「おじいちゃん、朝だよ!」
湿った地下の薄暗がりを、弾けるような声が貫いた。耳鳴りのように響く、天真爛漫な響き。それに急かされるように、半天狗は意識を覚醒させる。
「ヒッ……あ、あさ……?」
昨晩、どうやらブツブツと恨み言を呟いてる内に眠りに落ちていたらしい。
状況の理解に頭が追いついた半天狗は、うつ伏せになっていた体をゆっくりと起こすと、まだ覚醒直後で重いその首を、石畳から声の主へと這わせる。
そこには、後ろ手を組み、覗き込むような仕草で自分を見つめている少女が一人。お燐は半天狗と目があった瞬間、その顔をパッと綻ばせた。
「ご飯ができたから呼びにきたんだ。さとり様とお空も待ってるから、一緒に行こ?」
「ヒイィ……!!」
差し出された手に毒蛇でも見るかのような悲鳴を上げた半天狗は、その手を打ち払った。
「わ、わしはおまえ達と食事をするのは嫌じゃ……! あの女が……あの恐ろしい読心妖怪が、またわしの心を土足で踏み荒らしていくのだ……! そしてわしを笑いものにし、晒しあげるつもりじゃ……。ああ、なんと恐ろしい……!」
半天狗は涙を流しながら、拳を硬い石畳に何度も叩きつける。
だが、その光景を前にしても、お燐の笑みが消えることはなかった。彼女が浮かべているのは、もはや慣れてしまった妄言を優しく聞き流す、慈愛にも似た困り顔。
腰に手を当てていたお燐は、やれやれといった様子で半天狗の元まで近づき、払われた手を再び伸ばした。
「もう……ほら、行くよ?」
「は、離してくれぇ……!わしは行きたくない……!」
抵抗する半天狗の腕を半ば強引に掴み取ったお燐は、地下のまとわりつくような重い空気から、彼を連れ出す様に引きずっていった。
ーーーダイニングーーー
「おいしー!」
「もう、お空ってば。もう少し落ち着いて食べな。喉に詰まっちゃうよ?」
ダイニングには、食器の触れ合う音と、お空がご飯を頬張る声が響いていた。向かいに座っていたお燐が、その様子を見て宥めるように声をかける。
さとりは、優雅に紅茶を口に運びながら、騒がしくも温かな景色を静かに見守っている。
「……」
その喧騒の中で、決まって被害妄想を垂れ流している半天狗が、やけに大人しい。
お燐が用意した食事に手は付けているものの、箸を動かす指先はどこかおぼつかない。彼は時折、盗み見るようにさとりへ視線を向けては、何かを思い出そうとする様な顔で呆然と固まる。
――何かを、忘れている。わしは昨晩、地下で誰かと話を……。
記憶から滑り落ちたその「誰か」の輪郭を掴もうとするたび、言葉にならないもどかしさが彼の思考を空回りさせていた。
「……どうかした? 」
不意に、向かいに座っていたさとりに声をかけられる。全てを見透かすような声が、半天狗の肩を跳ねさせた。
「い、いや。その……昨晩奇妙な夢を見たような……」
俯きながらポツリと口にされたその呟きに、さとりがサードアイの視線をわずかに細める。
「夢? どんな夢かしら」
「それが……思い出せぬのだ……!誰かがおったような、わしの傍で笑っておったような……。ああ、恐ろしい……! 夢の中でさえも、わしを笑う輩がおるのだ! なんと、なんと孤独で、哀れな身の上かぁ……!」
気味の悪い違和感を感じながらも、思い出せない苛立ちをいつもの被害妄想に変換し、半天狗は唸りながら頭を抱えた。
彼の隣に座っていたお燐は「また始まった」と肩をすくめ、お空は無邪気に首を傾げる。
「……そう。思い出せないのなら、それはあなたにとって、あってもなくても同じものだったということじゃないかしら」
半天狗が抱えている違和感に対し、さとりは心当たりがあったが、あえてその場で追求はせず、再び紅茶を口に運ぶ。
ふと、彼女は誰も座っていないはずの空席の椅子に視線を向けた。
肉眼ではもちろん、サードアイを通して見ても何も写らない。だが、微かにそこに「何か」が、今この瞬間も座ってこちらに微笑みかけているような、そんな気配を肌に感じ取っていた。
「ごちそうさまでした。さて、アタイはお仕事の準備して、作業に取り掛かろうかな。お空もいつまでも食べてないで、お仕事するんだよ?」
「はーい!」
お燐が食器を片付け始めると、彼女に続く様に皿に残っていた料理を口にかき込み、お空も席を立つ。
「私が洗っておくから、二人は行っていいわよ」
「ありがとうございます、さとり様。お言葉に甘えさせて頂きますね」
「さとり様ありがとー!」
さとりの穏やかな言葉に、お燐は尻尾を嬉しそうに揺らし、お空は元気いっぱいに手を振った。二人がダイニングを後にすると、バタンと扉の閉まる音が響く。
その場に残されたのは、食器を洗い始めたさとりと、居心地が悪そうに座り続ける半天狗だけだった。
「……昨日、地底の色々な場所を見て回った訳だけど、少しはここの空気にも慣れた?」
「ヒィッ……! な、何をいうか!慣れるはずがなかろう……! 力でねじ伏せようとする怪力女に、歩く太陽。負を撒き散らす娘に、挙句の果てにはわしの心を覗き見る恐ろしい妖怪がおる……!わしのような老いぼれには、あまりに過酷な環境じゃあ!」
背を向けたさとりに声をかけられた半天狗は、椅子の上で肩を震わせ、テーブルクロスの垂れを握りしめる。
「あら、頭の上に太陽がないだけマシじゃない? 『そっち側』の鬼は、太陽に晒されたらすぐに死んでしまうのでしょう?」
「ここに歩く太陽がおるなど、あの巫女から聞かされてはおらんッ! それが分かっていれば、こんな所になど……」
半天狗の唸るような声は、次第に消え入るように小さくなっていく。
「じゃあ、やっぱり勇儀のところで面倒を見てもらう? それとも、霊夢に話を通して地上に送り返しましょうか? どちらにしても、あなたにとっては地獄であることに変わりはないと思うけれど」
「悪魔じゃ! 鬼じゃ! 人でなしの畜生じゃ!どこへ行ってもわしを虐げる奴らばかりじゃあ……!!」
身体を跳ねさせる半天狗は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。だがさとりは動じる様子もない。
「……そうやって叫べる元気があるなら、まだ大丈夫そうね」
食器を洗い終えた彼女は、タオルで手を拭いた後、半天狗へ向き直り再び向かいの椅子へ腰掛ける。
「あなた、何かやりたい事とかないの?」
さとりの唐突な質問に、半天狗の喚き声がピタリと止まった。彼は間の抜けた顔で口を開けたまま、さとりを凝視する。
「……急に何を」
「ここでは、何もしないことが最も罪深いのよ。お燐も、お空も、ここで生活する誰も彼もが、みんな地底を維持するための役割を担っているわ。ただ震えて過ごすだけでは、あなたを腐らせてしまうでしょう?」
頬杖をつき、少し身を乗り出したさとりのサードアイが、半天狗の心の奥底を探る。
「料理、掃除、あるいは誰かの話し相手……何でもいいの。あなたが『自分はここにいてもいい』と思える理由を、何か見つけてみない?」
やりたいこと。そんなものは数百年の間、半天狗にはただの一つもなかった。あったのは精々「死にたくない」という執念と、「自分が悪いのではない」という言い訳。そして人間を食らい、欺き、生き延びることだけだ。
「そんなこと……考えたこともなかった。わしは……」
沈黙に顔を伏せる半天狗。その狭い肩は、これ以上何かを突きつけられることを拒むように丸くなっている。
さとりは場をほぐすように、ふぅっと軽く息を吐いた。
「……旧都にでも行ってみたらどうかしら? 改めて自分の目で色々と見て回ってみて、何か興味が惹かれるようなことを見つけられたなら、私にでも教えて頂戴」
さとりの言葉に、半天狗はおずおずと顔を上げた。
「きゅ、旧都へ……? あんな、力こそ全てと言わんばかりの鬼と妖怪どもが闊歩する恐ろしい場所へ、また行けというのか……」
「あなたが地底で生きていくなら、いつまでもこの館の隅に隠れているわけにもいかないでしょう? 今日は勇儀も旧都の繁華街にいるはずだから、彼女に一言添えておけば、少なくとも他の鬼たちに絡まれることはないわ」
さとりは手近なメモ用紙にサラサラと何かを書き留めると、それを半天狗の前に差し出した。
「これは紹介状のようなもの。何か困ったことがあったら、これを旧都の住人に見せなさい。……それから、お小遣いも少し渡しておくわね」
テーブルの上に、カランと音を立てて数枚の硬貨が置かれる。
半天狗は信じられないものを見るかのように、さとりの顔と硬貨を交互に見つめた。
「わ、わしに金を……? 何かの罠か……?」
「信じる信じないはあなたの自由。だけど、何か打ち込むことができることの一つでも見つけられれば、その被害妄想も少しは和らぐかもしれないわよ」
さとりは穏やかながらに、有無を言わせない微笑みを浮かべて立ち上がる。
「私も自分の仕事があるから、もう行くわ。基本的には書斎の方にいると思うから、何かあったら書斎に来て」
彼女の足音が遠ざかり、ダイニングには再び静寂が訪れる。半天狗は、テーブルに残されたメモと硬貨を、しばらくの間見つめていた。
「一人であの様な場所に赴くなど、弱者のわしに死ねと言っている様なものじゃ……」
彼は紹介状と硬貨をそっと懐にしまい込む。
「わしのやりたいこと……か」
扉へトボトボと向かって歩くその足取りは、背中に鉛を背負っているかの様に重いものだった。
ーーー書斎ーーー
地霊殿の書斎。静まり返った室内で、さとりは机の上に積まれた書類と睨み合っていた。
紙の上を走る羽根ペンの乾いた音と、彼女の口から時折漏れる息遣いだけが、この部屋で時が動いていることを示している。
「……」
ふと、羽根ペンを走らせていたさとりの指先がピタリと止まった。視線は書類に落としたまま、彼女の胸元にあるサードアイが、微かに蠢く。
顔を上げたさとりは、その視線を書斎の隅、本棚の陰になった空間へと向け、深いため息を吐き出した。
「……いるんでしょう。こいし、出てきなさい」
さとりの声が空間に霧散しようとしたその時、何もないはずのそこが、水面に波紋が広がっていく様に揺れた。
「あはは、やっぱりお姉ちゃんにはバレちゃうかー」
古明地こいしは、本棚に背を預けたまま、まるで最初からそこに居たかのように何の不自然さもなく佇んでいた。
「バレるも何も……あんなに怯えきった彼の心を読まされたら、原因があなただってことくらい嫌でも分かるわ」
「ひどいなー。私はただ、ちょこっとお話ししただけだよ?……ねぇ、お姉ちゃん。あのおじいちゃんとっても面白いね? 嘘と嘘がぐちゃぐちゃに混ざって、もう何が自分のほんとなのかおじいちゃん自身にも分からなくなってる」
こいしはさとりが作業をしている机に近づくと、その上に身を乗り出した。サードアイを閉じ、意識の表層から消えたはずの彼女だが、その声だけは残酷なほどに純粋だ。
「……半天狗をあまりからかっちゃダメよ。自分とも、自分以外とも向き合うことを恐れている彼には、あなたの言葉は刺激が強すぎる」
「刺激なんて与えてないよー? ただ隣でニコニコしてただけ。自分で勝手に怖がって、自分を可哀想だって決めつけてさ。私が隣にいてもいなくても、ずっと一人で喋ってるんだもん。なんだか私に似てる気がして楽しいよ」
こいしは机の端に腰を下ろし、ぶらぶらと足を揺らした。その瞳には何の光も宿っていないが、声だけはどこか弾んでいる様にも聞こえる。
「……」
さとりは再びペンを握り直す。妹である彼女に対し、姉として思う所があったのか、複雑な感情により細められた視線は、こいしのどこを見ているのか分からない。
「こいし、あの……」
「なーに?」
「……」
喉奥から込み上げてくる感情をうまく言語化できないのか、さとりは出かかった言葉を呑み込み、口を噤む。
小首を曲げて自分を見つめるこいしの瞳は、何かを期待しているのか、あるいは縋っているのか、微かにだが揺れていた。
「ごめんなさい。なんでもないわ」
「どうして謝るの?」
こいしは机に座ったまま、首をさらに深く曲げてさとりを覗き込んだ。その動きは壊れた機械仕掛けの人形の様に酷く無機質で、冷たい物に見えた。
「……あなたのことを見ていると、時々私があなたに何かを無理強いしているような気分になるのよ。こいしの心を縛り付けてしまっているのは、他でもない私なんじゃないかって」
さとりは自虐的な微笑を浮かべ、握りしめていたペンには少しばかりの力が入る。
「縛り付ける? お姉ちゃんは面白いこと言うね」
こいしはケラケラと鈴を鳴らすように笑う。
「私はどこにだっていけるよ? 誰にも気づかれないで、気まぐれにフラフラして、地底でも地上でもどこにでもさ。でも、結局お姉ちゃんのところに帰ってきちゃうのは、私がそうしたいって思ってるから……なのかなぁ? よくわかんないや」
こいしは腰掛けていた机からひらりと降りると、さとりの背後に回り込み、その細い肩に腕を回した。冷たく感じる彼女の体温が、さとりの心臓を震わせる。
「あのおじいちゃんはさ、私とは逆。外の世界ではとっても怖がられてたんでしょ? でも、あんなに自分を作って、あんなに嘘をついて」
「……」
「誰も味方をしてくれないから別の自分に守ってもらって、自分を知られたくないから嘘をつく。お姉ちゃんのこともとっても怖がってる。私、お姉ちゃんに怖がられるのあんまり好きじゃない。だからあの人を見ているとなんだか、私が普通になったみたいで嬉しいんだ」
こいしの指先が、さとりの胸元にあるサードアイのコードをそっとなぞる。
「お姉ちゃんは、あのおじいちゃんをどうするつもり? ずっとここに置いておくの?」
こいしの問いに、さとりは視線を机の上に落とす。彼女はしばらく考え込む様に沈黙を置いたあと、口をゆっくりと開いた。
「……彼が自らの嘘の重さに耐えかねてしまうか、あるいは地底に馴染んで、少しでも自分の足で立てるようになるまで……見守るつもり。地上の誰かに引き渡すのは簡単だけど、彼のような存在を扱える場所は、ここしかないかもしれないから」
さとりは背後で抱きついているこいしの手に、自分の手をそっと重ねる。姉の暖かい体温に触れたこいしは、クスッと口元を緩めた。
「おじいちゃん、今頃旧都で震えてるかなー。勇儀さんに絡まれて、また別のおじいちゃん達が飛び出してきちゃうかも。見に行ってみようかな」
こいしの気配が、再び希薄になっていく。
彼女が意識から消えようとする前に、さとりは強くその手を握った。
「こいし……食事の時くらい、たまには顔を出しなさい。お燐とお空も、あなたにこと気にかけて心配してるから」
「うん……わかった。お姉ちゃん、お仕事がんばってね」
ふっと肩にかかっていた重みが消え、その場に再び静けさが戻ってくる。書斎の窓から見える旧都の微かな光が、さとりには遥か遠くに揺らめいて見えていた。