半天狗が幻想入り   作:ろんぐそーど

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第二十二話

 

「少しは落ち着いた?」

 

 温泉街の喧騒が遠く響く中、女苑は積怒の隣へと腰を下ろした。ベンチの古びた木材が、二人の重みで軋んだ音を立てる。

 女苑の問いに、積怒は即座に応じることはなかった。彼は相変わらず不機嫌を貼り付けた横顔を晒してはいたが、その額に浮いていた脂汗は引いている。

 肩上でグッタリとしていた半天狗も、落ち着いた様子で規則正しい呼吸を刻んでいた。

 

「ん……ほらこれ、爺さんに水分くらいは摂らせておきなさい。またダウンしてあんたが消えちゃったら、私がこいつを地霊殿まで運ぶ羽目になるんだから」

 

 それは自分の我が儘に付き合わせ、負担を掛けてしまった彼らに対する彼女なりの微かな贖罪か、あるいは哀絶に「空虚」だと見透かされた胸の隙間を埋める為の慣れない「善意」の模索だったのかもしれない。

 女苑は内心で「らしくない」とは毒づきながらも、水が入った竹筒を差し出した。

 

「疫病神の施しなどいらんわ」

 

 だが積怒は隣の彼女と視線を合わせることすら拒み、前を見据えたまま冷酷に吐き捨てた。差し出された竹筒を一瞥するなり、錫杖の柄で乱暴に跳ね除ける。

 なけなしの歩み寄りを無下にされ、女苑は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに眉を吊り上げて竹筒を積怒の胸板に押し付けた。

 

「いいから飲みなさいっての! さっきまで死に体だったくせに、今更意地を張る意味なんてないでしょうが!」

 

 積怒の眉間に深い溝が走り、ピリピリとした重い空気が流れる。しかし、その重みに耐えきれなくなったのか、積怒の肩先で力なく顔を上げた半天狗が恐る恐る口を開いた。

 

「この鬼の体は、人間が飲み食いする物は胃が受け付けんのじゃ……」

 

 消え入りそうな告白に、女苑の動きがピタリと止まる。数秒の呆然とした沈黙の後、彼女は間の抜けた声を漏らした。

 

「……はぁ? なによそれ。あんたどんだけ燃費の悪い体してんの?」

「わしは人間や妖怪とは体の造りが違う。糧とするのは人間の血肉のみ。水など、内臓を裏返すだけの不純物に過ぎん」

 

 積怒は鼻を鳴らし、ようやく女苑の方へと顔を向ける。その瞳には実体が揺らぐような不安定さは消え、確かな「怒り」を伴った意思が再構成されている。

 

「そういうことは最初に言いなさいよ。慣れないことやって身銭を切った私が馬鹿みたいじゃない」

 

 女苑はムッと頬を膨らませると、自ら竹筒の栓を抜き、中の水を喉に流し込んだ。温泉上がりの火照った体に冷たい水が染み渡り、彼女は小さく「ふぅ」と吐息をつく。

 

「勝手に期待して勝手に憤るとは、どこまでも自分勝手な女じゃ」

「それ、あんたが言っちゃう……?」

 

 ジト目を向けた女苑のツッコミに、積怒は答えることなく立ち上がった。

 石畳を叩く錫杖の音が、休憩の終わりを告げる。

 

「……行くぞ」

 

 ぶっきらぼうに背を向けさっさと歩き出す積怒。しかし、その歩調は先ほどよりも幾分か緩やかで、女苑を突き放すような鋭さは失われていた。

 女苑は空になった竹筒を懐にしまい、悪態をつきながらもその広い背中を追う。

 

 それから暫くの間、二人の間に言葉はなかった。

 ただ、石畳を叩く錫杖の音と、女苑のブーツが刻む乾いたリズムだけが、地底の静寂に吸い込まれていく。

 旧都の灯りが遠ざかり、地霊殿へと続く長い上り階段に差し掛かった頃。女苑は積怒の背中に向かって、ふと思いついたように無遠慮な問いを投げかけた。

 

「……ねえ、あんたって生まれた時からそんな不自由な体なの?」

 

 錫杖の音が、一瞬だけ不規則に乱れる。積怒は足を止めず、かといって振り返りもしない。だが、彼の背中から発せられる威圧感が、女苑には一瞬だけ濃くなったように見えた。

 

「不自由?わしを哀れんでいるつもりか……片腹痛い。疫病神という不吉な名に縋らねば己を保てぬ女に、わしの在り方をとやかく言われる筋合いはない」

「……理屈っぽいわね。私が聞いてるのはそういう精神論じゃないわよ」

 

 女苑は鼻でフッと笑い、積怒の歩調に合わせて少しだけ距離を詰める。

 

「美味しい物食べて好きな時に寝て、自分の趣味にお金使ったりとか……そういう当たり前の『自分勝手』があんたは何一つできないじゃない。それって生きてて楽しいの? 本当に自分の意思で生きてるって言えるわけ?」

「此奴が鬼となり、その血鬼術により分かたれ生まれたのがわしら喜怒哀楽の鬼だ。この弱き者を害そうとする有象無象全てを滅すること……それがわしらの意思であり、存在意義。おまえの言う自分勝手を欲したことなど一度もない」

 

 積怒は前を見据えたまま、断固として言い放つ。そこには迷いも、自身の境遇への嘆きも一切混じっていない。ただ純粋に「半天狗を守護する」ことへの執念だけが宿っていた。

 

「……口ぶりからして本体の爺さんは元人間ってこと?なんでまた、そんな使い勝手の悪い体になってまで鬼になったの?」

「そ、それは……わしは何も悪くない!全部あいつらが悪いんじゃあ……!」

 

 その問いが女苑の口から出た途端、半天狗は激しく取り乱す。

 過去の記憶――それは彼が自身を「被害者」として塗り潰し、心の奥底に封じ込めたはずの醜悪な真実。

 半天狗は悲鳴に近い掠れ声で支離滅裂に喚き散らし、爪を立てて自身の頭を掻きむしる。彼の防衛本能そのものである積怒が、その醜態を覆い隠すように怒声を上げた。

 

「やめろ! 此奴への詮索を許した覚えはない! 不愉快じゃ!」

 

 積怒は錫杖を一際強く突き立て、すぐ後ろにいる女苑を鋭い視線で射抜く。

 そこに乗せられた拒絶は今までのどの罵倒よりも苛烈で、そのあまりの凄みに女苑は思わず一歩後退り、息を呑んだ。

 

「怖っ……別にいいわよ、言いたくないなら言わなくても。その過剰な反応を見る限りじゃ、どうせロクでもない理由なんだろうし」

 

 「ロクでもない理由」と投げやりに彼女が放った言葉は、図らずとも半天狗という鬼の本質を残酷なまでに正確に突いていた。

 現実逃避に沈んだ半天狗は「わしは悪くない」とブツブツ唱え続け、積怒の髪に顔を埋めている。

 積怒もそれ以上何を語る気も無いのか、再び背を向け、地霊殿への階段に脚を掛けようと踏み出した。……その時だった。

 

「でも……それってなんか虚しくない?」

 

 女苑の口から零れたその言葉は、地底の風にかき消されそうなほど小さい。だが、あまりに静まり返った階段下で、それは積怒の鼓膜へ届かせるには十分すぎる響きを持っていた。

 

「…………なに?」

 

 踏み出そうとした積怒の足が、凍りついたように止まる。

 振り向いた彼の瞳の奥では、明確な苛立ちと正体不明の不快感が渦を巻いていた。

 

「どういう意味だ」

「言葉通りの意味よ。あんた、自分のために何一つ選べないじゃない。食べるものも、寝る場所も、戦う理由だって全部その爺さんの都合。アンタ自身の『好き』も『嫌い』も、本体の生存本能のオマケでしかないんでしょ?」

 

 女苑は積怒の射殺すような視線に怯むことなく、真っ向から言葉を繋ぐ。彼女の指先が、無意識にジャケットの裾を強く握りしめていた。

 ――らしくない。一銭の得にもならない青臭い感情を、なんだって自分はこの鬼にぶつけているのか。

 

「あんたにも、他の三人にも名前と人格があって、心もあるのに、やってることは全部その爺さんのためだけ。なんか、生きてるのに死んでるみたいな……綺麗に着飾っただけの人形を見てるみたいで、寒気がするのよ」

 

 それは積怒に向けられた純粋な疑問であると同時に、他人の金に繋がれ、欲望という名の檻の中でしか踊ることを許されない、自分自身にも向けた自嘲の響きを帯びていた。

 富を枯らさねば価値を証明できない疫病神と、半天狗の生命維持のためだけに存在する喜怒哀楽。そこに、鏡合わせのような歪な共通点を見出してしまったのかもしれない。

 

「生きているという定義をわしらに当てはめていること自体が間違っている。わしらは、おまえたちと同じ意味での生者ではない。此奴が盾を欲するなら盾となって守り、武器を欲するなら武器となって敵を屠る。それがわしらの完成された形だ」

 

 怒りで激昂すると思っていた積怒の声は驚くほどに冷静で、それ故に酷く冷たかった。それがかえって、女苑の胸の内をチリリと焼く。

 

「それ本気で言ってんの?本心で、それで良いって思ってるの?」

「当たり前じゃ。現に、数百年の永きに渡ってわしらはそうしてきた。そして、それはこれからも変わることはない。絶対にな」

 

 積怒はそうして、今度こそ一度も振り返ることなく長い階段を登っていく。

 遠くなっていく錫杖の音を聞かされながら、残された女苑は一人立ち尽くした。

 情けをかけたところで金が出るわけでもない。明日になれば、自分は命蓮寺での退屈な「更生」の日々に戻るだけ、それだけなのに。

 

「……馬鹿みたい。ほんと、私って馬鹿だわ」

 

 女苑は自分の上気した頬を、熱を逃がすように両手でパチンと叩く。無理矢理気を引き締めて息を整え終えると、彼女は前を行く積怒の背中を追い始めた。

 

 

「お帰りなさい。温泉は楽しめた?」

 

 地霊殿に戻ると、玄関を抜けた先のホールでさとりが出迎えてくれた。その第三の瞳は、帰還した女苑の内面を無機質な眼差しで見据えている。

 

「そう見える?」

 

 女苑は重い溜息と共に、肩をすぼめてジャケットを脱ぐ。帰り道の不毛な問答のせいもあってか、その表情には隠しようのない疲労と、それ以上に複雑な「淀み」が浮かんでいる。

 

「全然。むしろ、温泉に行く前よりも酷く重たいものを抱え込んで帰ってきたように思えるわね」

「……分かってるなら一々聞かないでよ」

 

 少し前までは「陰気な掃き溜め」だと切り捨てていた地霊殿の静けさが、今は自分の中のぐちゃぐちゃした心を逆撫でされる錯覚に陥り、無性に居心地が悪い。

 

「あいつは?」

 

 女苑は視線を彷徨わせ、自分を置いて先を進んでいたはずの積怒の姿を探す。

 

「彼なら、私の顔を見るなり何も言わずにすぐ地下の方へ行ったわ。いつもはあんなに攻撃的な心の声が、帰ってきた時には不思議と凪いでいたのが印象的だったけれど」

「凪いでいた……? 冗談でしょ、あんな沸点の低い仏頂面が?」

 

 女苑は鼻で笑おうとしたがうまく表情が作れなかった。

 自分の問いかけが、あの頑なな鬼の心に一石を投じたなどという自惚れは決してない。だが、あの真っ向からの覚悟にも似た言葉の重みは、今も女苑の胸奥で鉛のように残っている。

 

「私には一生理解できないわよ、あんな生き方」

 

 女苑は吐き捨てるように言うと、さとりの横を通り過ぎ、客室へと続く廊下へ足を踏み出した。

 

「理解したくない……の間違いではなくて?」

 

 背後から掛けられたさとりの声に、その足がピタリと止まる。

 

「……なによ」

「半天狗のためにしか存在できない彼らを人形だと蔑みながら、誰かのために存在できる彼らの在り方を、あなたは少しだけ羨んでいる……違う?」

「っ……!」

 

 女苑は弾かれたように振り返り、さとりを睨みつけた。

 図星を突かれた憤りと、自分の心を見透かされ、土足で踏み込まれる気持ち悪い感覚。だが、さとりのサードアイは、そんな彼女の感情さえも想定内だと言わんばかりに、冷徹に見つめ続けている。

 

「ほんっと性格悪いわね。あんた友達いないでしょ」

「当たってるわ。でも、嘘をついてまで友人がいると主張するほど、私は孤独ではないの」

 

 余裕さえ感じさせるさとりの微笑が、女苑の乱れた心を更に掻き乱していく。

 拳を強く握りしめた彼女は、自分を奮い立たせるように言葉を絞り出した。

 

「……羨んでなんてないわよ。誰かのために自分を捨てるなんて、私に言わせれば一番効率の悪い生き方だもの。私は私のために、誰から何を奪ってでも、一番輝いていたいだけ。それの何が悪いのよ……」

 

 女苑はそれ以上さとりと視線を合わせることに耐えられず、逃げるように客室へと向かっていく。

 ホールに一人残されたさとりは、遠くで揺らめいている旧都の灯りを窓越しに見つめ、小さく、そして深く溜息を吐いた。

 

 

 

「私、なにやってんだろ」

 

 客室に戻った女苑は、豪華だがどこか冷たさを感じさせるベッドの上で仰向けになり、天井を見つめていた。陽の光が届かない地底では、時間の感覚が曖昧に溶けていく。

 

「あんな奴相手に、何マジになってんだか……」

 

 女苑は、自分を「持っている」側だと思って生きてきた。

 欲しいものは奪い、利用できる者は甘い言葉で利用し、欲と金で自分を着飾る。他者からの羨望こそが彼女のガソリンであり、そのために疫病神という力を振るうことに、何の躊躇もなかった。

 だが、あの積怒という男はどうだ。

 彼は何一つ持っていない。自分自身の欲望も、明日何をするかを選ぶ権利も、未来への希望すら。ただ、本体である半天狗の「怒り」という一面を代行するためだけに、その力を振るっている。

 

「あんなの……生きてるって言えない。なのに、なんであんな堂々とできるのよ。なんで満たされた顔ができるわけ?」

 

 自分は誰かに求められ、誰かに必要とされるために身なりを着飾り、依神女苑という城を築いてきた。

 対して彼は、最初から自分という生を捨て、半天狗のためだけの純粋な機能として完成されている。迷いのないその絶対的な自己肯定が、女苑には不快で、羨ましいと思ってしまった。

 

 ――誰かのために存在できる彼らの在り方を、あなたは少しだけ羨んでいる……違う?

 

 さとりの言葉が鋭い棘となって胸を刺し、女苑はシーツを強く握りしめ顔を横に振った。だが、その否定はあまりに弱々しい。

 

「あーもうほんと最悪!」

 

 乱暴に寝返りを打ち、枕に顔を埋める。

 脳裏に浮かぶのは、帰り道の階段で見た積怒の背中だ。一度も振り返ることなく、自身の境遇を「完成された形」だと言い切ったあの毅然とした立ち姿。

 半天狗がいなければ、喜怒哀楽の鬼は存在すらできない。だが同時に、彼らがいなければ本体である半天狗もその命を繋ぎ止めることが難しい。

 互いが互いを根源的な部分で必要としていて、補完し合っている。だから、積怒には「自分はこれで良いのか」という迷いが生じる隙など、きっと存在しないのだろう。

 

「姉さん……」

 

 ふと漏れたのは、自分と同じく忌み嫌われている貧乏神の姉。唯一の肉親である依神紫苑の名だった。

 かつて二人で幻想郷を震撼させた時、確かに「私たちこそが最凶だ」と信じていたはずだ。だが、今の自分はこうして一人、地底の中で膝を抱えている。

 

「……馬鹿みたい。きっと地底の連中のせいで、変な湿っぽさが伝染したんだわ。絶対そうよ」

 

 女苑は強引に思考を打ち切るように、バサリと布団を被った。

 

 明日になれば、迎えが来る。

 地上の眩しくてくだらない、欲にまみれたあの世界。あそこに戻れば、またいつもの「依神女苑」に戻れる……そう信じて、彼女は瞳を閉じて意識を手放していった。

 

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