物語の進行次第では今回みたいにかなり間が空くこともあると思うので、ご了承下さい。
「…………ん」
客室のベッドの上で、女苑は意識をゆっくりと浮上させた。
重たい瞼を上げ、乱れてしまった髪をかき上げながら上半身を起こし、意識を手放す前の記憶を徐々に取り戻していく。
「あー……そっか。寝ちゃったんだっけ……」
客室の壁に掛けられた古めかしい時計に目をやると、丁度深夜の24時を秒針が刺していた。
温泉街から地霊殿に戻って来たのが18時位だったことを考えると、かれこれ6時間は泥のように眠っていたらしい。
あの問答に疲弊していたのか、眠っていた分だけ胸の内にあった「重み」は幾分軽くなってはいたが、夕食を抜いたままだったことを思い出した瞬間に脳が空腹を自覚し、胃袋が抗議の声を上げる。
「食べなくても死ぬことはないって言っても、空腹を感じるってのは面倒ね」
女苑はベッドから腰を上げると鏡も見ずに身なりを適当に整え、客室の扉を開けた。
地霊殿全体は既に寝静まっており、最低限の光源として廊下に灯されている燭台以外は、全て消灯されている。
「……ま、そりゃ寝てるか」
燭台の火によって壁へ伸びる自分の影を、どこか他人でも見るかのように視界に映しながら、薄暗い廊下を歩き出す。
「えっと……確かホールの方に食堂に続く扉があったと思うんだけど」
記憶を頼りに曲がり角を幾つか曲がってホールへ抜けると、簡単にダイニングへと続く扉を見つけることができた。
しかしよく見てみると、その隙間からは微かに明かりが漏れている。
(誰かいる……?)
誰かがまだ起きているのか、それとも単に消し忘れただけか。もしお燐がいれば、何か適当な夜食でも作って貰おう。
女苑はそんなことを考えながら中の様子を伺いつつ、静かに扉を開けた。
「起きたのね」
足を踏み入れたようとした瞬間に届いたのは、鈴の音のように透き通っているが、感情の起伏の少ない声。
女苑は肩を跳ねさせた驚きのあと、声の主へと視線を飛ばす。
さとりだ。
彼女は壁際でパチパチと音を鳴らしている暖炉の前に椅子を置き、腰を下ろしていた。揺らめく火から視線は逸らさないまま、手にしていたティーカップを僅かに傾けている。
「覚妖怪……。ペットの猫の方を期待したのに、あんたがいるなんて」
「それはご期待に添えなくて申し訳ないわね。一応、あなたが起きた時のためにって、お燐がキッチンの方にサンドイッチを作って置いてくれてるわ。お腹が空いてるならそれを食べなさい」
「あら、気が利くじゃない。あんたと違って、あの黒猫は『需要』ってものをよく分かってるみたいね」
相変わらずの減らず口を叩きつつキッチンへと向かうと、そこにはさとりの言葉通り、クローシュが被せられた皿の上に厚切りのパンで挟まれたサンドイッチが三切れ置かれている。
皿を手に取って暖炉前のテーブルへと近づいた女苑は、さとりから少し離れた位置にある椅子に腰を下ろして、サンドイッチを口に含んだ。
「美味しい……」
一口噛みしめた瞬間、柔らかいパンと瑞々しいレタス、そして具材の食感が口の中に広がり、女苑は思わず声を上擦らせた。
空っぽだった胃袋に、確かな幸福感が満たされていく。
「そう。あなたの好みに合っているなら、きっとあの子も喜ぶと思うわ」
さとりはティーカップを口に運びながら、女苑の方を向くことなく穏やかにそう口にする。その声に、日中向けられた心をかき乱すような毒気はなかった。
「ていうか、なんで夕食の時に起こしてくれなかったのよ。一応客人なんだけど、私」
「一度声を掛けにいったわよ。でもあなた、ぐっすり眠っていたんだもの。起こすのも気が引けたからそっとしておいたのだけど、起こした方が良かった?」
「それは……まぁ、起こされたら起こされたで、猛烈に不機嫌だったかもだけど。でも、損をした気分なのは変わらないわよ」
別に気を遣われたこと自体に悪い気はしなかったが、「自分がいたのに、自分抜きで何かが完結していた」事実から来る疎外感に、女苑は唇を尖らせる。
ただ、自身の性格を誰よりも理解していた彼女は、起こされたら起こされたで喚いている面倒な自分が容易に想像できたことから、強く反発もできなかった。
そんな風に、少しばかり拗ねた様子でサンドイッチをモゴモゴと頬張る女苑を横目で見ていたさとりは、口元を僅かに緩め、クスリと笑う。
「……なに笑ってんの?」
「ごめんなさい、仲間外れにされたことに拗ねてるって思ったらつい。豪胆で傲慢だとばかり思っていたけれど、意外と繊細で傷つきやすい所もあるのね、あなた」
「んぐっ!? ……誰が拗ねてるって!?私はただ、自分が寝ている間に損をしたのがムカつくだけ!疫病神は損をするのが一番嫌いなの! わかる!?」
さとりの言葉にむせ返った女苑は、口の中のサンドイッチを飲み下し、すぐさま彼女を指差し捲し立てる。
読心能力そのものもそうだが、それ以上に見抜いた本音をわざわざなぞるように突き返してくるさとりのやり方が、プライドの高い女苑には耐えがたかった。
「落ち着かない心は、言葉を重ねた分だけ露呈するものよ。あなたが今、自分の在り方に疑念を感じていることも含めて」
「……ッ」
指摘された心の内を誤魔化そうとすればするほど、さとりの落ち着き払った態度が鼻につく。
図星を突かれた女苑は恨めしそうな表情を彼女の横顔に向けたが、言い返そうと喉元まで出かかった「強がり」という名の反論は、読心能力の前には無意味だと、結局吐き出されることなく深い溜め息へと変わった。
パチ、パチ、と暖炉で爆ぜる薪の音だけが、二人の間に流れる沈黙を埋めていく。
「……ねえ、あの爺さんの取り巻き……仏頂面たちって、実際自分たちのことどう思ってるの?心が読めるあんたなら分かるんでしょ?」
不意に零れ出たのは、眠る直前まで彼女の脳内を支配していたあの歪な鬼への疑問。膝の上に落とした両手指を絡めながら、女苑は消え入りそうな声で言葉を搾り出した。
さとりはティーカップをソーサーに静かに戻し、揺らめく火に視線を固定したまま、どこか遠くを見ているような眼差しでその問いに答える。
「………少なくとも、彼らは自分の境遇をマイナスに捉えてる様子はなかった。結局、幸せかどうかを決めるのは第三者ではなく本人の納得の問題だもの。だから、もし彼らに思う所があって気を落としてるんだとしたら、それは無用な心配よ」
「無用な心配……そうね、ほんとにそうだわ」
無用な心配だと、自分でもそう思う。他人の懐から金を搾り取ることしか考えてこなかった癖に、金にもならない他人の生き方に首を突っ込み、勝手に打ちのめされているのだから、言ってしまえば独り善がり以外の何物でもない。
さとりの言葉は感情的な反論を許さない冷たい正論だったが、それは女苑を突き放すためのものではなく、行き場を失っていた独り善がりな感傷を受け止めるための、彼女なりの優しさだった。
「彼らに何か言われた?」
「え……」
「彼らに言われた言葉が、あなたの中で複雑に絡み合っている。だからあなたの心は『迷っている』のでしょう?話してみなさい。解いてあげることは出来ないかもしれないけれど、解き方を教えてあげることは出来るかもしれないから」
「…………」
さとりのサードアイが微かに赤く明滅する。その眼差しは何故だか穏やかに感じられ、無機質でありながらも、女苑を追い詰めるような鋭さは微塵も感じられない。
「……哀絶に言われたの。自分の価値を他人の金でしか証明できない私の境遇を哀れんでいるって。最初はね、ただ腹が立った。何よその上から目線、何様のつもりよって。でもあの仏頂面と……積怒と話した時、気付いちゃった。あいつらは、本体の爺さんがいればそれで完結してる。誰が何を言おうと、お互いが必要とし合ってるし、自分が自分であることに一ミリも迷いなんかない。それが、なんて言うか……」
「羨ましいと思ってしまった」
「あんたねぇ……」
思考を先読みされ、口にしようと躊躇っていたセリフをさとりに言われた女苑はジト目を向ける。
もう否定するのも馬鹿馬鹿しいと諦めをつけている彼女は、投げ出すように背もたれへ体を預け、小さく鼻を鳴らした。
「ああそうよ、そう思った!そう思っちゃった自分に吐き気がしてウンザリしてるけど、でも仕方ないじゃない。羨ましいって……思っちゃったんだもん」
認めた。否、認めてしまった。口から出たその言葉は、喉に刺さっていた小骨が抜けた時のような痛みを伴う解放感となって女苑の喉を通り抜ける。
疫病神として他者の欲望を煽り、富を枯らし、そうして自分を定義してきた彼女が、何も持たない彼らに自分にはない「芯」を見い出してしまった。
「あいつらを見てたら、私が今まで積み上げてきた物が安っぽいおままごとに思えてしょうがないの。私は誰かに見せつけるために着飾って、誰よりも上だって証明するためにお金を使う。私より貧しい奴、私より地味な奴、 そういう連中が『羨ましい』とか『一生手が届かない』って羨望する顔を見て、ようやく『私は生きてる』って実感できてた」
それは、疫病神という傲慢な仮面の裏側に隠されていた女苑の本音そのもので、僅かにだが、声が震えている。
「なのに、あいつらは私をこれっぽっちも羨まない。それどころか哀れんだ。私が一番見下していたはずの何一つ持ってない人形みたいな連中に、私は哀れまれた。……ねえ、私間違ってた?欲望を集めて、奪って、笑って。それが私の存在意義で、幸せだった筈なのに、あんな奴らの言葉一つで全部揺らいじゃうなんて……」
女苑の独白を遮ることなく最後まで聴き届けたさとりはゆっくりと立ち上がり、自分の言葉の重みに耐えかねた様子で目を伏せている女苑の側まで歩み寄る。
そして、そっと彼女の隣の椅子へ腰を下ろした。
「……なによ。惨め過ぎてかける言葉も見つからないってわけ?」
女苑は隣に座ったさとりの気配に身を硬くし、無意味と分かっていながらも精一杯の強がりを込めて自嘲気味に笑う。視線は頑なに、膝の上で絡めた自分の指先からは動かせない。
さとりは今、どんな顔をして自分を見ている?滑稽だと嘲笑しているだろうか。それとも、読み取った醜い葛藤に心底呆れ果てているだろうか。
しかし、次にさとりから返ってきたのは、嘲笑でも同情でもない、驚くほど平坦で、それでいて温かみのある言葉だった。
「いいえ。私、あなたのことが少し好きになったわ」
「…………は?」
耳を疑った。
あまりに想定外の言葉に、伏せていた顔を勢いよく上げ、隣に座るさとりを凝視する。その唇から零れたのは、予想だにしない柔らかな肯定だった。
「な、なにそれ……急に気持ち悪いこと言わないでよ」
「本当のことよ。あなたは、自分と向き合う強さをちゃんと持っていた。それは、何百年も自分を偽り続けて、感情を切り離すことでしか自己を保てなかった今の半天狗には、決してできないことだもの」
「向き合う強さ? 冗談言わないでよ。私は自分の安っぽさに絶望して、ここであんたに泣き言を吐いてるだけの……ただの負け犬」
膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。
潤んだ目元をさとりに見せたくなくて、再び目を伏せ、必死に堪えた。
「いいえ。あなたは自分の欲望に自覚的で、失うことを恐れ、他者との違いに傷つくことができた。それは積怒たちのような完成された機械的な存在ではなく、あなたが自分で何かを選び取ろうとする意思がある、依神女苑という明確な『個』である証拠」
さとりはそっと、女苑の震える拳に自分の手を重ねる。
その体温は、哀絶に穿たれた胸の風穴を温かく満たしてくれるような、不思議な感覚を彼女に与えていた。
「羨むことは決して悪いことではないわ。それはあなたが自分の中にもっと別の『形』があるかもしれないと、可能性を感じているからこそ生まれる感情だもの。……きっかけが彼らだったせいで、少しだけ遠回りしてしまったけれど」
温かい。さとりの言葉がじわりと全身に伝わっていく。
ついさっきまで、彼女に心を読まれることがあんなに嫌だったのに、今、自分の震えを優しく包み込むこの感覚に、女苑は抗うことができなかった。
「聞かせて。あなたは誰かに必要とされる『人形』になりたいの? それとも、誰かに必要とされる『依神女苑』になりたいの?」
その問いは、正確に女苑の核心を突いた。
「…………そんなの、決まってるじゃない」
女苑は伏せていた顔を上げる。そこにはいつもの強気な輝きが、涙の膜を突き破って戻ってきていた。
「部品なんて、真っ平ごめん。あんな仏頂面みたいに、誰かの都合で怒鳴ったり笑ったりするなんて、考えただけで反吐が出る。私は、私が欲しい物を全部手に入れて、私がなりたい私になるの。誰かに都合よく使われる人形になんて、死んでもなってあげない」
それは、積怒が言った「完成された形」への、依神女苑としての明確な決別宣言だった。『疫病神』こそが依神女苑の在り方であり、依神女苑にしかない美しさなのだと。彼女は、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「あいつらに何て言われようと関係ない。私は依神女苑。幻想郷で一番欲張りで、幻想郷でただ一人の疫病神なんだから」
言い切った女苑の顔には、迷いという名の霧を払い除け、さらに一回り強欲さを増したような、確かな覚悟が浮かんでいた。
さとりはその表情を見て、重ねていた手をそっと離す。
「それで良いのよ。あなたは疫病神、そうあれと生まれてきたのだから、それを無理に変える必要なんてない。あなたはあなたのまま、誰かと寄り添える方法を見つけて、あなたを受け入れてくれる人たちと共に歩めば良い」
「誰かと寄り添える方法って……具体的にどうすれば良いの?」
女苑の問いに、さとりは少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「そこまで私が教えてしまったら意味がないでしょう?その為の更生なんだから、ちゃんと命蓮寺での修行を頑張りなさい」
「うっ……ごもっとも。聖と他の命蓮寺の連中とも、もう少し向き合ってみるか」
女苑は空気を胸いっぱいに吸い込み、先ほどまでの激しい感情の昂りを落ち着かせるように、深く、ゆっくりと深呼吸していく。
さとりは自分の欲望を肯定し、その上で「個」としての自分を認めてくれた。それは、他人の金を奪うことでしか得られなかった「承認」とは全く質の違う、魂を揺さぶられるような経験だった。
「なんか掌の上だった感は否めないけど、あんたに話して良かったわ。随分慣れてる感じがするけど、昔からペット相手にこういうことしてたの?」
腕を伸ばし、体を大きくほぐしながら、女苑は呆れと感心を含んだ視線をさとりへと向けた。
彼女は視線を宙へと漂わせ、懐かしむようで、少し困ったような微笑を浮かべる。
「それもあるけれど、私には妹がいるから。姉として振る舞うために色々と考えていたら、いつの間にかこうなっていた感じかしら」
「妹いたんだ?」
「ええ、可愛い自慢の妹よ。今は少し……距離を感じているけどね」
その声に、一瞬だけ影が差す。女苑はその響きを敏感に察し、「姉妹」という存在に複雑な感情を抱えるさとりを、じっと見つめる。
「……仲悪いの?」
「そんなことないわよ。ただ、私たち姉妹は二人とも覚妖怪だから、色々と複雑で」
「あー……。心を読めちゃう者同士だと喧嘩とか凄そうね。全部の思考がお互い先回りされるんでしょ? 私なら三秒で発狂するわ」
女苑は想像して身震いした。自分と紫苑でそんなことが起きたら、それこそ姉妹の縁どころか、この世の終わりだ。
「いいえ、妹……こいしは、自分の心を閉ざしてしまったの。だから、私にはあの子の考えていることが分からない。あの子が私に求めてる言葉を掛けてあげられない。覚妖怪なのに、一番近くにいる家族の心だけが読めないなんて、滑稽でしょう?」
自嘲気味に語られる言葉の端々には、女苑がさっきまで抱いていた「冷徹な主人」のイメージからはかけ離れた、一人の「姉」としての苦悩が見え隠れしていた。
「別に滑稽じゃないわよ。身内のことなんて、読めないくらいが丁度良いんじゃない? 私の場合だと、姉さんの考えてることなんか大体お腹空かせてるか、私にくっ付いておこぼれにありつくかのどっちかだって分かってるから、逆につまらないし」
女苑はわざとぶっきらぼうに言って、さとりの僅かな影を払拭しようとする。
「……あなたは自分のお姉さんのこと、好き?」
「好きか嫌いかの二択なら……好きだけど、私の姉さんは頼りないから。仮に姉さんがあんたみたいな感じだったら、多分シスコンになってたわね。私」
実姉である紫苑を下げる意図は無かったが、同じ姉という立場で並べた時に姉らしいと言えるのは、女苑から見てもさとりのようなタイプだった。それは、静かな強さを持つ姉という存在に、無意識に憧憬を抱いていたからかもしれない。
彼女の言葉に意外そうに目を丸くしたさとりだったが、一瞬の間を置いたあと、口元へ指を持っていき小さく音を立てて笑う。
「嬉しいわね。じゃあ、今からでも私の妹になる?」
「絶対嫌。私が言ってるのは性格の話であって、あんたをご指名ってわけじゃないから。……それに、私の姉さんは、あの頼りない貧乏神一人だけだしね」
女苑は鼻を鳴らしてそっぽを向く。しかし、その横顔にはさっきまでの悲壮感は微塵も残っていない。ただ、言葉とは裏腹に、そこには自分の姉を肯定できたことへの僅かな充足感が宿っていた。
「あら残念。……さて、そろそろ部屋に戻りなさい。明日の朝……いえ、もう今日ね。命蓮寺からの迎えが来るまで、もう少し休んでおいた方が良いわ」
そう言って立ち上がると、さとりは空になったティーカップと、サンドイッチが乗っていた皿を持ってキッチンの流し台へと運んでいく。
場を温めていた暖炉の火はいつの間にか小さくなり、薪が爆ぜる音も静かな余韻へ変わっていた。
「言われなくてもそうするわよ。じゃあね、おやすみ」
女苑も椅子から立ち上がり、ダイニングの出口へと向かうが、扉に手を掛けようとしたところで一度足を止め、振り返った。
「あ、あの……」
「……なに?」
呼び止める声に、皿を洗う手を止めてさとりも女苑の方へ振り返る。その第三の瞳は、彼女が今まさに口にしようとしている「言葉」を読み取っていたはずだが、さとりはあえて先回りせず、本人の口から続きが紡がれるのを静かに待つ。
「話、聞いてくれてありがと……さとり。あんた、思ったより嫌な奴じゃなかった」
それは、女苑がこれまでほとんど口にしたことのない種類の感謝だった。素直になりきれない彼女らしい、精一杯の歩み寄り。
さとりは今日一番の、本当の意味で穏やかな笑みを浮かべ、その想いに応える。
「どういたしまして。初めて名前で呼んでくれたわね」
「あ……いや、別に深い意味はないわよ! 覚妖怪なんて呼びにくいし、私なりにあんたのことを認めてあげただけなんだから! 勘違いしないでよね!」
無意識の内に相手の懐へ踏み込んでいたことをハッと自覚した女苑は、耳を赤く染めながら吐き捨てるようにそう叫ぶと、今度こそ逃げるようにダイニングを後にした。廊下を走る彼女の足音は、心なしか軽やかで、弾むようなリズムを刻んでいる。
「……彼女なら、きっと大丈夫」
残されたさとりは、洗ったばかりの皿を棚に戻し、消え入りそうな暖炉の残り火を見つめていた。
そうして夜は明けていき、迎えた早朝、6時。
地霊殿の正門前には「聖白蓮」が、後光が差していると錯覚するくらいの眩い笑みを浮かべて立っていた。
「皆さんには大変お世話になりました。急な話だったにも関わらず受け入れて下さって、感謝致します」
「お気になさらず。彼女が少しでも何かを持ち帰れたのなら、こちらとしても受け入れた甲斐があったというものですから」
「ふぁーあ……」
さとりと聖の挨拶を隣で眺めながら、女苑は口に手を当て大きなあくびを一つ吐く。
早起き自体は寺生活で習慣づけられてはいるものの、まだ順応していないのか、眠そうな目を擦ってはポケーっとしている。
「本当にもう帰っちゃうのかい? 朝食くらい一緒に食べていっても良いのに……」
「お気持ちは嬉しいのですが、お寺の方でこの子の分の朝食も用意しているので」
主人同士のやり取りに混ざったのは、見送りのために顔を出したお燐だった。
女苑と言葉を交わす時間が作れなかった彼女としても、話し足りない部分があったのだろう。申し訳なさそうに断りを入れる聖に寂しそうに目を細め、お燐は二股の尻尾をゆらゆらと落とす。
「そっかあ、そういうことなら仕方ないね。お空も残念がるだろうけど」
「……その鴉の方は? まだ寝てるの?」
この場に姿がないお空に対して言及した女苑に、お燐は困ったように笑みを浮かべては、気まずそうに頬を掻いた。
「あー……うん。本人は絶対見送りするって息巻いてたんだけど、起きれなかったみたい。気持ちよさそうに眠ってたから起こすのも可哀想で……ごめんね?」
「良いわよ、別に。飛びついて抱き付かれたりしても暑苦しいだけだし。……にしても」
いつもの調子で軽口を叩いた女苑だったが、その視線はすぐお燐の横に向けられる。そして、そこに立っていた人物に、彼女の言葉はふと止まった。
半天狗だ。
積怒ではない、臆病者の本体である老鬼が、お燐の影からこちらを窺っている。
彼女の視線に気が付き、目があった途端、半天狗はガタガタと膝を震わせ始めた。
「なんじゃ、なんでわしを見ている!?」
「いや、見送りの面子にあんたが居るのが意外すぎて……。てっきりもう顔を合わせることもないと思ってたのに、どういう風の吹き回し?」
女苑は呆れたように片眉を上げ、縮こまる彼を見下ろした。
半天狗は「ヒィッ!」と悲鳴を上げると、お燐の背中に隠れ、深々と刻まれた皺だらけの顔をさらに歪ませる。
「アタイが地下から引き摺ってきましたー!」
底抜けに明るい声でお燐が暴露すると、半天狗は「余計なことを……!」と小さく唸った。
「あの鳥頭は寝かせておいて、何故老いぼれのわしには同じ気が遣えんのだ!差別じゃ!不公平じゃ!老人虐待じゃ!」
「お爺ちゃん起きてたじゃん。地下の隅っこでぶつぶつ独り言言って暇そうにしてたから、アタイなりに『気を遣って』あげたんだよ?」
お燐がケラケラと笑いながらその背中をバシバシ叩くと、半天狗は「骨が折れるぅ……!」と情けなく喚き散らす。
そのあまりに矮小で、あの峻烈な「積怒」とはかけ離れた醜態に、女苑は思わず吹き出した。
「ぷっ……あはははは! ほんっと、あんたって奴は。昨日あんなに格好つけて私に自分を語ってた男の本体がコレだなんて、誰が信じるのよ!」
こんな滑稽な姿を見ていると、昨日自分を突き放したあの積怒の背中が幻だったのではないかとさえ思えてくる。けれど、この情けない老鬼が震えれば震えるほど、内側に潜む「彼ら」の存在もまた、確かなものとして感じられた。
「……あーあほんと可笑しい。あんた、もうちょっとシャキッとした方が良いわよ?仏頂面たちとのギャップが凄すぎて釣り合い取れてないって」
「な……わしを、わしを嘲笑うつもりかッ!?」
「そうよ、嘲笑ってんのよ。中身がアレなら、皮ももっとマシに作ればよかったのにね」
女苑は腰に手を当て、愉快そうに言い放つ。
自分と喜怒哀楽の鬼とを重ねて落ち込んでいたはずが、今は目の前の醜悪な本体の姿を、依神女苑という『個』を輝かせるための格好の対比物として完全に受け入れている。
そんな彼女の笑い声が響き渡る光景を、聖やさとりまでもが、どこか微笑ましげに見守っていた。
「得られた物があったようで、良かった」
聖が安心した様子で呟き、女苑の肩にそっと手を置く。
「女苑、そろそろ……」
「ん、そうね」
女苑は数歩後ずさり、見送りの面々を改めて見渡した。そして、一人一人に視線を巡らせていく。
「またね、さとり。色々とありがと」
「ええ。あなたも、元気でね」
「お燐、サンドイッチ美味しかったわ。次ここに来ることがあった時はあんたの手料理、もっと食べさせてよね」
「もちろん、いつでも待ってるよ♪」
「んで、最後は……」
「……ヒィッ!?」
最後に、半天狗へもう一度顔を向ける。彼は相変わらず捕食者を見るような怯えた目でこちらを窺っていたが、女苑は皮肉げな笑みを引っ込め、少しだけ真面目な顔を作って言葉を紡いだ。
「……どうせ爺さんの中からガン付けてるんでしょうし、一応、伝えておこうと思ったことは、伝えておくわ」
女苑は、震える半天狗の奥に潜む「彼ら」に向けて、静かに、しかし真っ直ぐに語りかける。
「正直に言うわね。私、あんたらと爺さんの、互いが互いを必要とし合っている関係を……ほんの少しだけど、羨ましいって思っちゃった」
その言葉が発せられた瞬間、半天狗の震えがぴたりと止まり、お燐も、さとりも、そして聖も、その場に居た全員が女苑の剥き出しな告白に耳を傾けた。
「嫌われることには慣れてるつもりだし、外道だなんて言葉を浴びせられるのも、私にとってはステータスだと思ってたけどさ。あんな風に、迷いなく『これが自分の完成形だ』って言い切れる自信があるっていうのは、悪くないんじゃない? って」
女苑はそこで言葉を区切ると、ふいっと視線を空へ投げる。
地底の天井はどこまでも高く、暗い。最初は肌に合わないと吐き捨てていた地底の空気も、今の彼女には不思議と心地がよかった。
「……でも、それだけ。羨ましいのはそこまでで、後の部分はやっぱり反吐が出るわ。私はあんたらみたいに、誰かのための部品や人形にはなりたくない」
半天狗はポカンと口を開け、金縛りにあったように動かなかった。その内側で、積怒が、可楽が、空喜が、哀絶が、彼女の「決別」をどう聴いているのか、それを知る術はない。
「私は依神女苑。誰かの都合で動く駒でもなければ、誰かに守られるだけの弱者でもない。私は私のために強欲で、私のために美しく、私のために生きて、私と一緒に歩こうと思ってくれた人たちと、一緒に歩いていく。……まあ結局の所、あんたらの在り方は、私の頭をぐちゃぐちゃに掻き回しただけで、何のプラスにもならなかったってわけ」
「……」
半天狗は震える指先で自分の胸を押さえる。
女苑の言葉に気圧され言葉を失ったのか、あるいは自分の中の『感情たち』が、何かを言い返そうと騒ぎ立てているのか、どうしてそんな行動を取ったのか本人にも分からなかったが、赤く濁った瞳に映る彼女の姿は、大輪の華のように毒々しくも鮮やかに焼き付いていた。
「ああでも、自分を見つめ直す機会をくれたって意味では感謝しといてあげる。癪だけど」
女苑は最後に不敵な笑みを浮かべて半天狗へウィンクを送ると、聖の隣へ駆け寄る。その足取りに、もう迷いはない。
「行きましょ、聖。お腹空いちゃった」
「ふふ、そうですね。皆寺で待っていますし、行きましょうか」
聖は優しく頷くと、さとりたちへ一礼し、腰に掛けてあった巻物を静かに開く。
そのまま小さく何かを唱えたかと思うと、やがて眩いばかりの五色の光が足元に現れ、二人を包み込みんで柱となる。
そして数秒の内に柱は収束し、辺りを光で満たしたと思った時には、もう二人の姿は消えていた。
「……行っちゃったね。あーあ、もっと色々話とかしたかったのになー」
お燐が伸びをしながら呟くと、その隣でようやく金縛りが解けたように半天狗が膝から崩れ落ちた。
「なんという厚顔無恥!なんという傲慢!勝手に羨んで、勝手に反吐が出ると言い捨てるとは、最後まで自分勝手な理由でわしを嘲りおったぞ!あの疫病神ィッ!」
半天狗は地面に這いつくばりながら、女苑が消えた空間に向かって恨めしそうに拳を振るった。しかし、その声はどこか虚勢じみており、お燐はその姿を見て「はいはいお爺ちゃん、もう終わったよ」と呆れたように笑い、着物の襟首を掴んでは彼を地霊殿の中へ引き摺っていく。
「年寄りを雑に扱うなぁ!ああ可哀想なわし、何故惨めで哀れなわしを誰も労ってくれんのか……!!」
お燐に引き摺られていく半天狗の泣き言を背にしながら、さとりは一人、静かになった地霊殿の門前に残っていた。
「……『私と一緒に歩こうと思ってくれた人たちと一緒に歩いていく』、ね」
胸元のサードアイをそっと撫でる。
自分と心を閉ざした妹との間にも、いつか剥き出しの言葉をぶつけ合える日が来るのだろうかと、夢想した。
覚妖怪という宿命の果てに、こいしは心を閉ざすことを選んだ。自分とこいしの関係は、積怒たちが半天狗と分かちがたく結びついているのとは対照的に、あまりにも不確かなものだ。
女苑に「解き方を教えてあげることはできる」と言った自分の言葉が、自分自身にも向けられていたことに気づく。心を読むことではなく、心の重なりを信じること。その難解な「解き方」を、彼女はあの傲慢な疫病神から、逆説的に教わったのかもしれない。
一度だけ深呼吸をし、地底の空気を肺に満たしたさとりは、踵を返して地霊殿の中へと歩き出した。