敵の戦闘からなんとか生き延び、私は初めて森の外に出た。その時は全てが未体験のことばかりで、これからどうやって生き延びようかと悲観的な気持ちになったものだ。だが今振り返ってみれば私の心配は杞憂だった。
森の外には人間が設置した街頭なるものがそびえたっており、夜になればそこに虫が集まってくる。しばらく昼間は身を隠し、夜になればその虫を食って暮らしていた。私は先の戦闘から敵から身を隠すこと、休息の重要性、人間、そして同族の危険性を学んだ。食えるものを枯渇するまで食い尽くし、また探しにいくよりこの方が楽だ。人間の言葉でいうなら省エネだ。
季節が春から夏になる時期だったのは幸運だった。虫が大量に繁殖するため食料には困らなかった。あのまま冬になるまで森で暮らしていれば、そのうち餓死していたかもしれない。そういう意味ではあの男は私の人生においてターニングポイント、いや、あいつを少しでもよく言うのはムカつくので踏み台と呼ぼう。
私は空き地の一角に生えていた木に昼間は枝に見えるよう擬態することも覚えた。これではカッコウというよりヨタカであるが、別に私はカッコウであることに固執してるわけではないし、そもそも首から下も私が侵食したせいでなくなっている。名残として私が狩りをする際にはカッコウのような鳥型になるが、それだってその姿にならなくてはいけない、絶対なりたいというわけではない。
それに枝になるのは楽だ、動かなくていいのだから。想像してほしい、昼間は好きなだけ寝て、夜に好きなだけ食事をする。人間はこういう生き方をニートと呼ぶのだそうだ。まあ私は野生動物なので食事は自分で調達しなければならないが、人間のニートは衣食住を他人に世話してもらえるらしい。ニートは他の人間からバカにされる社会の底辺らしいが、なぜそんなニートを人間は世話するのだろう?
ともかく休息できるための場所と方法を手に入れた私は以前よりはゆったりと暮らすことができるようになった。時間に余裕が出来たので、私はその頃から人間を観察することにした。まあ遅めの勉強だ。観察といっても遠巻きに見ているだけだったが、少しずつ言語を理解できるようになった。流石に顔を変形させてしゃべるわけにはいかない──そんな生首が公園にいたら目立ってしょうがない──ため、聞いて覚えるしかなかった。
そんな苦労をしながらようやく言語を習得し、ようやく空き地暮らしにも慣れ始めたころ、またしても予期せぬ闖入者が現れた。そう、またしても同族が私の前に現れたのである。