地霊殿へと戻り、広間を抜けてダイニングへ行くと、そこには夕食の準備を終えたばかりのお燐と、その後ろでぼんやりと空腹を抱えたお空が待っていた。
「おかえりなさーい! ……あれ? お爺ちゃん、勇儀姐さんのところでしばらく預かってもらうんじゃなかったのかい?」
お燐は、未だに怒気が収まらない積怒と、その肩で今にも溶けそうなほどガタガタと震えている本体を見て、不思議そうに首を傾げた。
「彼の希望でね。あちらよりは、こっちの方が幾分か『マシ』なんだって。結局、そのまま地霊殿で生活してもらうことにしたわ」
さとりの言葉に、お燐はパッと顔を輝かせた。
「そっか! じゃあ、これからも一緒だね。よろしくね、お爺ちゃん♪」
お燐が親愛を込めて駆け寄ろうとした瞬間、積怒は錫杖の石突でドォンと床を突き、雷鳴のような声を上げた。
「寄るなッ! 馴れ馴れしくわしらに近寄るな、この人食い猫めッ!!」
「あはは……。そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。あたい、結構あんたのこと気に入ってるんだよ?」
お燐が寂しそうに肩をすくめるが、積怒はそれを無視し、今度はお燐の隣でポカンとしているお空に視線を移した。
刹那、積怒の顔が恐怖と嫌悪に歪み、反射的に錫杖の先をお空へと向けた。
「……ッ!! おい、読心妖怪! その娘を、その不浄な娘をこっちに近づけるなッ!!」
「んー?私、何かしたっけ?」
お空は無邪気に首を傾げる。だが、積怒はまるで煮えたぎる大釜を前にしたかのように、脂汗を流しながら後退りした。
「どうかしたのかい? お空は、ちょっと頭が鳥なだけで、悪い子じゃないよ」
「見えぬのか……この娘から放たれる、あの忌々しき太陽のような不快な気配が……ッ!」
積怒の叫びに、さとりは「ああ、なるほどね」と得心したように指を顎に当てた。
「……お空の中には、神の火を司る『八咫烏』が宿っているの。霊夢から「そちら側の鬼は太陽の光を浴びれば灰になってしまう」って、聞かされていたのを忘れてたわ」
「たいよう? 私、お日様持ってるよー! お爺ちゃん、見る? すっごくあったかいんだよ!」
お空が嬉しそうにその力を披露しようとするのを、積怒は狂ったように叫んで制止した。
「出すなッ!! 絶対に、それを出すなァァッ!!」
「ふふ、お空。お爺ちゃんは少し熱いのが苦手なの。あまり近づかないであげてね」
さとりが宥めるように言うと、積怒は肩で激しく息をしながら、ようやく錫杖を下ろした。
「……ヒィ、ヒィィッ。巫女の次は読心妖怪、その次は怪力女に……今度は歩く太陽かッ。ここは地獄だ……正真正銘、わしにとっては地獄そのものだァッ!!」
「ねぇねぇ、ちょっとだけならいいでしょ? お日様の力、ほんの少しだけ分けてあげよっか?」
お空が目をキラキラさせながら、羽を羽ばたかせて積怒ににじり寄る。
「 寄るなッ、来るなと言っておろうが! この鳥頭めッ!!」
積怒が錫杖を構えて激しく拒絶し、髪の中の本体が「あぁぁ、わしが死ぬ、わしが灰になるぅ……!」と絶叫する。その騒ぎを見かねたお燐が、お空の首根っこをひっつかんだ。
「もう、ダメって言われたことはしちゃダメだよ。ほら、お空、ご飯なんだから大人しく座りな!」
「やったー!ご飯だー!」
お空はあっさりと興味を切り替え、食卓の席へと引きずられていった。
ダイニングにはお燐がテキパキと皿を並べる音と、お空の無邪気な鼻歌が響き始める。さとりは既に席に着き、お燐たちが話す今日一日の出来事を、微笑みながら静かに聞き入っていた。
その、あまりにも平穏で、あまりにも「家族」らしい光景を、ダイニングの入り口から積怒たちは呆然と眺めていた。自分たちがこれまで生きてきた凄惨な略奪と恐怖の日々とは、あまりにもかけ離れた異質な空間。
「……どうしたの? あなたもこっちへ来なさい」
さとりの視線が、不意にこちらを捉えた。
「ヒッ……! 罠だ、これは毒を盛るための罠だ……! わしに恥をかかせ、笑いものにするつもりなのだ……!」
本体がブツブツと被害妄想を垂れ流す中、積怒も「何のつもりじゃッ! 貴様ら化け物とわしら鬼が、同じ卓を囲めるとでも思っているのかッ!!」と毒づく。
「もう、うるさいなー。いいから、ほら、はやくはやく♪」
お燐が背後から回り込み、積怒の太い腕をグイと引っ張った。死体運びで鍛えられた彼女の力は意外なほど強く、積怒は不覚にもよろめきながらテーブルの前まで連行されてしまう。
ふと視線を落とすと、そこには一つだけ、異質な皿が置かれていた。
他の三人の前には温かな煮込み料理が並んでいるが、積怒の前の皿には、驚くほど丁寧に、一口大にカットされた「生の肉」が整然と盛り付けられていた。
「……なんだ、これは」
積怒の問いに、さとりが優しく答える。
「本当は私たちと同じ物を食べて欲しかったのだけど、あなたは人肉をそのままじゃないと受け付けないのでしょう? だから、お燐にお願いして、少しでも私たちと同じように食事を楽しんで貰えたらなと思って」
「……ッ!! ふざけるなッ!!」
積怒の錫杖から、激しい放電が弾けた。
「わしを、わしを馬鹿にしているのか! わしは忘れてはおらぬぞッ!おまえから受けた屈辱をッ!食事を綺麗に盛り付けたくらいで、それを帳消しに出来るとでも思っておるのかッ!わしはおまえらとともに食事を囲うつもりなど、万に一つもないわァッ!!」
「一緒に食べた方が美味しいってば。ね? そんなこと言わないでさ」
「うぅ、お腹すいたよぉ……お燐、早く食べたい……」
お燐の粘り強い勧誘と、お空の気の抜けた催促。そしてさとりが、釘を刺すように静かに告げた。
「ほら、あなたが席に着いてくれないと、食事が始まらないわよ」
三人の視線が、一点に集まる。
積怒は、その温かいようでいて逃げ場のない視線に、かつてない居心地の悪さを感じ、ついに耐えきれなくなった。
「……勝手にしろッ! わしは消える。これ以上この屈辱に耐えるのは御免だッ!!」
積怒は肩の本体を掴み、乱暴に椅子の上へ放り出すと、その身体は塵となって消えていった。
そこに残されたのは、元の大きさに戻った矮小な本体のみである。
「ヒ、ヒィィッ……!? 積怒、わしを……わしを捨てたなァッ!!」
本体はガタガタと震え、今にも逃げ出そうとしたが、隣には笑顔のお燐、正面には腹を空かせたお空、そして優しく、しかし有無を言わせぬ圧を放つさとりがいる。
「……じゃあいただきましょうか」
さとりの合図で、地底で最も歪で、そして最も奇妙な「家族」の食事が始まった。
「このキノコおいしい! お燐、これ地獄のどこで採ってきたの?」
「それは旧地獄の奥の方だよ。お空、あんまり詰め込むと喉に詰まらせるよ?」
明るい燭台の火に照らされて、お燐とお空が楽しげに笑い合いながら食事を進めていく。地霊殿の食卓は、賑やかで温かかった。
その傍らで、半天狗は借りてきた猫のように背を丸め、おっかなびっくり皿の上の肉を口に運んでいた。いつお空の「太陽」が炸裂するか、いつさとりが自分を処刑するか。
そんな被害妄想に冷や汗を流しながらも、綺麗に切り分けられた肉を咀嚼するその動きは、どこかリズムを刻んでいるようにも見えた。
「……おいしい?」
ふいに、正面から鈴の鳴るような声がした。
顔を上げると、さとりが箸を置き、穏やかな眼差しで半天狗の視線を捉えていた。
「ヒィッ!? ……き、恐怖で、味など分からん! 毒が、毒が入っているかもしれぬものを、味わって食べる余裕などあるはずがなかろうがッ!!」
半天狗は弾かれたように顔を背け、必死に「わしは楽しんでなどいない」というポーズを貫こうとする。
「そう……。それは残念ね」
さとりは少しだけ眉を下げ、残念そうに目を伏せたが、彼女の胸元にあるサードアイは、彼の言葉とは裏腹な「真実」を饒舌に捉えていた。
いつもなら、彼の心の中は「あいつが悪い」「わしは可哀想だ」「死にたくない」という泥濁りのような被害妄想が嵐のように渦を巻いている。しかし、今の彼の心の奥底には、その濁流を押し流すような、静かで穏やかな波紋が広がっていた。
それは、鬼になって以降長らく忘れていた、「誰かと食卓を囲む」という行為がもたらした、無意識の安堵感。
「ふふ……」
さとりの唇から、思わず小さな、慈しみに満ちた微笑が漏れる。
だが、その微笑みこそが、猜疑心の塊である半天狗にとっては最大級の恐怖だった。
「ヒィィィッ!! 笑った! 今、この女が不敵に笑ったぞォッ!!」
半天狗は椅子の上で跳ね上がり、ガタガタと震えながら再び独り言を吐き出し始めた。
「わかったぞ、わしを油断させて、最後に絶望の底へ叩き落とすつもりだ! 恐ろしい、なんて恐ろしい奴らだ! あぁ、可哀想なわし……こんな蛇の住処のような場所で、毒牙にかけられるのを待つばかりだ……ッ!!」
「もう、お爺ちゃん。さとり様はただ、あんたがおいしそうにご飯食べてるのが嬉しかっただけだよ」
お燐が呆れたように笑い、お空は「お爺ちゃん、私の分いるー?」と無邪気に自分の皿に載ってる肉を差し出そうとする。
「寄るな! 来るなァッ!!」
叫び、震え、それでも皿の上の肉を最後まで平らげずにはいられない。歪で、醜悪で、けれどどこか温かな地底の晩餐は、被害妄想の叫び声と共に続いていった。