半天狗が幻想入り   作:ろんぐそーど

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第十七話

 

 食事が終わり、心地よい湯気に包まれた入浴を済ませた後、地霊殿の夜は穏やかに更けていき、各々が就寝までの自由な時間を過ごしている。お燐は涼みがてら外の散歩へ、そして可楽は、お空に「地霊殿探検」と称した案内をされていた。

 てっきり積怒のように彼女を突っぱねるだろうと思っていたが、可楽の快楽主義的な性格もあってか、お空の無邪気な反応は、彼にとって退屈しのぎにちょうど良かったらしい。どこまでも単純で、光り輝く熱量を持つお空に懐かれてる辺り、二人の相性は意外にも悪くはなさそうだった。

 さとりはと言うと、自室を兼ねた書斎で、山積みになった書類と向き合っていた。静まり返った室内で、羽ペンの走るカリカリという音だけが響く。

 嬉しそうに可楽の手を引いて駆けていったお空のことを思い出しては、さとりは口元を緩めていた。

 

「ふふ……」

 

 クスッと微笑を零した直後、書斎の外から騒がしい声が近づいてきた。声は扉の前でピタリと止まったかと思うと、ノックもなしにバンッ! と勢いよく開け放たれる。

 

「おうおう、ここは何の部屋だぁ?随分と紙の匂いが鼻につくのう!」

「ここはねー。さとり様のしょー……しょーさい? っていうんだよ!」

 

 さとりが書類から顔を上げると、そこには愉快そうに室内を見渡す可楽と、その横で難しい言葉に首を傾げているお空の姿があった。

 可楽は、机に向かうさとりの姿を認めると、不敵に口角を上げて土足同然の勢いで部屋に踏み込んでくる。

 

「……部屋に入る時は、せめてノックくらいはしなさい。ここは私の私室でもあるのよ」

「そう堅いことを言うな。積怒じゃあるまいし、小言はもう間に合っておるわ」

 

 さとりからのジトっとした視線を軽くいなすと、可楽は机から少し離れた位置にあるソファーにドカッと腰を下ろし、手に持った葉団扇で自身の顔を扇ぐ。

 お空もその隣にちょこんと座り、可楽の団扇から流れてくる心地よい風を受けながら「すずしー!」と足をパタパタさせていた。

 

「それで? 探検はもう終わりなの?」

 

 さとりがペンを置き、背もたれに身体を預けて問いかける。

 

「おう。なかなかどうして、ここは居心地が良い。暗くてジメジメしておるが、その陰気さが気に入ったッ!」

 

 可楽は団扇を扇ぐ手を止めず、満足げに目を細めた。

 だが、それとは裏腹に、彼の肩の上では、本体の半天狗が隣に座るお空の熱量(核エネルギー)に怯えてガクガクと泣き喚いている。

 

「ヒィィ……熱い、隣が熱い! 太陽を飲み込んだ鴉など、わしに近づけるな……!この娘はわしを焼き殺すつもりじゃあぁ……助けてくれぇ……!」

「そう、良かったわね。……お空と仲良くしてくれるのは嬉しいけれど、あまり夜更かしさせないであげてね。明日もこの子には仕事があるから。それに、あなたの本体もお空のことを怖がってるみたいだし」

 

 さとりは可楽の肩に乗っている、震える豆粒のような本体に視線を送り、苦笑いを浮かべた。

 喜・怒・哀・楽。一つの存在から分かたれた四つの感情。それは時に制御不能な奔流となるが、さとりは今日の大橋での戦いを思い返し、ある種の法則性を見出していた。

 可楽は良くも悪くも楽しむことを優先し、その場の興奮で判断を誤る。空喜は舞い上がりすぎて戦局を見失うことがあり、哀絶は積怒を除いた二人に比べれば比較的冷静だが、自罰的な沈黙に沈みすぎて攻勢を逃す。文との勝負の際、積怒の制止を無視した結果、首を切断された可楽の行動はその危うい本質を現す典型だった。

 しかし、それらを一つの「力」として機能させているのが、あの常に憤怒を撒き散らす積怒だ。そう考えると、彼のあの短気な性質は、バラバラの感情を無理やり一方向に縛り付けるための楔のようにも思えると、さとりは結論づけた。

 

「案外、上手くまとめ上げてるのかしらね……彼って」

 

 この場にいない積怒の統率力と、彼が背負わされている「管理職」のような苦労を改めて認識し、頬杖をつきながら感心したように、あるいは少しの同情を込めて、さとりは呟く。

 

「何か言ったか? 読心娘」

「……なんでもないわ。さあ、お空はもう寝なさい」

 

 可楽の鋭いようでいて気の抜けた問いかけを受け流し、さとりは彼の横で眠そうに船を漕ぎ始めたお空に優しく声をかけた。

 

「うーん……ねむい……おじいちゃんの団扇、気持ちよくて……」

 

 お空はそのままソファーに倒れ込み、幸せそうな寝息を立て始める。

 

「さとり様、失礼します」

 

 お空が深い眠りについたところで、書斎のドアが控えめにノックされた。

 ドアが開かれた先には、普段の三つ編みを解いて艶やかな髪を下ろし、柔らかな布地の就寝用ワンピースに身を包んだお燐が立っていた。

 

「そろそろ寝ますので、その挨拶を……」

「ちょうど良かったわ、お燐。悪いのだけれど、お空のことを寝室まで運んであげてくれないかしら」

 

 困ったような、それでいて慈しむような笑みを浮かべながら、さとりはソファーで無防備な寝息を立てているお空に視線を送った。

 可楽の隣で、まるで日向ぼっこをする猫のように丸くなって眠っているお空を視界に入れると、お燐はやれやれとばかりに小さくため息をつき、お空の元まで足音を忍ばせて歩み寄った。

 

「もう、この子ったら……んしょっと」

 

 お燐は小柄で華奢な見た目からは想像もつかないほど、慣れた手付きで軽々とお空を抱え上げた。死体や怨霊を日常的に運ぶ彼女にとって、お空の体重など心地よい重みでしかないのだろう。

 

「じゃあ、この子は連れて行きますね! さとり様、おやすみなさい。おじいちゃん達も、また明日ね。おやすみ♪」

「ええ、おやすみなさい」

 

 さとりが優しく応じる中、お燐はお空を抱えたまま、ソファーに踏ん反り返る可楽と、その肩で震える半天狗に視線を向けた。

 

「ヒ、ヒィ……はよぅ、はよぅ連れて行ってくれぇ……。隣に太陽がおっては、気が気でない……!」

「おう猫娘。まぁ、次にわしが表へ出るのがいつになるかは分からんがのう」

 

 半天狗の過剰な怯えぶりに、お燐は「おじいちゃんは相変わらずだなぁ……」と、呆れを通り越して愛おしそうに微笑んだ。彼女は二人へ軽くウィンクをして、静かに書斎を後にする。

 パタン、とドアが閉まり、再び書斎には静寂が訪れた。

 

「……可楽、あなたもそろそろ本体を休ませてあげたらどうかしら? 彼はもう、見ていて痛々しいほどに限界のようだけれど」

「そうだのう。せっかく積怒の小言もなしに動き回れて、ちと惜しい気もするが、わしもそろそろ消えるとするか。ではなぁ読心娘」

「ええ」

 

 可楽はソファから立ち上がると、その肉体を塵に変えて消えて行った。残された半天狗は元の大きさに戻ったあと、ガクガクと体を震わせながら、書斎のドアに向かって這ってゆく。

 

「はよぅ戻らねば……あの薄暗い地下へ……安住の地へぇ……」

「あなたは戻る前に、その塵を掃除していって」

「ヒィィ……!!」

 

 ジト目で可楽が残していった塵を指差すさとり。半天狗は喚きながらも、その塵を掃除して地下へと戻って行った。

 

 

 

 ーー地霊殿・地下

 

 

 地霊殿の地下、灼熱の熱気が微かに届く石畳の隅。

 そこは日の当たる場所を嫌う彼にとっては、ようやく見つけた「安息の地」であった。半天狗は、よれよれの着物をさらに縮こまらせ、芋虫のように丸くなっている。

 

「今日は散々な目にあった……。負を撒き散らす娘に言葉の暴力を振るわれ、地上の鴉に体をついばまれ、挙げ句の果てにはこの老いた体に鞭を打たれて重労働じゃあ……ああ、可哀想なわし……。不憫なのはいつもわしだけじゃ……」

 

 額の大きな瘤を撫でながら、彼は誰に聞かせるでもない恨み言をブツブツと吐き出し続けている。

 

「うんうん。大変だったねぇ」

「そうなんじゃ……誰もわしの味方をしてくれないのだ……。誰も彼もがわしを虐げるばかり。こんなにも苦しんでいると言うのに、誰一人の慈悲も……ん?」

 

 応える者などいないはずの空間。不意に隣から響いた、鈴を転がすような軽やかな声。心臓が跳ね上がるような違和感に、半天狗はバッと横に視線を向けた。

 

「こんばんわ。こうしてお話するのは初めてだよね」

 

 そこには、さとりとよく似た雰囲気を纏わせた少女が、膝を抱えて座っていた。

 半天狗の血走った視線が自分に向けられたのを確認すると、彼女は親しげに手をひらひらと振って見せる。

 

「ヒイィィィィッ……!! 出たァ!! 物の怪じゃ、地縛霊の類いじゃあぁぁ!!」

「あはは、大袈裟な反応だね。ちょっと傷ついちゃうなー」

 

 まるでこの世の終わりでも見たかのようなリアクションで後退りする半天狗。少女はクスリと微笑むと、抱えていた膝を崩してリラックスした姿勢をとる。

 

「なななななんじゃお主はァ!? いきなり現れおって……!」

「私?私はこいし、古明地こいしだよ。お姉ちゃん……えっと、古明地さとりの妹なの」

「い……妹? お主、あの読心妖怪の姉妹なのか……?」

 

 半天狗の顔が恐怖と困惑で引き攣る。妹という言葉を聞き、彼は即座に自らの「心」を固く閉ざそうとした。あの忌々しいサードアイで、また自分の薄汚い本性を覗き見されることを恐れたのだ。

 しかし、こいしの胸元にある「サードアイ」は、姉のそれとは違い、瞳を硬く閉ざしたままだった。それどころか、彼女からは一切の気配も、悪意も、あるいは善意すらも感じられない。

 

「安心して?私、お姉ちゃんみたいに心なんて読まないから」

 

 こいしは無邪気に笑うが、その瞳の奥には底知れぬ空虚さが揺らめいている。半天狗は本能的に察知した。目の前の少女は、「壊れている」のだと。

 

「……読まない? ならば……ならば、お主はわしの心を暴いたりはしないのか……?」

「しないよ。嘘も本当も、私にはあんまり関係ないし興味もないから」

 

 こいしは、まるで面白い玩具を見つけた子供のような無垢な残酷さで、半天狗の顔を覗き込んだ。

 

「い……いつからそこにおったんじゃ……?」

 

 半天狗は震える声を絞り出し、蜘蛛のような足取りでじりじりと後退った。自分以外いなかったはずの暗がりに、いつの間にか異物が混じっていたという事実。しかもそれが、あの恐ろしき読心妖怪の妹だという。

 

「ずっといたよ?あなたが今朝、お姉ちゃんに連れられて地霊殿を出た時からずっと」

 

 こいしは、まるで「天気がいいね」とでも言うような軽やかさで、とんでもないことを口にした。

 

「ず、ずっと……? バカな、わしはお主のような娘の姿など、一度も見てはおらぬ……!」

「あはは、そうだよね。だってみんな、私のことなんて見てないもん。気づかないし、忘れちゃうんだよ。空気とか、そこらへんの石ころと同じ」

 

 こいしはふわりと立ち上がると、ゆっくりとした足取りで半天狗の周りを一周した。彼女が歩くたびに、閉ざされたサードアイのコードが生き物のように揺れる。

 

「お姉ちゃんって、心の中に『理由』を探そうとするでしょ? どうして嘘をつくのか、どうして逃げるのか。でも、私はそんなのどうでもいいんだ」

 

 こいしは半天狗のすぐ目の前でぴたりと止まり、しゃがみ込んではその虚無的な瞳でじっと彼を見つめた。

 

「わ、わしは嘘などついておらぬ……!!」

「いいんだよ?逃げたいなら逃げ続けてもいいし、嘘つきなら嘘つきのままでいい。私はただ、その人がどうやって壊れていくのか、それを近くで見ていたいだけなの」

 

 半天狗の全身に、鳥肌が立った。眼前で彼を見据えるこいしの瞳は、どこまでも深く、終わりの見えない穴のように闇が続いている。

 

「ねぇ、おじいちゃん。あなたは次にどんな嘘をつくの? どんなふうに、自分が悪くないって言い訳するの? 聞かせてよ、誰もいないこの暗闇でさ」

「ヒ、ヒイィ……!!わしに近づくな、もう放っておいてくれぇ……!」

 

 半天狗は目の前にいる古明地こいしという少女が理解できず、石畳の隅に逃げ込み、頭を抱えてうずくまった。

 感情を読ませない無垢な笑顔、底の見えない瞳。何より、声をかけられるまでその気配を一切察知できなかった異常性が、彼の精神を逆なでする。

 こいしは屈めていた腰をゆっくりと伸ばし、再び軽やかに立ち上がった。

 

「そんなに怖がらなくてもいいのに。……今日はもういくね。また今度、お話ししてくれたら嬉しいな。バイバイ、おじいちゃん」

 

 その言葉だけを残して、こいしは背を向け去っていく。

 その足取りは軽快で、地霊殿の薄暗い地下の先へと、吸い込まれるように消えていった。

 静寂が戻ったあとも、しばらくの間半天狗は石畳の冷たい感触にへばりつくようにして、頭を抱えて震え続けていた。

 

「……ひっ、ひぃ……。恐ろしい、恐ろしい童じゃ……!!」

 

 数分、あるいは数十分。恐怖に支配された時間が過ぎ、やがて彼は、不自然なほど唐突にその震えを止めた。

 ピクリと指先が動き、こわばっていた肩の力が抜け、フッと半天狗は顔を上げる。

 

「…………わしは、一体誰と話していたんじゃ……?」

 

 左右を見渡すが、そこには、自分以外には誰もいない。

 先ほどまで、確かにそこにいたはずの「古明地こいし」という存在の残滓が、霧が晴れるように記憶の縁から滑り落ちていく。

 彼女と何を話したか。彼女がどんな姿をしていたか。そもそも、自分はなぜ、こんなにも怯えていたのか。

 

「……おかしい。わしは一人で、今日の不遇を嘆いていたはず……。そうじゃ、あの地上の鴉……あやつに酷い目に遭わされて……。ああ、可哀想なわし……」

 

 再び、ブツブツと元の独り言が始まる。それは、誰もいなくなった地霊殿の地下に、ずっと響き渡っていた。

 

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