旧都の喧騒が、その一角だけぴたりと止んだ。
「…… さとりから差し入れかと思えば、なんだい、この湿気た腐れネズミは」
立ち塞がるのは、燃えるような紅葉色の髪と、額から真っ直ぐに伸びた一本の角を持つ女。四天王の一人、星熊勇儀である。彼女が手にした盃から酒の香りが漂うが、それ以上に、周囲の空間を圧し潰すような圧倒的な「威圧感」が半天狗を襲った。
「ヒィッ……アッ、ガ……ッ!!」
半天狗は、その場に崩れ落ちた。
かつての主、鬼舞辻無惨とも違う。あれは絶対的な恐怖と支配の象徴だったが、目の前の存在は「力の純度」そのものだ。血を啜り、人間から成り果てた後天的なバケモノである自分とは、魂の格が違う。
(本物だ……。これこそが、真の……鬼……ッ!!)
「おい、さっきからヒィヒィうるさいんだよ。鬼を名乗るなら、もうちっと骨のある面構えをしな」
勇儀は不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼女にとって、卑怯を美徳とし、常に被害者を装う半天狗の精神性は、最も「気に食わない」類のものだった。
「ま、いいさ。地底に来たからには歓迎してやる。……まずはその腐った根性を、拳で洗ってやるよ!」
「ヒィィィイ!! お助けをォ!!」
勇儀が軽く一歩踏み出した。それだけで地面が爆ぜる。
「死ぬ、死ぬ! 殺されるッ!!」
半天狗はなりふり構わず地を這い、超常的な速度で逃げ惑った。身体が小さい分、その身のこなしだけは素早い。勇儀の振るう風圧を紙一重でかわし、建物の影から影へとネズミのように逃げ回る。
「ほう、逃げ足だけは一級品だねぇ」
勇儀は面白そうに口角を上げたが、それも数分と持たなかった。
攻撃を当てようともせず、ただ泣き叫びながら逃げるだけの相手に、彼女の興奮は急速に冷めていった。
「……飽きた。鬼ごっこは子供とやるもんだ」
勇儀の瞳から温度が消える。
彼女は逃げる半天狗の先を読み、一瞬で間合いを詰めると、何の予備動作もなく拳を振り抜いた。
「が、はっ――」
悲鳴を上げる間もなかった。
勇儀の剛拳が、逃げようとした半天狗の頭部を正確に捉え、一撃でその頭を「消失」させた。首から上が跡形もなく吹き飛び、残された老人の胴体が、糸の切れた人形のように石畳に転がる。
「ケッ、期待外れもいいとこだ。さとりも、こんなゴミを寄越すなんてね……」
勇儀はつまらなそうに背を向け、飲みかけの盃を口に運ぼうとしたその時だった。
背後から、大気を切り裂くような暴風が吹き荒れ、同時に落雷が勇儀の足元を直撃する。
「……っ!?」
勇儀が酒をこぼすことなく振り返ると、そこには先ほどの老人の死体などなかった。
代わりに立っていたのは、若々しく、凶悪なまでの生命力を放つ二人の鬼。
「カッカッカ! 楽しいのぉ!愉快じゃのぉ!剛力無双とは正にこのこと。実に見事な拳よなぁ!」
天狗の団扇を手に、高笑いする楽の鬼――可楽。
「……楽しくもなければ、愉快でもないわ!わしにこれほどの屈辱を……!あぁ……!!腹立たしい!腹立たしい!」
錫杖を握り締め、恐ろしい形相で勇義を睨みつける怒りの鬼――積怒。
「……ほう?」
勇儀の目が、再び爛々と輝き出した。
頭を吹っ飛ばされ、極限の「恐怖」に達したことで、半天狗の真価が引き出されたのだ。
「バラバラに分かれたと思ったら、少しはマシな面構えになったじゃないか。……いいよ、その手品。今度はもう少し、楽しませてくれるんだろうね?」
勇儀は盃を地面に置き、獰猛な笑みを浮かべて拳を鳴らした。
幻想郷の「力」の象徴と、外の世界の「醜悪な生存本能」が、旧都のど真ん中で正面衝突しようとしていた。