くの山でランニングだ」

「夜間の練習はどうするんですか」

「暑さ次第だね。場合によっては芝のレース場を借りれるらしいから、ちょっと確認してみるよ」

「いえ、その…」

「……?」

 

 アルヴが言葉を詰まらせてしまった。直ぐに彼女は「なんでもないです」とだけ。

 無言の間。ただ海が凪いでいる音だけが良く聞こえた。一つ溜め息を吐く。練習に対して生真面目なのは本当に良い事ではあるが、彼女の場合では悪い事だ。

 

 しかし、今回はトレーニングメニューをただ作ってきたわけでは無い。彼女の体を休ませるためにとあることを考えてきた。彼女は嫌がるかもしれないが、少しでも安らげる時間を作ってあげたいという一心で考えた。

 

「二ヵ月あるんだ。ゆっくりと着実に慣れていこう」

「分かりました」

「よし。じゃあ、まずはストレッチ。それが終わったら砂浜で走り込みを始めて」

 

 こくり、と頷く彼女。タブレットを取り出しては、一週間の気温に夜間コース場の予約が取れるかを確認していく。今自分に出来る精一杯を。大事な三年間でもあるこの時間を無駄にしてはいけない。

 タブレットを操作しながら、コース場の予約を入れた。

 

 

**

 

 

 夏合宿が始まり、ほぼ毎日のようにトレーニングをしていた。

 朝は朝食を取り、ストレッチから始めては砂浜ダッシュ。昼を迎えれば遠泳。気温が高く、昼のトレーニングに支障が出る際は臨時のトレーナー室で一緒にレース理論の勉強。夜間はコース場を借りてトレーニング。

 時には山でのランニングに切り替えたりしては、練習メニューに飽きが来ないようにし、慣れてきたのであれば負荷も変えていった。

 

 そんな日が続いていき、一ヵ月を迎えた。

 夏合宿の折り返しだ。この時期になれば疲労が溜まり始め、トレーニングの負荷を少なくしたり、レクリエーションを通して羽を伸ばすものもいた。

 特にこの時期は近くで夏祭りが行われるという。その夏祭りでアルヴに「行って来たらどう?」という提案をしたのだが彼女に一蹴されてしまった。

 

 勿論、これは想定内である。仮にエアグルーヴに頼んだとしても彼女はきっと断るだろう。

 では、どうするべきか。少々汚い手ではあるが、彼女を夜間のトレーニングと称して砂浜に来てもらう。その時に一つレクリエーションを考えているのだ。

 

「じゃあ、アルヴ。夜は砂浜でトレーニングするから」

「分かりました」

 

 いつもの様にトレーニングを終えた後、彼女と別れた。向かうはトレーナー寮。そこに脚を踏み入れていき、自分の部屋に入っていく。タブレットを充電器に繋ぎ、キャリーケースの方へ歩いていく。中から取り出したのは大きな袋。

『詰め合わせセット!バチバチ手持ち花火!』

 そう、手持ち花火である。二人でするため、そこまでの数は要らないだろうと考え大容量の方は購入しなかった。

 

 これを見ていると昔の事を思い出しそうだ。心を閉ざし、自分だけの世界でただ座っていた頃を。

始めて外で小さな線香花火を見た時の輝きは忘れられなかった。ぱちぱち、と火花が弾け、それが落ちていく瞬間。それがとても綺麗だった。

 少しでも彼女の事を理解したい。初めて見た時に生き急いでいる、と結論付けたこと。他のウマ娘とは違う走り。

 

 それが彼女の口から発せられ、そして助けになれるのであれば出来ることは何でもしよう。契約の時に『利用してもいい』というのは本心だ。それは何故か。

 

 アルヴの姿。孤高というのは───────昔の間違っていた自分にそっくりだったから。

 

 

**

 

 

 午後8時。夕食を食べ終え、向かう先はいつもトレーニングで使用している砂浜。片手には青いプラスチックのバケツ。少しだけ塗装が剥がれており、年季が入っている。バケツの中には既に水を溜めており、もう片手には手持ち花火の袋を持っている。

 空には月が昇っており、夜風が涼しかった。昼の暑さは嘘のように鳴りを潜め、海がさざめく音が暗闇の世界に響き渡り、まるで風鈴の音のように感じた。

 

 歩いていく中で一人のウマ娘が視界に入った。近づけばぼんやりとした輪郭は鮮明になり、青色の特徴的な髪色が月明かりに反射をしている。そのウマ娘は海の方をただ見つめており、瞳には月明かりで反射した光が映っていた。

 ざくり、と砂浜を歩く足音に彼女が気づいたのか、此方に視線を向けた。

 

「待たせちゃったかな」

「いえ、先程来たところです。それでトレーニングというのは…」

「ごめんね、あれ嘘なんだ」

 

 彼女に近づいては、砂浜にバケツを下ろした。袋の閉じた所を指で引っ掻きながら開けていき、一本取り出していく。持ち手側を彼女に差し出しては「持って」と告げた。

 

「………ふざけているんですか」

「ふざけてないよ」

 

 アルヴの声は震えていた。暗闇の中でも分かるほどに睨んでいる彼女。それを気にすることなく、彼女の手を掴んでは半ば無理矢理手持ち花火を握らせた。

 

「トレーニングと聞いて…トレーナーはそうやって騙すんですね」

「そう言われたら言い返せないけど…君もお相子だろう?」

「一体何を」

「夜間のトレーニング」

 

 彼女のウマ耳がぴんっ、と張りつめられ、瞳も大きく開かれた。そして直ぐに唇を強く結んでは答えなくなってしまった。

 

「夜間のトレーニングは無しにしたはずだよ」

「それは………その…」

「…一つ、聞いてもいいかな」

 

 視線を逸らしていたアルヴ。一瞬だけ瞳を此方に向けては、頷きを見せた。

 

「…なんで走ってるの?」

「……っ」

 

 その言葉に彼女は答えなかった。返答をせずにただ黙っているのみ。

 俺も花火を取り出して、片手に携えた。ポケットに入っているチャッカマンを取り出し、火を付けていく。やがてその火は花火の紙に燃え移り、揺らめき続けていた。

 

「聞き方が悪かった。走る事は、楽しい?」

「………」

 

 また無言だった。燃えた紙はそのまま花火の火薬に付き、勢いよく吹き出し始めた。赤色の閃光。ぱちぱち、と空気中に燃え広がっている。それを正面に向けながらも、俺は彼女を捉え続けた。

 

「……生き急いでいる、と言いましたよね」

「言ったね」

「どうしてそう思ったんですか」

 

 火薬が弾ける音だけが響いていた。海のさざめく音も、風によって木々がざわめいている音も全てこの花火にかき消されていた。

 

「…君の走りは…そうだね、言うなら証明に近いんだ」

 

 アルヴの瞳が揺れ、続くようにして「証明」と呟いた。

 彼女は顔を下に向けて此方に合わせないようにしていく。花火の明かりが消え去り、彼女の表情は見えなくなってしまう。

 手に持っていた花火をバケツの中へと放り込んだ。火薬の熱が音を立てて、そして消え去っていく。もう一つの花火を袋の中から取り出して、またチャッカマンで付けた。

 

「殆どのウマ娘は走るのが楽しかったり、夢を持ってたり…走る事に対して前向きなものなんだ」

 

 花火に火が付いた。その火は明かりとなり、彼女を照らしていた。揺らめく炎をアルヴを映していた。

 

「アルヴの場合は…違うように思えた。トリプルティアラを取りたいっていうのは確かに夢だよ。だけどアルヴは……自分の証明に思えた」

 

 彼女に一歩近づいた。花火を持っている手を支えるようにゆっくりと持ち上げていく。自分の花火は既に燃え上がり、月明かりよりも照らしている。

 アドマイヤグルーヴ。彼女の走りは、自らを肯定するために走っているように思えてしまった。

 走る事が生きがい、なのではない。走る事そのものが、生きている証なのだと。

 

「アルヴは…誰かと一緒にいるのが怖いか?」

「………怖く…」

 

 そのまま声は消え去ってしまった。彼女の花火に自分の花火を近づけていく。ゆっくりと、そして着実に火が移っていき、最後には彼女の花火にも揺らめく炎が現れた。

 

「強要はしないよ。ただ…もう少し俺を信じてみないか。一人で無茶をしても何処かで必ず壊れてしまう。エアグルーヴに言えないなら、俺が相談にも乗るから」

「……どうして」

 

 アルヴの小さな声が聞こえた。視線がお互いに合った。彼女の瞳には自分が映っており、深い青と紫の色の違う瞳。花火の明かりが双眸を照らし、それらは揺れていた。

 

「私をそんなに……気にしてくれるのは…どうして…?」

 

 懇願にも似た声だった。彼女はそれを告げた後、ただ見つめ続けていた。視線を逸らすことなく、ただ真っすぐに。

 

「似ていた、から…かな。自分に」

「トレーナー…に?」

「うん。昔の話だけど」

 

 一人で閉じこもり、繋がりを全て放棄したあの頃。繋がりを失うくらいであれば、誰とも繋がりを得ずに自分だけ必死にもがいて生きればいい。己を証明するために。

 食らいつき。

 唇を噛みしめ。

 そして、認めさせるために。

 それが些か悲しい事に、小さい頃は勉強が人よりも出来ていただけの話。誰かに頼らなくても自分は凄いんだぞ、と威張っていた空虚の出来事。

 

 そんな子は過去の自分だけで十分だった。アルヴがそんなウマ娘になっていけない。孤高の道はどれだけ進んでも辿り着くのは孤独なのだから。

 

「…トレーナーは……過去に何が…?」

「秘密。アルヴがちゃんと休養してくれるなら話すよ」

 

 今彼女に話したところで意味は無いだろう。仮に何か響いたとしてもそれは彼女の心の内に抱えているものを壊してしまうだけ。

 理解をするのであれば、無理に聞く必要はない。ただ寄り添い、そして相手から開いてもらうのを待つだけだから。

 

「意地悪、ですね」

 

 その言葉と同時に彼女の花火が光り始めた。舞い散っていく黄色の火花は砂浜を彩るように散っていった。

 

「…もう少しだけ、トレーナーの事を信じてみます」

「ありがとう、アルヴ」

 

 ぱちぱち、と散っていく手持ち花火。それが舞っては消えていく儚きもの。彼女と自分の肩は触れ合うことは無い。けれど、少しだけその距離はいつもより狭かった。

 

「トレーナー」

 

 花火を見ていた彼女。いつものように呼ばれてアルヴに視線を向ければ、頬を緩ませていた彼女だった。花火に照らされた彼女の表情はいつもよりも少しだけ柔らかかった。

 

「花火って……綺麗なのね」

 

 初めて、彼女の本音が垣間見えた気がした。

 

 

 

□■□■□■□■□■

 

 

 

 メイクデビュー。全てのウマ娘が通るレースであり、そして伝説の始まりとも言われる場所。強いウマ娘であればここを通り抜けるのは当然のこと。

 11月10日。夏合宿を終え、私は初めて中央のレースに出ることになった。

 

 京都レース場。芝1800m。今日の天気、晴れ。

 体調、問題なし。脚の感覚、違和感なし。調子、万全。

 

 夏合宿以降からトレーナーの言う通りにしっかりと休息を取ることにした。休養日にはお出かけをして、一人でカフェを巡ったり。自室で本を読んで、レース理論を深めたり。仮にするのであればストレッチで柔軟を中心に鍛えていた。

 意外とこれが合っていたようで、ふとした瞬間に脚の動きが軽く感じることもあった。私はどうやら普段から自分に無理をさせていたようだ。

 

 その視点に気づけたことは、初めてトレーナーと契約をして良かったことだと思う。

 

「初めての中央だな、アルヴ」

「えぇ、そうね」

「緊張はしてる?」

 

 控え室でトレーナーから声をかけられる。何度も足首を捻っては確認し、自分の感覚を確かめていく。指先まで熱い。秋の季節だというのに、私の体は火照っているように思えた。

 

「特には」

「はは、流石。俺はずっと緊張しているよ」

 

 彼はそう言って笑っていたが、その手は震えていた。私の視線に気づいた彼はぐっ、と一度強く握りしめていく。彼なりの強がりに見えてしまった。

 そうしてトレーナーは一度大きく息を吸っては深呼吸をした。肺の空気を全て入れ替える程の深呼吸。全身を使うようにしては息を吐いていき、顔を下に向けて体を前のめりに曲げた。数秒後、顔を上げては私を見据え「頑張って、アルヴ」そう告げられる。

 

「応援しなければいけないほど、信用できませんか?」

「というと?」

 

 私は彼の方へと振り返っていく。私は少しだけ、トレーナーを信頼した。契約した当初は、果たしてトレーナーがいたことで何かが変わるのだろうか。疑念に包まれていた。

 しかし、契約をしてからは脚の使い方も休養も、彼のお陰で徐々に力を付けている。ふらつくことも無くなった。いつ私の得意な差し脚を使えばいいか理解をした。

 

 全ての信頼を置きたい、と思いはしないが多少であれば彼に委ねてもいいかもしれない。そう思えてしまう程に私は絆され始めている。心の硬い氷がゆっくりと熱によって溶け、雫となっては垂れている。

 

「私の事を多少は信用してください」

「……そうだね」

 

 彼は眉を下げて笑った。いつもの優しい表情だった。

 

「でも、頑張れは言わせて。これは信用してもしていなくても…言いたい事だから」

「……私には…」

 

 必要ない、それから先が言えなかった。レースとなれば走るのはたった一人のみ。だからこそ、応援をして貰い誰かの期待を背負って走るのは少しだけ嫌だった。

 だから、応援ではなく無言で送り出して欲しかった。今まで誰からもそんなものを貰ったことも、背負いたいと思ったことは無かったから。

 

「要らないって思っても…言わせて」

「……?」

「これは見送りだから。担当している子に頑張って欲しい。無事に帰ってきて欲しいっていう」

「………そう、ですか」

 

 むず痒い。これが少しでも心地良いと思ってしまった自分に辟易してしまう。それ以上言葉を交わすことが私には出来ずに目を合わせられなかった。

 その雰囲気に耐えられず、少し早めに出ようと考えていたところだ。こんこんっ、と控え室の扉がノックされた。

「アドマイヤグルーヴさん、準備をお願いします」という声と同時に私は扉へ向かい始めた。

 

 トレーナーへ返す言葉は無く、扉を開けては控え室をあとにした。

 私の心に抱えたものを隠すように、扉を早く閉めた。

 

 

**

 

 

 パドックまで繋がる広い通路。そこを私は歩いていく。光に向かって歩き続け、そうして外へと出れば歓声が挙がった。私を呼ぶ声。メイクデビューにしては人の数が多い気がする。

 パドックへ上がり、私は一つだけお辞儀をした。その後は後ろに下がり、目を瞑って待機する。深呼吸を繰り返していく中、観客席から聞こえてくる声が耳に入った。

 

「アドマイヤグルーヴが圧勝だろ?元々小さい頃から勝ってたんだし」

「神童だっけ…?それだけ余程期待されてるんだねぇ…」

 

 いつもの他愛ないノイズ。小さい頃から持て囃されてきた神童という言葉。

 そうなりたくてなったわけでは無いのに、いつの間にか付属していた私の二つ名。誰もがアドマイヤグルーヴというウマ娘を形容する時に必ず使う単語だ。

 

───────トレーナーは私の事をどう思っているんだろうか

 

 彼から直接聞いたことが無かった。褒めるときも私を見ながら、私という存在を肯定している。神童ではなく、アドマイヤグルーヴというウマ娘一人に。

 直ぐに首を横に振った。きっとこれは気のせいだろう。あの夏合宿から彼に少しずつではあるも心を許し始めている。一度気を引き締めなければ。

 

 パドックの入場を終えては向かうはゲート。13番と書かれたゲートへ私は入っていく。背後でがしゃん、と音を立てて閉じられた。その音が静寂を呼び、周囲のウマ娘の呼吸とコースの風の音が聞こえなくなる。

 私の心臓の鼓動。それだけが体を揺らしていた。

 心臓の鼓動さえも感じなくなったと同時に、大きな金属音を鳴った。

 

『スタートしました。14人におけるメイクデビューとなります。初々しいウマ娘達におけるレース、最初に先頭に出たのは9番のノイネルドレアと3番レフトアルジロ。一番人気のウマ娘、13番アドマイヤグルーヴは中団にて控えています』

 

 中団の外側、そこで私は脚を進め続けていた。本番のレース。今まで走ったことがなく、そしてそのひりつきも違った。けれど問題はない。これは幾らでも想定をしてきた。

 マイルにしてはやけにスローペースな展開な気がする。それだけ私が良く周囲を見えている証拠なのだろうか。

 

『大きな一つの塊となっています。前方から後方まで10バ身が無い程。直線を終えては第三コーナーへと入っていきます。ここからどう展開が動いていくのか。最後方7番ランドスカイは徐々に上がってきており、それに続くようにして11番アンレッドも上がってきています』

 

 コーナーを曲がりながら、体が外に引っ張られ過ぎないように脚で調整をしていく。背後に視線を向ければ既に上がってきているウマ娘。スローペースだからか差しや追い込みの子が上げてきている。 

 それであれば最終コーナーで一気に突き放すのみ。最後の直線は400m、背後のウマ娘に追いつかれないようにするため脚に貯めた力を出していく。

 

『13番アドマイヤグルーヴも上がり始めている!先頭9番のノイネルドレアは苦しいか!最終コーナーを迎えて先頭は13番アドマイヤグルーヴ!悠々と抜け出し、最後の直線だ!』

 

 コーナーを曲がり終え、その勢いのまま脚を進めていく。目の前は既に開けており、緑色の芝一色だった。脚を地面に叩きつけては一気に走り抜けていく。

 これに勝てなければ、トリプルティアラは夢のまた、夢。

 

『13番アドマイヤグルーヴ先頭!後方から11番アンレッドが上がってくるが追いつけない!差が開いていく!1バ身、2バ身開いていき既に安全圏内だ!』

 

 勢いよくゴール板を通り過ぎた。それと同時に湧き上がる歓声。脚の力を緩めては、ゆっくりと歩き始めていく。掲示板には私の13番という数字の隣に3という数字が表示された。

 委細問題の無い走り。手ごたえも十分。

 

 今までで一番良く走れていたかもしれない。疲労は感じているが、そこまでのものでは無かった。むしろまだ走れるのでは、と錯覚してしまう程。

 エアグルーヴさんの言う通りだった。トレーナーという存在は私を強くしてくれる。

 

 胸に手を当てて、何度か深呼吸を繰り返した。徐々に私の中で彼という存在が大きくなり始めている。

 それが少しだけ怖かった。

 

 

**

 

 

「お疲れ様、アルヴ。良い走りだったよ」

「ありがとうございます、トレーナー」

 

 控え室に帰れば彼は出迎えてくれた。中に入るなりタオルで汗を拭いていく。タブレットを持った彼は近づいて画面を見せながら話し始めた。

 

「次は若葉ステークスを考えているんだ。来年の3月だね。阪神レース場で最後の調整って感じかな」

「…もう先まで考えているんですね」

「当たり前じゃないか。トリプルティアラを取るためには万全に、だからね」

 

 タブレットを操作しているトレーナーの姿。彼の姿を見ながら一つ思ってしまう事があった。

 

「桜花賞なら…チューリップ賞が最適なはずです。なぜ、若葉ステークスを?」

 

 桜花賞は1600m。若葉ステークスは2000mとマイルと中距離の違いがある。桜花賞を走る子であれば、この時期はチューリップ賞や他のマイルのレースで感触を確かめるはず。

 それが不思議でならなかった。

 彼が私の疑問に対して少しだけ瞳を見開かせた。直ぐにそれを細めては私の方を向いて「ごもっともだ、アルヴ」と返答した。

 

「確かに桜花賞であればそうだろうね。けれど俺と君が目指しているのはトリプルティアラだ」

 

 タブレットの電源を消し、そしてぱたん、とカバーを折りたたんでいく。それを鞄の中に彼はしまいながら話し続けた。

 

「トリプルティアラで一番大変なのは桜花賞からオークスの距離の壁だ。1600mから2400mの長い距離。ここでつまずく子が多い」

「……あっ」

 

 直ぐに理解が出来た。若葉ステークス、これは中距離に向けた確認だ。今日のメイクデビューはマイル、そして次のレースは中距離。つまりトレーナーは既に桜花賞とオークスに向けた確認を踏まえている。

 私の声に「気が付いた?」と彼は頬を緩ませながら告げる。

 

「理解が早いね。さすがアルヴ」

「となると今日のレースで…既に桜花賞の確認が終わったと…?」

「本音を言えばチューリップ賞は走りたいけどね。ただ、今日の走りを見た限りでは大きな心配は無さそうだから」

「なる…ほど…」

「少しは見直してくれた、かな?」

 

 少しだけ、小さく私は縦に首を振った。「よかった」彼の声は弾んでおり、何処か安心しているようにも聞こえた。

 

 もし私だったらどうしただろうか。素直にチューリップ賞を狙っていたか、はたまた違ったか。それを考えても答えは出なかった。

 心の内で本当に少しだけ、いつもとは違う何かを感じた。

 

 トレーナーを認めてる?違う。

 それを見ないように私は目を閉じて、唇を噛みしめた。見えないように押し込んで。数秒後に消えてなくなればゆっくりと瞳を開けた。

 

「じゃあ、アルヴは着替えたら帰ろうか。レースだから普段より疲れてると思うし、ゆっくりと休んで」

「…分かりました」

 

 彼は自分の荷物を持って控え室から出ていった。それを見送り、私は一人取り残された。

 

「…?」

 

 今になって気づいた。自分の両脚が震えている。余程レースに集中していたせいか、今まで感じることの無かった疲労。それが一気に襲ってきた。

 

「…これは……素直に言う事を聞くしかないわね」

 

 不服だけれど、今日はトレーナーに従うことにしましょう。

 

 

□■□■□■

 

 

 アルヴのメイクデビューを終え、中距離のトレーニングを行っていく中で時間が過ぎていった。既に木々の葉は地面に落ちている。

 その木々の葉が地面を染めており、そして肌を凍てつくような風が吹く季節がやってきた。そしてこの季節が訪れるにあたって一つの催しがある。

 

 お正月。新しい年を迎え、多くの人がお参りをしていく。次の年には幸福になりたい、と。夢を叶えさせて欲しい、と。両手を合わせて神様へお祈りをするものだ。

 

 そして例に漏れることなく俺も近くの神社を訪れていた。

 多くの人が参拝に来ており、なんとか賽銭箱の前に辿り着くことが出来た。五円玉を投げ入れては二礼二拍手。目を瞑り、考えることはアルヴの事だった。

 

───────無事に走り抜けられますように

 

 トリプルティアラを取らせてあげたい。それは勿論なのだが一番は怪我無く走り切れること。怪我をすればレースどころではない。一番に出てきた願いがそれだった。

 最後に一礼をして、賽銭箱から離れた。

 

 本当であればアルヴと一緒に願掛けをするつもりだったが、彼女は予定があると言って断ってしまった。そのため一人で訪れた次第だ。

 周囲を見渡せば晴れ着を着たウマ娘のグループに家族連れ。友人と来ている者もいた。一人で訪れているのは自分だけでは無いだろうか。

 

「…ん?あれ、エアグルーヴ?」

 

 見知った顔が一人いた。その人は晴れ着ではなく私服姿だった。白いスラックスに紺色の上着を着た彼女。何も知らなければ年上だと思ってしまう程に大人びていた。

 

「貴様か」

「こんな所で何しているんだ?」

「見回りみたいなものだ。学園の後輩が羽目を外し過ぎていないか、とかな」

「…面倒見がいいね」

 

 彼女の隣に並び立ち、一緒になっては群衆の流れていく様子を眺めた。時折彼女とはレース理論やアルヴのトレーニングについて相談に乗ってくれるが、プライベートで会話をしたことが殆どなかった。

 気まずい沈黙。何か話そうと思っても意外と思いつかないもので。

 そんな中でエアグルーヴから「アルヴの調子はどうだ?」と話しかけられた。

 

「調子はいいよ。ただ…」

「…ただ、なんだ?」

「スティルインラブっていう子、知ってるか?」

「あぁ、知っているとも」

 

 アルヴがメイクデビューを出走し、半月が過ぎたことだ。阪神レース場にてスティルがメイクデビューで出走するという話を聞きつけ、俺はアルヴと一緒にトレーナー室でレースを見ることにした。

 アルヴがそこまでしてスティルに対して敵対心を出している理由。それがこのレースを見て、初めて理解をすることが出来た。

 

 スティルがゲートから出走した時は特に違和感を感じなかった。差しで控える彼女。走りも所謂綺麗なフォームではあるがアルヴほど洗練されておらず、言うならば普通の子に思えた。

 よくいるタイプのウマ娘。それが第一印象だった。

 

 しかし、その印象は最終コーナーを通り過ぎた瞬間に全てが壊された。

 

「……スティルの走りを見たことは?」

「いや…流石にそこまでは見れていないな」

「そうか……」

 

 人が変わったかのように突如走り方が変わった。まるで別人のように、違う何かに乗っ取られているようにも感じた。

 いや、あればまさしく別人だ。スティルインラブというウマ娘は二つの何かがある。そう思えてしまう程の恐ろしさ。

 

 怪物。

 真っ先に出てきた答えはこれしかなかった。走り方で言えば無茶苦茶。ただ、それだけだ。アルヴとは何もかもが正反対の走り方。しかし、その走りで前へ伸びていき、彼女の前にいたウマ娘の走りが遅くなり、飲み込まれる程の狂気だ。

 

───────あれに勝てるのか?

 

 一度見てしまえば脳裏に焼き付いてしまう程だった。まるで忘れることさえも許されない。そんな意志さえも感じてしまう。あの走り、そして画面越しでも伝わるほどの狂い笑い。

 自分の腕を握る力が強くなってしまう。思い出せばスティルインラブという存在に思考が奪われてしまいそうだった。

 

「そこまでか。スティルは」

「その言葉で片付けられたら良いんだけれど…」

「たわけ。トレーナーたるもの自分の担当を信じなくてどうする」

 

 エアグルーヴの口調が少しだけ強くなった。彼女の言う通りだ。スティルがトリプルティアラを目指すのであれば勝負を避けることはできない。腹を括り、彼女に対して全力で挑む。

 もうその道しか残されていなかった。

 

「ありがとう、少し吹っ切れたよ」

「アルヴの事を頼んだ身だ。もう少し…あの子の事を信用してくれないか」

「…あぁ、そうするよ」

 

 アルヴという存在を信じなければ勝利は訪れない。勿論、それは大事な事だ。彼女を理解し、彼女を信頼する。

 胸ポケットへ手を近づけていき、そこを片手で押さえていく。深呼吸を繰り返す中で瞳を閉じる。ゆっくりと開けていき、エアグルーヴの方を見ては「じゃあ、また学園で」と告げては背を向けた。

 

 少しだけ家に帰る前に何処かに寄っていこうか。このまま家に帰るのも落ち着かないから。

 

 

**

 

 

 偶然、というのはこのために用意された言葉なのだろう。

 

「……アルヴ?」

「…トレーナー?どうしてここに…」

 

 トレーナー寮に真っすぐ帰るより今日は何処かへと脚を運びたい気分だった。少しでもスティルインラブというウマ娘を忘れたいために、冷たい風に当たりたかった。

 そして出来れば人の居ない場所、かつ広々とした場所が良かった。そこで思い当たったのがスティルとアルヴが出会った高台の公園である。この寒い時期であればきっと人もおらず、一人で物思いに耽ることも可能だろう。

 

 そう思いながら、長い階段を上がっていく。階段を上がり切れば、見たことのある後ろ姿の人物が一人いた。

 アドマイヤグルーヴ、彼女だった。

 

「君こそ、こんな所でどうしたんだ」

「……なんとなく」

 

 木の柵に彼女は両手を乗せ、そしてただ佇んでいた。隣へ歩いていき、自分もその木の柵に腕を置いていく。

 寒い風が吹いている。少しだけ身震いをしてしまった。

 

「そういえば予定は終わったのか?」

「…すみません、あれは嘘です」

 

 彼女は視線を合わせないまま、高台から街を見下ろしていた。俺が視線を向けても、彼女は素知らぬふりをしていた。

 

「何かあったのか?」

「何も、ないです。ただ、一人になりたかったので」

 

 そうしてアルヴは黙ってしまう。ちらり、と此方に瞳が向くもすぐにそれはまた街を見下ろしていく。彼女の瞳に映っているのは街だったが、違う何かを映しているようだった。

 

「本当に?」といつもの言葉が出てしまった。彼女は本音をよく隠してしまう事は、契約を結んで時間が経つ中でなんとなくだが分かっていた。だからこそ、聞きたかった。

 一人で抱え込んで欲しくない。それでいつも彼女が隠していると思う時はこうやって聞いてしまう。唯一、彼女の本音にも聞こえたのは花火の時だけだったが。

 

 アルヴは答えなかった。否定も肯定もせずに、ただ街を見つめているだけ。それが何処か寂しくも見えてしまった。

 

「……何か、飲むか?寒かっただろ?」

「いりません」

「…そっか」

 

 今日は一段と会話が弾まなかった。思い返してみればプライベートでこうやって会ったのは初めてだ。普段の彼女が何をしているのか、何が好きなのかがあまり分からなかった。

 風の吹く音が聞こえた。その風に乗って何処からか笑い声。子供の無邪気なものだった。

 其方に振り向けば天高く凧が上がっている。ゆらゆら、と風に揺られていた。

 

「懐かしいな、凧か」

「トレーナーも昔…したことはあるんですね」

「そうだね。あんまり沢山したことは無いけれど。そういうアルヴは?」

「…ない、ですね」

「やっぱり、走ってた?」

「それしか無かったので」

 

 ぴしゃり、と言い切られてしまった。それ以上踏み込んで欲しくなさそうに。

 

「俺は…帰ることにするよ。アルヴ、今年も宜しく」

「よろしくお願いします」

 

 柵から手を離し、彼女から離れるために背を向けた。数歩歩いた後に背後から「トレーナー」と声をかけられた。振り向けば、彼女と瞳が合った。

 

「私は勝てますか」

 

 真っすぐな瞳で告げるアルヴ。芯を感じさせる強い言葉。彼女の、嘘偽りのない言葉だ。

 

「勝たせてみせるよ、必ず」

 

 スティルインラブ。アルヴのライバルで、そして立ちはだかる壁。この言葉が嘘になってしまわないように、強く心に刻もう。

 今度こそ彼女に背を向けて歩き出す。一歩踏み出すごとに心臓の鼓動が嫌になるほど痛かった。

 

 

**

 

 

 公園から離れ、歩いてトレーナー寮に帰っていく。帰っていく最中、やはり家族連れや友人連れが多かった。その人混みに当たらないように隅の方を歩いていく。

 ふと、ズボンのポケットに入っている携帯が震えはじめた。それを取り出して確認をすると画面には『先生』と書かれた文字。ボタンを押し、耳元に携帯を近寄らせれば『もしもし?』と声が聞こえてきた。

 

「お久しぶりです。先生」

『元気にしてたかね。新年だからかけてしまったんだが…迷惑では無かったかい?』

「そんなことありませんよ。先生こそ、お身体の方は?」

『はっはっは、問題ないさ。少しばかり腰が痛いが、それくらいなもんさ』

 

 聞こえてくる声は快活であり、昔とは変わらない姿を思い浮かばせる。最近会ってないせいか、いつもよりも声色が低く、そしてしゃがれているようだった。

 

『トレーナーになってどうかね。やっぱり忙しいか?』

「えぇ、ですが楽しいですよ。担当の子も見つけられたので」

『ほう、どんな子だい?』

「とても真面目で、それで不器用な子です」

『…昔の君みたいだね』

「えぇ、本当に」

 

 この声が聞いていたくて、少しだけ足取りを遅くしていく。人の流れに逆らうように、そして更に隅へ。

 

『まだあのお守りは持っているのかい?』

「勿論。俺が出ていく時に作って頂いたので、捨てるなんて出来ませんよ」

『気に入って貰えてなによりだ』

 

 胸ポケットから手帳を取り出しては、一番後ろのページを開いていく。薄い青を基調としたお守り、これは先生が作ってくれたものだ。

 俺が孤児院から去る時に先生が無事を祈って作ってくれたもの。この人は俺の親代わりであり、そして薄暗い世界から救い出してくれた恩師だった。トレーナーになりたい、という夢を持ったのもこの人が実際にレースに連れて行ってくれたから。感化され、そして今に至る。

 

「そういえば…最近会えてませんね」

『仕方ないさ。そっちからはかなり離れているし、無理に会いに来てもらうのも悪いしね』

「落ち着いたら、今度そっちに行きますよ」

『もういい年なんだ。君の方こそ、新しい人生を謳歌すればいいんだよ』

「…そう、ですか」

 

 言葉が詰まってしまった。確かにトレーナーという人生を歩んではいる。しかし、この人生を歩めたのも孤児院に居た時に先生が色々と尽力してくれたお陰だ。

 歩く脚、それが止まってしまい邪魔にならないように建物の壁へ寄り添った。風がやけに冷たかった。もう太陽は上まで昇り、日が照らしているというのに。

 

「……それでも、俺は先生のおかげで」

『私はね、ここで育った子が自分の人生を楽しんで生きて欲しいって考えているんだ。君の心遣いは嬉しいけれど、それ以上に心配なんだ』

「………」

『気を悪くしたなら謝るよ。ただ、君が…大事にしているのはとても分かるよ。それは嬉しいからね』

「…はい」

 

 小さく返事をした。繋がりを失ってしまいたくない。一度得たものを失う辛さは誰よりも知っている。だからこそ、それを簡単に見ないフリをして忘れたくは無かった。

 電話越しから子供の声が聞こえた。内容を察するに福笑いをしようと誘っているようだった。

 

「じゃあ、先生も忙しそうなので、これで失礼しますね」

『あぁ、またね』

 

 ぷつっ、と音を立てて切れる音。携帯を耳から話しては、胸元に手帳と一緒に寄せていく。

 このお守りを捨てるのは、まだ出来そうにない。

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