「ねえ。温泉行きたいんだけど」
静まり返った地霊殿のダイニング。その扉をバンっと開け放った女苑が、開口一番そう口にした。
女苑という爆弾を客室に放り込んだ後、ようやく訪れた束の間の静寂。一人心穏やかに遅めの昼食へありついていた半天狗は、あまりの衝撃に文字通り椅子から跳ね上がった。
「ヒィ……出たぁ!疫病神が出たぁ……!!」
椅子から無様に転げ落ち、テーブルクロスを命綱のように掴んではガタガタと震える半天狗。その様子を、女苑は冷ややかな目で見下ろす。
「はあ?こんなかわいい超絶美少女を前にして、化け物でも見たかのような反応しないでくれる? 目が腐ってんじゃないの?」
女苑は乱暴に椅子を引き、半天狗の座っていた隣にストンと腰を下ろすと、不機嫌そうに脚を組んだ。
「読心妖怪に釘を刺されたばかりだと言うのに、おとなしく部屋にいれば良いものを……」
「あんな陰気臭い部屋に一人でいろって? 冗談じゃないわよ。地底に来たら温泉に入るのがステータスでしょ。あの覚妖怪に聞いたら、外出するならあんたを同伴させろって言われたの。……ったく、なんでこんな萎れた爺さんとデート紛いな真似しなきゃいけないんだか」
指の爪先を眺めながら、さも心外だと言わんばかりに唇を尖らせた女苑。その仕草の端々には、泥臭い労働で溜まったストレスを「贅沢」で一気に解消したいという、彼女らしい身勝手さが透けて見えていた。
「わ、わしだって疫病神と外出など……そもそもなぜわしが……」
「手空いてるのがあんたしかいないからでしょ。覚妖怪も、その他ペットも、まだ仕事があるから手を離せないって言ってたわよ?消去法よ、消去法」
「ひ、一人で行け……わしを巻き込むなぁ……!疫病神と歩くなど、死神に肩を貸すようなものじゃ! 破滅じゃ、地獄の業火に焼かれる未来しか見えんッ!!」
「うるっさいわね! あんたがついてこないとあの女が『監視の目が届かないからダメ』って許可してくれないのよ!……それに」
女苑は不意に声を潜め、半天狗の耳元へ顔を寄せた。香水の甘い香りと、それとは対照的な悪意が、半天狗の背筋を凍らせる。
「さっき勇儀から、結構な額の報酬を貰ってたじゃない?私のは更生中だからってはした金だったけど、二人の分を合わせれば、ちょっとした贅沢くらいはできるわよね……?」
女苑の瞳が怪しく光り、口元が邪悪な弧を描く。半天狗は反射的に懐の銭袋を守るよう身を丸め、絶叫する。
「ヒィィッ! やはりわしの金を狙っておるのか! 追い剥ぎじゃあ! 老いぼれが汗水垂らして得た金を巻き上げようなどと、どこまでも性根が腐っておるッ!」
「あんたは作業を取り巻きたちに丸投げして、終始ヒィヒィ言ってただけでしょうが!いいからさっさと立ちなさいよ! 外で待っててやるから、準備できたら来なさい。あんまり待たせたら、その着物を質に入れてやるから。いいわね?」
女苑はそれだけ言い捨てると、音を立てて椅子から立ち上がり、足早にダイニングを去っていく。
残された半天狗は、これから待っているロクでもない地獄を想像しては、自身の不遇と悲劇を呪うのであった。
それから数十分後、地霊殿の巨大な玄関先。地底の微光に照らされた石造りの手すりを、女苑は苛立ちのままにブーツの踵で蹴り続けていた。カン、カン、という硬質な音が、地底の空気に虚しく反響する。
「……遅い、遅すぎる。もう三十分近くはこうして待ってるんだけど……。あいつ、まさか逃げたんじゃないでしょうね?」
一秒経つごとに、女苑の堪忍袋の緒はミリ単位で擦り切れていく。
こういう姑息な抵抗で嫌がらせをしてくるのではないかと予想はしていたものの、実際に放置プレイを食らっていると実感した瞬間、彼女のプライドを燃料とした怒りが、腹の底から湧き上がった。
「あんのジジィ……もう我慢できない!」
痺れを切らした女苑が、いよいよ我慢の限界だとばかりに踵を返す。あの残り少ない髪を一本残らず引き抜いてやろうと、重厚な扉に手をかけようとした、その時。
ギィィ……と、内部の冷気を引き連れるようにして、扉が内側からゆっくりと開き始めた。その隙間から覗く赤黒の着物を視認すると、女苑は不満を露わにし、即座に食ってかかる。
「ちょっと遅いわよ!人を待たせてる自覚ある?これだから歳だけ無駄に食った奴は……って、は?なによ、あんたが出てくるわけ?」
そこに姿を現したのは臆病風に吹かれた半天狗……ではなく、怒りを煮詰めたような形相の積怒だった。
肝心の老鬼はといえば、積怒の頸にへばりつき、その髪の影から怯えた様子で女苑を覗き見ている。
「当たり前じゃ!こいつとおまえを二人にすれば、どう利用されるか分かった物ではない。弱者を唆し、金を毟り取ろうとするその浅ましい根性、わしが直々に監視してやる!」
積怒は忌々しげに吐き捨てると、錫杖を石畳に力任せに突き立てた。雷が火花の如く四散し、女苑の鼻先を掠める。
威圧するように一歩を踏み出す姿は、およそ同伴者とはかけ離れた処刑執行人のそれであった。
「うわ面倒くさ……。そっちの爺さんだけの方が財布として扱いやすかったのに。でもまぁ、そのもやしを横に連れて歩くよりかは絵面的に幾分マシかしらね。あんた、一応顔だけは整ってるし?せいぜい私を引き立てる『背景』として役に立ちなさいよ」
女苑は積怒の放つ殺気を軽く受け流すと、旧都へと続く長い階段を指差す。
「ほらさっさとエスコートしてよ。レディを待たせたお詫びに、一番高い湯船まで案内してもらうわよ?もちろん、支払いはあんたのその懐に入ってる銭袋からね!」
「図々しいッ! おまえに一銭たりともくれてやる道理はない! ついて来るならさっさと歩け、この欲の塊めが!!」
積怒の怒声が響き渡る中、一行は歪な足並みで地霊殿の石床を離れ、旧都の街明かりへと吸い込まれていった。
そうして三人が旧都の入り口を抜けると、そこには地霊殿の静寂とは対極にある、熱気と騒乱の世界が広がっている。
大柄の妖怪や鬼が闊歩し、安酒の匂いと怒号に近い笑い声が交錯する光景。そして、「珍客」として自分を品定めする周囲の視線に、女苑は隠すことなく不快げに眉間へ皺を寄せた。
「ほんとここの連中は無骨でガタイのエグい妖怪やら鬼ばっかで嫌になるわね。華ってもんが全然感じられないわ。センス以前の問題よ」
「おまえのギラギラしたやかましい格好よりかは連中の方がずっとここに馴染んでいる。場違いなのはおまえの方じゃ」
積怒はそんな周囲の鬼達を歯牙にもかけず、錫杖を鳴らしながら傲然と女苑を先導している。
「洗礼」の件で勇儀に一定の実力を認めさせていたこともあってか、好奇の視線は向けても、積怒に連れ立って歩いている女苑に声を掛けようとする者はいなかった。
「見るな、わしを見るな! もう帰りたい……生きた心地がせん……!」
積怒の首に文字通りしがみついている半天狗は、周囲の目が一行へ向けられるたびにヒキガエルのような悲鳴を上げ、積怒の髪の中に顔を埋める。そのあまりの情けなさに、女苑は盛大な溜息を吐いた。
「いい加減にその爺さんの鳴き声耳障りなんだけど、少しは静かにできないの?……ていうか今更だけど、あんたらってどういう関係? なんでそっちの爺さんは縮んでるのよ」
女苑は積怒の逞しい背中と、泣き喚く半天狗のあまりのギャップに、純粋な疑問を投げかける。
「……此奴はわしの本体にして存在の根源。喜怒哀楽、わしはその一つが形を成した影に過ぎん」
旧都の喧騒に消え入る程に低い声量で、積怒は女苑の問いに答える。
その響きには、生みの親である半天狗への敬意というよりは、己の存在意義そのものを噛みしめ、どこか慈愛にも似ている何かが含まれていた。
「感情が形を成した影ねぇ……。幻想郷じゃ概念みたいな物が自我を持って動くなんて珍しくもないし、特に驚きはないけど。そういう事ならあんたが常に怒鳴り散らしてばっかりな部分にも頷けるわ。さっきの団扇のチャラい奴とか、陰気な槍持ちのあいつとうるさい鳥みたいなのもその一部ってことね」
女苑は腑に落ちたように頷くと、積怒の歩調に合わせて小走りで隣に並び立つ。
その険しい横顔をまじまじと覗き込んでは、彼の肩上で怯えている半天狗とを交互に見比べる。
「こんな漬物石みたいな爺さんから、あんたみたいなイケメンが出てくるなんて……。ああ、でも同一人物ならあんたはコレの若い頃の姿ってこと? だとしたら時の流れって本当に残酷だわ。明日の私への教訓にするわね」
女苑はわざとらしく自分の頬を撫で、勝ち誇ったように笑う。積怒はこめかみに新たな青筋を浮かべ、錫杖を握る手に力を込めた。
「おまえのような浅薄な女にわしらの在り方を説くなど時間の無駄じゃ。いつまでもジロジロとわしを見るな、腹立たしい!」
「あ、また怒った。ほんと沸点低すぎ。せっかくの顔が台無しよ?その顔で普通に笑えば、地上のバカな女ならほっとかないと思うんだけど。ねえ、一回だけで良いから試しに笑ってみてよ。そうしたら温泉の代金くらいは自腹で払ってあげても良いわよ」
「死ね!」
間髪入れぬ拒絶の言葉に、女苑は「はいはいお疲れ様」とヘラヘラ受け流す。そんな二人の不毛なやり取りを余所に、温泉街の湯煙はすぐそこまで迫っていた。
温泉特有の硫黄の香りと、あちこちで立ち昇っている白煙に、女苑の心は浮き立つ。
「あ、見て! 温泉街! やっと泥臭い労働の汗を洗い流せるわ。あそこの一番デカい暖簾がかかってる所とか良さそうじゃない?ほら、もたもたしてないで行きましょ!」
女苑は積怒の返事も待たず、指差した温泉宿の灯りを目指して足早に地を蹴る。
積怒は肩上で怯える半天狗を一瞥し、忌々しげに舌打ちを漏らしながらも渋々その後に続いた。
温泉宿の軒先に掲げられた、漆塗りの看板。そこに記された「懐石膳」や「源泉掛け流し」といった文字をなぞるように、女苑の瞳が欲望の光を宿して輝く。
「美肌効果と疲労回復……悪くない。地底の分際で中々分かってるじゃないの」
女苑は期待に胸を膨らませ、早くも贅沢に癒される自身の姿を想像して悦に浸っている。
対する積怒は、彼女が食い入る看板の内容を流し見するなり、冷めきったオーラを全身から放出した。
「看板の文字ごときに踊らされるとは、浅ましいにも程がある。湯など汚れが落ちれば何でも同じじゃ。そもそも、そこに入れる金などおまえは持っているのか? 言っておくがわしは入らんからな。一銭たりとも金は出さんぞ!」
女苑は「ケチねぇ」と毒づきながら、懐の銭袋を取り出して中身を確認する。チャリン、と寂しい音が響き、中身を覗き込んだ彼女の表情が一瞬でバツの悪そうなものへと曇った。
「……温泉だけなら入れるわね」
女苑はチラリと、意志の固そうな積怒の横顔を盗み見る。しかし、この男から金を引き出すのは難しいことを、短い付き合いの中でも彼女は既に悟っていた。
「あんたに期待するだけ時間の無駄ね。良いわよ、温泉にだけ浸かってくるからここで待ってなさい。せめて肌だけでもピカピカにして、明日の朝にはこの掃き溜めとおさらばしてやるんだから!」
女苑は諦めたように溜息を吐くと、乱暴に銭袋の紐を締め直し、その勢いのまま暖簾を撥ね退けて宿の帳場へと突き進んでいく。
「長湯は許さんぞ!わしの気が変わらん内に戻ってこなければ、脱衣所ごと叩き壊して引きずり出してやるからな!」
背後から飛んでくる積怒の怒声に、女苑は振り返りもせずヒラヒラと手を振った。
「はいはい、百までゆっくり数えてなさいよ仏頂面」
投げやりな返事を残し女湯の奥へと歩を進めた女苑は、脱衣所で服を脱ぎ捨て、湯煙に包まれた大浴場へと足を踏み入れた。
「あら、意外と広いじゃない。そうそう、私が求めていたのはこういう開放感なのよ。あの湿っぽい館じゃ息が詰まって死ぬかと思ったわ」
その湯面は地底特有の鉱物を含み、地上ではお目にかかれない程の濃度によって琥珀色に輝いている。
湯加減を確認しつつ足元から肩までゆっくりと沈み込むと、土木労働で凝り固まっていた筋肉が、芯からとろけるように解きほぐされていく。
「あー……極楽。地底に来てから散々だったけど、この温泉だけは合格点ね。少しはマシな気分になってきたわ」
女苑は湯船の縁に頭を預け、手足を思い切り伸ばす。
広い浴場には彼女以外に人影はなく、龍頭を模した湯口から溢れる水音だけが心地よく響いている。目を閉じてみれば、旧都の喧騒さえも遠い世界の出来事のように思えた。
それから暫くの間、湯船に体を委ね寛いでいた女苑だったが、ふと、半天狗とその分け身である喜怒哀楽の鬼達の姿が脳裏によぎる。
「感情が形を成した影ねぇ……。似た理由で預かってるって覚妖怪は言ってたけど、何やらかしたんだか……」
「疫病神」という肩書きも相当な嫌われものだが、あの半天狗と喜怒哀楽の鬼が放つ存在の異質さは、それとはまた種類の違う酷く歪んだ印象を抱かせる。
他者の富を枯らすことが疫病神である女苑の存在意義であり、誇りだった。だが、あの異質な存在の前では、その誇りさえもただの戯言として切り捨てられた気がしてならない。
特に、あの哀絶という男のこちらを見透かすような湿った瞳。
「あー……あの槍使いのこと思い出したら、なんかまたムカついてきたわ」
ーー自らの価値を他人の金でしか証明できぬお前の境遇を、わしは心から哀れんでいるーー
「何が『哀れんでいる』よ。あんたらの存在そのものの方が、よっぽど救いようがないっつーの」
普段の彼女なら「金にならない思考」として切り捨てるはずのいくつもの疑問が、ふわりと浮かんでは消えていく。
「……やめやめ!どうせ明日にはおさらばなんだから。地上に戻ったら、私はまた次のカモを探すだけ。地底の湿気た連中のことなんてすぐに忘れてやるわ」
女苑は顔を湯に沈め、空気でブクブクと泡を作り出した。
しかし、どれほど熱い湯に浸かっても、哀絶に指摘された「心の空虚」という冷えは、なかなか取れそうになかった。
一方、外で女苑を待っている積怒は、宿の入り口横で仁王立ちになり、行き交う者たちを威嚇するように視線を尖らせていた。
「……」
その形相を見た通行人の反応は様々で、彼を知る者とそうでない者とで差はあったが、いずれにしても、入り口横を陣取ってるせいで宿に入ろうとする客は一人もいない。
営業妨害も甚だしいその威圧感は、もはや「立ち入り禁止」の標識に近い存在となっている。
「なんか不機嫌そうな鬼がいると思ったら、例の新人くんじゃん」
不意に、周囲の雑音を縫って届いた軽やかな声。
積怒は不快感を隠そうともせず、声の主へと殺気混じりの視線を向けた。
「やっほー、瓦礫撤去の時以来だねぇ。相変わらず、顔に『不機嫌』って書いて歩いてるみたいだ」
そこに立っていたのは伊吹萃香だった。彼女は上機嫌に酔った足取りで、積怒の間合いへと物怖じせず踏み込んでくる。その小さな体からは、勇儀にも劣らぬ底知れないプレッシャーが滲み出ていた。
「誰だおまえは!」
馴れ馴れしく接近してきた萃香に対し、積怒は錫杖を打ち鳴らし警告の音を立てる。それと同時に彼女の気配を察した半天狗が、ガタガタと震えながら積怒の髪の中から顔を覗かせた。
「わ、わしに無理矢理毒を飲ませようとした鬼の童じゃ……」
「……あの時怪力女と一緒にいた不愉快な小鬼か!」
半天狗に耳打ちされたことでボヤけていた記憶が晴れると、積怒はその額に新たな青筋を走らせ、敵意を向ける。
「小鬼って言った? 失礼だなぁ。これでも一応、鬼の四天王の一人なんだよ? ま、今はただの酔っ払いだけどさ」
積怒からの刺すような敵意を飄々とした態度でいなすと、萃香は瓢箪の栓を抜いてグビッと中の酒を一口煽った。
その香りが風に乗って、積怒の鼻腔を不快に刺激する。
「一体何の用じゃ!」
「んー別にこれと言って用がある訳じゃないよ。見かけたから何となく声掛けてみただけなんだけどー……あ、そうだ」
顎に指を当てて答えていた萃香だったが、ふと何かを思い出したように、ポンと掌に拳を打ち付けた。その顔には、いたずらを思いついた子供のような笑みが浮かんでいる。
「文の奴から聞いたよ〜? 何でも、新人くんが壊したカメラの修理代を賭けて、随分と面白い勝負をしたんだって〜?」
「……ッ!」
萃香の口から飛び出した話題に、積怒は目に見えて表情を強張らせる。
あの大橋での一件。あと一歩の所で憎き鴉天狗の首を獲り、その高慢な鼻をへし折ってやれる筈だった。
しかし、勇儀の「公平な拳」によって勝負は無理やり引き分けに持ち込まれ、結果として不完全燃焼のまま燻り続けていた屈辱が、今になってまた積怒の中で燃え上がり始める。
「その結果に文句でもあるのか……!」
「違う違う、むしろ逆だよ。文は鴉天狗の中でもかなりの実力者だからね。そんなあいつをあと一歩ってところまで追い詰めたんだ。新人くんにしては上出来だと思ってさ。外の世界から来た鬼とは言え、ちゃんとこっち側の鬼の威厳も守ってくれた訳だし?」
萃香はそう言うと、わざとらしく積怒の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。
「この話、地上じゃ白黒の魔法使いが面白おかしく触れ回っていてね。新人くん、今やちょっとした有名人だよ? 『鴉天狗に泣きを入れた!』って。文は文で、『あんな野蛮な鬼、私の速さの前では止まっているも同然でした。最後は慈悲の心で引き分けにしてあげました』なんて、新聞の号外まで出してあることないこと捏造しようとしてるし」
瞬間。積怒の握る錫杖が凄まじい雷で唸りを上げた。その怒りに呼応するかの如く迸った電流は、荒れる火の粉のように激しく飛散し、辺りに焦げた臭いを充満させる。
「あの忌々しい鴉め……怪力女の横槍が無ければ死んでいたものを!良いだろう、次に顔を見せた時には、嘯いたことを後悔させながら確実に殺してやる……!」
「あはは! いいね、その殺気!文に会ったら伝えておくよ。『新人くんが殺る気満々で待ってるよ』ってさ。あーあ面白い。地底に新しい風が吹いてきたねえ」
萃香は満足そうに目を細めると、積怒の怒りを酒の肴にするかのように再び瓢箪を傾け、酒を煽った。
「あ、あとその話ついでにもう一つ。こっちは白黒の魔法使いの方から聞いた話なんだけど、文との一件で地上の吸血鬼が新人くんに目を付けたみたいだよ。是非一度会ってみたいって」
「吸血鬼だと……?」
積怒の眉間に刻まれた皺が、さらに深く、険しく寄る。
地上の勢力図など知る由もない彼にとって、その単語はただ「面倒な火種」が増えたことを意味していた。
萃香は愉快そうに瞳を揺らし、積怒の反応を楽しむように言葉を継ぐ。
「そ。紅魔館の主、レミリア・スカーレット。『運命を操る』なんて大層な能力を持った、傲慢で我儘な吸血鬼のお嬢様さ。新人くんの感情をバラバラに切り離す戦い方に随分と興味を惹かれたんだって。……もしかしたら、近いうちにお呼びが掛かるかも?」
「戯言を!誰がそんな畜生の相手などするものか! 吸血鬼だの運命だの、反吐が出る!」
積怒の錫杖から漏れ出る雷が、宿の石畳を伝い黒く焼き焦がす。その凄まじい殺気に、肩の上の半天狗は「ヒィィ……吸血鬼! 血を吸われるぅ! 」と、積怒の耳元で更なる悲鳴を上げている。
「そうは言うけど、あのお嬢様は一度言い出したら聞かないからなあ……。まぁでも、その吸血鬼も元は外の世界から幻想郷に流れ着いた境遇だし、日光が弱点って部分も新人くんと共通してるしで、話してみたら案外気が合うかもよ?」
萃香は喉を鳴らしてクツクツと笑う。その無邪気なまでの悪戯心は、タダでさえ短気な積怒の神経を逆撫でするに十分すぎるほどの毒を含んでいた。
そんな剣呑な空気を切り裂くように、宿の中から暖簾を勢い良く撥ね退ける少女が一人。
「あー良い湯だったわ。待たせたわね……って誰? そのちっさい鬼。あとなんかここら辺やたら焦げ臭くない?」
湯気と共に、上機嫌で宿から出てきた女苑。上気した頬と、しっとりと濡れた髪を指先で弄りながら現れた彼女だったが、入り口付近に漂う焦げ臭さと、積怒の隣に立っている萃香の姿を認め、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ連れを待ってたのか。こりゃまた随分とキラキラした別嬪さんだ。……もしかしてデート?」
萃香が揶揄うような笑みを浮かべ、積怒の脇腹を肘で無遠慮に小突く。
「殺すぞッ!!」
「そんなムキにならないでよ。地底じゃこういう冗談も『粋』の内だよ?照れ隠しにしたって過激過ぎるって」
萃香は積怒が放つ雷の余波をひらりとかわしてケラケラと笑う。対する女苑は心底嫌そうに鼻をつまんで一歩後ずさった。
「勝手に変なカップリングしないでよ、趣味悪すぎ。こんな短気で電気代の掛かりそうな男、タイプじゃないから。私はもっと金払いが良くてわがままを笑顔で全部聞いてくれる包容力ある男が良いの。この仏頂面と一緒にされたら、私の市場価値が下がるじゃない」
女苑は両腕を広げ、大袈裟なジェスチャーで自身の理想を語りつつ、積怒をこっぴどく扱き下ろす。湯上がりの開放感も手伝ってか、その口撃は今まで以上に鋭利だった。
「ああああ黙れッ! おまえもこの酔っ払いも!どいつもこいつもわしの逆鱗を逆撫ですることしか能がないのか!」
「あっはははっ!!これ以上刺激したら本当に血管がブチ切れそうだ。おっかないし、私はそろそろ退散しようかな。文にはちゃんと『殺る気満々』だって伝えておくからさ。じゃね〜」
積怒の怒気が限界まで膨らむ中、萃香は鎖を鳴らして踵を返した。千鳥足でありながらその足取りは軽やかで、あっという間に旧都の人混みへと消えていく。
「行っちゃった。……で、結局今の誰? なんか大物っぽい雰囲気があったけど」
女苑は萃香の背中が見えなくなるまで彼女を見送ると、視線を積怒に流した。
依然としてワナワナと肩を震わせている積怒だが、奥歯を砕け散らん程に噛み締め、爆発寸前の怒りを無理やり喉の奥へと押し込む。その喉元からは、煮えたぎるマグマのような唸り声が漏れていた。
「おまえには関係ない! さっさと地霊殿に戻るぞ! 早くしろッ!」
積怒は吐き捨てるように怒鳴ると、女苑の返事も待たず乱暴な足取りで歩き出した。錫杖を突くたび雷の火花が飛び散り、通行人達は慌てて道を開ける。
「あ……ちょ、ちょっと!温泉上がりなんだから、そんなに急かさないでよ!せっかく肌が整ったのに、また汗かいちゃうじゃない!」
女苑はぷりぷりと怒りながら、大股で歩く積怒の背中を追いかけた。
「もう、さっきの奴とどういう話したのか知らないけど、私に八つ当たりしないでよ。……あ、もしかして図星つかれて恥ずかしかったわけ? 意外と純情なのね」
「……」
積怒は何を言うでもなく、女苑を無視して地霊殿への帰路を進み続ける。
その足取りに迷いはないが、纏う空気は先ほどよりも刺々しく、重苦しい。
「無視しないでよ。私の話聞いてるの?さっきまであんなに喚き散らしてたくせに、都合が悪くなると黙るわけ? 最低」
「……」
「……え、マジ怒り? あんたってマジでキレた時、無言になるタイプだった?」
返るはずの罵倒が返ってこないことに、女苑は少しばかりの動揺を見せ、恐る恐る積怒の顔を覗き込む。
その表情はいつもの不機嫌そのものだったが、ひび割れたような血色の悪い額には、うっすらと脂汗が浮かんでいる。
流石に様子がおかしいと感じた女苑が本体である半天狗の方へ視線を落とすと、異変の原因がそこにあることを理解した。
「ヒィ……ヒィ……ッ! 息が、息が苦しい……っ!」
完全に消耗しきった様子の半天狗が、積怒の肩上で白目を剥きかけながらグッタリとしていたのだ。
「ちょっと、そっちの爺さん死にそうじゃない! 何があったのよ、さっきの数分の間に!」
「ええい! シャキッとわしを維持せんか! 人混みに当てられたぐらいで情けなくヒィヒィ言いおって!」
「は……吐きそうじゃ……ウェ……」
積怒が半天狗を叱咤する。単純な話で、本体である半天狗の精神が摩耗すれば、そこから生じた積怒の形も保てなくなる。
萃香の放つ圧倒的なプレッシャーに浴びせられた精神的ストレス、さらには人混みの熱気に当てられたことで半天狗のキャパシティが限界を迎え、積怒を顕現させ続ける為のエネルギー供給が不安定になっているだけだった。
「どういう仕組みかは知らないけど、本体休ませないとヤバそうならどっかで休みなさいよ。……ほら、あっちなら人気も少ないし」
「触るな! 疫病神に情けをかけられる筋合いなど――」
「情けじゃないわよ。あんたがここで消えて、私がこの頼りない爺さんと二人きりになったら帰り道に鬼に襲われた時どうすんのよ。私の安全保障のための休憩よ、文句ある?」
女苑は傲慢な態度を崩さぬまま、積怒の腕を掴んで強引に進行方向を捻じ曲げた。
積怒は忌々しげに鼻を鳴らしながらも抗う気力も尽きたのか、半ば引きずるようにして連れてこられたベンチへと重い腰を下ろした。
ベンチに深く背を預けた積怒は、ゆっくりと目を閉じる。その隣で、半天狗は「助かった……助かったぁ……」と涙を流しながら、ようやく荒い呼吸を落ち着かせていく。
「……ったく。分身だかなんだか知らないけど、結局は本体次第なわけね。あんたらも、案外不自由な生き方してるじゃないの」
女苑はその様子を少し離れた場所から眺め、地底の風に髪をなびかせながら、小さく呟く。
湯冷めを避けるように、女苑はジャケットの襟を正し、地底の暗い空を見上げた。そこには星も月もないが、温泉街の湯煙だけが、白く、どこまでも漂っていた。