ミシュラとして、ガイラーシュと戦ってから二日後。
その変身者であるアスカは、苛立たしげに手元の携帯端末を覗きこんだ。
端末はメッセージを送信し合うアプリの画面を表示し、アスカは送信相手との数回のやり取りに目を滑らせる。今日の日付を記すタイムスタンプから上へとさかのぼり、迎えに来る場所と日時を、手近な標識と画面隅の時計表示に照らし合わせる。
既に1時間は約束の刻限を過ぎていた。
アスカは思わず舌打ちが出そうになるのを、鋭く息を吸い込んで堪えた。
日が昇ってすぐの街が起き始める時間。オフィス街の一角では車の行き来が徐々に増えつつある。今日を生きる決意または絶望を肩に載せた通行人が、佇んでいるアスカに目も暮れることなく通り過ぎて行く。
こんな往来の中で一人ぶつくさ文句を垂れる訳にはいかないが、ここまで待たされる予定もなかった。
早朝とはいえ、8月は猛暑が続く季節。昼間には35度を越えるその暑さの片鱗は、既にこの時間からも垣間見える。
アスカは街路樹が落とす影に身を寄せた。
再び端末に目を落とす。
今日のタイムスタンプから下へ指をスワイプしていけば、「すぐに行く」との相手からのメッセージ。
だがその下には、10分毎に超過時間を
テキストボックスをタップすると、指が自動機械さながらに正確に文字を打ち込み、これまた正確にボタンをタップして送信。
『1時間10分』
すぐに既読と返信がついたが、その文面に求めていた言葉がなかったことを確認して、意識を切り替えるように端末の画面を落とした。
所在なく宙に視線を巡らせ、唇の裏を吸う。
相手に電話を掛けて直接声を聴く気はなかった。なにせ彼は、特定の人間にしか応じない。
彼の立場や身分上そうせざるを得ないからだ。
やりとりは文面上のみ、ただひたすら待つしかない。
アスカは項垂れるように瞑目した。
暑さに辟易して深く溜め息を付く。
公園の給水器で呷るように水を飲んだのに、もう喉は干上がっていた。
前に食事を取ったのは2日前のおにぎりが最後で。それ以外を水だけで過ごしている。懐がもう無いのだ。恵んでもらうことでしか満足に腹を満たせない程には。
最低限の衣、住を維持するだけの金が手元にあるのみである。
アスカはそれを食事のために使うことはしなかった。少なくともアスカの人間構造は他人とは違う。自身の経験則により裏打ちされた判断基準が、修行僧じみた厳格さで財布の紐を緩めることを許さなかった。
倹約家にでも褒められそうな精神力だ。
それに懐を潤す目処は立っているのだ。
だから今も、その精神力でここに立っている。
まあ、それはそれとして遅刻した時間は送り続けるが……。
アスカはふっと目を開いた。
動いた手が向かう先は携帯をしまったポケット、ではない。
「すみません。落としものでスよ」
長細いプラスチックで出来たしおりだった。
路肩に音もなく車が滑り込んできたのは、ちょうどアスカが落とし物の主に深く感謝されている時だった。
黒い車体に中を伺えないほど黒い窓ガラス。如何にも要人用の車両といった面構え。
アスカが車の方を見やったことで、運転手はアスカの存在を確認したのか、後部座席の左ドアがひとりでに開く。
アスカは両手が膝に付くほどに頭を下げる人に「もう行きまス」と、声だけかけて車内に身体を押し込む。
間もなくして、車体は静かに発進し、交通の流れへと溶けこんだ。
車内に効いていた冷房の涼しさに一息つく。
アスカが隣に気配を感じて見れば、右後部座席に
センターで分けたブルネットの髪をワイルドにかき上げ、黒い背広を折り目正しく着こなす若い男だった。
歳はアスカとそう変わらなそうない端正な顔立ちで、細い銀のフレームの眼鏡越しに、
その顔には損得勘定で人を駒と扱う冷たい知性。何度、人を
だが紙をめくる
彼がアスカを1時間も待たせた人物、
「銀光さん」
運転手が申し訳なさ気に声を掛けた。
それで銀光はアスカに目線だけ向けた。伏目がちの瞼に砥がれた、小剣を思わせる鋭い瞳。
アスカは車に乗り込んで、既に走りだしている。交差点も2回曲がった。
アスカは表情をピクリとも変えずに
銀光は首肯するように目を閉じた。資料をドアポケットにしまい、眼鏡を外す。
眼鏡がなければますます、その顔に刀剣じみた殺意が宿る。
銀光が薄い唇を
「おつかれ〜ミシュラちゃ〜ん」
賑やかな声が静かな車内に響いた。
先に感じた人物評のすべてを覆すように、銀光は殺人的な顔を破顔させた。
アスカの何十倍は自然な笑顔だった。
・アスカ
ミシュラに変身する。
・銀光(カネミツ)
陽気な殺し屋みたいな人。