旧都の更地。かつての瓦礫の山は影も形もなく、積怒の苛烈な統率の下で完璧に整地されていた。
積怒は荒い呼吸を整えながら、巨大な酒樽の傍らで退屈そうにしていた勇儀を睨みつけた。
「……終わったぞ。約束通り、すべて片付けてやった。これで満足か、怪力女!」
作業が終わる少し前に、積怒は本体に自分以外の三体を引っ込めさせた。積怒が残った理由は、この底知れぬ力を持つ旧都の鬼どもの前で、力の消費を抑えつつ本体の安全を確保するためだ。
喜怒哀楽全ての鬼を常に維持し続けるのは力の消費が激しいが、一体を維持するだけであれば、そこまで大きな消耗にはならない。
四体の中で最も警戒心が強く、機転の利く自分(積怒)だけを盾として残し、本体をその肩に隠す――それが今の半天狗にとって、最善の自衛策だった。
「 見事なもんだ!おまえのその分身たち、これほど手際がいいとはね。見直したよ!」
勇儀が豪快に笑いながら立ち上がった時、背後からひょっこりと、もう一人の小柄な鬼が姿を現した。
「おーおー、終わったのかい。勇儀が面白い客人を連れてきたって聞いたけど、こりゃあ……また随分とトゲトゲした奴だねぇ」
瓢箪を手に、飄々とした足取りで現れたのは伊吹萃香だった。萃香は積怒を上から下まで眺め、その肩で震える豆粒のような本体をじっと見つめる。
「萃香、良いところに来た。こいつは博麗の巫女に拾われた、外の世界の鬼さ。昨日は私とやり合って、なかなか骨のあるところを見せてくれたんだよ」
勇儀の紹介に、萃香は目を細めた。
「へぇ……勇儀とやり合って無事だってのかい。そりゃあすごいね。……まぁまぁ、そんなに肩肘張るなよ。まずは地底の歓迎の儀式だ、一杯やろ!」
萃香はニヤリと笑うと、自身の瓢箪を積怒の鼻先に突きつけた。
「ヒィッ! 毒だ、毒が来るぞォッ!!」
肩の上の半天狗が絶叫し、積怒は反射的に錫杖で瓢箪を払い除けようとした。
「……寄るなッ!! わしを殺す気かッ!!」
「あはは! 酒を勧めて殺す気かって、とんだ言い草だね。ほら、飲めば楽になるんだよ、心も体もさ!」
萃香は「密」の能力を使い、空間そのものを押し固めるようにして、半強制的に積怒の口へ酒を流し込もうと距離を詰める。
積怒の額に青筋が浮かび、全身から立ち上る雷光がバチバチと音を立てた。
「ふざけるなと言っているだろうがァッ!!」
積怒の咆哮が響き渡る。
「わしら『こちら側』の鬼は、おまえたちのような出来損ないとは違うのだ! 人間の肉、人間の血以外は受け付けぬ! 人間や妖怪が口にするような不浄なものを、一口でも含めば吐き戻し、内臓が裏返る! それを強いるのは、もはや愚弄を通り越して殺意と見なすぞッ!!」
その凄まじい拒絶に、萃香が「えー?」と不満そうに声を上げた。
「そんな不自由な体なのかい? だったらなおさら、この鬼の酒で体質改善して……」
「萃香。そこまでにしてあげなさい」
割って入ったのは、静観していた古明地さとりだった。彼女のサードアイが、積怒の絶望的なまでの拒絶感――それが単なる意固地ではなく、生物としての本能であることを捉えていた。
「彼の言うことは真実よ。私が昨日彼の心を読んだ際、その性質も把握したわ。彼らにとって、あなたの酒や私たちが用意する食事は、猛毒に等しい。無理強いは、この地底の主として私が許しません」
さとりの冷徹ながらも確かな拒絶に、萃香は「ちぇっ、つまんないの」とブー垂れながらも、瓢箪を腰にぶら下げ直して引き下がった。
勇儀はそれを見て、ガリガリと頭を掻いた。
「ま、そういうことなら仕方ないねぇ。本当は、これから旧都の馴染みの店に連れてって、四六時中酒を酌み交わしながら親睦を深めるつもりだったんだが」
その言葉を聞いた瞬間、積怒の顔色が変わった。
(……このような野蛮でデリカシーのない鬼どもと、一晩中、いや四六時中付き合わされるというのか!? 毒を勧められ、力自慢に付き合わされ……ッ!!)
積怒は怒りに震える体で、即座にさとりを指差した。
「読心妖怪! おまえのところへ戻るッ!!」
「あら、意外ね。私に心を覗かれるのは、死ぬほど嫌だったはずでしょう?」
「おまえのように、静かに心を暴かれる方がまだマシだッ!! この野蛮人どもの横暴に付き合わされるくらいなら、いっそ地下の牢獄の方が幾分か安らげるわッ!!」
勇儀は呆れたように肩をすくめたが、すぐにニッと笑った。
「 まあ、さとりの方が管理には向いてるかもな。だが、おまえの仕事ぶりは気に入ったよ。これからも土木作業や力仕事がありゃあ、真っ先に指名させてもらうからな!」
「二度と来るかァッ!!」
積怒の罵声を背に受けながら、勇儀は満足そうに手を振った。
旧地獄の長い階段を抜け、地霊殿へと続く陰鬱な一本道。
さとりの後を、忌々しげに錫杖を鳴らしながら歩く積怒の前に、空からひらりと紅白の影が舞い降りた。
「さとり。様子を見に来たけんだけど、例の鬼はどう?」
博麗霊夢である。彼女は積怒の姿を真正面から捉えると、目を丸くしてまじまじと観察し始めた。
「……え、あんた誰? というか、もしかしてあの弱そうな鬼?若返ったの?」
「ヒィッ! 巫女だ、あの恐ろしい巫女が出たァッ!!」
積怒の縮れ髪の中に隠れていた半天狗が、豆粒のような顔を覗かせて悲鳴を上げる。さとりは困ったように微笑みながら、霊夢へ説明を加えた。
「いいえ、霊夢。これは彼の能力によって生み出された、本体を守るための『感情』の分身……その内の一人よ。今は、この積怒という個体が代表して表に出ているの」
「へぇ……分裂ね。地上で最初に拾った時に感じた不快な気配の正体はこれだったか」
霊夢は得心したように頷くと、一歩近づいて積怒の顔を品定めするように眺めた。
「本体よりずっと鬼っぽいわね。……まあ、見た目だけは強そうじゃない。性格は相変わらず歪んでそうだけど」
その皮肉たっぷりの嫌味に、積怒の堪忍袋の緒が、音を立ててぶち切れた。
「 よくも、よくもぬけぬけと面を拝ませに来れたものだッ!!」
積怒は錫杖を霊夢の鼻先へ突き出し、バチバチと激しい放電を撒き散らす。
「おまえのせいで! おまえがわしをこの地底に放り込んだせいでッ! そこの読心妖怪に心を根こそぎ暴かれるわ、怪力女にはボコボコにされるわ、挙句の果てに更地の土木作業までさせられて、毒のような酒を無理強いされるわ……!! 散々だ、何もかもおまえのせいだァッ!!」
積怒の咆哮が地底の岩肌に反響する。しかし、霊夢は耳を塞ぐどころか、欠伸混じりの呆れ顔でその怒声をさらりと受け流した。
「何よ、不満ばっかり。地上で太陽に怯えて、いつ死ぬかビクビクしながら日陰を這いずり回るより、ずっとマシじゃない。ここはあんたたち『鬼』が堂々と生活できる場所なのよ? 紹介してやっただけでも感謝してほしいくらいだわ」
「感謝だと!? おまえたち人間がわしらにしてくれたことと言えば、虐げ、追い詰め、石を投げることばかりではないかッ!!」
「はいはい、被害妄想はそこまで。……さとり、こいつ、あんまりうるさい様ならお燐の火車に乗せて焼いちゃってもいいわよ?」
「ヒィィィッ!! 殺される、やっぱり殺されるんだァッ!!」
本体が髪の中で狂ったように震え出し、積怒も屈辱に唇を噛み締める。
「ふふ、大丈夫よ、霊夢。彼は文句を言いながらも、驚くほど生真面目に仕事をこなしてくれるから。地底の住人たちも、彼のその『働きぶり』には一目置いているわ」
さとりのその言葉は、積怒にとっては「便利な道具」と言われているに等しかった。だが、霊夢にこれ以上言い返しても無駄であることを悟ったのか、積怒は苛立たしげに錫杖を引き戻し、プイと横を向いた。
「……おまえたちのような道理の通じぬ連中、相手にするだけ時間の無駄だ。行くぞ、読心妖怪! さっさとわしをあの暗い地下へ閉じ込めるがいいッ!」
「ええ、そうしましょうか」
さとりに促され、積怒は足早に霊夢の横を通り過ぎていく。
その背中を見送りながら、霊夢は小さく呟いた。
「……あんなに怒鳴る元気があるなら、当分は大丈夫そうね」
こうして、地上の巫女による「アフターケア(?)」を終え、半天狗一行は再び地霊殿の重厚な門をくぐることとなった。