地霊殿の重厚な門を抜け、勇義との待ち合わせ地点へと辿り着いたさとり一行。しかし、そこに約束していた彼女の姿はまだなかった。
「……少し待ちましょうか。勇義のことだから、どこかで一杯引っ掛けているのかもしれないわ」
さとりの言葉に、お空が「はーい!」と無邪気に翼を広げ、お燐の背中に飛びついた。「ちょっとお空、危ないってば!」とお燐がやれやれと苦笑いしながら応じる。そんな平和な……あるいは緊張感のない光景を、積怒は視界の端に入れながら錫杖を握りしめる。
「ええい、あの怪力女め……わしを待たせるとは何事だッ!」
積怒が錫杖を苛立たしげに鳴らしたその時。どろりとした湿り気を帯びた声が響いた。
「あら、さとりじゃない。ペットたちと仲良く外出なんて……妬ましいわね」
現れたのは、茶色を基調とした着物に身を包み、周囲に負のオーラを漂わせる少女、水橋パルスィだった。
「……パルスィ。いつもは橋の番から滅多に動かないあなたがこんなところに居るなんて珍しい。何かあったの?」
さとりの問いに、パルスィはそっけなく顔を背けた。
「別に、ちょっとした野暮用よ。用が済んだらすぐ戻るわ」
だが、彼女の視線はすぐにさとりの後ろ――不機嫌な表情で佇む積怒へと向けられた。
「それより……今日はいつものペットだけじゃなく、妙な奴も一緒にいるじゃない」
その射抜くような、それでいて底知れない闇を孕んだ瞳に対し、積怒は本能的に嫌悪感を露わにし、剥き出しの反抗心で睨み返した。
積怒の肩で、豆粒のような本体が「ヒィィ……!」と髪の中に潜り込む。
「そういえば、あなたたちは初対面だったわね」
そんな一触即発の二人の間に、さとりは平然と割って入った。
「紹介するわ。彼は半天狗。霊夢が地上で拾ってきた、外の世界の鬼よ。……そして、この不機嫌そうな方は積怒。半天狗の能力によって生み出された、怒りの分身のようなもの」
さとりは積怒の方を向き、パルスィを指し示す。
「彼女は水橋パルスィ。地底と地上を繋ぐ縦穴の先にある、大きな橋の番人をしているの」
「番人だと……? この小娘がかッ!」
積怒が鼻で笑おうとした瞬間、パルスィが吐き捨てるように、冷酷な一言を放った。
「ソイツが例の鬼……。ふん、見て損したわ。妬ましさの欠片も感じられないわね」
「…………なんだと?」
さとりは、予想していた反応が返ってきたことに、困ったような、それでいてどこか納得したような面持ちで片目を瞑った。
パルスィという少女は、地上から来た博麗霊夢や霧雨魔理沙といった者たちからは、ただの偏屈な嫌われ者として散々な評価を受けている。
だが、心を読めるさとりだけは知っていた。彼女が吐き出す「妬ましい」という言葉の裏側には、相手の美点、強さ、あるいは幸福な魂の輝きに対する、歪ながらも純粋な「尊敬」や「憧れ」が潜んでいることを。
外の世界で数多の嘘を重ね、自分自身すら騙して空っぽのまま生き永らえてきた半天狗。その在り方は、地底の住人から見ても、あまりに歪で、共感の余地すらない「虚無」だった。
「貴様ぁッ!! わしらには、妬む価値さえないとでも言うつもりかッ!!」
積怒の怒声と共に、錫杖から漏れ出した火花が地面を焼き、1発の雷鳴を轟かせる。これほどの「怒り」という強い感情を剥き出しにして食ってかかる相手に対し、パルスィは眉一つ動かさずに、冷めた瞳で積怒を射抜くと一蹴した。
「ええ、そうよ。怒鳴り散らして自分を大きく見せようとしたところで、あんたには私が妬むほどの輝きも、中身もないわ。……ただの、見苦しいだけの空っぽな影」
「……ッ!!」
積怒の血管が浮き上がり、握りしめた錫杖がミシミシと悲鳴を上げる。自分の存在すべてを否定されるような、今まで経験したことのない種類の屈辱。
肩の上の本体も、パルスィの放つ絶対的な拒絶に、声も出せずにガチガチと歯を鳴らして震えることしかできない。
「やめなさい、積怒」
さとりが静かに、だが抗いがたい威厳を持って制止した。
「パルスィに食ってかかっても無意味よ。……あなたがいつか、彼女を心底『妬ましい』と狂わせるほどの中身を持てるかどうか。今はそれを証明する機会を待っていればいい」
「それこそ期待するだけ無意味ね。自分を客観視できない、他者と向き合うこともできないままじゃ、機会がきたって何も変わらないわ」
さとりのフォローをバッサリと切り捨て、積怒を軽蔑した様子で睨み続けるパルスィ。
そのあまりに一方的で理不尽な自分という存在の否定に、積怒の中で何かがプツンと切れる音がした。その瞬間、積怒の喉奥から地鳴りのような怒声がせり上がってくる。
「……あの巫女が、ここを『鼻つまみ者どもの吹き溜まり』と言っておった事にも納得じゃッ!!」
積怒の瞳に宿る怒りの火花が、かつてないほど激しく爆ぜた。彼は一歩踏み出し、パルスィを、そしてさとりをも射抜くような視線で捲し立てる。
「貴様ら地底の妖怪どもは、どいつもこいつも傲慢で、不遜で、弱者の心を土足で踏み躙り、押し付けがましい善意で勝手に他者を分かった気になって偉そうに説教するッ!!」
その言葉は、もはや単なる「怒号」ではなかった。
霊夢に蔑まれ、さとりには心を暴かれ、勇義には力でねじ伏せられた挙句にパルスィには「空っぽ」と断じられた。半天狗という一匹の老鬼が、幻想郷に来てから受け続けてきた「理不尽」に対する、全存在を賭けた魂の叫びだった。
「わしが空っぽじゃと? 面白いことを言うッ!その『中身』が醜悪だと嫌悪され、地底という掃き溜めにまとめて捨てられた貴様らに、わしの中身を語る資格などどこにもないわッ!」
肩の上で本体が「ヒィ……!」とガタガタと震えているが、積怒は止まらない。彼は半天狗の「怒り」の感情そのものであり、本体が口にできない本音を代弁する代弁者でもある。
確かに、半天狗の在り方は客観的に見て歪んでいるのは事実だ。だが、そうであっても、その在り方は半天狗が自分という存在を確立させ、守るために捨てることができなかった『生きる為の意思』だった。
「貴様ら自身がその歪さゆえにここに捨て置かれた立場であることを棚にあげ、わしを理解した気になって説教するなど片腹痛いわッ!この化け物どもがッ!」
込み上げてきた言葉を一気に吐き出し、尽きた瞬間、積怒はぜえぜえと激しく肩を上下させていた。
静まり返る一行。
その言葉の礫を真っ向から受けたさとりとパルスィは、わずかに目を見開く。
離れた位置でその様子を見ていたお燐も、複雑そうな表情で積怒を見ていた。お空は状況をよく理解していないものの、居心地が悪そうにお燐にくっついて大人しくしている。
その場にいた誰もが、その「空っぽ」の奥に潜んでいたドロドロとした熱量に気圧されていた。
「 いやぁ、全くもってその通りさ。耳が痛いね。」
静寂。それを打ち破ったのは、物理的な重圧を伴う、地響きのような拍手の音だった。
場違いなほど明るく、豪快な声。現れた星熊勇儀は、手にした朱塗りの盃を揺らし、一歩一歩、その圧倒的な存在感を刻みつけるように近づいてきた。
「勇儀……」
パルスィが苦々しい表情でその名を口にする。わずかに目線を逸らした彼女の横を、勇義は通り抜けた。
「怪力女か……!」
忌々しそうに勇義を睨む積怒。勇義はそんな彼の目の前へ来ると、その場で腰を落とした。積怒を見る勇義の瞳には、侮蔑も皮肉もなく、ただ純粋な「強者への敬意」にも似た光が宿っている。
「今の啖呵、悪くなかったよ。掃き溜め、結構じゃないか。捨てられた者同士、牙を剥き出しにして吠える……。それができない奴より、アンタはずっと『鬼』らしい」
勇儀はそう言って、自身のすぐ後ろにいるパルスィへ試すような視線を向ける。
「……なぁパルスィ。コイツが空っぽってのは、アタシらの目利き違いだったのかもな?」
パルスィはわずかに肩を震わせ、積怒がぶつけた言葉の熱量に気圧された様子を見せたが、すぐにその動揺はなりを引っ込める。
「……いいえ。私は自分の考えを変えるつもりはないわ。何が中身よ、ただ剥き出しの感情をぶつけただけじゃない」
パルスィはそう言い捨てると、積怒から目を逸らした。
「そんなものは中身とは呼ばないわ。ただの、制御不能な欠陥品。……妬ましくもなんともない」
頑なに評価を曲げないパルスィ。だが、その声は先ほどまでの冷徹な響きを失い、どこか防衛的な色を帯びていた。
場を支配する重苦しい静寂。沈黙に耐えきれなくなったのは、空気を読むのが最も苦手な、地獄の鴉だった。
「ねぇさとり様ぁ、おでかけするんでしょ〜? 早く行こうよ〜!」
お空が我慢ならんといった様子で飛び出し、さとりの腰のあたりに抱きついて駄々をこね始めた。
「わたしお腹すいちゃった! 旧都に行けば何かあるんでしょ?」
「わ、ちょっとお空、今はそんな雰囲気じゃ……!」
お燐が慌てて割って入るが、その無邪気な振る舞いこそが、張り詰めていた糸を断ち切る結果となった。
「お、そうだったな! じゃあ面子も揃ったことだし、そろそろ旧都へ行くとするか。あんたもこれ以上怒鳴ってたら、中身が全部口から出ちまうぜ?」
「誰のせいだと思っているのだッ!」
積怒は毒づきながらも、荒ぶる気を鎮め、ようやく錫杖を地面から引き抜いた。
「わーい! お出かけだー!」とお空が翼をパタつかせてはしゃぐ中、パルスィは一人、踵を返した。
「……私は持ち場に戻るわ」
彼女は一言だけ残し、去って行った。その背中は、どこか急いでいるようでもあり、あるいは自分の「嫉妬」という領域を必死に守ろうとしているようにも見えた。
さとりは、去りゆくパルスィの背中と、不機嫌を隠そうともせずに歩き出した積怒の背中を、ただ静かに見つめている。
彼女は何も言わなかった。
積怒の心の奥底に、さきほどの爆発で生まれた「何か」が残っているのか、あるいはやはり彼女の言う通り一時的な感情の奔流に過ぎなかったのか。その答えは、地霊殿の主の心の中にだけ、静かに沈められていた。