【完結】アドマイヤグルーヴとトレーナーが繋がりを知る物語   作:ポンタ4

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クラシック編

 日付が過ぎ、春が訪れた。散っていく桜たちをトレーナー室の窓から眺めては、マグカップに入った珈琲に口を付けた。春、というのは始まりを想起させる季節だ。入学式、入社式、新しい環境に身を置く、という点に置いて全てのものが通る道である。

 クラシック級。一生に一度しか訪れず、そして出走するウマ娘達にとってかけがえのない時間。

 

 4月。アルヴは順調に若葉ステークスを一着で突破し、マイルと中距離の両方で力を発揮することが出来た。一週間後には桜花賞を控えており、今はマイルに向けた最後の総仕上げのトレーニングをしている。

 彼女が求めているトリプルティアラを取るために。しかし、そう考えても常にとあるウマ娘の存在が脳裏に焼き付いていた。

 

 スティルインラブ。怪物という名が相応しく、見るもの全てを恐れさせてしまう程の強さ。勝てない勝負ではない。アルヴの強さはしっかり発揮すれば問題なく勝てるだろう。

 言いようの無いどろり、とした何かが心を覆う。これを形容しようとしても言葉として表せなかった。

 

「トレーナー」

 

 背後から声をかけられる。いつもの馴染みのある声だった。

 

「どうしたんだ?」

「スティルさんのレース映像を見てもいいですか?」

「ここ最近…そればかりだね」

「負けられませんので」

「いいよ。タブレットに彼女のレースはまとめてあるから好きに見て」

「ありがとうございます」

 

 そう言うとアルヴはタブレットを手に取り、ソファーに腰掛けた。今日はトレーニングはおやすみであり、彼女もしきりにレース理論を勉強し、そしてスティルに対抗心を燃やしている。

 いや、少々燃やし過ぎなのかもしれない。スティルがレースで走れば彼女は何度もどうだったのか、と聞いてくる。どちらが強いのか、と何度も尋ねてくるのだ。

 その度にアルヴの方が強いよ、と答えている。しかし、彼女はそれを聞いても表情を変えることは無かった。

 

─────入れ込み過ぎなければいいが

 

 ライバルを意識することは悪くないが、意識しすぎて彼女自身の持ち味が霞んでしまうのは避けたい。とはいえ、あそこまで他者を意識している彼女の頼みを断る事は出来なかった。

 

 マグカップを傾けては珈琲をまた一口飲んでいく。外から聞こえてくるウマ娘の快活な声。そしてトレーナー室でタブレットから流れる実況の声。

 遠くでスティルの笑い声が聞こえた気がした。

 

 

**

 

 

 そうして一週間が経ち、桜花賞を迎えた。

 

『やっぱり注目はアドマイヤグルーヴじゃないか!?』

『そりゃそうだろ。デビュー前から期待されてるし、メイクデビューや若葉ステークスでも走り勝ってるし…あの子以外ありえないって』

 

 控え室に向かう途中で聞こえてきた声達は殆どがこうだった。デビュー前から、神童と呼ばれているから。それらが聞こえてもアルヴは表情を変えなかった。

 

 控え室に辿り着き、勝負服に着替えて貰った彼女の姿を見た時に思わず声が出てしまった。アルヴの勝負服自体は見せて貰ったことはあるが、着ていた所は初めてだった。

 首から胸元にかけた黒色のレース。水色を基調としたドレスのような勝負服であり、上品さを携えていた。

 

「凄く似合ってるぞ、アルヴ」

「……そう」

 

 控え室で脚のストレッチを繰り返している。既に彼女は自分の世界に入り込み、ただ静かに集中していた。初めてのG1レース。控え室にいても観客の声が聞こえる程に盛り上がっていた。

 指先が震える。自分にとっても、アルヴにとっても初めて。心臓の鼓動が痛かった。その鼓動を抑えるために、自分の胸に手を当てて押さえるようにした。

 そんな俺とは対照的に彼女はただ無表情だった。慣れている、という言葉一つで片付けられないほどだ。

 

「緊張、しないのか?」

「歓声は関係ありませんので」

 

 冷たい一言。むしろここまで自分という芯を持っているのであればレースの時に心配をしなくても良いだろう。

 こんこん、と扉のノックする音が聞こえた。それと同時に「アドマイヤグルーヴさん、準備をお願いします」という声。

 彼女は背を向けて歩き出そうとした。「アルヴ」名前を呼ぶと、彼女は脚を止めた。

 

「頑張って」

「……また、言うんですね」

「見送りだから」

「…そうですか」

 

 そのまま彼女は此方を振り向くことは無く、出ていってしまった。

 

 数分後待ち、向かう先は観客席へ。トレーナー専用の席があるため、そこに座ってはパドックを眺めた。既に俺以外にもちらほら、と座っている。

 パドックには桜花賞を出走するウマ娘達が並んでおり、アピールをしている所だった。アルヴは終わったようで、何かスティルと話している。そして直ぐにアルヴは彼女から離れてしまった。

 

 相も変わらず名前を呼ぶ声は殆どがアルヴの事ばかり。それだけ彼女が期待されているのだろう。名前を呼ばれても彼女はそれに反応することはなく、ただ一人で佇んでいた。

 

 パドックでウマ娘達のアピールが終われば、向かう先はゲートへ。アルヴのゲートは9番という真ん中だった。ゲートに一人ずつ入っていき、そうして迎える運命の瞬間。

 ゲートが開いた瞬間、一人だけ飛び出すのが遅れたウマ娘がいた。

 

『スタートしました。おっと、アドマイヤグルーヴが少し出遅れました。一番最後方はアドマイヤグルーヴとなりました。前方は─────』

 

 出遅れたのと同時に場内はどよめきの声が上がった。椅子から立ち上がり、柵に両手を乗せては前のめりになってしまう。

 あり得ない。彼女ほどの冷静なウマ娘がまさかの出遅れ。彼女の脚に何かあったのかと思い、視線を向け続けるも問題はなさそうだった。胸を撫で下ろした。

 

『二番人気スティルインラブは五番手の位置取り。対して一番人気アドマイヤグルーヴは最後方となりました。最前方はヤマノサクラ。続いてオーロラカナタにナンホウサヨとなります。』

 

 コーナーに入り、まだアルヴは最後方だった。あの末脚とスタミナがあったとしてもあれでは間に合わないのではないか。柵を握りしめる力が強くなってしまった。

 場内では先程のどよめきは無くなっており、各ウマ娘達を応援する声が聞こえた。

 

『最終コーナーを曲がって、後方アドマイヤグルーヴは上がってきました!中団からスティルインラブも抜けようとしている!ヤマノサクラは少し苦しそうだ!』

 

 アルヴが一気に加速を始めた。一番最後方から溜めた脚を使い、そして一気に後ろから抜き去っていく。15番目、14番目と一呼吸もしない間に彼女は大外から抜き去り始めた。柵を押しつぶしてしまう程に力を込め、喉の奥から「アルヴ!!いけっ!」と声を張り上げる。

 

『大外からアドマイヤグルーヴ!アドマイヤグルーヴです!一番前はスティルインラブ!いや!内からソーイズサイショウも上がってきた!だが、スティルインラブは一バ身程離れている!!』

 

 少しずつ、確実に距離は近づいている。あと三バ身。アルヴの脚はまだ届きそうにない。

 その時にまた───────あの声が聞こえた。

 

「あははははははッ!!!もっと…もっと!!足掻いて足掻いて…昂らせてェええええ!!!」

 

 背筋に一粒の汗が流れた。ぞくり、とする。彼女の声は遠いはずなのに、耳元で叫ばれているような錯覚。

 怪物だ。あれが、本物の。

 もう、いくら脚を速めても遅かった。

 

『スティルインラブ!ゴールイン!!トリプルティアラの一つ目はスティルインラブが取りました!二番にはソーイズサイショウ、三番にアドマイヤグルーヴとなります!』

 

 ゴール板を通り過ぎた後、アルヴを探すように場内を見渡した。視界に入れば彼女は顔を下に向いたまま上げることが無かった。初めての敗北。それも勝ちたいと思っていた相手にだ。

 散々期待される中でスタートを失敗し、位置取りも常に最後方となり、いくら上がったとしても既に遅い。彼女の力が完全に出し切れたとは言えないレースだった。アルヴは覚束ない足取りで戻っていくのが見えた。

 

 直ぐに観客席から離れ、向かうのは関係者用の通路。恐らく彼女は控え室へ戻るだろう。出るときに記者の人たちに囲まれてしまわないように控え室に向かわなければ。

 通路に辿り着き、彼女の姿が見えた。近づいていくと彼女がゆっくりと顔を挙げた。

 

「トレーナー…その……」

「よく頑張った!三着だ!十分すぎるよ!」

 

 彼女に大きな声で告げていく。視線を合わせようとすればアルヴは下に向けてしまった。彼女の手を掴み、自分の両手で包み込む様にしていく。片膝立ちで、少しでも彼女の顔を見ながら話したかった。

 

 確かに、今回のレースは褒められるものではない。スタートを失敗したのは反省することだし、その後のレース運びも良くは無かった。反省点だらけのレース。しかし、それでも自慢の末脚を使って三着を取ったことはきちんと褒めなければならない。

 

「私…スタートを…」

「それは後で反省!今は本当によく頑張ったよ。脚は大丈夫?怪我をしていない?」

「…はい」

 

 頷く彼女。足取りが覚束ないのは疲れのようでそれに安堵する。

 

「このちょっと後にライブがあるから、それまでしっかりクールダウンしようか」

「…ありがとうございます」

 

 彼女の腕を引いては半ば無理矢理に控え室へ戻っていく。彼女を座らせ、タオルと飲み物を渡した。

 一ヵ月後にはオークスだ。今度は中距離のレース。トリプルティアラは既に叶わぬ夢になってしまったが、いつまでも引きずってはいられない。彼女に出来ることをするため、携帯を取り出してはとあるウマ娘にLANEをした。

 

『エアグルーヴ、君の力を借りたい』

 

 数十秒後には『いいぞ』と返事が返ってきた。

 

 

**

 

 

 桜花賞が終わり、一週間を迎えたとある日。アルヴにはしっかりと休養を取って貰い、次走のオークスへ向けたトレーニングとなる。期間は残り三週間。この少ない時間で出来ることと言えば、中距離への適応。

 しかし、アルヴにはそれは必要ないだろう。既に若葉ステークスでその力を確認することは出来た。ならば、既に一歩リードをしている自分たちに出来ることと言えば、適応ではなく更に高めることだ。

 

 トレーナー室に入ってきたアルヴ。既に彼女が訪れるよりも早くエアグルーヴがソファーに座っている。

 

「来たね、アルヴ。体調は大丈夫か?」

「どうしてエアグルーヴさんが?」

「オークスを勝利したウマ娘、それと併走をすればより君を高めることが出来るからお願いをしてね」

 

 ゆっくりとエアグルーヴは立ち上がり、アルヴの元へと近づいた。

 

「頼み込まれては断れんからな。私は甘くないぞ、アルヴ」

「……お願いします」

 

 一瞬だけアルヴの口元が強く結ばれるのが見えた。あまりにも刹那であり、気のせいかと感じてしまう。

 彼女を弱くさせないこと。契約を結んだときに彼女と交わした約束。その約束を反故にしないためにも。そしてアルヴにティアラの一つを渡せるように。

 

 改めて誓うように自分の胸元で強く手を握りしめた。

 

 

**

 

 

「その走りはなんだ!焦るな!」

「…っはい!」

 

 エアグルーヴと併走を始めて暫くたったころだ。エアグルーヴとアルヴが一緒に併走をしているというのは噂となり、そしてそのまま広がってしまった。曰く師弟関係なのではないか、と。

 そういうつもりは一切無いのだが、当のアルヴ自身は気にしている様子が無かった。

 

 いや、気にしていない様に振る舞っているのだ。その会話が聞こえてしまえば彼女はその道を避け、話題自体も入れようとしなかった。

 契約を結んで一年。果たして俺は彼女の事を理解できているのだろうか。

 

「よし、今日はここまでだ。しっかりと休めよ、アルヴ」

「はぁ…っ、ありがとう、ございました」

 

 肩まで息を荒げているアルヴ。ゆっくりとした足取りで彼女がコース場から離れていくのを見送れば、エアグルーヴが近づいてきた。

 

「…全く。アルヴは走っている時に雑念が多いな」

「助かるよ。同じウマ娘の君がいてくれて心強いな」

「……貴様も貴様だ」

「えっ…?」

 

 エアグルーヴの呟きに思わず聞き返してしまった。直ぐに彼女は「なんでもない」とだけ告げた。

 それが妙に気になってしまうが、それ以上踏み込まない様に話題を逸らした。

 

「アルヴの走りとしてはどうだ?」

「悪くは無い。むしろ良い方だな。ただ相手を考えては無理に力が入る所だけは何とかして欲しいがな」

「…スティルか」

 

 彼女を考えるとやはり仕方のない事だ。桜花賞では力の差を見せつけられてしまった。トリプルティアラを手に出来るウマ娘として歩んでいるのだから余計なのだろう。

 

「一つ聞いても良いかな」

「良いぞ」

「もし、当時のエアグルーヴとスティルが走ったら…君は勝てる?」

「……愚問だな、勝つとも」

 

 その眼には強い闘志が宿っていた。エアグルーヴがそう言うのであれば俺は信じるだけ。彼女に迫れるアルヴならオークスを制覇することも夢では無いだろう。

 ただそれだけではやはり不安は残る。スティルインラブ自体は中距離のレースを走るのは初めてなはず。彼女の走りにどうやって勝つかまたレースを見直さなければ。

 

「あとで当時のオークスの雰囲気とか教えて欲しい。それとレース展開。トレーナーとして考えれる所は考えたいんだ」

「分かった。また明日でいいか?」

「勿論。今日はもう遅いからね。いつもありがとう、エアグルーヴ」

 

 彼女にはかなり助けられている。それだけエアグルーヴ自身もアルヴを気にしているのだろう。彼女は後輩想いであり、多くのウマ娘達の注目の的だ。それだけにアルヴばかり目に付いては変な噂も少しずつ増えてしまっているが。

 神童を鍛える女帝。女帝が目にかけたからこそ、今年のオークスはアドマイヤグルーヴが取るだろう、と。

 

 それがアルヴにとって一番の負担にならないかだけ心配だった。

 オークスまで長くは無い。アルヴが勝てるために、そして頼みを答えたエアグルーヴの為にも次走に備えねば。

 エアグルーヴと共にコース場から離れていった。学園内で見た桜は、もう見えなかった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 怪物、という言葉は言い換えれば化け物だろう。怪物ならば、まだ可愛げがある。人が考える理解の範疇を超えず、しかしそれは強大な強さを持っている。手を必死に何度も伸ばしては、しつこいほどに足掻く。そうすればきっと届くのだと、願うことができるからだ。詰まるところ、ヒト、という状態から離れていないからだ。

 

「アハハハハッ…!!いい…いいわ…とても…!!昂らせて…足掻いて足掻いて足掻いて…!!」

 

 定義するなら────────あれは化け物だ。

 

「……なんだ…あれは?」

 

 言葉が出なかった。喉から絞り出した声は彼女の笑い声によってかき消されていた。レース場内に響き渡るたった一人の狂った叫び。誰もが言葉を発することが出来なかった。

 掲示板に表示されるタイム。

 時間、2:27.5。

 

「……っ、エアグルーヴ…すまない…本当に」

「…気にするな。これは私も予想外だった」

 

 エアグルーヴの記録を1.6秒上回る速さだった。あまりにも、見事しか言えなかった。最後の直線で一気に駆け抜けてきたスティル。アルヴもそれに追うようにしたが、追い切れなかった。

 結果、7着の惨敗。掲示板入りすらも叶わなかった。

 

 観客席で一人、強く手を握りしめた。爪が食い込み、血が滲むほどに。

 どうしたら勝てる。出来ることは全てしたはずだ。スティルインラブの走りを研究した。中距離も桜花賞より前に手を打っていた。なによりエアグルーヴの力も借りた。

 それでも勝てないなら、俺は一体何のために彼女と契約を結んだ。

 怪我をさせないだけで、実力を発揮させることが出来ないなら、果たして意味があるのだろうか。

 

 その考えが過ぎり、何度も頭を振った。今は自分を責めている場合ではない。アルヴを迎えに行かなければ。

 

「行こう、エアグルーヴ。彼女を迎えに行かないと」

「あぁ、そうだな」

 

 彼女と一緒に観客席をあとにした。背を向け、あの笑い声が聞こえてしまわない様に脚を早めた。

 

 関係者用の通路に辿り着くと既にアルヴがそこにいた。声をかけようとしたが、それは出来なかった。眉間に皺を寄せ、唇を強く噛みしめていた。始めて見る表情だった。

「アルヴ、お疲れさまだな」とエアグルーヴが声をかけていく。その声に反応するようにアルヴは顔を挙げた。彼女の視線に俺とエアグルーヴが入るも何も声を出さなかった。

 その後は三人とも声を発することはなく、控え室へ帰っていく。途中でインタビューを求める記者と出会ってしまったが、その場を避けるようにした。

 

 辿り着いた控え室は雰囲気が重かった。アルヴにとって二度目の敗北。それも掲示板にすら入っていないのだ。

 

「…アルヴ」

 

 彼女に声をかけたが、此方を向く様子は無かった。ただ椅子に座り、下を向いているばかり。桜花賞が始まってから、余計に彼女は一人で考えていることが増えた気がする。

 

「エアグルーヴ。今日は来てくれてありがとう。今は…二人きりにしてくれないか?」

「積もる話もあるだろう。私は先に戻っていよう。ライブもあることだしな」

 

 エアグルーヴはそう告げて、控え室から立ち去っていく。残される俺とアルヴ。下を向いた彼女に近づいては膝立ちになり、顔を覗こうとした。彼女と視線を合わさて話したかった。

 

「やめて」

 

 アルヴのはっきりとした拒絶だった。「ごめん」と謝り、顔を離していく。体の前で両手の指を交差させた。

 

「…次は秋華賞だな」

「……」

「夏合宿がある。そこでしっかりトレーニングをして必ず─────」

「嘘」

「嘘なんかじゃない。必ず君を」

「…嘘、ね」

 

 一人で呟くような小さな言葉だった。その後は口を閉ざしてしまい、無言の時間となるのみ。

 

「…ライブ、あるから。頑張って」

「……そうね」

 

 椅子から立ち上がり、タオルで一度額の汗を拭くアルヴ。声をかけるよりも早く、彼女は扉を強く閉めた。

 

 

**

 

 

 桜花賞とオークスを終えて、日付が過ぎていく。春の陽気はどこへやら。昼前には既に太陽の暑さを感じる季節となっていた。

 そして、その熱さをより体感する二度目の夏合宿が訪れた。前回は地力を高めるためのトレーニングだったが、今回は秋華賞を見据えたもの。秋華賞は芝2000m。若葉ステークスと同じ距離ではあるも、油断は出来なかった。

 スティルインラブ、彼女を超えるために今回はスピードを中心にしたトレーニングである。アルヴのスタミナは問題なし、と考え、あのスピードに追い付けるようにトレーニングを組んだのだ。そうして夏合宿に訪れたのは良かったのだが─────

 

「アルヴ、大丈夫か?」

「問題ありません」

 

 妙に気合が入っている、というよりは肩肘を張りすぎているが正しい。

 オークス後も彼女にトレーニング指導をしていたが、何処か距離を取られていた。そして、ジュニアの頃の様に休憩時間も短くなっている。

 それだけではない。トレーニング指導についても拒否をし始めている。考えている内容と彼女がしたい内容、それに乖離が起き、毎日のように見直しをしていた。

 

 夏合宿前に二人でしっかりと話し合い、何のトレーニングを中心にするのかを決めることにした。そこで少々揉めてしまう事もあったが、お互いの意見を取り入れては落ち着いた。

 

 今回の夏合宿はエアグルーヴがトレーニングに付き合ってくれる、とのこと。トレーナーとウマ娘、それぞれの視点からアルヴを指導する、という事にはなったのだが。

 

「では、行ってきます」

「あぁ、しっかりと慣らしてから……って行っちゃったか…」

 

 アルヴはそのまま走り去ってしまった。彼女の言葉の節々に冷たさを感じる。既に砂浜にはウマ娘達が集まり、海に入って羽を伸ばしている者の中で、彼女だけが砂浜を走っていた。

 

 ふと、とある気配を感じた。その気配の方に視線を向けていく。木々の影に一人で佇み、海を眺めているスティルだった。

 彼女もそういえば、一人だ。誰かと一緒に居ることを殆ど見たことが無い。なんとなく、彼女の事が気になり近づいていけば、声をかける前に視線があった。

 

「こんにちは、アルヴさんのトレーナーさん」

「こんにちは、暑いね」

 

 彼女と一緒に木々の影へ。レースの時とは違うスティルの姿。今は化け物、というのは姿を現しておらず、儚げな一人の少女だった。

 

「アルヴさんを…見なくて宜しいのですか?」

「今日は基礎練習だから、そこまでかな。流石に少ししたら目を配るけど…ただの基礎でずっと見られるのも嫌だろう?」

「ふふ、そうでしょうか?」

「…君は違うのか?」

 

 口元に手を添えて微笑む彼女。彼女の答えは少しだけ意外だった。

 

「誰かにずっと…見られる、というのは……嬉しいものなんですよ」

「そういう…ものなのか?」

 

 こくり、とゆっくり頷く彼女。彼女の瞳は海を映していた。砂浜から聞こえてくるウマ娘達のはしゃぐ声。その声が何処か遠くにいる様にも思えてしまった。

 

「私は……ずっと、一人でしたから」

「それは…その、すまない事を聞いたね」

「いえ、気にしないで下さい」

 

 彼女も一人。それはまるでアルヴと似ているようだった。だが、スティルの言う一人は孤高ではなく、孤独に近いものだ。そして彼女は既に享受している。

 心から受け入れ、何処か諦めに似た何かを感じた。

 

「一つ聞きたいんだ」

「なんでしょうか…?」

「…レースの時の君は……楽しい?」

「……そう、ですね。きっと、楽しいのだと…思いたいですね」

 

 最後の声はとても小さかった。柔らかな表情を浮かべているスティルの瞳はとても澄んでいた。

 アルヴがスティルに対して闘志を燃やした理由が分かったかもしれない。スティルの走りは純粋な走りに対する感情なのだ。証明でもなく、ただそこにレースがあるから走る。強者が居るから、倒すために。

 だがアルヴは真逆だった。己を証明しなければいけない。レースがあるから、ではなく自分が自分であるためにレースを使っている。

 彼女はそんなスティルに嫉妬したのだろう。

 

「…そっか。ありがとうね、スティル。なんだか整理が出来たよ」

「…?アルヴさんのトレーナーさんは…とても不思議ですね」

「君ほどでは無いよ。それじゃ…体調に気を付けてね」

 

 そう告げた後、スティルから離れていった。アルヴも彼女の様に純粋な気持ちで走れたら、変われるのだろうか。

 

 

**

 

 

 夏合宿が始まって一週間が経った頃。とある一本の電話でその日の予定は全て崩れることとなった。

 

「…先生が……亡くなった…?」

 

 孤児院でお世話になっている先生の訃報だった。亡くなったのは一日前。俺に連絡が来たのは、連絡先に乗っていた為である。過去孤児院に居て、かつ交流のある人物に連絡をかけ、そして今に至る。

 人が死んだ、と聞いた時はもっと泣き崩れるものだと思った。だが、意外と涙は出なくて、むしろ理解が出来ない方が強かった。

 言葉は理解しているのに、意味までは理解を拒んでいる。あまりの出来事に暫く固まってしまった。

 

 砂浜で走っていたアルヴが此方へと走ってくる。俺の表情を見るなり「トレーナー…?」と声をかけてきた。今は彼女にとって忙しい時期だ。ここで変に悟らせるわけにはいかないと「な、なんでもないよ!どうしたの?」と笑顔を繕った。

 

「…砂浜が終わったので。次は遠泳をしようかと」

「あ、あぁ!遠泳…遠泳だな。うん。大丈夫だよ、行ってらっしゃい」

「……?はい」

 

 怪訝そうな表情を浮かべる彼女。彼女が走り去っていくのを見届けてから、携帯でエアグルーヴに電話をかけた。数度のコール音後に『もしもし?』と声が聞こえた。

 

「もしもし、エアグルーヴか?」

『電話とは急だな、どうした』

「すまない、少し用事が出来たんだ。恐らく…一週間くらいは夏合宿から離れることになる」

『…何があった』

 

 彼女の声が小さくなった。

 

「……俺の恩師が亡くなって。ちょっと、最後に会いたくて」

『…それは………大変だな』

「その間アルヴのことを見てくれないか?彼女が無理をしないか、とか。トレーニングについては話しておくから」

『分かった。それで…そのことはアルヴには伝えていないのか?』

「今彼女に意識させたくないからね。大事な時期だから…」

 

 数秒の無言。電話の向こうでエアグルーヴが何かを呟く声が聞こえた。あまりにも小さく聞き取れずに「何か言った?」と聞き返したが『なんでもない』と返されてしまった。

 

『事情は把握した。取りあえず無理はするなよ』

「はは…ありがとう、エアグルーヴ」

 

 そう言って電話を終了した。ふぅ、と大きな溜息を吐いてしまった。

 突然の出来事。早いうちに準備を進めなければならない。ホテルに喪服、それにアルヴとエアグルーヴに対しての引継ぎ。しなければいけない事が大量に重なってしまった。

 

 急な事なのに冷静に分析している自分へ辟易してしまった。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 トレーナーが夏合宿場から去って、三日が経った。夜間で散歩道を使っての自主トレーニング。ここは山の中であり、時折他のウマ娘も走っている。今日のトレーニングでは遠泳をし、脚の筋肉を使っていない。だから、少しでも鍛えられるように自主トレを決めた。

 

 靴の踵を持ち上げては、しっかりと着用していく。何度か脚を伸ばしてストレッチを開始。合宿場の中ではウマ娘達が話している声が聞こえた。

 その声を後目に私は走り出した。

 

 今日は風が涼しい。山の中で木々が風によってざわめく音、そして遠くから僅かに聞こえてくる海の凪ぐ音。これら全てが私の心を満たしてくれた。

 空を見上げれば満点の星空、そして僅かに欠けている白い月。煌々と光るそれらは地面を照らし、私だけの世界を作り出している。こんなに静かな日はいつぶりだろうか。

 

 トレーナーと出会い、彼とトレーニングをする日は必ず一緒だった。指導を受け、二人で私は歩んでいた。けれど、それが私にとって怖かった。近づけば近づくほどに私では無くなりそうだったから。

 契約の時に私は彼に言ったこと。『弱くさせない』というそれは既に破られている。

 私はエアグルーヴさんやトレーナーに近づかれてしまったから、弱くなった。誰かがいることで強くなる。それは私にとって幻想。

 

 だから、私は桜花賞とオークスで負けた。最後のティアラを取るために、私は一人にならなければいけない。一人だったら勝てる。一人だからこそ勝てる。私が私であるためには、孤高でなければいけない。

 もう誰かを頼る事も休むこともしない。ただ走り続け、私は勝ちたい。

 

 私を証明するために、彼を避けている。

 

 脚を進めていくと少し開けた場所に出た。そこは休憩場所であり、簡易的なベンチだけ備え付けられている。いつの間にかここまで脚を進めていたのか、と私自身の驚きと着実に力を取り戻せている事に安堵をした。

 一度脚を止めては、息を整えていく。顔を挙げて空を見上げれば、真上にはあの欠けた月が見えた。

 

 視線を戻していく。正面を見据え、また走り出そうとすると視界の隅で一つの影が映った。瞳だけ動かすと、そこにはスティルさんが居た。

 

「……何をしているの、こんな所で」

「アルヴさん…」

 

 何故か彼女に話したくなった。ゆっくりと近づき、スティルさんは私の方に振り向いた。直ぐに視線を下に向ける彼女。次に挙げた時、私ではなく月を捉えていた。

 

「……今日は、欠けていますね」

「そうね。まるで初めて会った時のようだわ」

「…違います。今は私、ですから」

「…関係ないわ」

 

 レースの時に見せる姿と普段の姿。それらが違えど私にとっては関係なかった。どちらもスティルさんであり、私にとって倒さなければいけない相手。

 風が吹き、私の髪が揺れていく。それと同時に彼女の長いヴェールが靡いていく。彼女の顔を隠すように。

 

 似たもの同士で、似てない。彼女も一人であることが多かった。私も同じ。それでも私は勝てなかった。全て彼女に負けている。

 違う、あの2人がいたせいで負けたのだ。ならば、今は?

 

 トレーナーは何かの急用で夏合宿から離れた。エアグルーヴさんも私の事を見ているが、常にではない。今が絶好の好機なのではないか。

 

「スティルさん」

 

 考えるよりも言葉が出た。

 

「勝負しましょう」

 

 これで勝てば、私は────────証明できる。

 

 

**

 

 

 二日後、借りたコース場で私とスティルさんは並んでいた。勝負の内容は芝2000m。次の秋華賞を見据えて私はこの内容にした。

 現在の彼女に勝てば、次の秋華賞も勝てる、と。

 ストレッチをして脚の筋肉を伸ばしていく中、スティルさんも軽くではあるも同じように行っている。

 

「ほら!やっぱり…!レース対決だよ!」

「えっ?本当にアルヴさんとスティルさんが?」

 

 既に周囲に人だかりが出来ていた。合宿に参加をしているウマ娘にトレーナー達。更にはどこから聞きつけたのは記者の人まで。多くの人が見守る中で、まだエアグルーヴさんだけはいなかった。

 

「…そろそろ始めましょう。煩くなりそうだから」

 

 周囲の声も多くなってきた。これ以上準備を続けていれば、より広まってしまう。一言告げて、私はスティルさんに背を向けた。彼女もそれに付いてくるようにスタート位置へ。

 

「私の合図でスタートよ」

「…っはい」

 

 ゲートが無い中で二人で走る体制へ変わっていく。いつもより体が軽かった。今日は過去走ったレースの中でも一番、調子が良い。

 

「…スタート!!」

 

 その合図と同時に二人で走り出した。彼女が先行し、私が付いていくように。風で抵抗が生まれない様に真後ろで控えていく。

 既にコース場を囲うようにレースを見守っている人達が増えていた。耳を澄ませば、どっちが勝つのか、という話で盛り上がっている。

 

 コーナーを曲がり、ひたすらに付いていく。スティルさんのレースの時の狂気。あれはまだ現れない。現れるときはいつも最後の瞬間だけ。その瞬間に私の末脚で一気に差し切る。

 あの狂気に勝つことで私の自信は確信へと変わる。今ここで抜いて勝ったとしても私の靄は晴れることはないのだから。

 

 長い直線を迎え、走り続けてはあっという間に最後のコーナーを迎えた。

 

「心地良いわ……ワタシと遊んで!!もっと…もぉっと…ッ!!」

 

 彼女の走りが変わった。その瞬間を見計らい、一気に脚を前へ進めた。

 脚が早まった瞬間に周囲は歓声へと変わった。残り400m。既に彼女の横に並びながら走り続ける。

 無我夢中で前へ進めていく。視界の端に映るスティルさんの姿は少しずつ見えなくなっていった。

 最後はあまりにも呆気なかった。彼女をそのまま抜き去り、私が一着を取った。

 

 勝った。いとも容易く。ここまで簡単だとは思わなかった。

 

「私が正しい。あの人は…間違っている」

 

 自分の掌を眺めながら噛み締めるように呟いた。

 苦戦することなく勝利を得たのだ。私が一人だから勝てた。拒絶をしたから、ここまで力を付けれた。

 スティルさんへ視線を向けていく。表情は疲れ切っており、先程までの笑っていた表情は何処かへ消えている。

 

「勝つべきなのは、私なのよ。スティルさん。次の秋華賞は、私が頂くわ」

 

 それだけを告げて私は立ち去った。周囲に集まる人々を避けながら、一人で浜辺へ戻ろうとした。

 人混みから抜け出すとその戻る道までに一人の人物が立っていた。

 

「アルヴ?これは…なんの集まりなんだ?」

 

 彼はやつれており、目元を少しだけ腫らしていた。よほど、その急用とやらが大変だったのだろう。

 けれど、その急用のおかげで私は確かめられたのだから。

 

「トレーナーには関係ありません」

「関係あるさ。皆が君の事を見ているよ。何があったんだ?」

「…煩い」

「えっ?」

 

 聞き返してくるその声ですら苛立ちが湧いてしまう。貴方のせいで私は勝てなかった。トリプルティアラを取れなかった。私は弱くなった。

 最初からスカウトしなければ、私はきっと勝てていた。

 

「アルヴ、俺は君のトレーナーとして─────」

「……いい加減にして…!!」

「アル…ヴ…?」

「ずっとずっとそうやって私に近づいて…私は…言いましたよね、トレーナー?弱くさせないことだって」

「あぁ、そうだ。だから俺は…」

 

 言い訳しないで。そんなのを聞きたいんじゃない。

 

「嘘」

「嘘なんかじゃないっ!君を少しでも…!」

「じゃあ、私が勝てないのはどうしてなの…っ!スティルさんに一度も勝てなかったのは…どうして…っ!」

「それは…………俺の力不足だ。君を勝たせることが出来ない…俺の」

 

 トレーナーは視線を合わせず、ただ強く手を握りしめていた。唇も噛みしめ、震えていた。

 私が負けたのは彼のせい。彼が近づいたから、彼が受け入れようとしたから、私は弱くなった。

 ずっと強くあり続けなければいけないのに。私が私であるために。一人でも強く、あるために。

 

「…勝ったんですよ、私。スティルさんに」

「それは…凄いね」

「えぇ、だから…」

 

 その先の言葉が言えなかった。これ以上踏み込むのはまだ、早い。所詮今日勝ったのはただの模擬レース。本番ではどうなるかは分からない。けれど今日の状態なら、私はきっと勝てる。そう思えるほどに心は昂り続けている。

 心臓の鼓動が早く、自分の手先まで熱くなるほど。人生で一番、私は高揚している。

 

「…これから走り込みをするので」

「……脚は大丈夫なのか…?」

「…何を心配しているの?」

「レースをしたなら、休まないと…」

 

 自分の脚を見つめた。確かに震えている。だけどこれだけははっきりと分かる。疲れからの震えではない、武者震いなのだと。早く走らせろ、もっともっと力を付けて完璧に勝利を掴め。その意思表示だ。

 

「また、それですね」

「契約の時に言ったはずだ。アルヴは元々オーバートレーニングなんだ。だから─────」

「去年の夏合宿を覚えてますか?」

「…っ。覚え、てるよ」

 

 私が彼に言われた言葉。契約の時に私は約束を破って、そして隠れてしていた夜間のトレーニング。もうそれを止められる筋合いは存在しない。だって───────

 

「お相子、ですよね?」

 

 その言葉を聞いた彼は何も返すことが出来なくなった。ただ、私の瞳を見つめた後にゆっくりと下へと向けてしまう。

 

「トレーニングをしますので。また、メニューだけは宜しくお願いします。トレーナー」

「…………分かった」

 

 彼はゆっくりと躊躇いがちに頷きと言葉を発した。私は彼の隣を通り過ぎていく。さっきまでレースで聞こえてきた歓声は全て静かになっていた。

 木々のざわめく音と蝉の鳴き声。今日は、とても煩かった。

 

 

 

****

 

 

 

 夏の暑さは少しずつ消えゆき、秋の訪れを思い浮かばせる秋風を感じた。あの日からトレーナーを避け続け、会話の内容も最小限に留めている。エアグルーヴさんが私に対して物申したそうにしていたが、それも全部聞こえない様に避けた。

 誰かとの繋がりは要らない。あればそれに頼ってしまう、甘えてしまう。だから必要ない。

 あるからこそ、弱くなる。それを私はあの頃からずっと見ていた。

 

 孤児院の時代。私にとって一人でも勝てると考えたあの日。

 私と同じ同年代の子達で集まってレースをした。小学生の時に走って、私は一位を取った。誰よりも早く、誰よりも強く。

 運動会でも、模擬レースでも、全部全部一着を取った。

 

 その中で大泣きをする子がいた。両親に近づき、励まして欲しそうにしているその姿は私にとっては見たくないものだった。

 負けて誰かに縋るから弱くなる。私は一人でずっと走り続けてきた。全部の繋がりを捨てて、孤高であり続け、己を高めてきた。だから私は強い。

 仮に縋る事で強くなることがあってもそれは偽り。本当の強さは私が証明する。

 

 走る事は楽しいと、私は思っただろうか。思い返しても、もうそんな記憶は何処かへと消え去っている。もしかしたら、なんて考えたとしてもそれは今では無意味。

 走る事、それは私にとって─────────

 

「アドマイヤグルーヴさん、準備をお願いします」

 

 扉の向こうから聞こえてきた声に私は視線を向けた。

 秋華賞。最後のティアラを取るために私はストレッチをして準備を進めている。隣で彼はタブレットを操作しながら、時折私を眺めていた。

 思わず視線が合ってしまう。直ぐに私は逸らしていき、ゆっくりと立ち上がった。脚の調子も問題なし。トレーニングも秋華賞に備えてずっとしてきた。

 

 休まないで、ただ走り続けて。トレーナーにも全てを隠して。

 

 扉へと向かっていく最中、背後から「アルヴ」と彼の呼ぶ声が聞こえた。私は歩みを止めずに歩き続け、そしてドアノブに手を添えた。扉を開けて、通路へと脚を踏み出した瞬間。

 

「…秋華賞、がんば──────」

 

 言葉を言い終える前に私は強く扉を閉めた。

 

 通路から聞こえてくる歓声、それらは私を呼ぶ声が多かった。夏合宿でスティルさんにレースを挑み、そして勝利したことはいつの間にか広まっている。どうやらあの場に記者がいたようで、そこからだった。

 ダブルティアラはスティルインラブ、しかし秋華賞ではアドマイヤグルーヴが取ることが確実だろう、と。全員から期待され、私が一着を取ることが当たり前なのだと。

 その声全てが耳障りだった。

 

 長い通路を歩いていく中で、私以外の足音が聞こえた。背後から聞こえている。其方に振り向くとそこには制服姿のエアグルーヴさんだった。

 

「…何か用ですか」

 

 私は一言だけ、突っぱねる様に告げる。腕を組みながら近づいてきた彼女は「緊張しているか」と尋ねた。勿論、してるわけがない。

 

「…関係ありません」

「関係あるだろう。これでもお前の事は気にしているんだ」

「……どうして。他にもいるでしょう?」

 

 エアグルーヴさんが私に構ってくれる理由が分からなかった。私以外にも彼女は後輩がいるはず。なのに私ばかり面倒を見てくれている。もしかして、なんて淡い期待をしてしまった。

 

「お前()大事な後輩だからだ」

 

 その言葉が聞こえた瞬間、私は光の方へ視線を向けた。やっぱり、私だけを見てくれる人は誰も居ない。エアグルーヴさんも、そしてきっとトレーナーも。所詮は私は一人。

 それがより理解できただけでも、十分すぎた。

 

「アルヴ…」

 

 ウマ耳を絞り、言葉が聞こえないようにしていく。それ以上は私にとって邪魔にしかならないから。最後に聞こえてきたのは、歩く足音だけだった。

 

 通路を抜けてパドックへ辿り着くと更に大きな歓声が聞こえてきた。脚を進めていく中で既にスティルさんはそこに立っていた。挨拶が終わり後ろで控えている。

 私は彼女へ近づいていき、声をかけた。

 

「今度こそ、私が勝ってみせる」

「…アルヴさん」眉を下げて困ったように返した。

「それだけ。私はもう負けないわ」

 

 スティルさんとの勝負は四度目。一度目はトレーナーと並んで勝利を得られず、二度目はトレーナーとエアグルーヴさん。三度目は私一人。四度目の勝利はきっと私が得られるはず。

 背を見せてはパドックの中央へと向かっていく。軽く頭を下げるだけで大きな歓声と私を呼ぶ声が聞こえた。やっぱり、耳障り。

 

 今日出走する全てのウマ娘の挨拶が終われば、向かう先はゲートだった。10、と書かれたゲートに入っていき、がしゃん、と大きな音を立てて閉められていく。

 正面に見えるは緑一色のターフのみ。次々と閉じられていくゲートの音に歓声。それらが全て私のウマ耳にすら入らないほど遠くに聞こえる。

 

『全てのウマ娘がゲートに入りました。秋の可憐なる大一番の勝負になります!スティルインラブがトリプルティアラを取るか。はたまた今日の一番人気、アドマイヤグルーヴが阻止をするのか!』

 

 脚に力を溜めてひたすらに待つ。桜花賞の反省。スタートで失敗したことを思い出しながら、意識をゲートに集中させる。

 私が勝つ。勝って、私が間違っていない事を証明させる。

 

 そして、遂に開かれた。

 

『スタートしました!アドマイヤグルーヴ、スティルインラブまずまずの始まりでしょう。先行争いとなりました。まず最初はマネルノサマー。続いてリリーセイホウが続く形となりました。アドマイヤグルーヴは中団に位置し、そしてその前にスティルインラブとなります。』

 

 スタートは問題なし。前回と前々回の反省を活かして、今回は焦ることなく入れた。中団の内側、十分に良い位置に付けている。目の前にはスティルさんの姿。この位置取りは夏合宿でも見たあの光景と同じだ。

 

『まずは第一コーナーへ、各ウマ娘が入りました。最前方にはマネルノサマーとなります。二バ身離れてチューナー。その後ろにリリーセイホウとなります。18人によるウマ娘のレース。スティルインラブがトリプルティアラを達成するか、それとも阻止をするものが現れるのか。』

 

 コーナーを走り終えては、約400mの直線。全てのウマ娘が流れるようにして走り続けている。スティルさんとの距離は大体一バ身半ほど。良い位置に付けた。後方に視線を向ければ、少しずつ距離が縮まってきている。どうやら最後方の子が上がりに来ているらしい。

 

『直線に入りまして、最後方のナイトザトーンが少しずつ上がってきているが果たしてスタミナは持つのか。スティルインラブは中団、そしてその後方に一番人気のアドマイヤグルーヴとなります。最前方にマネルノサマー、彼女が引っ張るような形になっています。』

 

 第三コーナー。背後のウマ娘達が背中に迫り始めている。まだ力を出すのは早い。最終コーナーで一気に抜き去っていく。スティルさんも私と同じようにあの姿を出さずに控えている。そろそろ抜けるために外側へ寄らなければ。

 前回と同じように彼女がそこで脚を進めるならば、問題はない。一度勝っているのだから、絶対に勝てる。私はそう確信していた。

 

『最終コーナーへ入り…スティルインラブが仕掛けました!先に動いたスティルインラブ!アドマイヤグルーヴはまだ6、7番手だ!スティルインラブは4番手に付き、先頭は依然変わらずマネルノサマーだ!』

 

 スティルさんの脚が一気に進んだ。このコーナーで進むなら私も一気に力を出していく。そして嫌でも聞こえたあの声だ。スティルさんのもう一つの姿。あの声を消すように私は強く芝を蹴り上げた。

 

『さぁ、最後の直線だ!マネルノサマーのリードは二バ身ほど!内から!内からリリーセイホウ!だが、外からスティルインラブ!スティルインラブだ!その更に外からはアドマイヤグルーヴ!アドマイヤグルーヴも追い上げる!!』

 

「──────フフフフフ……ッ!!いいわぁ…!!全部…ぜぇんぶ……ワタシにちょうだァァァい!!!!」

 

 直線に入った。残り300m。既にスティルさんの背中は手を伸ばせば掴めそうな程に近い。横を見れば、最前方にいたウマ娘とも並んでいる。何度も何度もあの声を叩き壊すように強く脚を打ち付けた。

 けれど、縮まらない。

 

『最後はこの二人だ!スティルインラブ!アドマイヤグルーヴの二人の争いだ!二人の間は一バ身!残り200m!!』

 

 届かない。何度も脚を伸ばしてもこの距離が変わる事が無かった。

 残り200m。距離は一バ身。脚を動かし、前へ力を出しても縮まらない。

 行くな。行くな。最後のティアラは私だけの物。それを貴方にあげるわけにはいかない。それすらも取られてしまったら──────私は。

 

『スティルインラブ!アドマイヤグルーヴ!スティルインラブ!アドマイヤグルーヴ!縮まらない!一バ身を保ったままスティルインラブが先頭だ!!』

 

 私が勝つ。勝たないと。勝たなければ今まで走ってきた意味が無くなる。

 残り100m。

 まだ、縮まらない。行くな。行くな。早く追いついて。たった一バ身なのに、手を伸ばせば届くのに、無限にも感じてしまう程長い。

 

 行かないで。お願い。私が負けたら、ここで貴方に勝てなかったら、私は一人になった意味が無くなってしまう。脚を伸ばしても追いつけない。

 もう目の前にはゴール板が近づいているのに彼女の脚は私を置き去りにしていく。

 

 このまま彼女が行けば私は────────────私は、何のために?

 

『スティルインラブッ!!トリプルティアラを達成しました!!二人目のトリプルティアラとなりますっ!!聞こえますでしょうか!?京都レース場が湧いております!!スティルインラブ、見事な走りでした!』

 

 ゴール板を走り抜けた瞬間に大量の歓声が聞こえてきた。私ではなく、スティルさんを称える声。その声に彼女は嬉しそうに手を振っている。それだけでまた観客たちが歓声を上げ、そして彼女の名前を呼んでいる。

 私の名前を呼んでる人は誰も居なかった。

 

 誰一人として。

 あの世界が羨ましかった。あの子の走りが羨ましかった。私に無い全てをあの子は持っている。

 

 私の中で、壊れる音が聞こえた。誰にも届かない、氷の壊れた音が。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 レース場は歓声と拍手に包まれていた。ウィナーズサークルで笑みを浮かべながら、そして会釈をしている彼女。全ての喝采は彼女の為に捧げられている。トレーナー用の席からは離れているというのに、耳鳴りがするほど騒がしかった。

 

 アルヴへの喝采は一つも聞こえなかった。唯一聞こえてきたのは神童というには余りにも期待外れ、という声。

 二着。それがアドマイヤグルーヴが最後に得られたティアラの欠片だった。

 

 胸元に寄せていたお守りを強く握りしめた。自分の心臓に震える手を必死になって押さえつけていた。

 視線をコースに向けると、コーナーの手前でアルヴは佇んでいた。一人で芝に視線を向けており、動いていない。直ぐに過ぎったのは脚に何か異常があったのではないか、という不安だった。

 しかし、数秒後には彼女はゆっくりと歩き、そして帰りの道を歩いていた。その歩き方はふらつきながらではあるも、負傷したものではない。

 

「…良かった、怪我をしたわけじゃなさそうだ」

 

 自分を安心させるように呟いていく。彼女を迎えに行くために席から離れては関係者用の通路へ降りていった。少し小走りで向かっていくと、控え室まで続く廊下で彼女を見つけた。

 

「アルヴ!おつか……」

 

 それ以上の声が出なかった。彼女を間近で見た彼女の表情は暗い、という言葉で片付けられなかった。憔悴している、といった方が正しいだろうか。いつもの凛々しさは消えており、体を縮こまらせては怯えているようにも見えた。

 

「……アルヴ?」

「っ、…とれーな……その…」

 

 声をかけると視線は一瞬だけ此方を向けたが、直ぐに逸らしてしまった。彼女に近づいていく中で、自分の背後は多くの記者たちが通り過ぎていく。誰も彼女の為に脚を止めるものは居なかった。

 既に通路には人で溢れ返っていた。口々に聞こえるのはスティルインラブの内容。今の心境は、次走はどうするのか。

 このまま二人で通路に居たとしても邪魔になるだけだった。アルヴの背後に立ち、彼女の背中を支える様に脚を進めていく。

 

 数分もしない内に控え室の前まで辿り着く。レース場ではスティルインラブを称賛する声で溢れ返っており、それがここまで聞こえている。

 

「……まずは…お疲れ様、アルヴ」

「…そう…ね」

「…脚は大丈夫か?」

 

 ゆっくりと彼女は頷いた。その後は口を閉ざしてしまい、何かを話す様子は無かった。こんな時に気の利いた言葉の一つさえ言えれば良いが、如何せん思いつかないものだ。

 

「その、次は…いや、一旦考えるのはよそうか。まずはゆっくり体を休めて、アルヴ」

「…私は、もう……いらない子……なの?」

「えっ?」

 

 思わず聞き返してしまった。その声はあまりにも小さく、弱々しいものだった。アルヴは「なんでもない…」と力なく返すと控え室へ歩き出していく。扉を開けては、脚を一歩踏み入れる彼女。ぱたん、と音を立てて扉は閉じていった。

 

 胸ポケットに手を入れては手帳を取り出していく。中を開いていけば、彼女のために編んだスケジュールがびっしりと書き並んでいた。横線を引いては訂正をし、新しい予定ばかり。

 夏合宿のあの日から、彼女とは距離が離れている。物理的にも、精神的にも。近寄ろうと手を伸ばせば、彼女の氷が拒む様に冷たくあしらう。それが怖かった。

 俺はどうにも怖がりらしい。彼女と微かで、そして余りにも細すぎる縁。その縁が切れてしまわないように近寄ることすらもしなかった臆病者だ。

 

「…俺はどうしたらいいですか…先生」

 

 一人、呟いていく。手帳を胸ポケットに戻そうとしたとき、いつもよりも手帳が薄く感じた。入っている物が入っていないような。

 気になって一番最後のページを開けばそこにはお守りは無かった。自分の胸ポケット、ズボンを触っていくと一つの感触。ズボンのサイドポケットに手を入れると、いつもの感触を感じた。

 指で掴み、取り出していく。薄い青を基調とし、そして二つ小さな輪っかが結ばれたお守り。

 それは皺だらけになっていた。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 夢を見た。

 私に注目し、そして誰もが私だけを見てくれることを。私の頑張りを、勝利を称え、口々に言うのは私だけを見てくれる言葉だった。

 色々な人に囲まれて、私は笑顔を浮かべている姿だった。

 

 それを私は遠くから見ていた。目の前に亀裂が入り、そこには私ではなくスティルさんがいた。手を伸ばそうとしても届かず、彼女の周囲には人が集まり続けていく。走ってその光景に手を掴もうとしても、ただ離れていく。私がそこに相応しくない、というように離れていくばかりだった。

 

 走り続け、最後には脚が止まってしまった。私の周囲にはいつの間にか影が集まっていた。輪郭を帯びず、ぼんやりとした黒いそれら。二本足で立ち、まるで人の様だった。顔も無い、精々違いは背格好だけ。

 周囲を見渡せば、私は囲まれていた。スティルさんとは違い、色鮮やかではなくモノクロだった。

 

『神童って言っても、所詮は井の中の蛙だったか』

 

 声は何処からともなく聞こえてきた。背中を振り向いても、その声が誰が発したのか分からない。また正面を向けば更に声が聞こえてきた。

 

『結局どれだけ頑張っても勝てなきゃ意味無いんだよ』

『色んなトレーナーから言い寄られて…それであのざま?良い気分』

 

 一人、また一人と私の周囲から人が離れていく。今まで私を見てくれていた人たちは、振り向くことは無く、ただ向こうの世界へ行ってしまう。彼女に誘われるように。

 

「待って…行かないで……」

 

 声を絞り出しても、誰も振り向くことは無かった。

 

 最後に残ったのは二つの影だった。見上げていくと、不思議とトレーナーとエアグルーヴさんの形をしていた。二人とも私を見下ろすように視線を向けている。

 

『アルヴ』

 

 その二つの影の声が重なった。更に言葉を続けようとするのが聞きたくなくて、私は耳を抑えながら必死に叫んだ。

 

 目を覚ました。その叫びは現実では発することが無く、荒い息遣いとなって現れた。部屋の中は暗く、カーテンから差し込む光はまだ月明かりだけ。背中と額に伝わるじっとりとした汗。気持ち悪い。真夏かと錯覚してしまいそう。

 時計の針を刻む静かな音だけが部屋を支配している。あと一つ、付け加えるなら同室の子の寝息だろう。

 

「……夢」

 

 自分で確かめる様に呟いた。夢にしてはやけに現実味を帯びたもの。

 時間を確かめると午前5時。これ以上寝るとその夢を見てしまいそうで、私は起き上がった。何をするわけでも無く、ただ寝間着を脱いでは私服に着替えていく。部屋に居ても感じる程の寒さ。それを感じないためにトレンチコートを羽織った。さっきまで流れていた汗はいつの間にか乾いていた。

 

 同室の子はまだ寝ている。このまま学園に向かうのも嫌だった。もし、あの夢が本当になるのであれば私は耐えられない。それならば、最初から一人で居続けよう。一人で走り、そして証明することが出来なかった罰だから。

 

 彼女が起きてしまわないように扉を開けていく。何処へ向かうかは決めていないが、脚だけは良く動いた。寮の玄関から出ていき、外に脚を踏み入れると風が吹いた。その風が体を覆うように当たるも寒さを感じることは無かった。

 風を嫌がることなく、そのまま脚を進めていく。目的地は分からない。

 

 きっと、私を見てくれる人はもう居ない。ならば、このままゆっくりと消えても誰も気にしない。

 一人で証明する孤高はお終い、だから。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 秋華賞から三日が経った。あの日から彼女には一人で考える時間が必要だと思い、一人にさせていた。そして今日はトレーナー室で次のレースに向けた話し合いをする日だ。

 次のレース、それはスティルと同じ路線を走るかどうかだった。彼女は次走でエリザベス女王杯を走る事を決めていた。クラシック世代代表として。

 彼女を好敵手として見ているアルヴがどうするのか。今年はトレーニングと休養に当てるべきか、それともクラシック最後として彼女に戦いを挑むべきか。なのだが──────

 

「…来ない、な」

 

 携帯を確認し、アルヴとのLANEを確認していく。彼女から返信は返ってきているが、約束の時間になってもトレーナー室に姿を現さないのは初めてだった。

 

『今日の16時、トレーナー室に伺います』

 

 壁時計を確認すれば、時刻は16時10分。既にこの場にいたとしてもおかしくはない。LANEで彼女に連絡を一度入れてみるが、それでも既読、という二文字が付くことは無かった。

 そのまま携帯を眺め続け、今度は電話をかけてみる。ぷるるる、というコール音が数度鳴っていく。携帯から聞こえるそのコール音はトレーナー室に響き渡っていた。

 

「……出ない」

 

 最後に聞こえたのは機械音声によるアナウンスのみ。耳から離してはやはり、心配になってしまう。

 何かあったのでは、と。椅子から立ち上がり、彼女を探そうと思うも場所に心当たりが無かった。どうしたものか、と考えている中で扉のノック音が聞こえた。

 

「どうぞ」と声をかければ開かれる扉。そこにいたのはエアグルーヴだった。

 

「エアグルーヴ?どうしたんだ?」

「アルヴは?いないのか?」

「いや、来ていないけど…」

「……そうか」

 

 彼女は目元に指を添えて何かを考えるようにしていた。何故エアグルーヴが来たのか、その理由が分からず俺は尋ねた。

 

「アルヴを探してるのか?」

「そうだ。貴様なら何か知っているかと思ったが……」

「トレーナー室に今日は来るはずだったんだけど…来なくて。俺も探しに行こうかと思ってたんだ」

「あてはあるのか?」

「……いや、思いつかない」

 

 首を横に振っては答えていく。アルヴの居そうな場所。それを考えても全て何処なのだろうか、と疑問に繋がってしまった。

 携帯を手に取り、LANEを確認していく。やはり、まだ既読は付いていない。

 

「彼女に何かあったのか?」

「………待て、まさか貴様は今まで会ってないのか?」

「あ、あぁ…そうだ」

「…そうか…だから…学園にも来ていないのか……」

 

 大きな溜息を吐いていくエアグルーヴ。困ったように数度首を横に振っては、此方を睨むような視線を向けてきた。

 呼吸が浅くなってしまう。心臓を直接掴まれた息苦しさだった。学園にも来ていない、その言葉が届かなくなるほど、耳鳴りがしていた。

 

「アルヴに何があったんだ…?」

「学園に来ていない。私とアルヴは同じ寮でな…この間も部屋に行ったんだが返事が無かった。同室の子にも聞いたが、ここ最近早く外に出ていっては夜遅くに帰ってくる、と聞いたんだ」

 

 所謂家出ではないらしい。だが、朝早くから外に出ていくというのが不思議だった。そして彼女は学園に行っていない。それならば一体何処へ?

 

「誰も分からないのか?」

「だから貴様に聞きに来たんだ。てっきり私は……側にいるものだと思っていたんだがな」

 

 棘のある言葉だった。彼女の言葉は、自分の胸に痛みを感じさせる。続くように彼女は「あそこまで憔悴していたのを見ていなかったのか?」と問い詰めた。

 

「見ていたさ。けれど……あの状況で俺に…」

「ならば、時期を改めて会うことも出来ただろう。何故、会わなかった?」

「それは……彼女にも一人の時間が必要だと思って…」

「たわけっ!!」

 

 トレーナー室にも響き渡るほどの怒声だった。思わず体が震えては、背筋が伸びてしまう。両方の眉が顰められ、そして彼女は脚を進めて近づいてきた。

 お互いの瞳が見つめ合い、その距離は半歩程だった。睨むような視線、それを俺にぶつけながら彼女は言葉を続けた。

 

「何かあった時に支えるのが、導くのがトレーナーの役目だろう。だが、貴様はまるで……傍観者だ」

 

 傍観者という言葉が胸に引っかかってしまった。そんな事はない。彼女を理解しようと出来る限りの事をしている。だからこそ、色々な提案をしたのだ。

 理解をするからこそ、彼女を尊重した。アルヴの提案も言葉も。自分が出来ることは、全て行ってきたはずだ。

 

「俺は……彼女を理解しようと…!」

「ならば何故歩み寄らん」

「歩み寄っているだろう!トレーニングだって───────」

「違うっ!そうではない!」

 

 何が違うのか理解が出来なかった。トレーナーとして彼女に勝利を得させることが出来なかったことか。それとも、彼女に距離を取られたことか。

 

「一つ聞くぞ。あの子の好きなものは一つでも答えられるか?」

「………すきな、もの」

「彼女をもう少し信用して欲しい、と私は言ったはずだ。好きな物以外でもアルヴ自身について、知らないのか?貴様の本音は話したのか?」

 

 予想外の言葉だった。しかし、それに答えることが出来なかった。思い返してみれば、普段の彼女と何かしらで接する機会が少なかった。基本的には何かあるにしても殆どは学園関係の話題とレースの話題。

 私生活の話題は殆どしたことが無かった。彼女は一体、何を抱えているのか分からなかった。

 

 何故、俺は彼女に生き急いでいる、と思ったのだろうか。

 

「…見たことか。それは結局歩み寄っているわけでは無い。だから傍観者だと私は言ったのだ」

「……そう、だね」

 

 強く手を握りしめた。エアグルーヴにスカウトして欲しい、と頼まれ、そしてアルヴと契約を結ぶところまで行った。けれどそこで満足をしていたのではないか。

 新人トレーナーとして、彼女の才能を壊さない様に遠くから見ていただけ。それが今の自分。彼女を理解するのであれば少しでも、何か本当に小さなことでも彼女の壁を壊せたら良かったのに。

 

 彼女を理解していたわけではない。彼女を理解していた()()()になっていた。

 レースについてアルヴと話し合い、そんな少ない接点だけで彼女のことを分かっていた気になっている。だから、アルヴに距離を取られたのだ。変に近づき、そしてただ撫でる様に彼女の心に触れているだけ。

 それが、どれだけ気持ち悪いことなのかは自分が最も知っているというのに。

 

「貴様にスカウトを頼んだ私が愚かだった」

 

 ただ一言、吐き捨てるように告げるエアグルーヴは背を向けてトレーナー室から出ようとした。「待ってくれ」俺は一言だけ、彼女を引き留める様に強く告げた。

 

「…なんだ」

「俺に…挽回の機会をくれないか。必ず、アルヴを導くから」

「……気を引くための言葉では無いんだな?」

「あぁ」

 

 自分自身に誓うように俺は頷いた。

 遠慮をすれば、誰かに近づくことも出来ない。近づかなければ、誰かに寄り添うこともできない。それがどれだけ怖いことなのかは知っていた。けれど、それをしてくれる人が居ない事が、最も怖い事だ。

 

 千切れてしまいそうな彼女との縁。それを俺は見ないフリをしない。

 

「ならば、行動で示せ。…いいな」

「必ず」

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 トレーナー室からエアグルーヴと共に出ていき、向かう先はとある高台のある公園だった。思い当たる場所。それは存在はしていないが、何故か彼女がそこにいる気がしたからだ。

 スティルとアルヴが初めて出会った場所。そして彼女が俺に勝利を得られるか聞いた場所。

 なるほど、どうやらあそこは何かの因果によって引かれているらしい。

 

 もし居なかったら、そんな事を考えている暇は無かった。彼女に会いたくて、彼女と言葉を交わしたくてただひたすらにそこへ向かっていた。

 時刻、16時48分。既に夕暮れ時の時間だった。橙色の光で空は照らされ、風は肌を凍てつかせるほどに冷たかった。まだ10月だというのに、冬の寒さを想起させる。

 

 長い階段を上っていき、あと数段昇れば広場が見える所まで来た。そこで脚が止まってしまった。

 もし、彼女にとっては何でもない場所で、自分の勘違いだったら?

 そうなのであれば、自分は余程な愚か者なのだろう。エアグルーヴの言っていた傍観者、というのがより現実味を帯びてしまう。

 

 胸ポケットから手帳を取り出し、一番最後のページを開いていく。そこに挟んでいるお守り。手に握りしめては、胸に近づけて深呼吸を繰り返した。

 もう、この縁は無くなってしまった。だから、最後に一つだけ願いを込めた。彼女に出会えますように、と。

 

「……罰当たりだな、俺は」

 

 手を開いたお守りは既に皺塗れになっている。いつか無くなってしまう縁が怖くて、そしてそれが消えないようにしていた。

 

 お守りを手帳に挟んで胸ポケットへしまっていく。数段、脚を進めていくと視界は広場を映し始めていく。広場の木の柵。そこには見慣れた姿が居た。深い藍色の膝まで伸びたトレンチコート。そしてその藍色からより鮮やかとなった青色の髪。

 彼女だった。

 

「…よく分かりましたね」

 

 脚を進める前に彼女は此方を向かないまま声を発した。その声はとても冷たく、風に乗って伝わってきた。

 その風は身体を芯から冷やすほどに冷たかった。

 

「アルヴこそ、俺が来るってよく分かったね」

「……貴方しかいないと思ったからです」

 

 脚を進めては彼女へ近づいていく。数歩、進んだ時にアルヴは「それ以上は来ないで」と告げた。彼女との距離はまだ、遠い。

 

「…トレセン学園に…行ってないんだって?エアグルーヴから聞いたよ」

「………走る理由が、もう…ありませんから」

 

 冷たい風だった。秋風ではなく、冬の冷たさ。

 走る理由。彼女にとっての証明は既に終わってしまったというのか。

 

「まだ…来年がある。君の走りは…」

「それだと意味が無いの」

 

 紡ぐ言葉を無理矢理断つような言い方だった。まだ、彼女は向こうを向いたままだ。

 

「証明は…全部終わったのか」

「……えぇ、私はもう…要らない子だから」

「そんなことはない。君の事を待ってる人だって─────」

「いないわよ!!誰も!!」

 

 初めてアルヴが振り向いた。唯一隠されていない彼女の紫の瞳。そこには一筋の小さな雫が浮かんでいた。

 両手を強く握りしめ、そして睨む様に見つめている。敵視した瞳だった。

 

「私は勝たなければ意味が無いの…!勝って…勝たないと私は……私は…っ!」

 

 それ以上の言葉が出ないように、喉から絞り出そうとしていた。苦しそうで、けれど吐き出してしまえば全てが終わりを迎えてしまう呪いの言葉。下唇を震わせ、一度閉じれば、また彼女は開いた。

 

「私はずっと一人だった…誰も…誰も私だけを見てくれる人はいない…!!私が見て貰うためには勝たなければいけないのに…!!」

「それは違うっ!きっと君の事だけを見てくれる人は他に…」

「……いないわ。誰も。私だけを見てくれる人なんて」

 

 首を小さく横に振りながら、視線を彼女は逸らさずに言葉を続けた。

 

「トレーナーには分からないわ。どんな失敗をしても、どんなに挫けても…きっと貴方だけを支えてくれる人が居るはずだから。そんな家族は─────────私にはもう居ないわ」

 

 彼女の言葉に心臓を直接掴まれた。ぽつり、ぽつり、と彼女は小さく話し始めた。まるで過去の自分を嫌うように、嘲笑うように。

 

「施設でずっと過ごしてた。周りの皆は家族がいなくて…私と同じ子ばかりだったわ。職員の人も優しくしてくれた。走って勝つたびに、凄いって言われて。でも……誰も私だけを見てくれる人はいなかった」

 

 彼女の片手が胸元で強く握りしめられていた。何度も喉元が動き、何かを飲み込むことを繰り返している。

 

「昔、聞いたの。私は大事な子?って。そしたらどう答えたと思う?『貴方も大切な一人よ』って……。所詮、多数の一人。そんなのは…偽りの暖かさで……全部、私にとって嘘でしかない」

 

 紫の瞳から雫が流れていく。顔の輪郭に沿うように、そして最後には地面へと落ちていった。

 

「…知ってる?家族ってとても暖かなもので、代わりにはならないわ。どんな事があっても繋がりがあって、そしてずっと見てくれる。一緒に笑って、泣いて、共感してくれる。私は……私も……」

 

 唇を強く噛んだ。自分を包み込む様に両手で己を抱き寄せ、そして震えた唇のまま告げた。

 

「─────────欲しかった」

 

 懇願するように、己にはないものを強請る小さな子供のようだった。

 冷たい風がまた吹いた。遠くからは学園の鐘が鳴っていた。

 

 何故、彼女に生き急いでいると思ったのか。それが理解できた。

 詰まるところ、俺は彼女と一緒なのだ。ここまでの偶然、そして似た境遇。だからこそ、彼女を通して己を感じてしまった。惹かれてしまった。アドマイヤグルーヴという一人のウマ娘の走りが可哀想で、そして冷たい理由。

 

 彼女も家族が居ない。

 

「…アルヴ」

「…………同情なんてしないで。もう、慣れたから。それに…私は……」

 

 彼女に告げるか迷った。けれど伝えなければ彼女は走ることは無いだろう。

 それが果たして正解なのか。彼女を走らせ続けることは果たして、良い事なのだろうか。

 選ぶのはアルヴ自身だ。彼女に選ばせて、彼女に────────

 

 ──────────違う

 それは違う。導くと誓った。支えると刻んだ。ならば、彼女に自分を伝えるべきなのだ。

 自分に似た子を、孤高へ行き付く彼女を支えるのであれば、これだけは否定する。

 アルヴの走りが心配で、そしてアルヴの走りに魅せられてしまった。唯一、他の人とは違う見方をしてしまった男の話を。

 

「俺も…一緒だよ。アルヴ」

 

 その言葉を告げると彼女の目は大きく見開かれた。「おな…じ?」小さな声で確かめるように彼女は呟いた。

 

「俺も…家族はもう…いない。家族替わりだった恩師の人も…亡くなったよ」

「……嘘…嘘よ…」

「嘘じゃない。本当だ。俺も君と同じで…施設育ちだった」

 

 何度も首を横に振りながら、彼女は呟き続けた。その言葉が信じられず、彼女は木の柵に凭れる様にして項垂れた。

 

「…まさか似ている、だけじゃなくて殆ど同じとは思っていなかったけれど」

「…………」

「……夏合宿の時。知りたがっていたよね、俺の過去を」

 

 胸を膨らませる程に空気を吸った。肺の中は酸素で満たされ、そして全てを吐き出していく。誰にも話したことの無い、施設にいた時の頃。

 孤高と孤独が分からなかった、一人の男の話だ。

 

 

 施設に入る前の話だった。両親が居て、幸せな日々を過ごしていた。よくある日常で、よくいる家族の関係だった。大きくなったら何になりたいって答えたのかは、もう思い出せない。それ程までに昔だった。

 

 その家族は壊れることになった。きっかけは離婚だった。何故そこに至る事になったのかは、小さい頃の俺にはよく分からなかった。

 親権は母親へ。母親と一緒に手を繋いで家を出たあの日の手は、とても冷たかった。新しい新居に来てから、母親は変わってしまった。毎日の様に怒り、暴力を振るわれることも多くなった。

 だから、良い子になろうとした。勉強をして満点を取れば機嫌が良くなったから。運動会で一位になれば褒められたから。

 

 そんな生活が続いたある日だった。

 学校から帰ってきたときの話だ。家の鍵を開けて、中へ入ると部屋は明かりだけついていた。

 リビングにはテレビの音が鳴っており、母親は居なかった。いつもであればここに居るはず。部屋を探し回り、最後に向かったのは寝室だった。

 

 そこで見たのは、首を吊ったそれの姿だった。ぷらり、と揺れており、無重力に晒されているような。足元には一つのメモが置いてあった。

 

『息子には疲れました』

 

 それだけが書かれていた。

 

 そこからどうなったかは、よく覚えていない。

 

「それから…施設に行くことになった。その後は今の君の様に…周囲から離れて、誰も信用しないでいた。塞ぎ込んで……誰も俺だけを見てくれない。いや、見ていたとしてもきっとそれは……嘘なんだって」

 

 ぽつり、と零すように彼女に過去を話し始めた。不思議と良く話せた。あまり思い出したくない過去なのに。

 一歩だけ、彼女へと脚を近づけていく。

 

「…それからは……今思えば凄く嫌な人だったよ。周囲を見下して……そして…自分が一番頭が良いんだって。そうすることが一番楽だったから」

 

 アルヴはただ見つめている。お互いの視線を逸らすことなく、俺はただ言葉を発し続けた。橙色に染まっていた空は少しずつ、夜の色を濃くし始めていた。

 

「そんな時に先生…つまり俺の恩師に出会ったんだ。俺の事を凄く気に掛けて…外に出かけないか?と言われても全部無視してたっけな」

 

 自分の手を胸元へ持ち上げては、掌を眺めた。昔握ったあの手は自分よりも大きかった。今はもう、その手は俺よりも小さくなってしまったが。

 

「…一度だけ、上手くいかなかった事があったんだ。小テストで100点を取れなくて…むしゃくしゃして…今思えば余りにも子供だなぁって思うよ」

 

 その時の事だけは嫌でも思い出せる。自分を自分で責め続け、そしてずっと勉強をして。一位でなければ意味がない。一人でも出来ると証明するために、強くあるために。まるで彼女と似ていた。

 いや、それを似ている、というのは余りにも彼女に失礼かもしれない。

 

「馬鹿な話だよ。寝ずに勉強し続けて、最後には気絶みたいな事になったんだ。起きた時に泣けてきちゃってさ。何してるんだろうって」

「…それからどうしたんですか」

「何も。ずっと泣いて、最後にはまた塞ぎこんだよ」

 

 誰も見てくれない事が怖くて、自分が無くなってしまいそうで。こんなにも努力しているのに、誰も見てくれない。それなら、何もせずに何も頑張らずに、期待も想いも夢も全て捨てて、ただ塞ぎこんでいればいい。それが行き付いた結末だった。

 

「そんな時に先生と一度だけ、外へ出かけたんだ。一緒に手を握って。嫌だって言ったんだけれど、半ば無理矢理でさ。でも……それがなんだか安心して…嬉しかったんだ」

「……っ」

 

 アルヴの視線は少しずつ、地面へと向いていった。

 塞ぎこみ、全てを拒絶していた自分に近づいてくれた恩師。俺の話を沢山聞いてくれた。相談にも乗ってくれた。沢山褒めて、叱ってくれた。俺の親代わりではなく、本当の親なのだと。

 

「…先生はずっと見てくれていた。俺の頑張りを。無茶を。それから…色々変わったよ。一人で頑張っても、それは孤高じゃなくて、孤独なんだって」

「…それは……貴方の話でしょう…?」

「そう、これは俺の話。けれど…今の君は凄く、似てるんだ」

 

 彼女も一人で頑張り続けていた。俺やエアグルーヴが支えようとしても、彼女が拒絶してしまう程に。そうなったのは、俺が原因だ。

 彼女の拒絶に恐れてしまい、その拒絶に手を伸ばすことが出来ず、最後の細い糸を繋ぐだけで満足していた。

 

「私に…どうしろっていうの……もう、嫌よ…。一人で走って勝てないなら、このままずっと…」

「俺がいる。君を一人にさせない」

 

 脚を踏み出した。その音に彼女の瞳は見開いていき、彼女はその音を聞きたくないようにウマ耳を絞り始めた。

 

「…アルヴには昔の俺になって欲しくない」

「……いやよ…」

 

 また、一歩足を近づけていく。脚を一歩ずつ進める度に、彼女は何度も首を横に振って拒絶を繰り返した。もう、その拒絶を無視はしない。見ないフリも、近づかない事もしない。

 

「俺は君の頑張りをずっと見ていた。どんな時も、アルヴを第一に考えていた」

「…やめて……いや…」

 

 彼女の脚が下がろうとした。けれど、それは木の柵に阻まれてそれ以上は下がる事が出来なかった。脚を進める度に、彼女の拒絶が体に刺さる。小さな針で何度も。

 

「レースで負けても、俺はアルヴを見捨てることは決してしない」

「……近づかないで………っ」

 

 アルヴの前に立ち、彼女は視線を下に向けたままだった。小さな声で彼女は零し続けている。誰も近寄らせない、一人で居たいという彼女の棘。

 片膝立ちをし、彼女の両手を包み込む様に握りしめた。息を飲む音が聞こえる。

 顔を上げるとアルヴと視線が絡み合った。彼女の瞳は揺れており、何も捉えることの出来ない鏡のようだ。

 

「アルヴ。俺は…ただ助けたいから、自分と似ているから君をスカウトしたわけじゃないんだ」

「……………わた、し…」

「君の走りに一目惚れしたから。スカウトしたかった理由の一番は…それなんだ」

 

 アルヴの瞳が大きく開いた。静かだった彼女の呼吸は聞こえるほどに荒れ始め、唇を噛みしめ、何度もそれを繰り返していた。

 

「俺は君の担当トレーナーだ。だから、もう逸らさない」

「─────────とれー…な…」

 

 か細い声。彼女の瞳からは絶え間なく零れていく。アルヴの誰にも近寄らせないという棘の氷は融けていき、それは暖かなものとして流れ始めていた。

 

「…ずっと…ずっと……寂しかった…。誰も…私だけを見てくれる人は…いなくて……」

「…うん」

 

 ただ、頷いた。

 

「怖かった……っ。強くなかったら…見てくれない……弱かったら…誰も私を……」

 

 彼女の手に力が込められていく。手は震え、その力はまるで縋るようだった。離れないで欲しいという、彼女の小さな心だ。

 

「…一人で……強ければ証明できる、のに…私は………勝てなくて…」

「…俺の方こそ、ごめん。アルヴともっと話し合えば良かった。アルヴに…辛いのを背負わせて…ごめん」

「……わたし…っぁ……」

 

 アルヴはそのまま崩れる様に座り込み、ただ嗚咽を漏らし始める。俺の手を額に当てては、何かを祈るように。彼女はそれ以上語る事はしなかった。

 アルヴが押さえていたものが、今まで誰にも語ることの無い彼女の悲鳴が零れ続けた。

 

 

**

 

 

「落ち着いた…かな?」

「はい…もう、大丈夫です」

 

 あれから数十分が経った。今は二人で広場の木製ベンチに座り、木の柵の向こう側に広がる光景を眺めている。二人の手には小さなペットボトルのお茶。まだ暖かく、それに口を付けて飲んでいくと白い吐息が漏れた。

 

「…スティルの次走は聞いたか?」

「聞きました。エリザベス女王杯だと」

「……アルヴはどうしたい?」

 

 アルヴの視線は一度落ちていき、手に持っているペットボトルへ向けられた。ゆっくりと閉じていく瞼。何度か頷くように、彼女は己の中で何かを噛み砕いていた。

 

「…走ります。今度は一人でも強いとか、そういう証明ではなく……ただ…」

「ただ…?」

「私がスティルさんに勝ちたいから」

 

 真っすぐに視線を向ける彼女の表情は柔らかい。直ぐに此方に首を小さく傾けては見つめてきた。

 

「だから、これからも宜しくお願いします」

「…あぁ、彼女にリベンジをしよう。このまま負けっぱなしも悔しいし」

「えぇ、そうね」

 

 そう言ってアルヴは頷いた。今までの彼女から感じていた冷たさ。それらは消えたわけでは無いが、何処か暖かさに似たものを感じる。氷の様に冷たくも、それは嫌なものでは無かった。

 遠くに見えるトレセン学園。そこからは鐘の音が良く聞こえた。

 

「…風が気持ちいいな」

「……本当に」

 

 高台の広場であり、周囲には壁も何もない。この時期ならばむしろ寒いと感じるのに。

 手に持っている暖かいお茶のお陰だろうか。心地よく感じ続けたくて、また一口飲んでいく。彼女も同じように口に付けては、二人して飲み込んだ後に息を吐いた。

 

「アルヴ」

 

 俺は彼女に体を向けては名前を呼んだ。それに反応するようにアルヴは小首を傾げ、見つめ返してくる。彼女の瞳には自分の姿が反射していた。

 

「明日、トレーナー室に来て欲しい。エリザベス女王杯に向けて君と話したい」

「…えぇ、分かったわ」

 

 こくり、と頷きを見せたアルヴ。その言葉はしっかりと芯を帯びており、彼女の目には闘志が宿っている。スティルに勝つためには戦略を変えなければいけない。明日、彼女が来るならばそれに向けて研究をする必要がある。

 ベンチから立ち上がり「俺はトレーナー室に戻るけど、アルヴは?」と尋ねた。

「もう少しここにいるわ」そう返す彼女に背を向けて歩き出そうとすれば「待って」と制止される。

 

 その声に振り向いていくと、座ったまま彼女はゆっくりと体を向けてきた。

 

「…今日は……ありがとう。その……トレーナー………さん」

 

 彼女からのお礼の言葉だった。徐々に声が小さくなっていき、最後に聞こえたのは普段聞くことの無いさん付け。その声は柔らかで、いつもの彼女とは違うものだった。夜の色に染まる空とは違い、彼女の頬も何処か仄かに染まっていた。

 

「……珍しいね、まさかアルヴからそんな風に言われるなんて」

「………もう言わないわ。私らしくないもの」

「はは、そっか。でも…俺の方こそありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」

 

 そうして彼女はまた、向こう側へ視線を戻した。ぱたり、と彼女のウマ耳が何度か揺れている。思わずそれに笑みを零してしまった。

 

 脚を進め、階段を下っていく。エリザベス女王杯まで一ヵ月もない。この少ない時間で出来ること全てを彼女に捧げると誓いながら、脚を進めた。

 

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 エリザベス女王杯。シニア級におけるティアラ路線の一つであり、最も強い女王を決める最後のレース。トリプルティアラを掴んだスティルインラブ。そして、常に一番人気でありながらも辛酸を舐め続けたアドマイヤグルーヴ。

 クラシック世代最強の女王がシニアすらも圧倒するのか、それともシニアの意地を見せるのか。

 

 今日の声は殆どがそれで占められていた。

 

「…さて、今年最後のレースになるけれど……今の気持ちは?」

 

 ぱんっ、とトレーナーが大きく手を叩いく音がレース場の控え室に響いていく。私は何度か確かめる様に膝を曲げて、そして足首を回した。

 

「特に。いつも通りよ」

「よし、じゃあ最後のおさらいをしようか」

 

 控え室の中央にある机。そこにタブレットを置き、お互いに対面になるように立っていく。タブレットに映るのはレースの画面。その画面に彼は指をさしながら説明を始めた。

 

「今回のレースで一番の注目は言わずもがなスティルインラブ。彼女だ」

「…確か仕掛けをいつもより早くする、のが今回の作戦ですね?」

「そうだ」

 

 トレーナーはタブレットを操作しながら更に情報を見せていく。トリプルティアラの各レース、それを見せながら彼は続けた。

 

「いずれも共通して負けた方程式がある。それはスティルが先に仕掛けることだ」

「……それで今回は早く、つまり最終コーナーへ入る直前に仕掛けるんですよね」

 

 そう告げると彼は頷きを見せた。更に見せるのはトリプルティアラの上がり三ハロンの記録だった。

 

「スティルと君の記録を調べたんだ。最後の上がり三ハロン。オークスだけ別だけど、桜花賞と秋華賞に関しては君が勝っている。とはいえ、微々たるものではあるけれど」

「上がりが同じであるからこそ…」

「そう、早く仕掛ける。スティルのもう一つの姿。あれが恐らく彼女の強さの原動力だ」

 

 そしてタブレットはまたコース場へ。想定されたレースで私とスティルさんのコマが動いていく。スティルさんが前、私は背後に位置していた。

 

「最終コーナーは1550m。ゴールまで残り650m。ここに入る直前で一気に前へ出ていき、スティルに差を付ける。今までは追う形だったけれど、追われる形だね」

「前へ出れば……そのまま末脚を使い、距離を縮められないようにする…」

 

 口元に指を添えては、自分の中で噛み砕いていく。トレーナーの言った言葉を理解し、そして自分が走るとしたらどうするべきなのか。何度も何度も咀嚼し、頷いた後に「いけるか?アルヴ」と彼は聞いてきた。

 

「問題ないわ」

 

 その答えに彼は頬を緩ませた。

 元々この話自体は今日のレース前からエアグルーヴさんと私、トレーナーの三人を交えて話し合っていた。エアグルーヴさんはあくまでアドバイザー。実際に走った感触なども教えて貰い、エリザベス女王杯に向けて実際の距離も考えながら併走もした。

 必ず走った後には私とトレーナーの二人で反省会。走った時に考えたこと、どうすればスティルさんに勝てるのかそれらを毎日のように考えた。

 

「今日のレースの事を色々考えたけど…俺ができるのはここまでだ」 

 

 タブレットの電源を押し、画面が暗くなる。それを手に持ったトレーナーは鞄の中へとしまい始めた。私はその言葉が理解できずに「どういうこと…?」と尋ねていく。

 

「どれだけ知恵を絞っても、最後は気力勝負なんだ。アルヴが早仕掛けをするからこそ…スタミナが持つかの心配もある。実際に追いつかれないのか?という心配もね」

 

 彼の表情は何処か心配そうに眉を近づけていた。

 どれだけ考えても、どれだけ努力しても勝てない世界はある。それを彼は分かっているのだ。

 

「戦略、というのはあくまで勝つための確率を上げたり…きっかけにしかならない。だから…最後はアルヴ次第だよ」

 

 脚が竦めば、前へ進めなくなってしまう。勝負を恐れると今度は並び立つことすらも許されなくなる。この作戦は私にとって初めて。今までスティルさんのあの姿を追っていただけ。

 初めて、追われる。あの狂気に飲み込まれないように走れるのか。それが唯一の課題だった。

 

「…えぇ、そうね。私次第だわ」

 

 数秒だけ目を閉じてはゆっくりと頷きを見せた。静かな無言の時間。針が動いている音だけが良く聞こえた。

 勝ちたい、その闘志だけで私は今動いている。今までは私自身の証明のため。けれど今は勝負に勝ちたいという欲求のみ。

 このまま負けっぱなしは、私の性に合わないから。

 

「アドマイヤグルーヴさん、準備をお願いします」

 

 扉の向こうから聞こえてくるスタッフの声。それを聞けば私は扉へと歩き出した。

 

「アルヴ」

 

 彼の声が聞こえ、私は扉のノブに手を添えて止まった。

 

「頑張って」

 

 一度は拒絶したその声が聞こえた。扉のノブを掴んだまま、私は動けなくなってしまう。今度は心配そうに「アルヴ?」と尋ねることが聞こえた。直ぐに自分の思考に血が巡り、そして扉を開けていく。

 脚を通路へ一歩、踏み出しては私は彼の方に振り向いた。

 

「頑張るから。見てて、トレーナー」

「…!あぁ、見てるよ」

 

 驚いたように彼は瞳を大きくした。しかし、それは直ぐに細めては嬉しそうにしていく。私自身も頬が緩んでしまっていることに気づいた。少しだけ引き締め直していく。扉を閉めるとき、私は彼の姿が見えなくなるまで控え室を見つめ続けた。

 

 通路を歩いていき、パドックへ出ていくと歓声が聞こえた。私は確か、二番人気だったはず。まだそれほどまでに期待されていることに少しだけ胸を撫で下ろした。

 パドックの中央に立ち、私は一つ会釈をする。ぱちぱち、と拍手が響くのが聞こえた。頭を上げると視界の隅には同じく通路から出てきた彼女。彼女の姿が見えるだけで観客席は湧き始めた。

 

「スティルー!!」

「頑張れー!スティルー!!」

 

 会場はスティルインラブ一色に染まり始めている。彼女のグッズを持っている人も何人か見えていた。中央から私は下がっていき、入れ替わるようにしてスティルさんが入っていく。彼女が手を振れば観客も手を振り返し、また歓声が上がる。それ程までに期待されているのだろう。

 

 自分の掌を握りしめ、それを胸元に持っていく。何度か深呼吸を繰り返し、心を落ち着けていく。焦れば負ける。相手を意識しすぎて力んでしまうのが私の弱点。

 私には私だけを見てくれる人が居る。でも、それでも負けたくない。

 目を瞑り、体中の隅々に冷たい空気を行き渡らせる。心の奥底にある氷を尖らせ、そして冷たさを帯びさせる。誰にも触れさせないように。目を開けて少しだけ見渡すと、観客席の上の方。

 

 そこにはトレーナーとエアグルーヴさんが居た。二人で私の方を見ており、自然と視線があってしまう。彼が手首だけを動かして手を振っているが、それを振り返さない。だけど、その姿を見てしまうだけで、妙に落ち着いてしまった。

 

 その後はゲートへと案内され、各自軽いストレッチをして入っていく。私はスティルさんへ近づいていった。

 

「アルヴさん…?どうされたんですか?」

「…勝つわ」

「えっ?」

「今日は、貴方に勝ちに来た。だから、女王の座はこれ以上…譲らない」

 

 つくづく私は不器用だ。やはり、意識をするな、と思えば思う程に彼女を思ってしまう。だからこそ、こうやって意思表明をしてしまう。

 スティルさんは私の言葉に驚くも、直ぐに目元を細めた。

 

「それは……どちらの(ワタシ)…?」

 

 細められた瞳から妖しく光る紅い瞳。片頬に手を添えて見つめてくる彼女のそれは、あの時初めて会った捕食者と一緒だった。

 始めて見たあの日は脚が動かなくなってしまった。けれど、今日は動く。私は一歩踏み出して距離を近づけていく。

 

「どちらにも、勝つわ」

「…っ!………ふふっ…あははは…ッ…」

 

 おかしく笑いだす彼女。うっとり、と恍惚に、ただ私を見ながら口角を上げている。

 ご馳走を見つけた純粋無垢な瞳だ。

 

「…良いわ……今が…一番、とても…ッ!──────美味しそう」

「…やってみせなさい」

 

 互いにゲートへ入っていき、そして閉められていく。どうやら私とスティルさんが最後だったらしく、他の閉まる音は聞こえなかった。

 

『本日はクラシック級のウマ娘が人気を集めております。スティルインラブ、一番人気。アドマイヤグルーヴが二番人気、三番人気にはシニア、ローズポーラとなります。スティルインラブがG1を四連勝するのか。はたまた誰かが止めるのか、非常に楽しみなレースです』

 

 静かだった。観客もレースを走るウマ娘も全員がただ固唾を飲んでいる。ごくり、と唾を飲み込む音と同時にゲートが開いた。

 

『スタートしました!本日、15人によるウマ娘のレースとなります!綺麗なスタートとなりました。まず最初はショウバンバートです。逃げる逃げる!続いて、ヤマノサリーになります。中団にスティルインラブ、内側になります』

 

 走り出しは順調。私はいつもの様にスティルさんの背後に付き、そして伺っていく。どうやら前の方がかなり早く走っているよう。あの走りではいずれは潰れてしまう。ここは焦らずにじっくりと脚を溜めないと。

 

『アドマイヤグルーヴはスティルインラブの一バ身後方にいます。淀みのない走りを見せております。既に第一コーナーから第二コーナーへ。最前方はトゥデイサマー、五バ身開いてショウバンバートとなります。かなりの縦長、縦長です。非常に大きく開いています。』

 

 スティルさんを視界に捉えながら走っていく。既にコーナーを終えており、見えている直線は大きく開けている。恐らく、先頭とは十バ身近く離れている。かなりの大逃げ。あそこまでのハイペースであればむしろ私達の脚質であれば嬉しいほど。

 必ず、何処かで潰れる。そこに私は狙いを定めた。

 

『中団にスティルインラブ、そしてその後方にアドマイヤグルーヴです。更に後ろにはカラットエコー、並ぶようにリアルヘヴン。坂の頂上を昇っていき、トゥデイサマーとショウバンバートの差はいつの間にか無くなっており、殆ど横並びになります』

 

 私の背後には離れておらず、皆余力を残している。坂を上り切り、残りは下っていくだけ。坂が終わるこの瞬間。そこが最終コーナーと第三コーナーの切り替わる丁度手前。

 ここだ。ここで私は力を出す。

 

『最前方は三人のウマ娘で固まっています。差がついてヤマノサリーがここにいる。更にその後ろにスティルインラブ!並ぶように外側アドマイヤグルーヴが走っている!さぁ、第三コーナーが終わり、最終コーナーへ全てのウマ娘が入っていくぞ!』

 

 脚を踏み出し、そして坂の下りが消えた。

 ─────────ここっ!

 

『アドマイヤグルーヴ!アドマイヤグルーヴがスピードを上げた!アドマイヤグルーヴが抜けてスピードを上げてきた!外側からアドマイヤグルーヴ!最終コーナーを終えて、一番前はヤマノサリー!各ウマ娘も上がってきている!』

 

「…アハハハハッ!いいわ…!追ってあげる…!!楽しませて…!私に貴方の足掻きを……!喰らわせてェェェェェェ!!!」

「っ……いいわ、来なさい…!!」

 

 背後から感じる重圧。今まで感じたことの無いほどの恐怖。これが追われる立場。

 必死に脚を前へ進めていく。逃げるために進めているのではない。私が勝つために、私が貴方に勝ちたいから前へ立った!

 

『大外からアドマイヤグルーヴ!アドマイヤグルーヴだ!先頭はヤマノサリー!アドマイヤグルーヴの内側、スティルインラブ!スティルインラブだ!並んだ!二人してヤマノサリーを抜き、どちらとも譲らない!』

 

 視界の端に彼女がいる。私と変わらないほどの距離。並んでただ脚を進めていく。

 お互いの呼吸が、目線が、唾液を飲む音が聞こえる。観客席からは大きな歓声が上がっているのに、それがウマ耳に入らないほど静か。

 あと、200m。

 

『アドマイヤグルーヴ!スティルインラブ!並んだ並んだ!!三番手はヤマノサリー…いや、カラットエコーも上がってきている!しかし!!最後はこの二人だ!!アドマイヤグルーヴ!スティルインラブ!!』

 

「…っ…はぁぁぁぁ!!」

 

 雄たけびを上げながら、最後の力を振り絞っていく。脚が痛い、走れば走るほどに肺から息が漏れていく。息を止めながら必死に走り続ける。あの声が聞こえないほど強く叫んで、必死になって腕を動かして、足掻きながら、みっともなく走り続けた。

 残り、50m。視界の端にはスティルさんが見える。勝ちたい、たったそれだけを祈って走り続けてる。もっと動け、もっと前へ体を出せ。

 

 ゴール板を通りすぎる瞬間、隣から声が聞こえた。

 

「─────────────ご馳走様」

 

『アドマイヤグルーヴ!!アドマイヤグルーヴが一着です!!スティルインラブは二着となります!四連勝を止めたのはアドマイヤグルーヴ!遂に、遂に女王の座を手にしました、アドマイヤグルーヴ!!』

 

 少しずつ脚を緩めていく。ピタリ、と動きが止まればさっきまで聞こえなかった歓声が、私を呼ぶ声が聞こえた。

 

「……っはぁ、…勝った…?」

 

 自分が勝ったことも分からず、ただ茫然としていた。息も乱れながらに向けるのは掲示板、そこには私の番号が一番上に書かれていた。

 

「……勝った…のね…遂に…」

 

 脚の力が抜けそうになる。今までで一番消耗したかもしれない。それ程までに体が疲れていた。

 草を踏み分けて近づく音。その音に乗るように「アルヴさん」と彼女の声が聞こえた。

 

「おめでとうございます。…完敗、ですね」

「…いえ、まだよ」

「…まだ……?」

「これで二勝、三敗。貴方に勝ち越すには…まだ足りないわ」

 

 スティルさんのウマ耳がぴんっ、と跳ねていく。そして直ぐに力が抜けていき、瞳を細めていった。彼女の呼吸が大きく吸われては、眉を下げていく。

 

「…困りました、ね。私は……」

「スティルさん。私は…貴方に勝ちたい。何度勝負をしても…勝ちたいわ」

「……私もです」

 

 彼女は両手を胸元に持っていき、強く握りしめ始める。その手は震え、口元も強く結ばれていった。小さな頷きを数度繰り返し、私を見る瞳は誰も映していなかった。

 

「……ありがとうございます。また、機会があれば」

「えぇ、私はもう…迷わないわ」

 

 初めてのG1勝利。初めて力を合わせての勝利。私にとって余りにも大きく、余りにもこれからを一変させてしまうほどだった。ウィナーズサークルへ歩き出せば聞きなれた声。その声はトレーナーとエアグルーヴさんだった。

 私に手を振っており、二人とも嬉しそうに微笑んでいた。勝てて良かった。初めて勝てたことが嬉しいと、そう思えた。

 

 

**

 

 

 ウィナーズサークルでインタビューを終え、ライブも終えた。控え室に帰るなり、私は二人に迎え入れられ、とにかく褒められた。今まで浴びせられた経験が無いほどの賞賛。それがむず痒く思えてしまう。

 服を着替えてトレセン学園の制服へ。エアグルーヴさんは先に帰る、とのことで今は私とトレーナーが二人で控え室にいる。

 

「脚は大丈夫?少しふらついていたけど」

「問題ないわ。少し疲れてるだけ」

「寮に帰ったら必ずマッサージをしてね。後はお風呂にゆっくり浸かるとか」

「もう、過保護ね」

 

 あはは、と彼は苦笑いを浮かべていた。その心配も素直に受け入れられない自分に同じむず痒さを感じた。

 荷物を整えては後は帰るだけ。二人で控え室を出ていくとレース場へ繋がる通路には白い光が差し込んでいた。どうやらまだ照明がついているようだ。

 

「…トレーナー」

「どうした?」

 

 いつもは彼にお願いをする事なんてない。お願いは私にとって弱みを見せるのと一緒だったから。だから、これは今日勝った自分へのご褒美。そう決めつける。

 

「少しだけ…レース場に行ってもいいかしら?」

「……あぁ、いいよ。行こうか」

 

 通路を歩く二つの音。私とトレーナーの足音だけが響いている。さっきまでの熱量は何処へやら。レース場は静かで、そしてその光景をただ映しているだけに過ぎなかった。

 通路を抜けて、脚を芝の上に踏ませていく。くしゃり、と潰れる芝の感覚。その踏みつぶしていくのが気持ちよくて、また潰していった。

 

「珍しいね」

 

 トレーナーの声が聞こえた。私と彼の距離は離れている。数歩程度の距離。その距離がとても広く感じて、私は一歩だけ前へ踏み出した。

 

「…何が?」

「今日のアルヴは…とても気分が良さそうだ」

「……そう見えたの?」

「そう見えたよ」

 

 そこまで子供のようにはしゃいでいたのだろうか。少しだけ気恥ずかしさが出てしまう。それ以上は踏み潰すのを止めて、脚を止めた。

 

「デビュー戦や若葉ステークスで勝った時、君はあんまり喜んでなかったから」

「…そういえばそうだったわね」

「わざわざレース場まで行きたいって言って、足取りも軽やかだから。だから…良かったよ」

 

 それを言いたいのは私の方だった。トレーナーが私を見捨てずに、エアグルーヴさんも協力してくれたから勝てた。初めて三人で協力したことによる勝利。

 いつもだったら私はきっと言い訳をしていた。けれど、今日は違う。はっきりとこれだけは言える。だから、言い訳も否定もしない。

 

「…来年……」

「…ん?」

 

 それ以上の言葉を出そうとすると喉が引っかかるように出てこなかった。いつもは出さない、私の本音。触れようとすれば、氷に隠すそれが思わず出そうになった。

 直ぐに飲み込んで消化をする。氷を溶かし、私を伝えるために。

 

「…来年はシニア級ね」

「そうだね、強豪ばかりだ」

「きっと……スティルさん以外にも強いウマ娘は沢山…。だから……」

 

 言葉を溜めた。数秒の沈黙。唇を一度結び、ゆっくりと開いた。

 

「勝ちたい。負けるのは悔しいから」

「………あぁ。君の期待に必ず応えてみせるよ」

 

 トレーナーの眉が動き、直ぐに緩んでいく。彼が一歩踏み出し、お互いの距離はあと二歩。それ以上は進めなかった。これ以上進んでしまえば、まだ私は耐えられそうにない。だから、少しずつで良い。

 彼もそれを理解してくれている。

 

「…トレーナー」

 

 あの時の私は間違っていた。全て一人ですることで勝てるのだと、そう思い込むことで楽になろうとしていた。その道は楽でもなく、逃げることも出来ない茨の道。塞ぎこんでは自分を苦しめるだけの牢獄になる。

 

 その牢獄から手を差し伸べてくれたのはトレーナーだった。もし、彼が居なければ今の私はどうなっていたのだろうか。

 レースを止め、トレセン学園を退学していたかもしれない。そのままただ一人で閉じこもり、最後には誰にも知られずに死んでいたかもしれない。

 もしかしたら普通の道を歩んでいたかもしれない。レースとは関係なく、ただ一人普通の女性として。

 

 どれを考えても全ては架空の世界。だけど、私は今の世界を選んで後悔はしていなかった。

 今まで誰かと繋がる事を拒絶していた。彼の事を認めず、彼のせいだと決めつけていた愚かな私。彼だけではない。全てに対して。これは決意表明。もう、疑うことは決してしない。

 そして、少しずつ私は変わりたい。その願いだ。

 

「……貴方を信頼しますから」

 

 小さく呟いたその声は、夜の風と共に消え去っていった。いつも吹いている秋風にしては何処か、暖かった。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 本日、雪模様。空は灰色の一色に染め上げられ、そして落ちる白い結晶達によって町は彩られていた。ホワイトクリスマスである。

 今日はトレセン学園でクリスマス会が行われており、そこでは食事やダンスパーティーが広げられているようだ。ウマ娘だけではなく、トレーナーも集まってその場に参加することも可能、とのこと。

 

 なのだが、現実は哀しいかな。生憎この日は仕事納めであり、俺がクリスマスに見ている物は豪華な料理ではなく書類の山だった。

 アルヴがエリザベス女王杯に勝利した後、今年は休養とトレーニングに当てることにした。彼女には無理な走りをさせてしまったため、出来る限り休んで貰うことにした。トレーニングをすることもあるが柔軟とプールに留めている。

 

 では、何故そんな状況で書類の山たちと戦うことになっているのか。

 アルヴがエリザベス女王杯に勝利した後にひっきりなしにインタビューやスポンサー関連の依頼が飛んできたのだ。神童と呼ばれ続けた彼女が遂に勝利を得た。これからはティアラ路線はスティルとアルヴの二人が引っ張っていくのだと。

 

 更に重なるのは来年に向けた申請だ。シニア、となれば先を見据えたトレーニングがより重要になってくる。クラシック級では主に殆どのウマ娘がトリプルティアラか三冠ウマ娘、このどちらかを中心に備えてくる。

 シニア級になればG1のレースは更に増えてくる。春だけでも、大阪杯、宝塚記念。ヴィクトリアマイルと言った強豪との戦い。秋になれば天皇賞秋、ジャパンカップ。エリザベス女王杯も本当であればここに入ってくる。

 

 その今後を見据えたスケジュール立てとインタビュー関連の内容の精査、そして資料の作成。

 インタビュー関連は彼女自身はあまり受ける気は無さそうなのだが、エアグルーヴからは『ファンあってこそのウマ娘だ』と言われている。

 彼女にとって負担にならないものを。後は出来る限り時間を使わないものを。時間を使えば、トレーニングの時間は短くなり、そしてアルヴへの負担も増えてしまう。

 契約の内容を見たり、いつの日に実施するのか、というのを一つ一つ確認しているため時間がかかる。ある意味、彼女が注目されているから有難い事ではあるが。

 

 これがトレーニング指導と合わせて行うため、中々時間が取れないのだ。

 

 遠くから聞こえてくるクリスマスパーティーの音色。それを彩るような笑い声。少しだけ参加出来たらな、なんて事を考えてしまった。

 

「…集中できてないなぁ」

 

 一人で呟いては空を仰いでいく。上を見た所で白い天井が待っているのみ。上を見つめながら、とあることが思考を過ぎらせた。

 

──────────アルヴはどうしているだろうか。

 

 彼女はこういった催し物に参加をするのだろうか。ドレスパーティー、彼女が着用するのはどんなものなのか、はたまた誰と行くのだろうか。楽しめているのか。

 彼女の心境に変化があり、楽しめているのであればそれで良かった。

 

「…いい加減始めるか」

 

 パソコンに向き合い、キーボードに指を添えては叩こうとする。その時だった。

 携帯が震える音。そして画面にはLANEの通知だった。それに手を伸ばしては内容を確認するとアルヴからの連絡。

 

『今、時間はあるかしら』

 

 たったそれだけ。余りにも端的な内容だった。LANEを開いては既読を付けていく。

 時間はあるにはあるが、多くは無い。けれど彼女から聞かれることは珍しい。何かの相談であるなら時間は幾らでも空けよう。そう思い『あるよ。どうかした?』と返した。

 既読が付き、数分後に最新のメッセージが来た。

 

『学園にいるから。トレセン学園のホール前。そこで待ってるわ』

 

 ホール前。何故わざわざそこで待っているのだろうか。確かクリスマス会は食堂で行われているはず。そこからは離れており、指定された理由が分からなかった。

 とはいえ、呼ばれたのも事実。彼女に会いに行こうと携帯と鍵を手に取り、ポケットへしまっていく。コートハンガーから自分のコートを手に取り、それを羽織りながら廊下へと出ていった。

 廊下は身震いするほどに冷えていた。思わず両手を擦り合わせてしまう程だ。

 アルヴが玄関で待っているのであれば、早く行かなければならない。少しだけ早足で廊下を歩いていく。暗く静かな世界。自分の足音と遠くからパーティの音が聞こえる。

 

 息を吐けば白く浮かび上がっている。少々の早足はいつの間にか、小走りへ変わっていた。階段を降り切り、向かうのは非常口。既に他の玄関は閉じてしまっている。ここから出て、後はホールの玄関前まで行けばいるはずだ。

 ホール前へ歩いていくも彼女の姿が見えなかった。玄関前には柱が4本。その4本が支える様に屋根を作っている。

 既に彼女は居てもおかしくはないはず。姿が見えないとなればその柱に隠れては、風を凌いでいるのだろう。

 

 数歩、歩いていくと「止まって」と声が聞こえた。アルヴの声だった。

 彼女の姿は見えないが、柱の裏から聞こえている。

 

「…えぇっと、来たけど……何かあったのか?」

「……その、ごめんなさい。やっぱり、何でもないから…」

 

 いつも聞いていた声よりも調子の落ちているもの。申し訳なさを含んでいる声色だった。

 

「何もないのに…呼んだのか?珍しいね」

「ち、違うわ。いえ、違わないけど………」

 

 更に慌てる様に彼女は言葉を続けた。その後は何も喋る事がない。何かあったのか心配になってしまう。そんな胸騒ぎを覚えた。

 

「大丈夫か?」

「えぇ…大丈夫。………トレーナー…」

「…?」

「……今の私を見て────────怒らない?」

 

 首を傾げてしまった。何に対して怒る理由があるのか。それに彼女の姿は見えないため、怒ろうにもどうやってすればいいのか分からなかった。

 

「怒らないよ」

「……本当に?」

「本当だ」

「…………そう」

 

 小さな息を飲む音。ゆらり、と柱から一つの影が見えてきた。歩くたびに、彼女の輪郭は徐々に鮮明になっていき、その姿を現した。

 

「────────っ」

 

 声が出なかった。今の彼女を形容する言葉はどうにも表せない。俺の表情はどんな風になっているのかも、分からなかった。言うのであれば時間が全て止まっている。それが正しい。

 

 アルヴは足首まで伸びた淡い紺色のドレスを着ていた。腰に結ばれた蝶々結び、彼女の右肩から斜めに沿うように白い雪の結晶が散りばめられている。手首にはシルバーのブレスレットが巻かれていた。小さなハートも添えられた可愛らしいものだ。

 そして彼女の目元。ダークブラウンのアイラインが目頭から瞳の上までは強調するように太く引かれ、そこから目尻までは細く、最後には跳ね上げられている。

 

「これはその…エアグルーヴさんに……パーティに出るならメイクぐらいはしろ、と言われて」

「あ…あぁ…」

「本当はするつもりは無くて。それで…軽くして貰い……」

 

 何かを言い訳するように彼女は矢継ぎ早に言葉を並べている。

 その言葉達はどれも全て耳から抜けていってしまう。僅かな雲から差し込む月明かり、そしてパーティ会場からの光がドレスに反射し、彼女を神秘的に照らし出していた。

 

「……トレーナー室に電気が付いていて…一人だけこんな事をして……怒らないかと思って」

「………」

「…トレーナー?」

 

 彼女に声をかけられては意識を取り戻した。直ぐに頷きながら「な、なるほどね。そんなことでは怒らないよ」と必死に首を横に振りながら答えた。その様子に彼女はすぐにほっと胸を撫で下ろしていく。

 

「もしかして…見せてくれるために?」

「………まぁ、そうね。エアグルーヴさんに…どうせなら見て貰えって……」

 

 彼女と視線が合い、そして顔を逸らされてしまった。片腕で己を抱き抱える様にした彼女は瞳だけを此方に向け「…似合いません、か?」と尋ねるとまた瞳は下を向いた。

 似合わない、そんな事はあり得ないだろう。彼女の姿は余りにも似合いすぎている。心を奪われ、目を逸らすことも許されないほどに。

 

「……ごめん、あんまり良い言い方が思いつかないんだけど……とても綺麗だ」

「っ…、そう……」

 

 そうしてアルヴは瞳を閉じた。そのまま制止しながら、胸元で強く手を握りしめている。小さな声で「良かった」と聞こえたのはきっと気のせいだろう。

 彼女が目を開いて此方を見つめてきた時、右手を前へ出してきた。

 

「…その手は?」

「分からない?」

「……え、本気か?」

「本気でなければ出さないわ」

 

 その手を眺めていると彼女は催促するように右手を動かした。自分の左手を近づけては、残り数センチの所で手を止めてしまった。少し引き戻しては、重ねていく。お互いの手に力を込めていった。彼女の手はとても冷たく、震えていた。

 お互いの空いた手はそのまま肩甲骨付近に寄せ、そして体を近づけていく。

 

「ダンスの経験、あるんだ」

「施設の頃ね。下の子に強請られたから。トレーナーは?」

「俺も同じだよ。といっても、簡単なもの……も出来るか怪しいけど」

「難しいのは要らないわ」

 

 食堂から聞こえてくる音楽。ピアノが奏でるワルツの音楽。誰が始めるといったわけでも無く、二人してゆったりと体を揺らしながらステップを踏み始めた。

 空から落ちてくる白い結晶。それを浴びながら、二人でただ踊り始める。

 

「トレーナー」

「どうした?」

「もう少し…貴方の事を知りたい。過去だけでなく、今の貴方も」

「俺を?」

 

 二人でステップを踏み、時にはくるり、と軽く位置を変える様に回りながら話し続ける。視線を離すことは無く、ただお互いに見つめ、瞳にはそれぞれの姿を映し出している。

 

「私の事も教えるわ。今だけ、ね」

「踊り終わったらお終いか?」

「お終いよ。だって…」

「……それ以上は恥ずかしいから?」

 

 少しだけ揶揄うように彼女に言えば、唇を小さく尖らせて視線を逸らしてしまった。どうやら図星らしい。

 少しずつ玄関前から離れ、石畳の上でステップを踏み続ける。二人の足音が重なり、学園内の外灯は二人を照らしていた。

 

「…手が冷たいな、寒くないか?」

「少し冷えるけれど…大丈夫よ。直ぐに暖かくなるから」

「踊ってるからか」

「……えぇ、そうね」

 

 彼女の手が冷えないようにしっかりと握りしめていく。それに呼応するように彼女も返してきた。

 お互いの体温がこれ以上冷えないように、体を寄せながら踊り続ける。

 小さなステップと回転するだけの簡単な踊り。見るものを魅了するようなものではない。だけど、それが妙に落ち着きを覚えてしまう。焦りも、緊張も、何もない。ただの平和な時間。

 

 冷たい彼女の手。ワルツの音色が届かなくなった時に、初めて熱を帯びていることに気づいた。

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