【完結】アドマイヤグルーヴとトレーナーが繋がりを知る物語   作:ポンタ4

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シニア編

 ぱんぱん、と二度手を叩いていく。両手を合わせながら目を瞑り、そして考えるのは今年もアルヴの事だった。

 

────────今年も無事に走り抜けられますように

 

 ゆっくりと瞼を開いてはまた一礼。その儀式を終えれば人混みから離れるように歩き始めた。

 

「相変わらずの人の多さだな」

「そうね、正月だもの。仕方ないわ」

 

 去年と違うのはアルヴと一緒にお参りに来ていた。あのクリスマスの後、去年と同じように彼女を誘い、そしてそれを受けてくれた。

 シニア級となっては今年をどう走り抜けるのか、また何を目指すのかを決めなければいけない時期。一年の無事を祈り、今日は彼女と共に訪れた。

 二人で境内を歩き回り、向かう先はとある場所。おみくじやお守りなどを売っている広場である。とはいえ、ここで何かを買うわけでは無かった。元々の目的でお参りをするのも一つではあるが、もう一つあった。

 

「ここだ」と言いながら手帳を取り出しては、そこからお守りを取り出していく。数年以上持っているお守り。ここの返納所は個人作成でも引き取ってくれる、とのことで訪れることにした。

 

「それは?」

「この間話した先生から貰ったものだよ」

「……いいの?」

「いいんだ。これ以上…ずっと引きずる訳にもいかないから」

 

 かつて物として貰い、その縁を切れないようにしていた。しかし、それは切れないのではない。切らさないようにただ掴んでいるだけだ。必死になってしがみついて、ただあるからという理由で安堵を覚えていた。

 だから、先生は心配をした。

 

 縁、というのはどうにも奇妙なものだ。トレーナーになってから似たような縁も、それとは全く違う縁も出来ていく。アルヴもエアグルーヴも、その一人だ。

 だからこそ、このお守りを返納したかった。本当であれば葬式の火葬時に一緒に燃やして貰うのが良かったかもしれないが、それは出来なかった。

 

 死人に縁を求めても、何も語る事はない。何かを差し出すことも出来ない。此方から求めて返ってくるのは無となった言葉のみ。一度だけではなく、二度も失った。失いたくない、と思ってもどうにも現実と言うのは無常だ。

 過去を見続けていれば、いずれは停滞してしまう。先生に縋るのはもう、これを機に止めよう。

 その決別の為にここへ来た。

 

「…ちょっと行ってくるよ。待ってて」

「えぇ、分かったわ」

 

 その広場へ向かえばやはり人は多かった。あちこちでお守りの結果に一喜一憂をし、この後の予定や去年の振り返りなど楽しそうな会話が繰り広げられている。小さな子供が甘酒を強請れば、父親がそれを渡す光景。

 その光景を見ては思わず頬が緩んでしまった。いつかの自分もあの世界があったのだろうか。

 

 脚を進めれば返納所の前へ辿り着く。そこに一人の巫女服姿の若い女性。その人は笑顔で「こんにちは!お守りのご返納でしょうか?」と告げてきた。

 

「そうです。個人作成のもので可能と聞いたんですが…」

「あぁ!大丈夫ですよ!どちらになりますか?」

「これです」

 

 手に握りしめたお守り。見せていけば女性は頷きを見せながら「かなり年季が入っていますね」と呟いた。

 

「これは…あそこに入れたら…?」

「そうですね…返納箱、と書かれた紙が箱に貼ってあるので…あれですね。其方に入れて頂ければ問題ありません」

 

 女性の指さす方向。大きな段ボールの正面に『返納箱』と書かれた紙が貼ってあった。お正月の飾りだろうか、それらが既に箱から顔を出していた。

「分かりました。ありがとうございます」一度会釈をしては、横を通りすぎていく。返納箱の前へ辿り着き、中を覗けばお守りやしめ縄なども入っている。もう一度、手に握りしめたお守りを見つめていく。

 ぐっ、と強く自分の掌で形が変わるほどに握りしめては、その箱の中にそっと入れた。

 

 背を向けて返納所から出ていく。人混みをまた掻き分けながら歩いていくと、アルヴを見つけた。そこにはエアグルーヴも一緒にいて、二人で話しているようだ。

 

「やぁ、エアグルーヴ。明けましておめでとう」

「明けましておめでとう。やることはもう済ませたのか?」

「終わったよ。気分も一新したし、あとはシニアを考えるだけだね」

 

 三人で円を作るようにしては立ち、そして会話を続けていく。今年の抱負、去年の振り返り。さっき見ていた光景はどうやらここにあったようで。

 

「トレーナー、これからの予定は?」

「あ…決めてなかったな……どうするか」

 

 お参りをする予定は決めていたが、その後は何も考えていなかった。時間を確認すると11時30分。そろそろ昼食の時間になる。何処かに食べに行っても良いが、果たしてこの時期に店は開いているのだろうか。

 

「なら、トレセン学園に来るといい。食堂で餅を振る舞っているらしいぞ」

「いいね。じゃあ…それでいいか?アルヴ」

「えぇ、良いわ」

 

 少し小腹も空いてきた。トレセン学園で振る舞われているならばそれはそれで良いだろう。自分のお腹を摩り、鳴りそうなそれを押さえ込んでいく。

 

「エアグルーヴは?来るのか?」

「私はもう少ししたら行こう。先に行くと良い」

「分かった」

 

 エアグルーヴに背を向けて、俺とアルヴで二人で歩き出していく。帰路に着く人々と共に流れに逆らわずに歩き続けていく。人が多く、はぐれない様に一歩だけ彼女との距離を近づけていく。

 今日の空は良く晴れていた。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 季節は少しずつ移ろっていく。お正月の飾りはいつの間にか見なくなり、いつもよく見る街の風景へと変わっていく。かと思えば、今度は赤いハートの飾りがされていく。そしてお決まりごとのように聞いたことのある定番ソングも流れ始めた。

 

 バレンタイン。そう言われて想起させるのは、チョコを大切な人に贈ること。施設の頃は、私から送る事はあったけれど、どれも行事として贈っただけ。個人として贈ったことはなく、こういったものはどうにも縁遠いなんて思ってしまった。

 トレセン学園内では誰にあげるのか、という話で盛り上がっている。

 

────────どうにもチョコは苦手

 

 あれは人をダメにしてしまうものだと私は思ってしまう。よく食べてはそのまま怠ける子もいれば、中には寝てしまう子もいた。人を堕落させる悪魔の贈り物。私はそう考えてしまった。

 

 仮にトレーナーに渡せば、彼も堕落をしてしまう。いつも良く働いてくれる彼に渡して、休んで欲しいのもあるが堕落まではして欲しくない。しかし、代わりのものを渡すには何も思いつかず、悩んでは気が付けば当日になってしまった。

 渡すにしてもまた明日にすればいい、そう思いながらトレーナー室へ入っていくと───

 

「ハッピーバレンタイン」

「──────なに、これ?」

「何って、バレンタイン」

「いえ…違うわ。そういう意味では無いの」

「じゃあ…どういう意味?」

 

 トレーナーから差し出されたのは淡いピンクの箱と赤色のリボンで装飾されたもの。それを彼は差し出しているが私は手に取れずにただ眺めていた。

 普通では女性から男性へ贈り物をするイベントのはず。何故、彼が?

 

「あ、もしかして渡されてる理由が分からない感じか」

「そう。えぇ、そうね」

「ほら…お世話になってるからさ。本当はホワイトデーに渡すべきなんだろうけど、あの季節はG1のレースに備えて忙しくなるから」

 

 そうして彼は受け取るように手を動かして催促した。私はそれを掴んでいく。箱の中でからり、と軽い音が鳴った。少しだけ左右に揺らすと、からから、とまた鳴る。チョコには思えなかった。

 

「……その、トレーナー」

「開けていいよ」

「違うわ。私…何も準備できてなくて…」

「えっ?あぁ、良いよ。俺がお礼として渡したいだけだから」

「だけど……」

 

 それ以上の言葉伝えようとすれば遮るように「本当に大丈夫だよ」と笑顔を見せた。

 トレーナーがいつも座っている机、そこに視線を向けるとだけ赤いリボンで装飾された小さな四角形の箱が置いてある。妙な胸騒ぎを覚えてしまった。

 

「その箱…」と思わず口に出てしまった。すぐに良くない事、と噤んだが時すでに遅し。彼はその箱を見ては、何処か誇らしそうに話し始めた。

 

「エアグルーヴから貰ったんだ。『アルヴをよく見てくれたから渡そう』って言ってね。あ、勿論エアグルーヴにも渡したよ」

「そうなのね…」

 

 安心感を覚えてしまう私が居た。それが何かは分からず、直ぐに心の奥底にしまっては見えないようにした。

 この行事でもしかして渡せていないのは自分だけ?そう思えてしまえば、自分の中で湧き上がる感情があった。彼は渡してくれて、私は渡せていない。掌にじっとりとした何かが伝わる。これでは私は恩を仇で返しているのではないか。

 

「……明日、待ってもらえますか」

「本当に大丈夫だよ。無理して…」

「無理では、ないです」

「そ、そっか」

 

 少し驚きの表情を浮かべている彼。今日のトレーニングを終えたら、直ぐに街に出かけよう。箱をしまっては、私は着替えに出た。

 

 

**

 

 

 トレーニングを終えて向かう先は寮ではなく、ショッピングセンターだった。バレンタインの風景一色に染め上げられており、人でごった返している。当日でこの人の数。恐らく前日ならばもっと人の数が増えている。

 あちこちで呼び込みの声が聞こえてくる。脚を進めればその度におススメされるチョコ。どこもかしこもチョコばかり。時折違うものもあるけれど、私が渡したいと思えるもので無かった。

 

「……そういえば」

 

 誰かに何かを渡す、というのは初めてかもしれない。厳密に言えば、私自身が考えて、であるけれど。施設の人たちに言われて、その行事に参加することはあった。それでお礼として渡すこともあった。だけど、全ては言われてしたこと。

 私自身の意志では違う。そう思えると変に緊張してしまう。

 脚の進みが早くなり、これなら喜ぶだろうか、変と思われないか。そんなことばかり思考を過ぎらせた。

 

 チョコではないものを渡す、ということは余計に気を遣わせるのでは。私にとって渡したい理由は何だろう。

 バレンタインは大切な人に渡す日だと聞いた。ただ、トレーナーは私にお世話になっているから。エアグルーヴさんも感謝で渡している。

 ただ、私は。果たして感謝だけだろうか。いや、感謝だけに違いない。

 もし、違うのが入れば私はまともで居られなくなる。だから、そう思うようにした。

 

「…そうは言ったけれど……どうにも、ね」

 

 しかし、歩き回っても私が欲しいと思えるものは無かった。もういっその事、目を瞑って指でさしたものを選ぶことにしようか。そんな事を考えている中で一つ、目に入った。

 動物をモチーフとしたチョコの詰め合わせだ。猫や犬の肉球をイメージしたもの、各種動物の一部分をチョコで固めたものだった。

 

 少し子供っぽいだろうか。ただ、他のチョコは殆どがハート型だったり、妙に味気ないものばかり。だけど、これに惹かれてしまった。

 私自身が犬が好きだから、だろうか。犬以外でも動物なら大抵は好きかもしれない。純粋無垢で、その感情を直接伝えてくる。それが可愛くて、そして愛でたいと思ってしまう。

 

「………どう…しようかしら」

 

 それを眺めながら、ぽつり、と呟いていく。エアグルーヴさんはどんなものを送ったのだろうか。そもそも彼が送ってくれたものも見てはいない。そんな状況で考えるのは失礼なのではないか。

 そう思っていると店員さんから「チョコをご希望ですか?」と声をかけられてしまった。

 

「えっ?そう、ですね」

「でしたら此方、おススメですよ。動物のモチーフで子供っぽい、と思われますがご家族やご友人に送るものとして好評なんです」

「……その」

 

 それ以上の言葉を紡げなかった。送る相手は異性だ。けれど、友人という意味で捉えるのなら確かにそうかもしれない。チョコを眺めながら、考えていく。

 チョコは堕落させてしまうもの。けれど、バレンタインと考えるならチョコを渡すのが普通なはず。ならばここは慣習に則り、変に奇をてらわずに普通なものを渡した方が良いのではないか。

 そうやって考えればやはり、これが一番無難な気がする。私はそのチョコに指をさしながら「一箱、お願いします」と告げた。

 

 店員さんは笑顔で応えてくれ、そのままラッピングをしてくれる。赤い箱にピンクのリボンで結ばれて装飾されたもの。それを袋に入れて手渡された。

 それを受け取り、支払いをしていく。携帯で時間を見ているとまだ寮の門限には程遠い。いっその事、今日渡しに行った方が良いのではないか。そう思えてしまった。

 

 その荷物を持ちながら歩いていき、邪魔にならないように壁に寄り添う。携帯でLANEを開き、トレーナーとの会話を見ていく。そこにメッセージを入力し始めた。指を動かし、入力する文字。

 

『今からトレーナー寮に行ってもよいかしら。渡したいものがあるの』

 

 携帯を眺めていると、数十秒後には彼からの既読。そして一分もしない内に『いいよ』と『寮は分かる?』と二つのメッセージが届いた。

 確かトレーナー寮はトレセン学園からすぐ行ける距離。ただ、何号室に過ごしているかは分からなかった。私は直ぐに『何号室かだけ、教えて』と返した。

 

 携帯を閉じ、彼からの鞄の中へしまう。ショッピングセンターの出入り口。そこから出ては、小走りで元来た道を戻っていく。

 鞄から鳴るLANEの通知音。それを見るよりもただひたすらに脚を動かした。

 

 

**

 

 

 ある程度の時間が過ぎ、既に太陽は隠れてしまい、満月が頭上に昇っていた。煌々と照らす月明かりと澄んだ空気の中で浮かぶ星々。

 その中で私は走り続けていた。鞄をしっかりと抱え、吐く息は暖かくも、直ぐに冷気によって冷たくなる。白く変色する吐息よりも早く、私は前へ進んでいた。

 

 気が付けばトレーナー寮についていた。少しだけ息を切らし、鞄から携帯を取り出していく。通知画面には彼の住んでいる部屋番号と『無理をしなくて大丈夫だよ』というメッセージ。既に着いてしまったのだ。今更引き返すのも、それは違う。

 明日でも渡すことは出来るのに、今日渡さないといけない。そう思えてしまった。

 トレーナー寮へ入っていき、彼が住んでいる号室へ進んでいく。携帯の画面と扉のナンバープレートを何度も視線を行き来しながら、辿り着いた。

 

「…これね」

 

 インターホンに指を近づけては、ボタンに指を添えた。あとは押すだけ。深呼吸をして、ゆっくりと押し込んでいく。彼の私室に響き渡るピンポーンという呼び出し音。その音の数十秒後には扉の開く音と共にトレーナーが姿を現した。

 

「…本当に来たんだ」

「そこまで驚く?」

「そりゃあね。でも…嬉しいよ。もしかして渡したいものって…」

「……これよ」

 

 私は鞄の中を漁り、ラッピングされた赤い箱を手渡した。彼はそれを受け取り、じっと見つめている。ゆっくりと片手をリボンに流れに沿うようになぞり始めていく。その表情はとても穏やかだった。

 

「…開けてもいいか?」

「えぇ、どうぞ」

 

 リボンを丁寧に解いていき、そして箱を開けていく。中からは六個のチョコ。いずれも今日購入した動物をモチーフにしたチョコ。それを見つめながら彼は「これは…肉球?それと尻尾?動物モチーフか」と直ぐに気が付いた。

 

「好きなの?動物」

「…そうね、好きだわ」

「犬とか?」

「犬は好きだけど…大概はどれも。猫も鳥も、好きね」

 

 彼はそれを眺めながら、一つ指で摘まんでいく。それを口の中に放り込めばもぐり、と食べ始めていく。何度か咀嚼を繰り返しては頷きを数度。直ぐに「美味しいよ、ありがとうね」とお礼をしてくれた。

 

「残りはゆっくり食べようかな」

「一日で食べきらないの?」

「君がくれたものだから味わいたいんだ」

「既製品よ?」

「それでも、だよ。それに……」

「……?」

「君の好きなものを知れたから」

 

 一言だけ「そう」という言葉を残し、私は視線を逸らしていく。今日は何だか暑い。多分さっきまで走っていたせいだろう。心臓の鼓動も早い。これもきっと、そう。

 

「じゃあ…私は帰るわ」

「うん、気を付けてね。アルヴ」

「えぇ、また明日、トレーナー」

「また明日」

 

 彼に見送られながら、私は帰路へと付いていく。トレーナー寮の階段を下りてはその場をあとにした。一人で歩いていく中、足音だけが夜に響いている。

 そういえばトレーナーは何をくれたのだろうか。一度も開封していない。もしチョコだったらどうしようか、そう思いながら淡いピンクの箱を取り出していく。リボンを丁寧に解いていき、箱を空けるとそこには明るい茶色の四角形の物体が並んでいた。

 

「キャラメルね…?」

 

 チョコでは無かった事の安心とむしろチョコでは無い事の不思議が入り混じった。

 キャラメルを一粒手に取り、それを口に含んでいく。舌で転がし、時には歯で噛み潰せば甘みが伝わってくる。だけどくどくない。からり、と口内で軽い音を鳴らしながら舌で味わい続ける。

 折角トレーナーから頂いたもの。毎日、一粒ずつ食べよう。

 

 一つ、とあることを思いだした。バレンタインやホワイトデーでは贈り物によって意味が変わるという。バレンタインならチョコ、ホワイトデーであればクッキーだっただろうか。

 その定番から離れたキャラメルは何の意味を持つのか。本当に、ただ深い意味はない。ただ知りたくて携帯を取り出し、調べた。

 

『バレンタイン キャラメル 意味』

 

 検索して出てきたウェブサイトから『安心する存在』と書いてあるのを見つけた。どうやらバレンタインで送る場合は友人よりの意味を持つらしい。

 ほっと胸を撫で下ろす。定番とはいえハート型のチョコを送ってしまえば困らせてしまうだろう。私が一方的にそう考えるのは変な話だから。

 

「……これ、ホワイトデーだとどうなのかしら」

 

 普通であればお返しはホワイトデー。彼は今回お世話になった、という意味で渡している。確かにバレンタインではあるが、ホワイトデーならばどうなのか。また、調べた。

 

『ホワイトデー キャラメル 意味』

 

 検索して出てきたものは同じ意味だった。しかし、バレンタインとは違い本命の相手にも送る、とされている。

 口の中で転がしていたキャラメルの動きが止まる。唾液で溶けるそれが舌に広がり、味蕾を刺激した。甘い。

 

「…いえ、まさかね」

 

 流石にそれは無いだろう。私と彼は担当を結んでいるだけの関係。トレーナーは心を許してくれているがきっとそういう意味ではないはず。私だってそうなのだから、きっと。

 もう一回だけキャラメルを噛んだ。口の中に残るキャラメルの甘さは、私にとって未知のものになっていた。

 

 

**

 

 

 バレンタインから時間が経ち、春の暖かさが訪れた。まだ夜の寒さは残っているが、日中はそういったものを感じることは無くなっている。とはいえ、桜が咲くにはまだ時間がかかりそうで。

 今日も俺とアルヴはトレーナー室に集まり、トレーニング内容を一緒に話し合っていた。春には多くのG1レースが集まっている。桜花賞と同じ距離であるヴィクトリアマイルに安田記念。中距離の宝塚記念に大阪杯。シニア路線としてどれを目指すべきなのかを二人で話し合っていた。

 

「距離適性で言えば天皇賞・春と高松宮記念以外ならいけるね」

「シニアのティアラウマ娘としてヴィクトリアマイルはどう?」

「ありと言えばありだけど…大阪杯、宝塚記念も捨てがたい。それに一旦はG2かG3で君の力を確かめたいのもある」

「確かめる?」

「去年のエリザベス女王杯は無理をしただろう?だから、リハビリ…というわけでも無いけど見ておきたいのもあって」

 

 ソファーに座り、机を挟みながらお互いに向き合っていた。互いの丁度真ん中にはタブレットを置いており、それを操作し合いながら話し合っていく。

 既にトレーニングについては本格的なものを実施している。坂路や瞬発力を鍛えるトレーニングを行い、脚の負担を増やしていた。そのため、実際にそれがどれくらい活かせるのか、また鍛え上げられているのかを確認したい。

 

 G1レースを走って確かめればいいのだが、それでは出たとこ勝負になってしまう。確実に勝てる力を付け、そして見極める。と言いたいのだが…

 

「…いやでもなぁ…G1レース気になるよな…」

「それは…そうね」

 

 G2、G3を走らなければそれだけG1のレースに挑める機会も増やせる。レースは体力と気力の消耗が激しい。それはどのレースでも同様であり、やはり頭を抱えてしまうのだ。

 

「……大阪杯にしよう」

「大阪杯?」

「そう。G1レースの春シニアの一番最初。まずは力を確かめたいと思う」

「分かったわ。私もそれが良いと思う」

 

 アルヴに不調があればそこから立て直すことも出来る。何もG1は大阪杯だけではない。そこから修正をして、ヴィクトリアマイルや宝塚記念を見据えても良い。

 最悪であれば春のG1は止めて、秋のG1を見据えても問題ない。ウマ娘にとって大事な三年間の最後の一年。しっかりと悔いの無いように考えなければ。

 タブレットを操作しては「またトレーニング内容は新しく考えるよ」と告げながらタブレットを手に取っていく。アルヴもそれに頷き、今日のトレーニングをしに行くため、彼女が着替えに廊下へ出ようとした時だった。

 

 こんこん、とノック音と聞き覚えのある声が部屋に響いた。

 

「私だ。エアグルーヴだ」

「どうぞ、入って」

 

 扉を開けては入ってくるエアグルーヴ。アルヴの姿が彼女の視線に入れば「アルヴもいたか」と続いた。その視線は一度アルヴを捉え続け、直ぐに何処か気まずそうにしている。エアグルーヴにしては珍しい反応だ。

 ちらり、と助けを求める視線。「アルヴ、先に言ってて」察するようにアルヴへ告げると彼女は頷いて廊下へ出ていった。

 

 扉を閉めたのを見届けるとエアグルーヴは一つ息を吐いた。今日は珍しい事づくしだ。

 

「どうかしたのか?」

「…あまりアルヴには聞かせられない話でな」

「……?アルヴに?」

 

 余計に珍しい。俺に、であればそこまで思わないが、アルヴに対しては聞かせたくないのは何か理由があるのか。彼女は近づいていき、小さな声で話し始めた。

 

「先ほど、スティルインラブから退学届けを提出したと」

「───────はっ?」

 

 スティルインラブ。スティルインラブというのはあのトリプルティアラを取ったスティルインラブだろうか。まさか同名のウマ娘なはずがない。もしかしたら聞き間違いかと、俺は尋ね返した。

 

「待って…くれ。スティルインラブが…?何かの聞き間違いだろう…?」

「信じられないのも無理はない。だが…事実だ。会長から伝えられてな。まだ正式に学園は受理をしていないそうだが…」

「……何故だ?トリプルティアラを取って、これからシニア級となるのに…」

「分からん。ただ……これをアルヴに聞かせるわけにはいかないと思ったんだ」

 

 なるほど、だからあの表情をしたのか。確かに彼女はスティルの事をかなり意識している。ライバル、といっても過言では無いほどだ。そのスティルが退学届けを出し、レースの世界から去るとなれば彼女自身も落ち着かないだろう。

 しかし、これを果たして隠すべきなのだろうか。自分の口元に指を添えながら考え始める。

 確かに、アルヴにとってこれは精神的に揺らぐことでもある。だが、伝えない事の方が彼女にとって酷ではないか。それこそ彼女を信頼していない事に繋がるのではないか。

 

「……俺は伝えるべきだと思う」

「何故だ?」

「仮に退学届けを受理するしないにせよ、スティルがレースに出てこないとなるといずれ世間も気づき始める。それに……彼女に伝えないのは…裏切るようにも思えてしまうから」

「……そうか、貴様はそう判断するのか」

「あぁ。間違いかもしれないけど、そうしたい」

 

 エアグルーヴの眉間に皺が寄っていく。腕を組み、片手を額に添えては考える素振り。彼女の苦悩も最もだ。なにせライバルが引退ではなく退学なのだ。それを素直に伝えて揺らがない子はいないだろう。

 少しだけ彼女の唸る声。その後に小さく「分かった」と告げる声が聞こえた。

 

「貴様に判断は任せよう。学園としてもこの事についてはまだ協議中らしいからな。あまり、広めないように」

「分かってる。話してくれてありがとう、エアグルーヴ」

「気にするな。そういえば次走は決めているのか?」

「大阪杯だよ。ただ、彼女の状態を見ては、また決めるつもり」

「そうか。私も過去走ったことがあるから今度手伝おう」

「いつも助かるよ。今度お礼をさせて欲しい」

 

 そういえばエアグルーヴに助けられてばかりだ。エリザベス女王杯もティアラ路線も彼女に手伝って貰ってばかりであり、お礼が出来ていない。とはいえ、お礼について思いつかないのもまた事実なのだが。

 うーん、と唸っていると彼女は微笑んだ。いつもの厳格ではない彼女の優しい表情だ。

 

「充分お礼は貰っているとも」

「…なにか渡したか?」

「先ほどの貴様の言葉だ。忘れたのか?」

「……?」

 

 思い当たる節が無かった。言葉といってもアルヴの話くらいである。数分前まで話していた言葉を思い返すも、やはり思いつかなかった。首を傾げていれば彼女は大きく溜め息を吐きながら「貴様の言葉、裏切るように、というやつだ」と付けられた。

 さて、なんとも思いつかない。事実そう思ったのであり、彼女の信頼をしているからで────

 

「─────あ、そういうことか」

「そうだ。忘れたのか?私は信頼してあげて欲しい、といったはずだ」

「言ったね。思い出した。まさか…それで?」

「あぁ。それだよ。それだけで充分だ。アルヴを信頼してくれる人が…近くにいるだけで私には充分なお礼だ」

 

 優しい瞳だった。目尻を下げて、威圧的なものは何処かへ消えている。何処か母親のような、それに似た何かを感じた。暖かな雰囲気と物腰柔らかい声色。

 聞いているだけで胸の中が絆されるような、心地よいものだった。

 

「……エアグルーヴは後輩想いだね。本当に」

「皆の手本になるためだからな。あいつも…それ以外の子も全員私にとって大切な後輩だ」

「そっか。…そうだよな」頷きながら答えた。

「だから、これからも頼むぞ。あの子の事を」

「勿論だ」

 

 その言葉を聞いたエアグルーヴはそのまま背を向けて廊下へと歩き始めた。「失礼した」そう告げて扉を開けて去っていく彼女。

 さて、話すならば今日話した方が良いだろう。善は急げ。時間が伸びれば伝えるのも難しくなり、後回しにしてしまう。今日のトレーニングは芝のコースで行うインターバル走だ。着替え終わったアルヴはトレーナー室に一度来るはずだからその時に伝えよう。

 

 

**

 

 

「スティル……さんが?」

「まだ公式で決まっていないから…ただ、これからはスティルはレースに出ることは無いと思う」

 

 体操服に着替えて帰ってきた彼女。ソファーに置いてある荷物を手に取り、トレーニングに行こうとする彼女を制止してはソファーに座らせて話始めた。お互いに顔が見える様に対面に座り、事実を伝える。アルヴの表情は大きく瞳を見開き、そして落ち着かないように視線は動いていた。

 

「……どうして…スティルさんが…」

「理由は分からない。あの子にも……何か理由があったんだろう」

 

 アルヴはその言葉が信じられないのか、膝に置いてある両手に力が込められている。当たり前の反応だ。むしろ何も思わない方が珍しいのだから。

 

「ただ、勘違いしたら駄目だよ。アルヴのせいで退学したわけではないから」

「私の…せいで?」

「そう。スティルが君に負けたことで退学するとは思えない。あそこまで強くて……勝負が好きな子が負けたという理由だけで去るとは思えないから」

「…そう、そうよね」

 

 彼女の視線は未だ落ち着かなかった。アルヴは自分に言い聞かせるように何度も頷き、そして瞳を閉じている。無理も無いだろう。彼女にとって酷な選択をしてしまったかもしれない。

 しかしそれ以上に伝えない事の方が残酷だ。あとになって知る真実は時に大きな棘となって刺してしまう。今は辛いかもしれないが、そこを俺が支えなければいけない。

 

「……あっ」

「どうした?」

 

 彼女は何かを思い出したのか、声を漏らした。直ぐにそれを伝えることを躊躇うように視線を泳がせた。

 ウマ娘同士、何か分かり合うことでもあっただろうか。

 

「…いえ、なんでもないわ。多分、気のせいだから」

「本当に?」

「本当よ」

 

 此方を見つめながら告げる彼女の瞳。嘘を吐いている様に見えなかった。彼女がそこまで言い切るのであればこれ以上深堀りしてもきっと気のせいなのだろう。

 当然のことだが空気が重い。これ以上お互いにこの話題を出すことは避ける様にしよう。変に意識をし過ぎるのも良くない事だ。

 

「次走は…大阪杯だけど、少しだけ考えさせてくれ」

「…?分かったわ。トレーナーに任せるけど…あとで必ず教えて」

「勿論だ。急な話でごめんな。行こうか、トレーニング」

「えぇ」

 

 アルヴと一緒に荷物を持ってトレーナー室を後にしていく。

 彼女の瞳。あの瞳は嘘は吐いていなかった。しかし、膝に乗せた両手は強く握りしめられていた。何かを見せないように。

 

 

 

****

 

 

 

 トレセン学園にトレーナーとして付属し、三度目の桜を見た。既に新人トレーナー、と言える立場では無くなっており、求められるのは実績だった。勝てば賞賛され、負ければ実力を疑われる。それ程までに厳しい世界だ。

 大阪杯。今日の出走ウマ娘にはクラシック二冠ウマ娘、ネオユニヴァースが来るとのこと。同世代同士のレース。トリプルティアラを破ったアドマイヤグルーヴか、それとも二冠ウマ娘のネオユニヴァースか。そんな盛り上がりを見せていた。

 

「というわけで…ネオユニヴァース。彼女と初めてレースをすることになるんだけど……」

「………」

「アルヴ?」

 

 阪神レース場の控え室。そこでユニヴァースの情報を共有し、どう走るのかをおさらいしようと思っていたが、彼女に声をかけても反応が無い。

 先程から地面に視線を向け、胸元に両手を添えている。時々、息を吸う音が聞こえる。集中するにしても明らかに気負い過ぎている。緊張にしてはやけに力が入っているのだ。

 

 もう一度声をかけた。それでもアルヴは反応せず、肩を一度叩くと彼女は大きく震わせながら此方に視線を向けていく。

 

「ど、どうしたの、トレーナー」

「…本当に大丈夫か?流石に気負い過ぎてると思うんだが……」

「え、えぇ。大丈夫よ。少し…緊張しているだけ」

 

 そう告げてはいるが、体の震えは止まっていなかった。

 大阪杯に向けたトレーニングでも同じだった。スティルの退学について話した直後は良かった。しかし、時間が経てば経つほどに彼女の集中は途切れることが増えている。

 何かを考える様に、一人で頷いていることもある。それを聞いても彼女は隠すようにしていた。

 一度二人でしっかりと話し合おうとしたが、それは拒否されている。とはいえ去年とは違い、拒絶、というよりも心配をかけたくないような。そう感じた。

 

 恐らく、というよりはスティルの事を気にしているのだろう。彼女にとって初めて純粋に勝ちたいと思った相手が退学するのだ。意識をするな、そう言えれば楽なのだが言ってしまえばきっとより意識をしてしまう。

 何か良いメンタルケアがあれば良いのだが…。

 

「アドマイヤグルーヴさん。準備をお願いします」

「…っ!行ってくるわ。トレーナー」

「あ、あぁ。頑張って、アルヴ」

 

 何かを話そうと思っても、既に時間が来てしまっていた。そのまま彼女は歩き出して行ってしまった。アルヴの揺れる尻尾、扉が閉まるまでそれはよく揺れていた。

 

 

**

 

 

 惨敗、である。それ以上もそれ以下も無い。今日の大阪杯はネオユニヴァースが一着となった。では、対するアルヴはどうだったのか。七着だ。掲示板入りすらも果たせなかった。

 スタートは問題が無かった。そのままコーナーを迎え、問題なくいけそうだった。外側の後方に付き、最終コーナーの外側から走り出せば抜ける程。なのに彼女は内側へ入っていき、そのまま飲み込まれては前へと出れなくなってしまう。ずるずると囲まれたまま、前へ出れずにゴール板を通り過ぎた。

 余りにも彼女らしくないミスである。

 

 流石にこのまま集中できていない状態のレースは良くないと考え、春先はレースをしない、という提案をした。しかし、彼女はそれを断っている。走れるなら走りたい、と。強豪と競えるのであれば競いたい、と。

 彼女の意気込みは尊重したかった。走りたいと思ってくれることは嬉しいことであり、本来であれば喜ぶべきなのだろう。

 

 そこで、彼女に一つ提案することにした。

 

『金鯱賞を走って欲しい』

 

 芝2000mの距離。彼女の適正であり、走る相手は十分相応しいと思ったからだ。

 一人目。タップダンスシチー。シニア級の第一線で活躍しているウマ娘であり、去年のジャパンカップでは一着を取っている。宝塚記念に向けた前哨戦として金鯱賞を走るつもり、とのこと。

 二人目。ザッツプレーン。アルヴと同時期にデビューした子であり、クラシックでは菊花賞を取っている。更には同時期のジャパンカップ、つまりタップダンスシチーと争い二着となっていた。同じく、宝塚記念の前哨戦で走る。

 

 この二人に対してアルヴがどこまで走れるのか、というのを見たかった。大阪杯はG1のレースであり、シニア初のG1となるため重圧もあっただろう。だが、G2ではどうだろうか。

 その提案に彼女は二つ返事で答えてくれた。

 そして、結果次第では宝塚記念をどうするかも考えたかった。彼女にとって勝ち切れていない理由は何か。スティルの事ではあるも、それだけでは無いように思えた。何か、ウマ娘だけにしか分からないそれらが。

 

 どうにも拭えない不安。それを抱えながら金鯱賞のトレーニングを今日も迎えていく。

 

 

 

****

 

 

 

『一着はタップダンスシチー!タップダンスシチーとなります!宝塚記念に向けて力を発揮しました、タップダンスシチーです!!』

 

 掲示板入り。五着だ。前回と比べれば良い成績と言える。しかし、しかしだ。

 

「………走りに…勢いがない?」

 

 アルヴの走りは冷静ながらも最後は末脚を使った、綺麗であるも何処か荒々しさを感じるものだ。それが彼女の特徴であり、最終直線で勢いに乗って駆け抜けていく。

 だが、今日は見えなかった。最終直線で走り抜けた彼女、だけど余りにも綺麗過ぎた走りだ。綺麗過ぎるが故に、強みが消え去っている。

 

 関係者席から降りていき、向かう先は控え室。彼女を迎えに行く中で聞こえてきたのは一つの声だった。

 

「アドマイヤグルーヴ…なんで勝てないんだ?クラシックの時─────」

「…いや、トレーナーのせいだろ。スティルインラブに勝ってから…ずっと鳴かず飛ばずなんだし。実力的に考えて──────」

 

 分かっている。それは俺が彼女を導けていないからだ。

 スティルのこと、そればかりが脳内を過ぎってしまう。何度も首を振り、過ぎたことを考えないようにしてもさっきの言葉が気になってしまう。

 何故、勝てない。何故、それを何度繰り返しても掴むことは出来なかった。

 

 脚を進めながら、そのことを考えないようにしていった。控え室へ入れば既にアルヴが椅子に座っている。視線を下に向け、唇を強く噛んでいる彼女。足音を立てないようにして近づいていき、膝立ちになった。

 

「脚、大丈夫か?」

「問題ないわ…ごめんなさい、また…今日も」

「良いんだ。君が無事に……帰ってきてくれたから」

 

 負けたことを考えさせてはならない。負の循環に陥らせるのは、一番良くない事だ。出来る限りその事を口に出さないようにしながら、俺はタブレットを手にした。

 酷な選択かもしれない。だけど、これは彼女に伝えなければ。

 

「…次のレースは夏合宿以降にしよう」

「……ま、待って!私は…!」

 

 椅子から勢いよく立ち上がり、彼女は声を張り上げた。レースが終わったというのに息を荒げ、此方を真っすぐに見据えていた。

 

「アルヴの実力を疑ってるわけじゃないんだ」

「じゃあ…どうしてっ!」

「……聞きたいことがある」

「…なに?」

 

 また一歩、アルヴに踏み込む必要があると思った。彼女が言葉を濁すかもしれない。それでも、彼女を信じたかった。何を抱えているのか。察することが出来れば苦労はしない。

 

「…最近の不調。スティルが原因か?」

「……っ!……違うわ」

「嘘を吐かないでくれ、あの時からずっと…」

「……本当よ、スティルさんではないわ。ただ…これは、私の意識の問題…」

 

 その答えは此方を見ていなかった。それが、胸に棘を刺されたような痛みを覚えた。彼女に隠されたこと。きっとアルヴは心配をかけないように振る舞っている。だから、苦しい。

 彼女と契約を結んだときの事を思い出してしまった。

『弱くさせないこと』言うなれば、今が確かに合っている。彼女は休養だけではない、トレーニングもしっかりと従ってくれ、時にはもっと効率の良い方を教えてくれる。

 

 彼女が教えてくれない事、それは俺がまた弱くさせたからなのでは?

 彼女は勝つことが期待されているウマ娘だ。既に俺は新人トレーナーではない。だからこそ、甘えは求められず、実績をより重視される。

 神童と呼ばれたアルヴがシニア級になっても勝てない。それを導けていない俺が原因。

 

 アルヴが隠すのは、それだから。

 

 知識があれば、経験を積めていれば、もっとレースに詳しければ。たらればを考えたとしても遅い。彼女に出来ることをすると決めたのだ。導くと。支えると。妥協をしていた自分を責めるしかない。

 

「…明日から、夏合宿も近づいてくるからまた考えるよ」

「……そうね」

 

 小さな言葉。彼女に聞こえないように俺は「すまない」とだけ唱えた。

 この言葉を聞かせたくない。だけど、言葉として発しなければ、刻めないから。

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 スティルさんが退学届けを出し、既に二ヵ月以上が経った。学園としても受理をする方面となり、学園内でも、そして外の関係者達でもその話題で持ちきりになっている。

 不在となったトリプルティアラに勝った私にも注目を浴びている。それは悪い意味で。

 

 クラシック級におけるティアラ路線。お互いに競り合い、そして勝つことを目指していた二人。その二人の内の片方が消え、片方は勝てていない。そうなれば世間の目はこう変わる。

 

───────今年のシニアに入ったティアラ路線のウマ娘は物足りない、と

 

 私もそれは分かっていた。スティルさんが居なくなってから、今まで有ったものが無くなり、空白となっている。大きな穴が空き、変な気持ち悪さを覚えていた。

 スティルさんに勝ちたい、と私は思っていた。だけど、それが居なくなった。ならば、何故私はこんなにも走りたいのに走りたくない、と思ってしまうのだろうか。

 

 私の中で矛盾を抱え続けている。走って勝ちたいという本能はある。だけど、心が付いてこない。私の闘志を燃やそうとしても、燃えない。

 

 今日はトレーニングも休みであり、私は真っ先に寮に帰ろうとしていた。金鯱賞を走り、その一か月後には夏合宿。夏合宿ではしっかりと力を付けるために休養をすることになっていた。

 栗東寮に辿り着き、私は自室へ入ろうとした時だった。

 

「アドマイヤグルーヴ、だね」

 

 扉を開けようとしたときに間延びした声をかけられた。その声の主に振り返ると金髪のロングへアーに水色のインナーカラー。ふんわりとした印象を持ったネオユニヴァースさんだった。

 

「……ユニヴァースさん…何かしら?」

「まずは……『謝罪』を」

 

 ぺこり、とユニヴァースさんが頭を下げてきた。何故、彼女が謝っているのか理解が追いつかなかった。

 ユニヴァースさんとは同期であるため多少の関わり合いはある。しかし、そこまでではない。それに何か怒らされるようなこともされた覚えはない。

 

「…?何を…謝っているの?」

「…ネオユニヴァースから『渡したい』ものが、あるよ」

 

 彼女はそう言うと鞄から手紙を取り出した。白く質素な手紙だった。それを手に取り、見回してみる。差出人は書かれていなかった。

 

「これは…誰から?」

「スティルインラブ」

「…スティルさんからっ!?」

「”RXIL”、『落ち着いて』」

 

 前のめりになる私にユニヴァースさんは冷静だった。首を横にゆったりとした動きで話す彼女。それが不思議で仕方なかった。

 

「…スティルインラブは”デブリ”。だから、もう『走れない』」

 

 彼女は手紙を指さしながら言葉を紡ぎ続けた。私の意を介さずにただ「アドマイヤグルーヴはフライバイ、だよ」と続けられる。理解が出来なかった。

 

「…つまり、この手紙を見れば…分かるのね?」

「アファーマティブ。全ては、そこに」

 

 手紙を眺め続ける。これを見ることで何が分かるのか。スティルさんは何を伝えようとしているのか。見ることで、何かが変わるのだろうか。

 

「…見るわ、届けてくれてありがとう」

「”DAWI”、ネオユニヴァースに出来るのは、ここまで、だから」

 

 それを告げるとユニヴァースさんは、また頭を下げて歩き去っていく。一人廊下に残された私。

 扉を開けていき、部屋の中へ。まだ同室の子は帰ってきていない。荷物を机の下に置いては、椅子に座っていく。手紙の封、それを眺めながら指で引っ掻くようにして開けた。

 中からは丁寧に折りたたまれた一枚の用紙。さらり、とした手触りの良いもの。それを開いていくと丁寧な字で書かれていた。

 

『拝啓 アドマイヤグルーヴさんへ』

『このような手紙をお送りすることをお許しください。』

『私はもう走る事は叶いません。ずっとずっと一人で走ってきた私は満足をしてしまいました。』

 

「……あの子も一人だったのね」手紙に書かれた文字に返すように私は言葉にした。スティルさんも私と同じ一人だった。けれど満足、というのは分からなかった。

 

『トリプルティアラを私は欲しかった。あの輝きを取る事で誰かに見て貰えると思えたから。』

『私はワタシであり、アルヴさんはアルヴさん。それぞれ鏡を一枚に合わせて、そして走っている。』

『私はそれが嬉しかった。私を見て、私に挑む貴方の姿が。』

 

 言葉が出なかった。嬉しい、という言葉は私にとってより理解が出来ない。どうして、そう思ってくれたのか。私はスティルさんのことを少なからずとも敵視していた。そして、走りを羨ましいと思っていた。

 

『今まで私と走った方は皆…私と走ってくれなくなりました。』

『だけど、その中でもアドマイヤグルーヴさん。貴方だけは違いました。』

『私とワタシ、どちらにも目を逸らさず、ただ勝ちたいがために走ろうとするその姿は、』

『眩しすぎました。』

 

 手紙を握りしめる力が強くなる。くしゃり、と音を立てて、手が震えはじめていた。私の走りはスティルさんにそう映っている。

 私からしたらスティルさんの走りは憎むべきものだと思っていたのに。弱いのだ。私は。

 

『エリザベス女王杯。あそこで走って私は負けてしまいました。だけど、それで満足しました。』

『私達に勝つために。アドマイヤグルーヴさんの走りを間近で見て、もう、これ以上は無いのだと。』

『だから、私は先に休ませて頂こうと思います。』

『貴方の輝きを、眩しさをどうか忘れないで。』

 

 だから、退学届けを出したのだ、レースの時に聞こえた言葉。ご馳走様、というのはスティルさんが満足したから。あれ以上に競り合うレースは果たしてあるのだろうか。

 私が勝ちたいと思えるほどの相手は、いるのだろうか。

 手紙から目を離し、一度上に向けていく。何度か大きく深呼吸を繰り返し、それが肺の中へと入っていく。もう一度視線を戻せば、最後に数行だけ文字が残っていた。

 

『最後に。トレーナーさんのことを信用してください。』

『あんなに誰かのために悩める人は、そう居ませんから。』

 

「…ふふっ」笑みが零れてしまった。小さな声で「お節介よ…」と呟いていく。それ以上は文字は続いておらず、丁寧に折り畳んでしまっていく。

 少しだけ、本当に小さいけれど心の整理ができた。まだ私の中で走る目的が見つかっていない。

 スティルさんに勝つことを目標にしていた。けれど、誰かを目標にすることが出来るのだろうか。私の為の走り。私の為に勝つ。そんな事を思えるほどのウマ娘。

 

「……また、どこかで。スティルさん」

 

 天井に顔を向けながら呟いた。その声は小さく、誰にも届かないけれどきっと彼女に届くと信じて。

 

 

 

****

 

 

 

 あれから時間が経ち、蝉の鳴き声が煩く鳴っている。春先のレースは休むことにし、トレーニングに集中することにした。手紙を貰ってからはひたすらにトレーニングに打ち込み続け、トレーナーとも会話することを増やした。

 もっとこんなトレーニングをしたい。こんな事を伸ばしたい。私が強くあるために、私が勝ちたいと思った相手に勝てる様に。

 

 そうして訪れたのは夏合宿。シニアとしての夏合宿はより負荷を高めることに集中するつもりだった。私の中の憂いはまだ残ってはいるが、前ほどではない。少しずつ走りも落ち着きを取り戻し、以前に近い走りへ戻り始めている。

 砂浜のトレーニング、タイヤ引き、遠泳。山でのランニングに芝のコースを借りたインターバル走やレースを想定したもの。それらを行い続けた。

 

 今日も砂浜のトレーニングで私は脚をしっかりと地面に付けていき、そして蹴り上げる。脚が砂によって沈むため、普段よりも高く膝を上げなければ、砂に脚を擦らせる走りになってしまう。

 

「…っふ」何度も息を整える様にしながら砂浜でランニングを繰り返す。端まで行けば戻り、端まで行けばまた戻る。そんな往復を繰り返していると遠くからトレーナーが来た。

 

「時間だ、休もうか」

「分かったわ」

 

 彼から手渡されたタオルでしっかりと汗を拭いていき、そして水分補給を取っていく。乾いた喉に水が潤わせていき、何度も喉を鳴らすように飲み干していく。

 口元を手の甲で拭ってはトレーナーに手渡す。脚の疲れはまだ問題ない。

 

「体調は大丈夫?」

「えぇ、大丈夫よ。脚もまだ疲れ切ってないから。それよりも……」

 

 トレーナーの目元に視線を向けた。自然と彼と見つめ合うようになってしまう。不思議そうに彼は首を傾げながら「どうかした?」と尋ねてきた。

 最近、トレーナーの体調があまり良くなさそう。本人は元気に振る舞っているが、目元には薄黒い隈と少しやつれている表情。

 夏合宿に来る前から、明らかに彼の体調は少しずつ悪い方向へ倒れている。

 この間なんてトレーナー室へ入った時に彼は机の上に突っ伏していた。数度体を揺らせば起き上がり『仮眠を取っていたんだ』と言うけれど、それにしてもここ最近は酷い。

 

「……トレーナーは大丈夫かしら?」

「俺?俺は大丈夫だよ。いつも通り」

 

 ああ言えばこう言う。まさにそうなっている。私の為に頑張ってくれることは嬉しいけれど、倒れてしまうのは私にとって嬉しくない事。何か良いリラックス方法を思い浮かべば、そう思うも何も思いつかなかった。

 こういう時に人との繋がりを得なかった自分を反省する。

 

 二人で並んで砂浜を歩いていき、木陰に二人で並んだ。私は座りながら軽く脚のマッサージを。彼は横でタブレットと手帳を使いながら、それぞれに顔を向けている。それが気になり、少しだけ覗き込んでいくと私のトレーニング内容だけではなく、トレーニング理論や講義などが詰まっていた

 全てがトレーナー関連のものであり、思わず目を見張るものだ。トレーニング中の指導で居ないときもあるが、もしかしてその間はずっとこれをしているのか。

 

「あ…見ちゃった?」

「…少しだけ」

「気にしないで。俺が好きでしている事だから」

 

 タブレットの電源を消していき、私にそれ以上見せないようにした。手帳も胸ポケットにしまっていき、そして背伸びをする彼。大きな欠伸も一つ加えた。

 

 彼の心身を安らぐことの出来る方法。ここはあの人に聞いてみた方が早いかもしれない。

 

 

**

 

 

「夏合宿中に出来るレクリエーション?」

「はい。そうです」

 

 今日の夜。夕食を食べ終えては一人でゆっくりとしていたエアグルーヴさんに声をかけた。彼女は驚いたように目を開くも、直ぐに和らいでいく。「珍しいな」と言われるそれに私は胸が騒いだ。

 

「…珍しい、ですか」

「あぁ、珍しいとも。レクリエーションか。そうだな…何人くらいでやる予定なんだ?」

「2人です。私とトレーナーで」

「……ほう?」

 

 意味深そうに頷きながら見つめてくる。直ぐに私は「ち、違います。ただ」と直ぐに言葉を並べ始めた。その言葉にエアグルーヴさんはふふっ、と笑い始めている。また、胸騒ぎ。

 

「トレーナーが一人で無理をしているようなので…出来れば何かリフレッシュできることがあれば、と」

「なるほど…近くで夏祭りがあったはずだが…どうだ?確か再来週くらいだ」

「夏祭り…」

 

 施設の頃に行ったことはあるが、どうにも記憶が遠かった。唯一思い出せるのは花火の音くらいだろうか。人が多くて、見ようとした花火は全く見れなかった、気がする。

 それでもリフレッシュにはなるかもしれない。花火に屋台、それらを見ながら過ごして食事をするのは心身を癒せるだろう。

 

 しかし、人が多い。あくまでちょっとした疲れにおけるリフレッシュなら良いかもしれない。今の状態で人の多い所は余計に疲れさせてしまうのではないか、そう思えてしまう。

 私は無言のまま考えてしまった。魅力的ではあるも、他の方法。体を動かす系は避けたい。しかし、そうなれば一気に数は減ってしまう。

 

 砂浜で遊ぶ、いや子供っぽい。それに時間もかかる。却下。

 美味しい食事を取る。どうやって。何処に。却下。

 海で遊んで泳ぐ。体が疲れてるのに更にさせてどうする。却下。

 

 唸りながら思考を続けていると、小さな微笑ましい笑い声だった。エアグルーヴさんが私を見ながら、優しい瞳で見つめている。

 

「なんでしょうか」

「いや…アルヴはそんな顔が出来たんだな、と」

「…どんな顔ですか」

「気難しそうにしてるけど、優しい顔だよ」

 

 窓ガラスに映る自分の表情。いつものしかめ面により眉を寄せた表情。これが私の優しい顔なのだろうか。それにしてはやけにむすり、としている。エアグルーヴさんはそれにくすり、と笑みをまた浮かべた。

 少しだけ不服だった。

 

「あのトレーナーを紹介した甲斐があったよ」

「……えぇ、今では懐かしいですね」

「覚えているか?私を強くいられますか、と言っていたことを」

「覚えています。今思えば…正解でしたね」

「ふっ、本当にな」

 

 もうトレーナー契約を結んで三年目。どうにも早い。ジュニア級で初めて走ったことも、初めてトレーナーと話し合った手持ち花火の日も。そして、トリプルティアラもエリザベス女王杯も。全て私にとって余りにも直前の様に思えてしまう。

 目を瞑ればその日の情景が思い出せるような、彼との軌跡。

 私はトレーナーに何か恩返しが出来ているのだろか。人との繋がりを教えてくれ、そして導いてくれている。今疲れている彼に出来ること。

 

 花火。そういえばジュニア級で見た手持ち花火はとても綺麗だった。初めてトレーナーの本音に触れて、私の心にも触れたあの日の夜。クラシックでは閉ざしてしまったが、今ではもう違う。

 

「……エアグルーヴさん、夏祭りって…どこで行われるんですか?」

「…?確か……」

 

 そう言いながらエアグルーヴさんは携帯を取り出して、マップを出し始める。同じ市内でこの夏合宿場から15分程離れた場所。そこであればもしかしたら…

 

「……他で見れるかもしれない」

「他で?」

「いえ、何でもありません。少し思いついただけですので」

「そうか…?」

 

 私は会釈をしてお礼をし、そしてその場を立ち去っていく。宿場に備え付けられている合宿場全体のマップ。それと携帯のマップを照らし合わせながら私は指をさしていく。

 合宿場から15分程。それであれば恐らく離れた場所でも花火を見ることは可能なはず。この夏合宿場からでも見れる場所。

 

「ここね、ランニングコース」

 

 夜にウマ娘達がトレーニングでも使う場所。夏祭りの時期であればきっと走る人は誰もいないはず。あとは休憩場所で見れる所があれば良いのだけれど。

 それは自分の脚で確かめる必要がある。

 

「…確か今度…夜の練習でこのランニングコースを使うはず。その時に下見ね。あとは…」

 

 トレーナーを誘えるか。彼の事だから二つ返事で応えてくれるはずだ。きっと、そう思いたい。

 誰かを誘うのはもしかしたら初めてかもしれない。いつもは何かをするのにも一人で行動し、誘われて受ける方が多かった。トレーナーとも、正にそう。

 私が誰かのために。そんな日が来るなんて。

 

「────────ふふっ」

 

 思わず、緩んだ。何故頬が緩んだのか、そして笑ったのか。私は自分の頬を両手で触っていく。先程の緩みは消えている。

 今日は、変な日だ。

 

 

**

 

 

 夏祭りの一週間前。丁度昨日が山でのトレーニングだった。ランニングコースを走り、そして休憩を繰り返していく。急勾配ではないが、緩やかなその坂が膝と脚に負荷がかかる。必ず休憩を挟みながらしていく中で、一つだけ見つけた。

 

 三人で座れる青いベンチが一つ。そこに座れば木々が開けており、街を一望できる、とまではいかないが良く見える。その遠くで恐らく夏祭り会場も見え、そして花火も見えるはず。遠くではあるが、邪魔をされたり誰かに気を遣う必要は無いだろう。

 

 今日は遠泳だった。水着に着替えて泳ぎ続け、そしていつもの様に彼に呼ばれる。海から私は上がっていき、冷えないように体をタオルで拭き始めた。

 最近はこういった基礎トレーニングはトレーナーに見られることも少なくなってきた。見てくれるのは芝のコースを借りれた時だけ。私の事を信頼してくれている、それもきっとある。だけれど。

 

 ────────また、隈が酷い

 

 彼の目の下に作られるそれらは更に濃さを帯びており、体調不良なのか、と思わせる程だった。トレーナーが挨拶する手はいつもよりも小さく、そして声も同様で。

 

「…今日の遠泳、お疲れ様。トレーニングはこれで終了だから、後はゆっくり休んで」

「えぇ、分かったわ」

 

 タオルで拭きながら、彼は笑顔を見せてくれる。それが無理をしている笑顔でなければ、こんな心配をしなくて済むのに。

 

「トレーナー」と私は声をかけた。彼はぴくり、と反応をしていく。直ぐに「どうかした?」といつもの声色で返した。

 

「来週の夜。時間は空いてる?」

「…来週?ちょっと待ってね」

 

 彼は胸ポケットから手帳を取り出し、そしてタブレットと見合わせていく。何度か視線を交互させながら「何時?」と聞かれた。

「午後七時…そうね、三十分かしら」集合して山の目的場所に辿り着くとなるとそれくらいになるはず。それを見ながら、彼は少しだけ眉を顰めた。

 

「……八時は、ダメか?」

「駄目よ。必ずこの時間に来て欲しいの」

「…珍しいね」

「そう言うなら…必ず来て。宿場の入り口で待っているから」

 

 くしゃり、と彼は自分の髪を掻いていく。困ったような表情を浮かべてはいるが、来て貰わなければいけない。貴方の事を考えて、予定を編んだものだから。

 

「分かった。遅れたらごめんな」

「大丈夫よ。来てくれるって私は思ってるから」

 

 ふぅ、と大きな溜息を吐くトレーナー。私の後ろで両手を握り合わせていく。少しだけ力が入ってしまった。

 

 

**

 

 

 迎えた夏祭り当日。今日のトレーニングは終えており、私は体操服姿でトレーナーを待っていた。携帯を取り出す。時刻午後七時二十分。少し早い時間。まだ彼が来ない事に尻尾が落ち着かないように揺れている。

 宿場の入り口で私は壁にもたれかかり、空を見上げた。ふぅ、と息を吐いていく。肩からは学生鞄を下げており、中には飲み物を入れている。私とトレーナーさん二人分のものだ。

 

 今日は宿場には殆どのウマ娘はいない。夏祭りへ出かけており、残っているのは僅か少数のみ。いつもは騒がしい宿場も今日ばかりは虫の鳴き声に負けている。

 虫の声が心地良い。今日は天気も貼れており、月も見えている。今日の夜は蒸し暑くなく、むしろからっとしていた。絶好と言っても過言ではない。

 

 まだ、トレーナーは来なかった。携帯に視線を向ければあれから一分しか経っていない。もし来てくれなかったらどうしようか、少しだけ自分の腕を握り占める力が強くなった。

 

「あ…ごめん、待たせたよね?」

 

 視線をトレーナー達の宿場に向けると、そこには彼が歩いていた。トレーナーと視線が合うと彼は少しだけ小走りで近づいてくる。いつものカッターシャツとズボン。それではなく、もっとカジュアルな服装だった。半袖の黒いシャツにネイビーのパンツスタイルだ。

 

「待ってないわ。行きましょう」

「え…行くって、何処に?」

「山よ」

「…トレーニングの日では無いはずだけど……」

「行けば分かるわ。付いてきて」

 

 私が先導して歩きはじめれば彼は並ぶようにして付いてきた。お互いの距離を一歩程開けて、歩き続けていく。二人の足音、交互に地面を叩く音が鳴り、それを虫たちのメロディが合わせる様に奏でている。

 山のランニングコース。ランニングコースと言えど普通に歩く程度でも問題は無い。彼の服装でも大丈夫な初心者用。だからこそ、トレーニングにも最適だった。

 

 その中を歩いていく。彼はどうにも気になるようで「アルヴ?本当に何処に連れていくんだ?」と心配そうにしていた。

 その度に私は「大丈夫よ。心配ないわ」とだけ返していく。私の中で彼を驚かせたいと思う心境が出始めている。

 

 転ばないように時には手を差し伸べ、繋いでいく。足元に気を付ける様に言いながら、二人でただ歩き続けていく。そうして数十分ほどすれば目的の場所へ辿り着いた。

 携帯で時間を見れば、まだ花火まで時間はある。「着いたわ、ここに座って」とベンチをさせば彼は右端へ。私は左端へ座る。間には荷物を置いて、中から水筒を取り出した。コップにお茶を入れていき、トレーナーへ差し出していく。受け取った彼はそれを一気に飲み干し、そして返した。

 

「それで…こんな所に連れてきた理由は何だい?」

「…予定よりも早いのだけれど……」

「予定よりも…というのは?」

「知らない?今日は夏祭りよ」

「……あぁ、そうなのか…」

 

 視線を上に向けて、思い出すように彼は言葉を発した。それ程までにきっと彼は忙しかったのだろう。

 

「……最近、忙しそうね」

「あぁ、でも…これは必要な事だから」

「体を痛めつけても…?」

「痛めつけても。俺は……」

 

 景色に視線を向けたまま、彼はそれ以上何も語らなかった。喉が閉まる音と、漏れた吐息。開いていた唇は閉じ、トレーナーは地面に視線を落とした。

 ウマ娘とトレーナー。立場が違うため、彼の抱えている物は私が共感することは出来ないだろう。何かを聞こうとしても、踏み出せなかった。

 

 そうか、人の心に踏み込むのはこんなにも怖い事なのか。

 

 もし拒絶されたら、もし私の考えとトレーナーの抱えている物が違っていたら。きっとそれは相手を失望させる。私はきっと、一人でありたかったのは怖がりだったから。

 誰よりも怖がりで、失うのも、壊れてしまうのも、全部その感情が私は嫌いだった。

 

 トレーナーへ視線を向けると彼は此方を向いていた。その表情はやつれて疲れてはいるが、頬は緩ませている。嬉しそうな表情だ。

 

「なんであれ誘ってくれて嬉しいよ、アルヴ。こうやってのんびりする時間は久しぶりかもしれない」

「まだ、お礼を言うには早いわ。花火は始まってないもの」

「…ここで本当に見えるの?」

「見えるわ、きっと」

 

 風に乗って聞こえてくる祭囃子。そして楽し気な人々の声。遠くの方では屋台の明かりとぶら下げられた提灯の明かり。その明かりはここまで届くことは無かった。

 携帯を取り出しては、時間を見ていく。花火まで残り一分も無かった。携帯の電源を押し、画面が消える瞬間に時刻が変わった。

 

「…あっ」

 

 トレーナーの声が聞こえ、開いた景色に視線を移す。夏の夜空に一本の煌びやかな線。それが揺らめきながら上がっていき、最後には速度を無くしていく。頂点へ到達すれば、それは大きな音と共に鮮やかな黄色の火花が弾けた。

 また、打ち上がれば今度は赤色。連続するように花火たちは打ち上がり、何も映らなかった夜空に色彩を塗り始めていく。

 

「……こんなにも綺麗だったのね」

「…初めて?」

「二度目…ね。施設の頃は小さくて見れなかったから。トレーナーは?」

「俺?俺は…そうだな…」

 

 彼の考えている数秒。大きな丸い花火が打ち上がり、辺り一面に連鎖的に散らばっていく。それらが垂れ、そして消えていく中で彼は消えた夜空を見上げた。

 

「三度目、かな」

「…私より多いのね」

「そりゃあね。でも……過去見たのも、今日見るこれも……全部大切な思い出になるよ」

 

 その二回の思い出はきっと私とは違うのだろう。それが少しだけ気になってしまう。でも、それを聞くのは野暮だと思い、私は聞かなかった。まだ、花火は上がる。

 

「私も…今日の事はきっと…大切になる。そう思うわ」

 

 花火が上がり、弾ける火花は二人を照らす。消える光と音。人々の遠くから聞こえる笑い声。

 この景色は、心地よくも寂しい。

 

 

**

 

 

 九月中旬。夏合宿を終えて、トレセン学園へ帰ると既に夏の暑さはマシになっていた。都会特有の蒸し暑さ。早く終わればいいのに、と思いながらトレーナー室を訪れた。

 少しだけ久しぶりに彼と会う。夏合宿を終えた後はしっかりと体を休める必要があったため、休養を貰っていた。トレーナーも忙しそうにしているから休んで欲しい、と伝えたものの、苦笑いを浮かべていたあの顔は忘れられない。

 

 今日は次走のレースをどうするかを話し合う予定だった。金鯱賞から時間が過ぎているためだ。

 G2のレースを走り、まずは勘を取り戻していくのか。それともG1のレースを走り、強者たちと争うのか。どちらとも私にとっては構わなかった。

 

 心の迷いは時間が過ぎていく毎に無くなっていった。今はとにかくレースで走りたい。トレーナーに迷惑をかけてしまった。これは自分の心の問題。誰かに話してもきっと私は言語化することが出来ないから。だから彼にも話せなかった。

 扉の前で立ち、引き手に自分の手を伸ばしていく。久しぶりのトレーナー室。いつもであれば何とも思わないこの扉が重く感じた。指を引っかけて、ゆっくりと開いていく。がらら、と音を立てながら開いたそれが視界を遮らなくなり、目の前に映ったのは机に突っ伏しているトレーナーの姿だった。

 

 私は直ぐに荷物を置いて、彼に近づいた。もしかして、という嫌な予感は直ぐに安堵へと変わった。気絶をした、のではなく寝ているようだ。それにしては机の上は無造作だ。

 トレーナーの愛用している深い紺色の手帳にレースとトレーニングの資料。他にも教本が転がっている。

 訂正。寝ているのではなく、これは限界を迎えて気絶した。それが正しい。

 

「……全く」

 

 呟きながら机の上に散らばる教本を一つ一つ手に取り、机の端にまとめて置いていく。腕の下に置かれている資料も丁寧に取っては集めていく。一通り集め終えれば、とんとん、と机に叩いてまとめてクリアファイルの中へ。

 そうやってまとめていく中で最後に残ったのは手帳。机から飛び出した右手の中に握られており、それは今にも落ちそうだった。と思っていた矢先に音を立てて落ちていく。

 

 手帳は開くようにして落ちており、ページ側が床と付いていた。何か汚れがあってはいけない、と思っては拾い上げ、そして中身に視線を向ける。軽く汚れているため、掌で払っていく。何度か払えば綺麗な白色の用紙と書かれた文字。

 ぎっしりと埋まった予定だらけだ。朝から晩まで講義や教本を見終えるまでの予定。私の指導予定まで書かれている。時折、文字がはみ出しすほどに。

 

「これは…?」

 

 手帳を眺めていると一枚の紙が手帳から飛び出していた。指で摘み、そして引っ張り出していくと二つ折りされた小さなものだった。手帳を片手で持ちながら開いていくと次走について書かれた内容。G1の天皇賞秋、G2の京都大賞典。どちらを選ぶのかが事細かく書かれている。

 そして最後には『彼女を弱くさせてはならない』と力強い文字で書かれていた。

 契約した時の約束。それだった。これは彼にとって呪いの言葉に変わっていたのだ。

 

 私が勝てないから、トレーナーは弱くさせていると思わせてしまった。もっと私が早く話せていれば、きっとこんな事を思わせなくて済んだはずなのに。

 紙を手帳の中に戻さずに私はポケットへしまっていく。そして手帳自身は教本の側へ。

 

 私自身が話さなければもっと彼は抱えてしまうだろう。人に本音を話すのは、怖い。

 でも、トレーナーが一人で抱え込むのはもっと、嫌だった。

 今だけはそっとしておこう。起こしてしまえば、彼は頑張ってしまうのだから。

 

 

**

 

 

「…ん、あれ……」

 

 聞き覚えのある声が聞こえた。その声の主は机から体を離していき、何度か目頭を指で摘まんでいる。ぱちぱち、と瞬きを繰り返しては私と視線が合った。

 

「…アルヴ?あれ……うわっ!?ごめんっ!」

 

 外の風景と時間を見てはトレーナーは驚いたように飛び起きた。既に外は暗くなっており、夜空には星々が輝いている。外で練習しているウマ娘は少数であり、殆どが帰っている事だろう。

 彼は頭を下げ「本当にごめん!まさか寝てたなんて…!」と必死に謝罪の言葉を繰り返した。

 

「顔を上げて、トレーナー」

「いや…でも……」

「良いから、こっち」

 

 手に持って読んでいた彼の教本。それを自分の横に置いていく。

 私は対面のソファーに座るように指をさした。瞳だけ此方に向ける彼はそれを見てから、ゆっくりと頷く。そして歩き始めては座った。座るなり、また謝罪の言葉だ。

 

「ごめん…迂闊だった…今日は話し合う予定だったのに…」

「気にしないで。まず、これ」

 

 ポケットから取り出すのは手帳から抜き取った二つ折りの用紙。それを広げては彼の目の前に出していくと、その表情は変化した。

 強く結ばれる唇、トレーナーの瞳はそれを捉えないように彷徨い始めた。しかし、直ぐに諦めたように大きく深呼吸をしては「見たのか…」と小さく漏らす。

 

「…最近ずっと大変そうにしていたのは…これね?」私は最後に書かれた文字を指さしていく。

「そうだ。君に…一番最初に言われたこと。……それをしっかりと忘れないようにって…」

 

 あの契約は私がまだ信頼できていないときの防衛だ。でも、今は違う。私はトレーナーを信頼しており、弱くなったとも思っていない。弱くなったのは私の心のせいだから。

 精神が付いてきていないだけ。それを彼のせいにするのは無責任すぎる。

 

「……もう君を失望させたくないんだ。クラシックの夏合宿で言われて…やっとここまで君に信頼してもらった。だから…それに報いないといけない」

「違うわ、トレーナー」

「違わない。信頼してもらってるからこそ、俺は─────」

「お願い、聞いて」

 

 彼の言葉を遮るように言葉を告げた。直ぐにトレーナーは口を閉じていき「ごめん」とだけ呟く。 

 一度だけ、呼吸を整えていく。自分の体に溜まったものを吐き出すように。次に空気を吸うときは、己を吐き出すための言葉を。

 

「私はね、トレーナー………ずっと、怖かった」

「…どういうことだ?」

「スティルさんは関係ないと言っていたけれど、関係あるの。彼女が居なくなってから私はずっと…何を目的に走ればいいか分からなかった」

 

 ライバルが居なくなったことによる闘争心の欠如。一度目は己の証明のために。二度目はスティルさんに勝つために。三度目は、無かった。ただ走るだけで、何故走っているのか分からない。楽しいのかも、勝てて負けたことの悔しさも全て分からなかった。

 無だった。大きな穴が空いたような。

 

「彼女は楽しそうで私はずっと…嫉妬していた。あんな風に笑って走れたら楽しいのだろうって。だから…意識をしていた。ずっとこれからも………スティルさんと競うものだと思っていた」

 

 現実は違った。彼女は満足をした。私と走ったことで、競り合えたことで走る意味を無くしてしまった。私とは違うのだ。ただ走る意味を無くしたのと走る意味を満たしたが故の喪失は。

 私に持ちえないものを持っているスティルさんにはきっと、嫉妬し続けるだろう。これからも。

 

「大阪杯と金鯱賞……走っていれば意味が見つかるものだと思っていたわ。いつかは他のウマ娘みたいに走って勝ちたいって。誰かの憧れに、誰かと競い合って勝ちたいって。だけど────見つからなかった」

 

 ずっと暗闇で手を伸ばしてもがき続けても、光が差さなかった。歩き続けてもあるのはただの暗闇のみ。

 トレーナーは私を見据え、頷くことも、首を振る事もせずに私を見つめている。心の中を覗くような瞳。昔嫌いだったその目は、私にとっては今どんなものに変わったのだろうか。

 

「…だから、トレーナーのせいでは無いわ。私が良くなかった。早く話せていれば…苦しめることも…無かった」

 

 片腕で自分を抱きしめる様にしていく。これは私の話。ここからは、彼の事を聞かなければ。手が震える。喉が妙に渇き、心臓の鼓動すらも痛い。

 自ら踏み込むことは本当に、勇気のいること。

 

「…教えて。トレーナーがそこまで思い詰めたのは…なに?私は自分自身を弱くなったとは思わないわ。貴方の事をあの日から…ずっと信頼しているから」

 

 彼の視線は地面へ落ちていく。そのまま言葉に出さずに、また強く唇を結んだ。膝に乗せた両手が震えるほどに握られ、最後には緩んだ。

「…そうか」彼の呟きが聞こえ、その呟きは余りにも小さかった。

 

「…トレーナーに求められるのは……何か知っているか?」

「……分からないわ」

「勝たせること、だよ。ウマ娘に怪我をさせないのは大前提で…勝つことなんだ」

 

 勝つこと。勝負の世界において当たり前の話であり、勝者と敗者がいる以上仕方ないことだ。

 あまり意識をしたことは無かったけれど、求められるのは当然のことだと思った。

 

「金鯱賞で勝てないときに…勝てないのは俺のせいだと言う声が聞こえてね」

「それは…!」

「良いんだ。君の心持ちだとしても、それは事実だから」

 

 一瞬立ち上がりそうになるも、彼は制止するように手を伸ばした。私はその言葉に従うように座っていく。

 これではまるでトレーナーだけが悪いみたいになっている。

 

「有力なウマ娘が勝てない、となると最初はトレーナーだ。だけど、勝てないが続けば次はどうなると思う?」

「…………本格化の…終了?」

「…正解。期待もされず、最後には終わったと言われるんだ。本当に本格化が終わってようと無かろうと、ね」

 

 まだ、私はそこまで至っていないが、近い将来そう言われてもおかしくない。

 私に対しての落胆、呆れ。トレーナーだけではない。そうなる未来が。

 

「……アルヴはまだ走れる、勝てるウマ娘だと思っている。君に誓った以上、俺はアルヴがそんな風に言われて欲しくない。……それが半分」

「…半分?」

 

 そう言ったトレーナーはまた息を吸った。天井を見上げ、目を瞑っていく。両手は合わさり、落ち着きが無いように何度も指を絡ませていた。唇を震わせながら、私を見た。

 

「……怖かった。俺も。また……失ってしまうんじゃないかって…」

「………」

「あんなことまで言ったのに……アルヴを弱くさせて…結局は、また口だけって思われたらって…今度こそ本当にって…」

 

 私を見据えた瞳は、心を見透かすような瞳では無かった。潤み、小さな雫は垂れることなく、ただ私を映し続けていた。

 

「…嫌なんだ。やっとアルヴと分かり合えた。なのに……またなったらどうしようかって。俺は……」

 

 トレーナーの弱音。縁を失い、そしてその縁が繋がったことで大事だと知った。その大事だと知った縁は失われた。

 彼にとってそれが最も怖い事なのだ。結ばれた縁が失われ、消えゆく怖さ。

 その怖さは、私も知っている。

 

「情けないよな、ごめん…」

「情けなく、無いわ」

「……えっ?」

「私も一緒よ。私も……怖いもの」

 

 一度得た繋がりの暖かさはかけがえのない物だと知った。エアグルーヴさんとスティルさん、そしてトレーナー。繋がりの形は違えど、辿れば全て同じ意味を持つ。

 失うことは誰にとっても怖い。得たものが掌から零れ落ちれば、殆どの人は落ちないように掴むだろう。掴んで引っ張り上げて、そして安堵する。これが出来ないほどに早く落ちれば、取り戻すことも叶わない。

 

「…私も失いたくない。トレーナーとの繋がりは私にとって………」

 

 エアグルーヴさんは母親のようなもの。時にアドバイスをくれ、そして心配をしてくれる。

 スティルさんはまさにライバル。勝ちたいと思い、また走りたいと思える。

 彼は、なんだろうか。

 

「…そうね─────────支え合いたいと思うものよ」

「……っ」

「トレーナーが無理をするなら私が止める。私が無理をするなら…トレーナーが止める。そんな二人三脚……と言った方が良いかしらね」

 

 お互いに背中合わせで支え合う。これが私にとっての繋がり。誰の代わりにもならない大切な縁。

 

「…もう、無茶をしないで。私は…迷わないわ。それに…勝ちたいって今、思えたの」

「…どんな?」

「貴方の為に勝ちたい」

 

 負けるのは悔しい。勝ちたい。それは誰かの評価の為ではない。名も知らぬ者から賞賛されるためでもない。

 トレーナーへの恩返しのために勝ちたい。彼が組んだトレーニングが、レースプランが、私を強くして勝利へ導いてくれる。貴方のお陰で勝てたんだ、と胸を張って言える様に。

 

「それでは駄目、かしら?」

「…駄目、じゃないね。うん…駄目じゃない…」

 

 彼は顔を両手で覆い、頷きを繰り返しながら呟いた。顔を覆っていた両手を離したとき、トレーナーの表情は少しだけ和らいでいた。

「…ありがとう」と彼は告げてくる。それにどういたしまして、と返すのは何だか変だと思ったから、一つだけ微笑みながら頷いた。

 

「これで本当にお相子ね」

「本当にって……何がだ?」

「どちらかが嘘を吐いたり、約束を破ったりしない、お相子よ」

「…あー……そうか、確かに」

 

 お互いに本音を曝け出して話し合った。過去は関係ない。今のアドマイヤグルーヴ、そして今のトレーナーとして。なんだか妙にスッキリした気がする。胸のつっかえが取れたような気分だった。

 

 ふぅ、と一つ息を入れ直していく。ここからはレースをどうするかを話し合いたかった。本来であれば、きっとG2の京都大賞典で力を確かめるべきなのだろう。

 だけど、それではまだ恩返しにならない。仮に恩返しをするのであれば、大きな舞台で勝ちたい。

 

「…トレーナー、一つ我儘を言ってもいいかしら」

「あぁ、いいよ」

 

 あの用紙に書いてあった二つのレース。京都大賞典は適格、と書かれていたが、天皇賞秋は不適格とされていた。

 当たり前の話だ。暫く走っていないウマ娘がいきなりG1のレースなど無謀そのもの。だけど、一つだけ他のレースもあった。

 

「エリザベス女王杯を私は走りたい」

 

 去年のクラシック代表として走ったあのレース。今年はシニアとして走り、そして連覇をしたい。二連覇、殆どのウマ娘が成しえたことの無い偉業。

 勝ちたい、その欲求とトレーナーの恩返し。他の二つのレースも悪くないけれど、もし何かあれば辞退することになる。その憂いを無くすために全ての力をエリザベス女王杯に向けたい。

 

「…いきなりの強豪レースだぞ」

「いけるいけないの話では無いわ。私がそうしたいから」

「……分かった。なら、導けるようにしっかりとサポートするよ」

 

 そう告げたトレーナーはソファーから立ち上がり、机の方に歩いていく。私はそれに対して「待って」と彼を止めた。脚の歩みを止めて私の方に振り向くトレーナー。このまま行かしてしまえばまた無理をするはず。

 

「一つ、条件があるわ」

「え、どんな…?」

「休憩とか休むとか…必ずすること」

「それ…俺が一番最初に言ったのだよね?」

「えぇ、そうよ」

 

 ジュニア級の時に契約を結んだときのお互いの決め事。それが彼を縛り付けてしまった。それならば、その形を変えよう。

 

「弱くさせないこと。これは破棄で良いわ。十分強くさせて貰ったから」

「ははっ、つまりお互いにちゃんと休みましょうってことか」

「そうよ。休んだからこそ、見えるものもあるから」

 

 壁時計に視線を向ければ、まだ門限には時間がある。今帰ることも出来るが、仮に帰ってしまえば彼は無理をすることも考えられる。だから、私はソファーを立たなかった。

 そのことにトレーナーは不思議そうに見つめていたが「今日は一緒に出ましょう」とだけ言うと、彼は苦笑いを浮かべた。

 

「30分だけ、待って貰っていいかな?」

「大丈夫よ」

「ありがとう、アルヴ」

 

 私はそのまま教本を手に取り読み始めた。彼の読んでいる物を理解して、私もアドバイス出来るようになりたい。トレーナーだけに無茶をさせたくない。彼を支えるために、そして彼を────────理解するために。

 

 

 

****

 

 

 

 年月が過ぎるのはどうにも早い。年を取るとそう感じることも増える、と聞いたことはあるが、まだ学生の身である私がそう感じるだなんて。

 エリザベス女王杯に向けてトレーナーと二人でトレーニングとレースについて話し合った。今まではライバルに勝つための走りだった。だけど、これからは私らしく、そしてトレーナーを添えて走っていく。

 女王らしく、アドマイヤグルーヴとしての走りをするために。

 

 勝負服に身を包み、少しだけ見まわしていく。氷を想起させる色合い。今までこれは私の身を守るための棘を考えていた。誰にも触れさせず、触れられない。誰かに見て貰うつもりも無かった。

 今は違うけれど。

 

 京都レース場の控え室。私はトレーナーと二人でタブレットを挟むようにして見ていた。今日の私は二番人気。一番人気にはスイープトウショウという子が選ばれていた。

 トレーナーがタブレットの画面を指で操作すると彼女のプロフィールが表示された。

 

「スイープトウショウ、今日の一番警戒しないといけないウマ娘だ」

「確か…今年のクラシックの秋華賞を勝ったウマ娘、よね?」

「そうだ。追い込み型の子だね。一番この子の怖い所は…」

 

 もう一度トレーナーがタブレットを操作していく。複数のレース映像。どれも最後方に近い所から一気に追い上げてくるものだった。

 

「この末脚だ。正直かなりの速さだね。ただ、この子はなんというか…仕掛ける所が曖昧な時があるんだ」

 

 そうしてまた指でタブレットを操作した。最後に出てきたのはレース場。そのレース場に私とスイープさんの駒が表示された。

 

「仕掛けるのがやけに遅い、だね。だから、いつもの様に仕掛けて前へ出ていく。君の末脚で出ていき、その分のリードを作ればいくら彼女でも追いつけないと思う」

「分かったわ。他に気になるのは?」

「アルヴと同時期にティアラ争いをしている子達も出走するよ。言うなれば……囲んでマークしてくる可能性がある」

「なら…最後の直線で抜けるだけよ」

「あぁ、コーナーを曲がり終えれば膨らむからね。そこがチャンスだ」

 

 二人でおさらいを重ねていく。他に必要なことは無いか、何か忘れていることは無いかを話し合った。女王として返り咲くためには惜しまない。女王になるからこそ驕ってはいけない。

 

 話し終えれば既に壁時計は出走までの時間が迫っていた。控え室の扉越しから聞こえてくるお決まりの呼び声。やはり、時間が過ぎるのはとても早い。

 

「時間ね」と彼に告げて脚を踏み出していく。扉を開けた直後に「頑張って、アルヴ」とこれもまたお決まりの応援。それだけで手と脚に力が入る。

 瞳を閉じ、そして大きく息を吸った。少しだけ止め、最後には通路へ足を踏み入れる。かつん、と響き渡る私の足音。控え室へ振り返れば彼は笑顔を浮かべている。

 

「……行ってくるわ」

 

 小さく告げて、私は扉を閉めた。いつもより丁寧に。

 通路を歩き、パドックまで向かえば大きな歓声が聞こえている。去年と同じ二番人気。それでも去年とは違う。

 走る相手も、理由も。何もかも全てが。

 

 通路から出ていけば大きな歓声が聞こえた。まだ私の事を期待してくれる人たちがいる。それだけで少しだけ心が引き締まる。

 パドックで挨拶を済ませれば、やけに大きな声で周囲に何かを話している子がいる。ファンタジーの世界から出てきたような、魔法使いの服装。大きな帽子が目を引いた。

 その子は他のウマ娘に話しながら強気な表情だった。それでも彼女は笑顔も同時に浮かべていた。

 あんな風に誰かに対して色々と話せる子が羨ましいなんて思ってしまった。

 

 パドックから離れては向かう場所はゲートへ。多くの観客に見守られながらのゲートイン。背後から閉まる音が聞こえてくる。次々に閉まるゲートの音。一つ、また一つ閉まれば心が落ち着いていく。ここまで冷静になったのはいつぶりだろうか。

 視界が開けている。芝の揺らめきも、観客の声も、隣にいるウマ娘の呼吸も全部感じる。それが煩わしいと感じない。不思議な感覚だった。

 

『ゲートへウマ娘達が揃いました。17人によるレースとなります。本日は良バ場となっております。少々曇っておりますが、大きな影響は無いでしょう。さぁ、クラシックからは期待のスイープトウショウとなります。シニアからはアドマイヤグルーヴ、二番人気。続いて三番人気にはメールバースです』

 

 観客の声が聞こえなくなる。ゲートが開くまでの時間。溜めた呼吸を吐き出し、それに備えていく。そして、遂に開いた。

 

『スタートしました。スイープトウショウ少々遅れているか。まずは先行争いです。内からはオーロラカナタ。しかし、外からはトウショウバットが前へ出てくる。更に内側からはメロウメモリー。一番人気のスイープトウショウはかなり後方です。二番人気、アドマイヤグルーヴは中団となります。各ウマ娘、第一コーナーへ入りました』

 

 中団の真ん中。内側でも外側でもない場所に付いた。少し足を速めれば外から抜けることも可能な位置。悪くない。コーナーへ入ればそのまま走り続け、私は間を伺う。最前方のウマ娘はかなりのスピードで駆け抜けてるが、他の子は付いていかない。

 このレース、去年のクラシックで走ったエリザベス女王杯もそうだった。

 

『先手を奪ったのはトウショウバット、トウショウバットとなります。五バ身…いや六バ身と逃げ足を伸ばしていく。二番手には単独のオーロラカナタ。二バ身ほど差を付けてグロウデイズとなります。各ウマ娘は直線へ入っていく。中団、離れてアドマイヤグルーヴは外側へ付けている。さぁ、トウショウバット逃げる、逃げるぞ』

 

 坂を上っていく。コーナーを曲がった時に膨らみ、そして外へと出ていった。正面にはウマ娘がいるが、外側にはいない。最終コーナーまで走り続ければ、最後は大外から抜くことも出来る。視線を内側に向け、そして次は後方へ。走っている彼女達の表情が良く見える。前へ出るべきか、伺うか。スタートは良かったのか、それらが浮かんでいるのが分かった。

 また視線を前へ。芝の蹴り上げる音、息遣い。やけに気持ちいい。

 

『第三コーナー手前で上り坂、トウショウバットが入っていきます。続くように各ウマ娘も入っていく。トウショウバットは以前五バ身のリード。二番手にはオーロラカナタ。残り800mを切って、一番人気のスイープトウショウは最後方から二つ進んだところにいる。三番手にはメロウメモリー、そして少々離れてグロウデイズだ。三バ身程離れて、アドマイヤグルーヴここにいる』

 

 第三コーナーへ入れば背後のウマ娘達が更に追い上げてくる。その中で更に大外から駆け上がってくる子が二人。私の外側へ付くようにすれば、抜け出せなくなる。まだ大丈夫。

 いつもであれば焦って前へ出ようとしてしまうけれど、頭の中が澄んでいる。常に視線を動かし、どう動くのかが観察できる。それでも少しだけ、脚を速く動かした。

 

『トウショウバットのリードは二バ身だ!最終直線に入り、トウショウバットのリードは二バ身!後方、オーロラカナタが追い上げてきている!直線に入ったアドマイヤグルーヴ、エルモピークは前へ追い上げている!』

 

 最終コーナーを終えて、最後の直線。曲がり終えた時の膨らみ。一つの線がそこに見えた。ここで一気に駆け抜けるっ!脚を一歩、二歩と大きく踏み出しては加速していく。前へ出ていき、そして外側へっ!!

 

『トウショウバットへオーロラカナタが迫っている!単独二番手のオーロラカナタが…トウショウバットに並んだ!!そして大外からはアドマイヤグルーヴ!!アドマイヤグルーヴだ!!アドマイヤグルーヴが迫っている!三番手だ!!』

 

「…っは…!…っ!」呼吸を繰り返し、新鮮な空気で脳を冴えさせていく。前へ、ただ後は前へ出ればいい。もう二人の背中は見えている。追いつける。負けたくない、私が一番になりたい。

 脚を芝に叩きつける音、そして芝を掻き分ける感触。ぐんぐんと前へ進んでいく私の体は不思議と軽かった。

 

『アドマイヤグルーヴ!!外からアドマイヤグルーヴ!僅かながらオーロラカナタだがアドマイヤグルーヴ伸びてくる!!大外からスイープトウショウだ!!スイープトウショウの追い上げだ!』

 

 観客の声が一段と湧いた。恐らく、来ている。クラシックの代表として期待されているあの子が。ゴール板まで残り100m。背後から聞こえる足音は遠い。

 

『アドマイヤグルーヴ抜いた!アドマイヤグルーヴ抜いた!!』

 

 ゴール板の前を駆け抜けた。それと同時に大歓声が聞こえた。ゆっくりと脚の力を緩めていき、何度か足踏みするように前へ出ていく。観客席を向けば全ての観客が私に向いていた。拍手と私を呼ぶ声と共に。

 

「…勝った」私に言い聞かせるように呟いていく。小さな、誰にも見せない小さな拳を握りしめて、自分に引き寄せていく。

 不思議だった。今まで勝っても高揚感を湧くことはあった。だけど、これは今までとは違った。勝てた嬉しさであるも去年と違う。

 

「これが…そうなのね」

 

 楽しいと嬉しい。誰かのために勝てたことが。

 ──────────────────走る事が

 

 

**

 

 

「アルヴ!!おめでとう!本当に君は凄いよ!!」

「わ、分かったから落ち着いて、トレーナー…」

 

 控え室に帰るなり、彼は興奮していた。それはもう今まで見たこと無いほどの興奮だった。こんなにはしゃいでいるトレーナーは始めて見たかもしれない。私は思わず笑みを零してしまった。

 

「連覇だよ!落ち着いてなんかいられないさ!本当に…本当にアルヴは凄い事をしたんだ!」

「…そこまで言われると恥ずかしいわよ」

「あ、あぁ…ごめん…。でも、本当におめでとう、アルヴ」

「……ありがとう、トレーナーのお陰だわ」

「俺だけじゃないよ。君と俺が沢山考えて…悩んだから。…くさいけど二人の勝利、かな?」

 

 二人で掴んだ栄光。私とトレーナーが挑んだレースで、得ることの出来たそれら。

 きっと私にとって掛け替えのない物となる。その言葉を掴む様に両手で握りしめては、胸元に寄せた。掌を開いていき、離していく。妙に暖かった。

 

「今日は帰って祝勝会をして……次のレースはどうしようか」

「……一つだけ走りたいのがあるの」

「…?なんだ?」

「ジャパンカップよ」

 

 世界の強豪と戦うことができるレース。日本へ来るウマ娘はいずれも強く、そして日本から出走するウマ娘も強い。秋シニア三冠を取るために必要なレースであり、多くのウマ娘も狙っている。

 私はこのレースを走りたかった。今の私がどれくらい通用するのかも見たかったから。

 

「強いぞ、海外は。それに出走する子達も」

「構わないわ。だって、私が走りたいもの」

「…分かった。準備期間も短いから…またレースのプランやトレーニングは考えるよ」

「えぇ、それと…無理をしないでね、トレーナー」

 

 トレーナーの目の下に出来ていた隈は薄くなりつつある。表情も柔らかく、前よりは元気になっている。さっきまでの様子がまさにそうだから。余程な心配は必要ないけれど、それでもまたしないかが気がかりだった。

 

「そう言うアルヴこそ、無理に付き合わなくていいからな。トレーニングプランとかレースって本来トレーナーの役割なんだから」

「…忘れた?支え合う縁だって」

「……そう言われたら断れないけども」

 

 恥ずかしそうに頬を染めるトレーナー。また私は頬を緩めてしまった。彼と一緒に話していると最近自然とこうなってしまう。呆れてしまう事もあるけれど、それでもトレーナーを支えたいと思ってしまうのは私が毒されているからだろう。

 きっと、そうなのだから。

 

 

□■□■□■

 

 

 ジャパンカップ。エリザベス女王杯から二週間が経ち、その日を迎えていた。

 俺とアルヴは控え室で最後のおさらいをしていく。この日に向けてレースプランとトレーニングを考えていた。

 今回はエアグルーヴにも併走をお願いしていた。彼女は過去に走ったことがあるため、協力してくれたのだ。いつものトレーニングは基礎をメインにしていたが、今回はより実践をメインに進めた。

 

 理由は単純だ。ゼンノロブロイ、ヒシミラクルや現クラシック戦線を走り抜けてきたテラバーンにクライコーツ。そして海外ウマ娘達。

 今まで練習してきた全てをぶつけるために毎日の様に併走と振り返りを行った。勿論、トレーニング後にはちゃんとお互いに休むことも徹底して。

 

 しっかりと体を休めたことで脳のリラックスも出来た。今まで詰め込んできた知識達は無駄では無いが、詰め込んだだけでありアウトプットが出来なかった。現在は自分で考えることも出来る程だ。あれ程の無茶は今思えば健康にも、そもそもアルヴの為に考えるということにも良くなかった。

 今年最後のレース。これ以降のレースはアルヴの体を痛めつけるだけになるため、走ることは無い。だからこそ、しっかりと話し合いたかった。

 

「ゼンノロブロイの走り方は────」

「エアグルーヴさんが言っていましたけど────」

「海外から来たこの子は──────」

「それならばいつもより前目に───────」

 

 ウマ娘にとって大事な三年間の最後。来年からはどうなるかは分からない。二人で意見を交換し、煮詰めていく。

 俺が提案をすれば、彼女は更に重ねていく。彼女が思いつけば、俺がそれを昇華させる。時には熱を持ち、そして冷静に見極めていく。二人で話すからこそ分かることも増えた。

 

「アドマイヤグルーヴさん、準備をお願いします」

 

 控え室の外から聞こえてきたスタッフの声。壁時計を見れば既に時間が近づいていた。どうにも早い。話し合っていたが、タブレットの電源を押して切り上げていく。暗くなったタブレットの画面には俺と彼女の表情が写っていた。

 

「…色々話したけど、今年で最後のレースだ。悔いのないようにね、アルヴ」

「当然よ。走り抜けるだけ、だから」

 

 控え室の扉へ向かっていく彼女の背を追っていき、そして一緒に通路へ出ていく。彼女は少し驚きながら、此方を向いた。

 

「珍しいのね?いつもは控え室に居るのに」

「…祈ってたりしてたからね」

「祈る?」

「ジュニアの時とかクラシックの時、先生から貰ったお守りを握って祈ってから観客席へ行ってたんだ。無事に、そして勝ってほしいって。シニアでもお守り無しでしていたけどね」

 

 アルヴを見送った後、ルーティンのように行っていた。お守りは無くなってしまったが、どうにもこの癖が抜けなくてしていた。

 お守りが無い状態で両手を合わせて強く握りしめていく。その行為で何処か安心している自分も居た。

 

「止めることにしたよ。祈るぐらいなら、君に直接言った方が良いと思って。それを君に教えられたしね」

「…私からしたらトレーナーからよ?」

「じゃあ、お互いに教え合ったってことだ」

 

 微笑みながら彼女に告げれば、何処か呆れたように息を吐き出す彼女。しかし、優しい瞳だった。

 通路の向こう、パドックでは既に大きな歓声が聞こえる。彼女の名前を呼ぶ声も、そして他のウマ娘を呼ぶ声も。

 アドマイヤグルーヴというウマ娘の実力を疑うものは居ない、そう思えてしまう程に煩い歓声だった。

 このまま彼女を引き留めてしまうのも悪いだろう。「アルヴ」と彼女に視線を送りながら告げた。

 

「…えぇ、行ってくるわね」

「あぁ、行ってらっしゃい」

「……いつもと違うのね?」

 

 アルヴのウマ耳がぴんっ、と張られていく。同時に目元も見開いていた。

 頑張って。彼女は十分頑張っている。支えてくれる。そんな子に頑張っては似合わない。

 氷の女王となった彼女に必要なのは、これだけでいい。

 

「アルヴの事を信頼してるから」

「…ふふっ。じゃあ、その信頼している私を見てて、トレーナー」

「あぁ、見てるよ、ずっと」

 

 彼女にそう告げれば、お互いに背を向けて歩き出した。彼女はパドックへ。俺はアルヴの走りが良く見える関係者席へ。通路を歩いていると彼女との今までの事が脳裏を過ぎった。一歩一歩確かめる様に、彼女との軌跡を心に刻んでいく。

 階段を上がろうとした矢先に、歓声がより大きくなるのが聞こえた。アドマイヤグルーヴ。その名前を呼ぶ声だった。

 彼女の姿を見ようと脚を少しだけ早めた。誰よりも応援し、そして見続けるために。

 

 

 

****

 

 

 

「……来ちゃったね」

「…来たわね」

「では、またお食事の方をお持ちいたしますね~」

 

 ぱたん、と扉が閉じられた。残される俺とアルヴ。今目の前に見えているのは如何にも、という和室であり木製の低い机に座布団。窓側にはゆったりと座れそうな背もたれが深い椅子に大きな窓。風景が海を映していて綺麗だ。

 そしてこの部屋から視線を右に移せば、障子によって境目を作られるもう一つの部屋。そこに脚を進めて開けていくと、既に敷き布団がご丁寧に二つ引かれている。

 

「…荷物、置くか」

「…そうね」

 

 同意だけしている彼女。きょろきょろと周囲を見渡し、落ち着かない様子のアルヴに思わず吹き出してしまった。不服そうな彼女。またそれが良かった。

 それぞれ部屋の隅に荷物を置いていく。何とも言わずに各々がここが自分専用の場所だ、と言う風に。コートを脱いでは二人で一緒にハンガーにかけていく。

 

 何故、こうなったのだろうか。時間は少々戻る事になる。

 

 アルヴがジャパンカップを終えた後の話であった。一着を取ることは叶わなかったが、二着となったアルヴ。一着はゼンノロブロイであり、二つ目の冠を獲得したのだ。

 その後にゼンノロブロイが秋シニア三冠を取るのはまた別のお話になる。ただ、それ程の強敵を相手に競り合ったアルヴの実力も疑われることは無く、既に次走について何を走るのかを期待されていた。

 

 そんな折である。エアグルーヴから『商店街で福引をしたら手に入れたけど使い道がないからやる』とのことで温泉の旅行券を貰った。彼女はそう言っていたが、恐らくこれはご褒美、なのだろう。一年を走り抜け、頑張ったという名の。

 旅行券はペアチケットであり、誰かと行く必要があった。誰かと行こうにも相手は思いつかずに持て余し、机の上に置きっぱなしにしていた。生憎温泉旅行に行くほどの仲の良い人物は思いつかなかったのだ。

 来年に向けて書類の提出をするため、席を離し、そして戻って来た時にはアルヴの手にそれが握られていた。彼女はそれを眺めながら『これは、なに?』とだけ。

 

 この時に思いついたのだ、彼女に渡せば良いのでは、と。その温泉旅行券に指を指し、エアグルーヴから貰ったことを伝えた。それを手にした彼女は俺の方を見ながらこう告げた。

 

『貴方と、行きたい』

 

 最初は断ったのだが、彼女の強い意志によりそのままあれよあれよと予定が組まれていく。温泉だけではなく、近くを観光しようとなったり。要はお互いに頑張ったから一緒に疲れを癒そうの会、という所だ。

 そして、旅館に着くなり二人してぎこちなくなったのもまた、現実である。

 

 長時間バスに揺られていた為、既に時刻は夕方。チェックインぎりぎりで入れたのは幸運だっただろう。何度か首を動かせば、妙に骨の擦れる音。体が凝っている。

 

「先に…温泉に入ろうか…」

「そうね…なんだか疲れたわ」

 

 温泉は既に入れるとのことで、お互いに浴衣と着替えを持っていく。鍵をそれぞれ手に持ち、扉を開けていく。ぱたぱた、とスリッパの足音が廊下に鳴り響いていた。天井から照らされる淡いライトと木目の壁。歩いているだけで雰囲気を感じてしまう。

 二人で歩き続け、温泉のいつもの模様。それを見れば男湯と女湯で分かれている。

 

「じゃあ、また後で」

「えぇ、また」

 

 分かれて入っていけば、脱衣所。大きな鏡と洗面台。他に着替えが無かった。脱衣カゴの中へ着替えを入れていき、服を脱いでいく。自分の着ているものが無くなっていけば外からの冷気を感じた。

 寒い。直ぐに脱ぎ終えればタオルを手に持ってガラスの戸へ。

 引き手に指を添えたが、それも中々の冷たさを持っている。一瞬だけ引っ込めてしまうが意を決して開けていく。直ぐに冷気が体を襲った。

 

「さむっ…!」

 

 両手で体を擦っていき、足早に向かうのは、風呂桶へ。風呂桶を手にしては流れている温泉を掬い上げ、そして体にかけていく。それだけで寒さは和らぐも、暖かなそれらが流れ落ちていけば、また極寒。数度繰り返しては風呂桶を置き、足先から入っていく。

 肩まで浸かれば全身が暖まっていく。タオルを頭の上に乗せれば「あぁ~…」と情けない声。足先までの全てが心地よくこのまま寝てしまう程の心地よさ。

 

 空を見上げれば満点の星空が迎え入れてくれた。露天風呂と聞いており、もし雨が降ったらどうしようかと考えていたが、杞憂だったようだ。

 体を暖めてくれる温泉。夜空は輝く星々。そして流れ出てくる温泉の音。風情がある。

 

 目を瞑ればまた声が漏れ出そうだった。それ程までに静かだ。

 ふと、周囲を見渡せば誰もいない。脱衣所に服が置いていないから当然と言えば当然だが、旅館自体が静かだ。もっと他の人の声も聞こえてもおかしくは無い。

 耳を澄ませば聞こえてくるが少数だ。

 本日はクリスマス、それのせいだからだろうか。冷静に考えてみればクリスマスの聖夜に和装の旅館というのは風情があるのか。

 

 一旦考えるのは止めて、体の節々を揉んでいく。ただ揉んでいるだけで、妙に凝りが取れているように思える。相当疲れているらしい。ここ一年、無理をしすぎた。来年はどうしたものか。

 目の前に広がる温泉を両手で掬い上げて、落としていく。指から落ちていくそれらは、夜空を写していた。

 まだ、来年がある。考えようにも色々と湧き出てくる。

 

 アルヴのトレーニングは勿論だが、更に挑戦したい事。来年はアルヴの春シニアとして他のレースも走りたい。それにチーム運営もしたい。アルヴだけではなく他の子を育成し、次世代へ。

 海外なんてありかもしれない。彼女の力がどこまで通用するのか、そして俺自身の知恵を持って、挑んでみたい。

 

「…未来ってのは…分からないなぁ…」

 

 ぽつり、と呟く。湯煙の中で呟くそれらは、ただ揺らめいて星空へと消えていった。

 

 

**

 

 

 温泉から出ると既にアルヴが待っていた。湯冷めしないか心配したが、どうやら彼女も丁度出てきた所だったらしい。彼女も俺と同じ浴衣姿になっていた。

 二人で向かうは先ほどの部屋へ。湯で濡れた彼女の髪や肌は何処か艶やかだった。アルヴの表情も柔らかくしっかりと癒せたことが伺える。それだけで頬が緩んだ。

 

 部屋に戻れば既に食事が用意されていた。目の前に広がる和食の数々、豪華という一言で表して良いのだろうか。蟹に河豚、マグロやイカの刺身といった海鮮の集まり。綺麗に盛り付けられており、生唾を二人で飲み込んでしまった。

 互いに対面に座ってはそれらを食していく。舌鼓を打ったのは言うまでもない。

 

「これ、美味しいよ。食べてみて」

「こっちも美味しいわ」

 

 お互いに食べたものを勧め合っていく。口に入れるだけで蕩け、彼女もいつもより興奮気味だった。こんな豪勢な食事を前に落ち着く方が無理があるだろう。

 食事を食べ終えれば見計らったように最後には二つのモンブランが出てきた。やはり、クリスマスということで最後にはこれである。

 数々の和食の最後にケーキ、という疑問はさておきそれも美味しかった。甘く濃厚な栗の味わい、一口食べる度に味わうように口を動かしている。

 

 最後には食べ終え、二人でご馳走様、とした。食器を片付けられていくのを見終え、テレビを付けては番組を見ていく。どの内容も殆どがクリスマス特番であった。

 他愛のない雑談。施設の頃のクリスマスの思い出や来年はここに行きたい、レースとは関係のないプライベートな話をしながら二人で広げていく。

 手に持った暖かなお茶を飲んでいけば、彼女も合わせる様に飲んでいく。喉から伝わり胃へ落ちていく暖かなもの。ふぅ、と小さく息を吐いた。

 

 小さな日常。こんなにものんびりとした時間を過ごしたのはいつぶりだろうか。

 

「くぁ…」と大きな欠伸をしてしまう。壁時計の時間を見ればまだ九時前だ。寝るには早すぎるが、それでも体の疲れはやはり溜まっている。これ以上起きることも出来るが、ここは本能に従うことにしよう。

 

「俺は寝るよ…アルヴはどうする?」

「…私はもう少し起きてるわ」

「分かった。ちょっと仕切りを作るから待ってて」

 

 同じ部屋で教え子と寝るのは流石にまずい。一応部屋を別々にして欲しい事を伝えたが、ペアチケットの性質上それは駄目、とされてしまった。渋々了承したが、次は気を付けないと。

 障子を開けては二つの敷き布団。片方を手に持っては引き離していく。あとはこの間に何を置こうか考えていた。うーん、と唸って考えていると「ねぇ」とアルヴから声をかけられた。

 

「どうした?」

「壁の方に向いて座って」

「え、なんで…」

「いいから」

 

 彼女に理由を問いただそうとすれば言葉を遮るような強みのあるもの。小首を傾げながら俺は壁を見つめていく。そしてベッドの上に座れば、背後から歩いてくる音。

 ぽすん、と何かの音が聞こえれば、背中に当たるのは暖かな体温だった。

 

「アルヴ…?」振り向こうとすれば彼女は「振り向かないで」と告げた。そのまま壁を見つめながら、ただ無言の時間が数秒過ぎた。

 背中から伝わるアルヴの体温。時折首元に当たる彼女の髪の毛が擽ったい。どうやら背中合わせのようだ。

 

「……もう、三年ね」

 

 感慨深そうに小さく告げる彼女の声。そう、三年だ。早かった。長かった。どう捉えることも出来る三年だ。

 

「……私は…トレーナーにスカウトされて良かった」

「…俺も君をスカウトして良かったよ」

 

 あの日、彼女を見ていなければ俺はスカウトをしていたのだろうか。たまたま他で見ていたとしてもどうなっていたのだろう。

 考えても仕方のない事ではあるが。

 

「来年は…考えてる?」

「考えてるけど…まだ決まってないかな」

「例えば?」

「例えば…そうだね、チーム運営とか」

 

 この三年間はエアグルーヴにお世話になっていた。併走も彼女ばかりを頼っている。本人は気にしていないが、彼女に負担をかけているのは事実だ。

 チーム運営をすればアルヴも刺激になり、エアグルーヴの負担も減らせる。最終的にはチーム内、だけではなく他のチームに併走依頼が出来るだろう。

 勿論、担当した子が走って勝ってくれる、というのはトレーナーとして嬉しい事ではある。

 

「チーム、ね。そうなったら私は…先輩…」

「だね、皆を引っ張っていくことになる」

「他には…?」

「来年のG1に…出来るなら海外も考えたい」

 

 指折りながら温泉で考えたことを口に出していく。アルヴの適正距離のある国内G1制覇、海外のG1勝利に栄光ある凱旋門賞。他にもトレーナーとして他のトレーナーと関わり合いを持ち、より高みを目指す。自分のサブトレーナーを持つなんて良いかもしれない。

 そんな事を話していれば、彼女の体重をより感じる。少しだけ押し付けているようだ。

 

「というか、俺よりアルヴは…?ないのか?」

「私?…そうね……」

 

 彼女の髪がより首元に触れるのを感じる。すぅ、と息を吸う音が聞こえた。

 

「私は……もっと走りたいわ」

「今よりも?」

「今よりも。だって…悔しいもの。今年走って勝てたのはエリザベス女王杯だけ。だから…来年はもっと走って勝ちたい」

 

 思い返せば今年は四戦一勝だ。唯一勝利を得たレースはエリザベス女王杯のみ。それでも十分すぎるぐらいだが。

 

「トレーナー、私はね。自分の為に勝ちたい。トレーナーの為にも勝って……お礼をしたい。そして…エアグルーヴさんの様に誰かに背を向けられるような走りをしたい」

 

 彼女の背から伝わる言葉の節々に想いが込められていた。自分に言い聞かせるように、そして宣言のようだ。首を動かして、天井を見上げた。

 自分の証明のために走っていた子が、誰かのために、そして証明とは関係なくただ己のために。

 

「…エアグルーヴさんとトレーナーの二人に教えられたから。誰かとの繋がりはとても大切なことだって」

「君から……そんな…言葉を聞くなんて」

「私も変わったもの。失うのは怖いけれど、それでも…大切にしたいわ」

「……俺もだ」

 

 背中に当たる体温、それが離れていく。「アルヴ?」と声をかけるよりも早く彼女は隣に座り、そして頭を肩に預けてくる。より触れる暖かな体温。視線を向けようとすれば「見たら、駄目よ」と言われた。

 触れている彼女の肩は震えていた。

 

「……トレーナーにとって私との縁は……なに?」

 

 震えながら告げる彼女の言葉。手で振り払えば簡単に消えてしまいそうだ。

 視線を彼女を捉えないように、ただ前を見据えていた。彼女との縁、支え合うも見守りたいも違う。言うなれば支え合うが近いけれど、もっと近い物が相応しいと思った。

 

「寄り添う、かな」

「……寄り添う、ね」

 

 小さく同じ言葉を告げた彼女の言葉は、柔らかかった。噛みしめる様に、何度か頷きも加えている。彼女も今はそうなったのだろうか。

 

「トレーナー……覚えてる?昔私に聞いたこと、ジュニアの楽しい?って話」

「……言ったか?」

「言ったわ、私は覚えているもの」

 

 突然の事で、どうにも思い出そうにも出てこなかった。ジュニアの時、彼女に尋ねたこと。何度も思考を巡らせるも出てこない。彼女は続くように「手持ち花火」と言った時、思い出せた。

 そう言えば確かに聞いた。あの時は彼女は無言だった。それはしょうがない話ではあるが。

 

「…私は…ずっと分からなかったの。凄く小さい頃はもう覚えていないし、覚えていても…証明するために走っていたから」

 

 浴衣の裾を強く握られる。彼女の声が震えていた。それでもしっかりと吐き出し、時には大きく息を吸っている。一度吐けば、また続いた。

 

「だから…分からなかったわ。スティルさんが居なくなって…どうしたらいいんだろうって。結局、私は何かに囚われていなければ走れないんだって」

「………」

 

 言葉を発さずにただ彼女の話を聞いていく。思い当たることは確かに何個かある。証明、誰かの為、誰かに勝ちたい。何かを為しえるため、なのだ。

 

「…最後のジャパンカップ、あれだけは違うわ」

「……?」

「あれは……私が走りたかった。誰かのために走りたい、よりも私が──────楽しいから」

「…それ、は…」

「勿論、さっき言ったトレーナーとかもあるわ。でも、走りたいって思うのは楽しいから。最後の最後で結局…私は自分のため、ではあるけれど…」

 

 両手を強く握りしめた。今まで誰にも見せなかった彼女の感情。心臓が締め付けられ、唇が震える。言葉にして何か返そうとしても出なかった。目元が揺らぎ、視界は捉えることが出来なかった。

 

「…良いんだ、君を…アルヴを……支えたいってずっと……」

 

 言葉として返そうとしても、どうにも出せない。喉から絞り出そうとしても、もう掠れた吐息しか出ない。

 

「…ずっと…アルヴに……ごめ、ん…」

「…!もう、泣いてるの?そんなに泣かないで」

「だっ、て……」

 

 ずっとずっと彼女のためになれば良いと思っていた。彼女が走り続けてくれたらそれだけで嬉しいと思っていた。でも、それは果たして正しい事なのかは分からなかった。

 誰かに強要されるだけではなく、自分のために走る事が最も良いのだと。

 その走る理由が、証明でも、ライバルに勝ちたいでも、誰かの為ではなく、最後が楽しい、のだと。

 

「よか、った…本当に………よかっ…」

「トレーナーのおかげよ。だから…ありがとう」

「あぁ…っ……」

 

 何度も目元を拭っても溢れ続けてしまう。その溢れるものは暖かく、そして零れ落ちて欲しくなくて目元を強く押さえた。それでも逆らうように溢れ続ける。

 

「……っ…俺は…」

「何も言わなくていいわ。十分伝わったから」

 

 自分の頭部に当てられる彼女の掌。優しく頭頂部から後頭部へ手が滑り落ちていく。繰り返す優しい動きは、俺の心を震えさせた。

 止まらなかった。情けなかった。大の大人が、声を出さないように必死になって涙を拭き続けている。それでも彼女は幻滅せずに、ただ優しく見守ってくれる。

 

 誰かのために、そうずっと思って。

 いつかは憧れたあの人のように、そう願って手を伸ばし続けた。

 形は違えど、曲がり角にぶつかりながらも、やっと辿り着けた。

 

 アルヴの手は、暖かった。

 

 

□■□■□■□■

 

 

「…これだとどっちが大人か分からないわね」

 

 太腿の上で眠るトレーナーの姿。顔を私とは反対側に向けて、気持ちよさそうに眠っている。

 あの後、無邪気な子供のように泣きじゃくった彼は疲れて眠ってしまった。今までの疲れと泣いたことによる疲労。これでは正に小さい子。

 彼の瞼に一粒の雫が付いていた。その雫を人差し指で拭っていく。くすぐったそうに声を漏らしていた。

 

 もう一度だけトレーナーの頭を撫でていく。少しだけ硬い感触の髪質と撫でていけば何処かさらり、とした心地よさ。それをするだけで寝ているのに彼は頬を緩ませている。 

可愛らしい、と思ってしまうのはそれだけ私も絆されているのだろう。悪い心地はしなかった。

 

「私は…本当に感謝しているの。貴方のせいで沢山…悩んだ。沢山苦しんだ。沢山………嬉しかった」

 

 寝ている彼に告げるのは卑怯かもしれない。それでも、聞こえていない彼に、記憶に残らない今であれば話せると思った。

 まだ、全ての本心を話すことは恥ずかしい。それに怖い。少しずつ、トレーナーに歩み寄れたら私はそれで構わない。

 

「…一人だったらこんな気持ちにもならないのに。ずるい、ひと」

 

 近くにトレーナーが居るだけで落ち着いてしまう私がいる。彼の為に頑張りたいと思ってしまう。今までの私では考えることも出来ない。随分変わってしまったのだな、と思い返す。

 ジュニアの頃の自分。それを思い出せば、改めて酷い事ばかりをしていた。人の約束も守らない、クラシックに至っては人のせいにしている。

 

 私一人で全て問題ない、と思っていたものが、今ではそれが寂しいものなんだと感じるなんて。

 本当に彼は、不思議な人。

 

 また、頭を撫でていく。今度は一度だけでは足りずに二度、三度と撫でてしまった。四度目を撫でようとしたときに、トレーナーの手が動いていた。何かを求める様に指を曲げてはまた伸ばした。

 その手に私は両手を近づけた。彼の両手を私の両手で包み込んでいく。トレーナーの手の動きは無くなり、心地よさそうに寝息を立てていた。

 

「離れないわ。これからも、ずっと。だって…貴方は私のトレーナーさん、だから」

 

 彼の手と私の手。これからもこの繋がりは続いていく。来年も再来年も。他の繋がりも交えて、広がっていくことだろう。そしてそれらは消えていくこともある。

 それでも、私とトレーナーさんの繋がりはずっとずっと続くことを祈りたい。

 彼との繋がりは手放したくないから。

 

 

 

 

 

 

 

===============

 

 

 

 

 

 

 

 

 家族。血の絆で結ばれていき、そしてこれが途切れることはない。血の絆は愛へと変わり、そして永遠に結ばれ続けていく。どんな形であれ、純粋で純潔で。私が得ようと努力をしても得ることは叶わない。

 孤児。親がいない子供。血の繋がりを絶たれ、あるべきものは無へと変わってしまった。優しい言葉、欲しいもの、触れられた体温。それらは本物ではなく偽物。本物には一切敵う事のない暖かなもの。

 親がいる子供といない子供。どちらが幸不幸か。自分という存在が満たされ、そして証明ができるのか。

 

 答えは決まっている。

 

 だから、私は────────1人でいい。

 

 1人でいることの寂しさを知った。

 1人でいることの限界を知った。

 1人でいることの怖さを知った。

 

 全てはある人から教えて貰った事。もう、私は1人で居たいとは思わない。誰かと縁がある事で初めて強くなれるんだと。立ち直る事も出来ることを知ったから。

 孤高はどこまでいっても孤独が待っている。失うことを怖がり、最初から手放しているだけ。

 孤高というのは怖がりを隠すための防衛。

 

 今でも私は怖い。誰かとの縁が壊れてしまう事も、失う事も。それでも見ない振りをしたくない。

 暖かなものを知ったから。

 かけがえのないものを知ったから。

 頼れるようになることを知ったから。

 

 親がいる子供といない子供。どちらが幸不幸か。私自身であるために、誰かのためになれるのか。

 

 答えは決まっている。

 

 だから、私は────────繋がりを知った。

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