半天狗が幻想入り   作:ろんぐそーど

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ここまで出した方がキリが良いように思えたので、もう一話だけ出します。


第六話

 

 地霊殿の地下、灼熱の火の車へと続く通路の傍らに、その「牢獄」はあった。

 湿り気を帯びた冷たい石畳の上で、半天狗は赤ん坊のように丸まり、自身の体を抱きしめていた。分裂する気力も、逃げ出す体力も残っていない。

 

「わしは悪くない……。あいつらが、あの女が乱暴をするから……。わしはただ、静かに暮らしたいだけなのに……。ああ、可哀想なわし……。善人のわしを、誰か救ってくれぇ」

 

 暗闇の中でその独り言だけが反響し、そこへ軽やかな足音と共に、お燐が大きな木桶を抱えてやってきた。

 

「はいはい、お疲れさん。お爺ちゃん、生きてるかい? ほら、さとり様が『とりあえずこれでも食わせておけ』ってさ」

 

 お燐が桶を置くと、中からは鉄錆のような血の臭いが漂った。その臭いの正体は、間欠泉から流れ着いた「鮮度の落ちた死体」の端切れだ。

 

「ヒィッ……! 毒か!? わしを始末する気か!?」

「贅沢言わないの! 地上みたいにピチピチした人間なんて、ここにはいないんだから。さっさと食べな、死んじゃうよ?」

 

 お燐は呆れたように腰に手を当てた。半天狗は怯えながらも、本能的な飢えには抗えず、獣のような手つきで桶の中身を貪り始めた。

 

「……浅ましいわね」

 

 通路の奥から、静かな、しかし有無を言わせぬ圧を伴った声が響き、古明地さとりが暗闇の中から音もなく姿を現した。

 その第三の眼は、食事に没頭しながらも内心で恨み言を並べる半天狗の心を、克明に捉えている。

 

「さとり様。このお爺ちゃん、食べてる間も『この肉が固いのはわしに対する嫌がらせだ』なんてブツブツ言ってるよ」

 

 お燐の言葉に、さとりは小さく溜息をついた。

 

「知っているわ。……半天狗、あなたは自分を被害者だと定義することでしか、自尊心を保てないのね。その桶の食料を用意するのに、お燐がどれだけ苦労したか……そんなことは、あなたの頭の中には一欠片も存在しない」

「ヒィィッ! また心を、わしの心を盗み見るのかッ! 悪趣味だ、卑怯者め! 弱者の心に土足で踏み入る、恐ろしい女だァ!!」

 

 半天狗は口の周りを血で汚したまま這いつくばって後退し、さとりは冷めた瞳で、その醜態を見つめ続ける。

 

「ええ、そうね。あなたがそう思うなら、それでいいわ。でも覚えておきなさい。地底の住人は、外の世界の人間ほど甘くない。あなたがどれだけ被害者を装っても、ここでは誰もあなたを憐れまないわ」

 

 さとりは、踵を返して立ち去ろうとする。

 

「明日の朝には、勇儀がまた迎えに来るわ。今日あなた達が散らかした旧地獄の瓦礫撤去を手伝ってもらうそうよ。サボれば……今度は地面にめり込むだけでは済まないと言っていたけれど」

「ヒィィィイイッ!! 酷い、酷すぎるッ! 」

 

 絶叫する半天狗。だが、お燐はニヤニヤと笑いながら手を振って、さとりの後を追っていった。

 

「あはは! 頑張りなよ、お爺ちゃん! 勇儀姐さんに可愛がられれば、少しはマシな顔になれるかもよ?」

 

 バタン、と重厚な鉄門が閉まり、再び地下に静寂が訪れる。

 半天狗は、冷たい石畳に顔を押し当て、再び「わしは悪くない」という呪文を唱え始めた。

 

 深夜の地霊殿。お燐が置いていった「食事」を平らげたことで、半天狗の体には鬼としての生命力が戻りつつあった。傷ついた肉体は再生し、五感も鋭さを取り戻す。

 彼は相変わらず石畳の隅で身を縮めていたが、腹が満たされたせいか、その脳内にはこれまでにない「静寂」が訪れていた。

 

(おかしい。何かが、足りぬ……)

 

 半天狗は己の心の内側を、恐る恐る探る。

 これまでは、その意識の最奥に常に「あの御方」の冷酷な眼差しを感じていた。呪いという名の鎖。逆らえば死、思考を読まれれば死。

 鬼舞辻無惨という絶対的な支配者の影が、彼の魂に四六時中まとわりついていたが、今はどうだ。

 あの地霊殿の主には心を暴かれたが、それは外部からの「能力」による干渉であり、魂に刻まれた「支配」とは違う。

 

(感じぬ……。「あのお方」の気配が、欠片も感じられぬのだ……)

 

 博麗の巫女は言っていた。「ここは外の世界とは別の場所だ」と。

 かつて、処刑されかけた自分を救ってくれた無惨には、彼なりの「恩」を感じていた。だが、その恩返しの実態は、いつ殺されるか分からない絶望的な恐怖に怯え、機嫌を損ねぬよう、命じられるままに人を殺し、喰らい続ける地獄の日々だった。

 

「わしは……解放されたのか……?」

 

 そう呟いた瞬間、半天狗の胸の奥で、何かがフッと軽くなった。

 それは、何百年も背負い続けてきた「絶対服従」という名の重石が外れた瞬間だった。

 

(あぁ……あぁ、そうか。ここはもう、あの御方の手の届かぬ場所。わしを殺しに来る柱も、わしを怯えさせるあのお方もおらぬ……。なんと……なんと心地よいのだ……)

 

 もとより自分を棚に上げ、楽をすることばかりを考えてきた男だった半天狗。

 勇儀に殴られ、さとりに心の内を暴かれたことは確かに理不尽で腹立たしい。

 だが、それは「殺される前提の支配」に比べれば、あまりにも温い、人間味のある「厄介事」に過ぎなかった。

 

「……ヒヒッ、ヒヒヒッ。そうか、そうか。わしは自由だ……。誰の顔色もうかがわなくてよいのだ……」

 

 暗闇の中で、老人の口元が醜く歪む。

 もちろん、彼が「改心」したわけではない。彼は相変わらず卑怯で、身勝手で、自分の非を認めない半天狗のままだ。

 しかし、その背負っていた「肩の荷」が消え去ったことで、彼の内側にあった「喜怒哀楽」の感情は、より純粋に、そしてより幻想郷に相応しい「自分勝手さ」へと変質しようとしていた。

 

「いや、待て。明日の朝にはあの怪力女が来るんだった……」

 

 ふと思い出し、再び「ヒィィッ!」と震え始める半天狗。

 だが、その震えは以前のような「死への恐怖」ではなく、どこか「面倒な上司に対する愚痴」に近い、世俗的なものへと変わりつつあった。

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