「……」
資材置き場を囲う薄暗い影の中、女苑は心底嫌そうな顔で勇儀に命じられた資材の分類に取り組んでいる。
積み上げられた規格の違う木材や鉄骨を、長さや用途ごとに一つずつ手作業で整理する。それは「他者に貢がせ富を枯らす」今までの彼女の生き方からは、最も縁遠い「地道」な作業だった。
「えっと、これはここに纏めておいて……鉄骨オッモ! こんなの私みたいなか弱い女の子に普通持たせる? どう考えても鬼の仕事じゃない。ああもう、手が鉄臭い!」
女苑はジャケットの袖を捲り上げ、精一杯の力で鉄骨の端を動かそうとした。しかし、数センチ動かした所で根を上げ、両膝に手をつき息を切らしてしまう。
「……その鉄骨は基礎の補強用だ。長さが違うものを混ぜるな」
背後から、低い声が不意に降ってきた。
「ひゃんっ!?……誰よもう、いきなり背後から声掛けないでくれる!?心臓止まるかと思ったじゃない!」
驚きに肩を跳ねさせた女苑が後ろを振り返ると、そこには半天狗の分身の一人、哀絶が立っていた。
槍を傍らに置き、女苑のミスを指摘する彼が纏う空気は、積怒の激しさや可楽の軽薄さとはまた違う、重く淀んだ物に満ちている。
「……なにあんた。またあの仏頂面の仲間?なんかいつの間にかあっちにも鳥みたいな奴が増えてるし。似たような顔が多すぎて、いい加減胸焼けするんだけど。少しはバリエーションってものを考えられないの?」
女苑は乱れた前髪を整え、腰に手を当てながら哀絶を睨みつける。だが、哀絶はその敵意をどこ吹く風と受け流し、深い溜息をついた。
「ただでさえ気が滅入る泥払いの仕事を終えて戻ってみれば、そこに待っていたのが疫病神の手伝いとは……」
ノロノロと足を踏み出した哀絶は、女苑が四苦八苦して運ぼうとしていた鉄骨を、いとも簡単に片腕で持ち上げてみせる。
「……積怒から話は聞いている。配置はわしがやるから、お前は分かりやすいように印でもつけていろ。協力せねば仕事が終わらぬ、仕事が終わらねば、この地獄のような状況からは解放されぬ」
「あっそう、じゃあ遠慮なく使わせてもらうわ。次はそこのデッカい木材、あっちに運びなさい。ほらさっさとしてよね」
哀絶の腕力を目の当たりにするなり、女苑は即座に彼を「便利な道具」として扱うことに決めたらしい。
哀絶はその様子を咎める訳でもなく、ただ哀しげに目を伏せながら、女苑が適当に積み上げた資材を分け直していく。
「こんな事すら一人で満足にこなせぬとは……己の欲望を満たす口は達者でも、その手は何も生み出せないか。幼子でもあるまいに、生きていて恥ずかしくはないのか? 存在そのものが恥とは、哀しいな」
「ちょ、今サラッと失礼なこと言ったわね!? 私は選ばれた存在、疫病神なの!汗水垂らして働くのは人間の仕事であって、私の仕事はそのお金をーー」
「盲目に貢いでくれる愚者もおらねば、自力で金を稼ぐ術も知らぬときた。今のお前は、地道に金を稼ぐ人間よりも価値の低い存在だ。……なんともまあ、哀れすぎて涙も出ぬ」
淡々と、そして確実に急所を突くかの様な哀絶の毒言。
今までそんなことを誰にも言われたことが無かったのか、女苑は絶句している。積怒のような爆発力はないが、哀絶の暗く重い、そして鋭い言葉は、彼女のプライドを酷く傷つけた。
「この私が価値の低い存在……!? あんた、後悔することになるわよ!私がその気になれば、あんたの持ち合わせている僅かな財産だって!」
「財産と呼べる物などわしは持ち合わせていない。奪うものがない者から、お前はどうやって奪うと言うのだ。……早く印を付けていけ。口を動かす暇があるなら、少しでもこの苦行を短くする努力をするのだな、娘」
哀絶は哀れみを含んだ視線で女苑を射抜き、再び作業に戻る。
屈辱に顔を歪めた女苑は言い返そうと口をパクパクさせるも、感情的な怒りに支配された頭では言語化する事ができず、結局はただ大人しく従う他なかった。
それから数刻後。
一方の現場では、単管足場の上に立っていた積怒が苛立ちを昂らせていた。周囲の鬼達からは「また新人がキレてるよ」という呆れと嘲笑に近い視線を集めている。
「遅い……哀絶は一体いつになったら戻ってくるのか!」
「あれだけの量だからのう、時間が掛かるのは仕方あるまいて。おまえは些か気が短すぎじゃ。上弦なら、もう少し心にゆとりを持って貰いたいもんだのう」
梁に腰掛けている可楽が、大きな欠伸を噛み殺しながら積怒の怒声を聞き流す。手に持った葉団扇をゆっくりと動かしては、宙に漂っている土埃を嫌がらせのように積怒の方へと扇ぐ。
「気の短さで言うなら、俺たちは間違いなく上弦の壱を狙えるのう?」
可楽とはまた違う、神経を逆撫でする高らかな声が積怒の頭上より降り注いだ。その声の主は、背翼を羽ばたかせ、猛禽の脚爪を単管に食い込ませた空喜だ。
コウモリのようにぶら下がった彼は、不機嫌に歪みきった積怒の面構えを拝んでやろうと、自身の首をもたげさせる。
「違いない! 上弦の地位を『短気さ』で決めるなら、あのお方も真っ先にわしらを上弦の壱に据えていただろうな!破壊殺だの月の呼吸だのと言っている連中も、積怒の血管がブチ切れる速度には遠く及ぶまいて!」
空喜の悪辣な揶揄に便乗し、可楽もまた喉を鳴らして下品な笑い声を上げる。
二人にとって、積怒を煽り、その理性が擦り切れる様を眺めることほど、この退屈な重労働における良質な暇潰しはなかった。
「……ッ!!」
積怒の額に、青筋が幾重にも重なって浮き上がった。錫杖を握り締める拳は強張り、その振動が先端の遊輪を打ち鳴らす。
それを「攻め時」と見たか、可楽と空喜はさらに火に油を注ぐような言葉を畳み掛ける。
「おーおー怖い顔をしおって。雷を散らして柱にでも引火したら、怪力女に大目玉を食らうぞ?良いのか?」
「壱の座を狙うなら、もう少し威厳を保たないといけないのう。そんなに顔を真っ赤にしていては、下弦の連中にまで笑われるぞ?おっと、下弦の鬼共は既に全員くたばっているんだったなあ。良かったのう、恥をかかなくて済んだーー」
空喜がそこまで言い終えるよりも速く、積怒から振り抜かれた拳がその頭部を真っ向から捉え、凄まじい衝撃音と共に首を叩き飛ばす。
首を失った空喜の胴体は、糸が切れた人形のように単管から滑り落ち、地面へと落下していった。
「死にたいのなら素直にそう言え!馬鹿二人が揃いも揃って同調しおって見苦しいッ!」
積怒が荒い息と共に吐き捨てる。しかし、地に転がった空喜の頭部は口角を吊り上げ、あろうことか歓喜に満ちた笑い声を上げ始めた。
「ク……クハハハハッ!今の拳は良かったぞ?清々しい程に首が飛んだ!この風を切る感覚に、骨が砕け散る心地良い感触はどうだ!これは中々に喜ばしいのう!」
「あまり無意味に潰し合わんでくれぇ……再生するのにも力を消費するんじゃぞ……!」
嘆きを上げる半天狗の意思に反し、肉体を再生させた空喜は下卑た笑みを浮かべ再び飛翔する。
通常の生物にとって、死とは常に隣り合わせでありながらどこか遠くに感じるものだが、目の前の異形たちが繰り広げるのは「日常的なコミュニケーション」としての自傷と再生。
その狂気じみた光景を見せられている周囲は、顔を引き攣らせ、彼らに視線を合わせないよう作業に没頭していた。
「周りの連中が引いてるじゃないか。過度なじゃれ合いは程々にしてくれないと困るよ馬鹿三人。私が頼んだ作業は終わったのかい?」
重い足音と共に足場を上がってきた勇儀が、濃密な酒の香りを漂わせながら、呆れた様子で積怒たちに視線を向けた。その手には、大きな酒瓶が握られている。
「仕事の最中に酒など飲みおって、少しは己の立場を自覚しろ! リーダーのおまえがそんな体たらくで、手下の鬼共に示しがつくのかッ!」
積怒は勇儀から漂う酒の匂いに顔をしかめ、錫杖を突き付けながら問いただす。だが、勇儀は突きつけられた錫杖の先端を指先一つで軽く押し除け、笑い飛ばした。
「良いんだよ。私にとっては、これが物事を円滑に進める為の燃料なのさ。地底の鬼が酒を飲まずに仕事ができるかい。それで?威勢が良いのは分かったが、質問の答えは?」
底知れぬ余裕と、笑みの裏に潜む圧倒的な威圧感。積怒は苛立ちを通り越して言葉を詰まらせるしかなかった。
「おう、見ろ怪力女! おまえに言われた通り、梁は全て完璧に固定しておいてやったぞ! おまけに、積怒の拳で空喜の頭が飛ぶという、とびきりの見せ物付きじゃ!」
足場に降り立った可楽が、大袈裟な身振りで両腕を広げ、自分たちがこなした成果を誇らしげに披露した。
その横に舞い降りた空喜も上機嫌に翼を畳む。
「おー上出来上出来。なかなかの仕事ぶりじゃないか」
勇儀は目を細め、梁の接合部を鋭い眼光で点検する。寸分の狂いもない仕事に満足げに頷くと、彼女は積怒の肩上で縮こまっている半天狗へ視線を移した。
「せっかく自分の分身たちがこれだけ有能なんだ、もう少し誇らしげに振る舞ったらどうだい? さっきから死にそうな顔をしてるよ?」
「ヒィィ! 寄るな、来るな……酒臭い! 鼻が曲がりそうじゃ……!ああ誰か、誰か助けてくれ……!死ぬ、死んでしまう……!」
半天狗は積怒の襟首を掴み、この世の終わりであるかのように身を震わせている。そのあまりの情けなさに、勇儀は苦笑混じりの溜息を吐いた。
「たかが酒の匂い如きで大袈裟だね。……さて、あとは資材組が戻ってくれば今日の仕事は片付くんだが……」
勇儀が現場の下層、少し離れた資材置き場の方へと目をやると、作業をする哀絶の背に向かって、何やら喚き立てていると思われる女苑の姿が確認できた。
「ねえ何なのよその目は! さっきから私のこと哀れんでるつもり!? 私は依神女苑よ! 幻想郷の欲望を一手に引き受ける疫病神なの!あんたみたいな湿気た男に、同情される筋合いなんて一ミリもないわ!」
女苑の甲高い声が、埃っぽい空気を切り裂いて響く。彼女は手に持ったチョークを地面に叩きつけ、握りしめた拳を震わせながら哀絶に食ってかかっていた。
対する哀絶は微塵も表情を動かすことなく、作業を続けている。
「……哀しいな。欲望で己を飾り立てねば、立ち位置すら見失うほど、お前の心は空虚に満ちているのか。財も、敬意も、居場所すらも、疫病神という不吉な肩書きに依存せねば築けぬとは」
「あーもう説教!? また説教なの!? あんたのその暗くて粘つくような声、聞いてるだけで頭痛がしてくるんだけど……!聖の読経の方がまだマシだったっての!」
女苑は耳を塞いで地団駄を踏む。しかし、自分の言葉を遠ざけようとする彼女に対し、哀絶は淡々と、容赦なく追撃を重ねた。
「おまえがここで鉄骨を一本運ぶよりも、その口を動かして誰かから金をせびる方が得意なのは分かっている。だが、それが通用せぬわしの前で、お前には何が残る? 自らの価値を他人の金でしか証明できぬおまえの境遇を、わしは心から哀れもう」
「……」
女苑の視界が、言い返せない悔しさと怒りで滲んでいく。
外道という言葉を一種の「勲章」や「強者の証」として喜ぶ彼女であっても、哀絶の底なしの暗さと慈悲を伴った同情は、彼女の疫病神としてのプライドを容易く踏みにじった。
「そこまでにしてやりな、哀絶。おまえさんにその気がなくても、気付かない内に相手を傷つける凶器になる。言葉ってのはそういうもんだよ」
上層から飛び降りてきた勇儀が、二人の間に割って入った。彼女の大きな手が、悔しさに肩を震わせる女苑の細い肩にポンと置かれる。
「わしはただ、この娘の有り様を哀れんだに過ぎないのだが」
哀絶は手元にあった最後の鉄骨をゆっくりと地面へ置き、勇義の方へ視線を向けた。彼にとってはただ思ったことを述べ、同情を寄せたまでであり、そこに悪意すら介在していないことが余計にタチが悪い。
「な、なによ……勝手に私が傷ついてる体にしないでよ!こんな湿気た奴の言葉なんて、私の耳には全然届いてないんだから!」
女苑は肩を揺らして勇儀の手を乱暴に振り払う。
しかし、その目元が赤く潤み、声が微かに震えているのは、誰の目から見ても明らかだった。
「……ま、今日の作業はこれで終わりだ。丁度昼過ぎくらいか……思ったよりもずっと早く終わったね。不揃いな助っ人にしては、なかなかの働きだった。二人ともご苦労さん」
勇儀はニッと笑って微笑む。哀絶と女苑の間には相変わらず気まずい沈黙が残っているが、仕事を終えた区切りと達成感が、冷え込んだ空気を僅かに和らげていた。
「お……終わったのか? ようやくこの生き地獄から解放されるのかぁ……!!」
勇義と同じく足場から降りてきた積怒たちが合流し、その肩上で縮こまっていた半天狗が、今日一番の歓喜の声を上げる。
喜びのあまりズルリと肩から滑り落ち、地面に落下した衝撃で小さな悲鳴をあげるその様は、なんとも無様で滑稽だった。
「これ以上この疫病神と関わるのは御免じゃ。わしは戻らせてもらうぞ、怪力女」
「ああちょっと待ちな。ほら、働いてくれた分の報酬は払わないとね。手出しな」
勇儀は懐から銭袋を取り出し、警戒した様子で手を差し出してきた積怒の手の平に、それを置いた。
「半天狗の方には強引に突き合わせた礼として、少しばかり色を付けといたよ。女苑、おまえさんの分は命蓮寺に納めておくのが筋なんだろうが……少しだけ、小遣いとして持って行きな」
「こんなはした金……。でも、私が働いた正当な対価だし、ありがたく頂戴しておくわ」
女苑は渡された銭袋を受け取り、顔を背けながらもそっと懐へしまった。他人の財布を空にして得る金ではない、自ら得た初めての感触に、彼女の表情が密かに綻ぶ。
「で、命蓮寺のお迎えが来るのは明日の明朝だったかい?」
「え?ああ……うん。まあ、そうね。温泉街にでも行って、どっか適当な宿で寝るわよ。あんたたちみたいな暑苦しい連中の顔なんて、もう二度と見たくないし」
「そのことなんだけどね……なあ積怒」
プイッと顔を背けながらそう口にする女苑を横目に、勇儀は少しバツが悪そうな様子で頬を掻き、積怒の方へ視線を向けた。
「断る!」
「まだ何も言ってないよ」
勇儀が言葉の続きを口にする前に、積怒は錫杖を地に突き立て拒絶の意思を叩きつけた。
「どうせその女を地霊殿に連れて帰れとでも言うつもりだろう! 死んでもお断りじゃ! 疫病神と読心妖怪が揃うなど、悪夢以外の何物でもない!」
「なっ、私だって嫌よ!何が悲しくてこんな奴と……指差さないでよ!!」
自分を指差し怒声を上げる積怒の手を跳ね除け、女苑が即座に噛み付く。
「そうは言ってもねえ。責任持っておまえさんを預かってる手前、どっかの宿に泊まらせて、そこで問題を起こされたりしたら聖に向ける顔がないのさ。地底の連中相手に能力使って一文無しにさせたりしないって、今ここで誓えるかい?」
「う……それは……」
「そこは嘘でも否定してほしかったんだけどね」
勇儀のジト目に見据えられ、女苑は気まずそうに視線を泳がせた。
彼女の「前科」と「本能」を知る者からすれば、野放しにするのはあまりにリスクが高い。
「そういう訳だ。一晩だけでいい、この疫病神を地霊殿で監視下に置いてやってくれないかい?」
「疫病神が地霊殿に……! 終わりじゃ、わしの安住の地が、なけなしの平穏が粉々に砕け散る音が聞こえるぅ……!!」
未だ地に這いつくばったままの半天狗が、悲痛な叫びを上げる。
一方、積怒の隣で一連の話を他人事のように眺めていた可楽は、腰に手を当て、愉快そうに喉を鳴らす。
「良いではないか積怒、この娘は賑やかしとして丁度良い。わしは賛成だ!」
「可楽、おまえの意見など聞いていない! おまえたち三人を呼び出した用は済んだのだ、とっとと消えろ!……とにかくわしは、そのような戯言絶対に聞き入れんぞ、絶対になッ!」
「……で、仲良く一緒に帰ってきた訳ね」
地霊殿の書斎。
膝の上で開いていた本から顔を上げたさとりの前に、不快極まりないといった表情で顔を背ける積怒と、ブーツの靴先で絨毯の模様をなぞる女苑が、罰の時間を待つ子供のように並んでいた。
「わしの意思でこの女を連れ帰ってきたかのような言い回しをするのはやめろ! 腹立たしいッ! あの怪力女が無理やり押し付けたのだ! 拒否権など最初から無かったわッ!」
「私だって本望じゃないわよ、こんな仏頂面と一緒に歩くなんて。あの鬼の面子を立ててやるために、仕方なく来てあげただけなんだから……勘違いしないでよね」
積怒は錫杖を握りしめては乱暴に床を突き、さとりへ訴えかける。その傍らで、女苑はいかにも退屈そうに髪を指先で弄りながら鼻を鳴らした。
「勇儀からはさっき連絡を受けたわ。『更生中の困ったちゃんを一晩よろしく』って。既に似た理由で一人預かってる身だし、それが一時的に二人になった所で大して変わらないもの、別に構わないわ。部屋は余ってるから好きに使って頂戴」
さとりは再び視線を落とし、本を読みながら淡々と答える。そのあまりに事務的な対応に女苑は少しばかり拍子抜けした様子で、書斎を見回し始めた。
「ふーん……。古めかしいけど、それなりに金目のものはありそうね。一晩泊めてもらうお礼に、この屋敷にある不要な財産、私が処分してあげてもいいわよ?」
女苑が値踏みするような手つきで棚の装飾に触れようとした、その時。
「あなた、命蓮寺では猫を被って良い子を演じているのね」
さとりの静かな、そして確信に満ちた言葉が、女苑の動きを凍りつかせた。
「え……」
「聖白蓮。彼女の前でだけ、あなたは『反省している殊勝な自分』を演じている。でも、その奥底にあるドロドロとした欲望の渦は、少しも枯れていない……そうでしょう?」
さとりは本をパタンと閉じ、顔を上げて女苑と目を合わせた。胸元のサードアイが、逃げ場を塞ぐように彼女をじっと見据えている。
「な、なによそれ」
女苑はあからさまに動揺し、一歩後ずさった。
「自己紹介が遅れたわね。私の名前は古明地さとり。この旧地獄、地底の管理者で、地霊殿の主人をしている……覚妖怪」
さとりは椅子から立ち上がり、ゆっくりと女苑に歩み寄る。
穏やかであると同時に有無を言わせぬその声に、女苑は自身の心拍数を跳ね上がらせた。
「私の前で嘘は無意味よ。あなたが今心の中で思っていること……全部丸見えだから」
「 読心……あんた、人の心を読むっていうの!?」
女苑の口から絞り出された疑問に、さとりは無言の笑顔で以て肯定する。
「……ッ、何それ最悪!性格悪すぎじゃない!?趣味悪っ!!」
女苑は反射的に両腕で体を隠すように抱きしめた。
自分のプライバシーが土足で踏み荒らされ、解体されていく。その気持ち悪さに、全身におぞましい鳥肌が立つ。
「あっちにいる彼ほど、あなたの心は『複雑』じゃないもの。あなたの望みは至ってシンプル……金と贅沢、そして他者からの羨望。あまりに分かりやすくて、心の深層を読むまでもなかったわね」
「……ああもう分かってても口に出すのはやめてくれない!?あんたにはデリカシーってもんがないの?」
女苑は吐き捨てるように言ったが、それすらも今はただの虚勢であることを、この場の全員が理解していた。
「安心しなさい。私は別に、その思考を矯正しようなんて思っていないから。明日までちゃんと大人しくできるなら、これ以上あなたの心の内を引き摺り出すつもりもない。地霊殿で悪さをしようとすればどうなるかは、今ので理解してくれたでしょう?」
「 わ、分かったわよ! 何もしないから!……なんか地底に来てからロクな目にあってないんだけど」
さとりの静謐な圧力を前に、女苑は完全に毒気を抜かれ、真っ青な顔で肩を落とした。
積怒はその様子を見て、鼻で笑う。
「良い気味だ。憎たらしい減らず口を叩けぬ様になっただけでも、嫌々連れ帰った価値はあったな」
「うっさい!似た様な理由でここに居るなら、あんただって同類でしょうが!」
火花が散りそうになる勢いの二人に溜息をつきながら、さとりは再び椅子に深く腰掛けた。
「……二人とも騒がしいわ。積怒、彼女を客室へ案内してあげて。変な気を起こさないように、監視も兼ねてね」
「監視か……おい疫病神、とっとと来い!少しでも妙な動きをすればその身を錫杖で磔にし、雷を落とし続けてくれるッ!」
「言われなくても行くわよ! ふかふかのベッドじゃなきゃ承知しないんだから!」
扉が閉まり、再び静寂を取り戻した書斎。さとりはただ一言「騒がしくなりそうね」と静かに呟き、再び本の頁をめくった。