町を離れると音が減った。
怒号も悲鳴も、背後に置き去りになる。
代わりに残るのは自分の足音と、荒い呼吸だけだ。
森へ続く道は変わっていなかった。
踏み固められた土。見慣れた木の根。
朝、通ったばかりの道だ。
アルは走る。
速さは一定ではない。つまずき、立て直し、また走る。
袋が背中で揺れ、肩に食い込む感触が現実を引き戻す。
火の匂いがまだ追ってくる。
風向きのせいだと思いたかった。
森に入ると空気が冷えた。
木々が音を吸い、世界が一段落ち着く。
町の出来事が遠い夢のように薄れる。
――夢だったのかもしれない。
その考えを手の傷が否定する。
父の背中。母の声。ミアの顔。
順に浮かび、順に消える。
足が速くなる。
とにかく早くあの退屈な日常に戻りたかった。ただ、それだけだった。
枝を払い、獣道を外れ、近道を選ぶ。
何度も使った道だ。身体が覚えている。
息が切れる。
喉が痛い。
それでも止まらない。
森の向こうがわずかに明るい。
畑の方角だ。
アルはそこで初めて立ち止まりかけた。
風が、違う。
乾いた匂いに焦げたものが混じっている。
遠くで木が弾けるような音がした。
聞き慣れたはずの森の音ではない。
アルは再び走り出した。
何もない。気のせいだ。
そう思いたかった。
畑が見えた。
柵は倒れていない。
畝も崩れていない。
朝と、ほとんど変わらない。
――よかった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
家が、暗い。
いつもなら昼でも分かる。
窓の反射。
屋根の色。
人の気配。
それが、ない。
アルは歩きに切り替えた。
走るのをやめたわけではない。
ただ、足が勝手にそうした。
力が抜けたように、歩みを進める。
近づくにつれ匂いが濃くなる。
焦げた木。
油。
そして、血。
町で嗅いだものと同じだ。
扉が開いている。
閉め忘れるはずがない。
母は必ず閉める。
父も、ミアも。
アルは名を呼ぼうとしてやめた。
声が出なかった。
床に足跡がある。
泥と赤黒い染み。
家族のものではないと願った。
奥から、音がした。
低い声。
短い命令。
金属が触れ合う音。
アルは身体を壁に寄せた。
息を殺す。
鼓動がやけに大きい。
中庭に回り込むと、音の正体が見えた。
父がいた。
剣を握り、踏み込んでいる。
動きは速くない。
だが退いていない。
その横で母が両手を広げていた。
淡い光が走る。
火ではない。
熱でもない。
物が動く。
土が盛り上がり、石が転がり、兵の足を止める。
足止めにはなる。だが、それだけだ。
「うっとうしい魔法だな」
兵の一人が吐き捨てる。
足を止めただけだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
「……っ」
母の顔に焦りが浮かぶ。
アルは駆け出そうとした。
父の背中が見える。
剣の軌道も、兵の間合いも、分かる。
――行ける。
そう思った瞬間、指が震えた。
血の感触が蘇る。
柔らかい抵抗。
骨の音。
刃が抜ける感触。
足が止まった。
息が詰まる。
視界が狭くなる。
動けない。
父がこちらを見た。
一瞬だった。
だが、視線が確かに合った。
目が見開かれ、次に強く細められる。
「――ミアを連れて、逃げろ!」
叫びだった。
父の剣が無理に踏み込む。
防御を捨てた一撃。
母が、叫ぶ。
「アル!」
その声でミアがこちらを向いた。
母の腕にしがみつき不安そうにこちらを見る。
「子どもがいるぞ」
驚きはない。確認するだけの声だ。
別の兵が言った。
「構うな。先に大人だ」
アルの胸が裂ける。
戦いたい。
一緒に立ちたい。
ここで終わらせたくない。
だが、身体が言うことを聞かない。
足が前に出ない。
振りかぶろうとした拳がぎこちない。
アルは歯を食いしばった。
母のもとまで急いで駆け出し、ミアの手を掴む。
「――来るぞ!」
父の声が背中に飛ぶ。
アルはミアを抱え、庭を駆けた。
振り返らない。
振り返れない。
背後で魔法が弾け、金属音が重なる。
その音が家そのものを切り裂いているように聞こえた。
門も柵も越えた。
足元の土が変わる。踏み慣れた地面ではない。
背後で金属音が一度、強く鳴った。
それきり聞こえなくなる。
遠ざかったのではない。
聞こうとする余裕がなくなった。
走る。
畑を横切り、何も植えられていない空き地を抜ける。
足を取られ、体勢を崩し、それでも止まらない。
ミアの重みが腕に残る。
痺れ、肩が軋む。だが確かに温度がある。
「……兄様」
小さな声。
「大丈夫だ」
口が勝手に動いた。
意味は考えなかった。
振り返らない。
家の方向を見ない。
見てしまえば、戻れなくなる。
風が変わる。
森が近い。
だが、森へは入らなかった。
今は暗すぎる。ミアを連れて逃げるには危険だ。
アルは視界の端にある建物に気づいた。
倉庫だ。
家から少し離れた場所。
普段は使わない。道具を放り込むだけの小屋。
忘れられていた存在。
そこなら一旦身を隠せる。
アルは進路を変えた。
息が乱れる。
肺が焼ける。
腕の感覚が薄れていく。
ミアが服を掴む。
強く。
「……大丈夫。大丈夫だから」
それはミアに向けた言葉なのか自分に向けた言葉なのかわからない。
倉庫が近づく。
歪んだ屋根。板張りの壁。
古いがしっかり立っている。
ここまで来れば大丈夫だ。
ひとまずミアをここに隠そう。
父と母を助けに戻らなければ、と考えが浮かぶ。
ミアを抱え直す。
軽い。だが、確かな重さがある。
扉に手を伸ばした、その時。
――音がした。
アルは指を止めた。
ゴソゴソと何かが小屋の中で動いている。
ミアの、服を掴む指に力が入った。
小さく、強く。
ここはダメだ。
アルは息を殺し手を引いた。
一歩、後ろへ。
中にいる何かに気づかれないように。
背を向け走り出そうとした。
その瞬間。
内側で金属が触れ合う音がした。
扉がわずかに――内側から押された。
軋む音。
古い板が擦れる短い音。
アルは反射で一歩引いた。
ミアを抱えた腕に思わず力が入る。
次の瞬間、扉が開いた。
中から出てきたのは鎧だった。
町で見たものと同じ色。
汚れた鉄。雑に留められた革紐。
剣は抜かれていないが、腰にある。
兵だった。
「……あぁ?」
低い声。
苛立ちをそのまま吐き出したような音だった。
兵は一歩、外に出た。
陽に当たって顔が見える。若くはない。だが覇気もない。
目の下に濃い影があり、口元が歪んでいる。
「チッ……」
舌打ち。
兵は辺りを一瞥し、アルとミアを見ると眉をひそめた。
「なんだよ……こんなとこにもガキか」
面倒そうに言い捨てる。
警戒よりも不機嫌さが先に立っている。
「町は今楽しいところだってのに……」
独り言のように呟き、肩を回す。
「隊長も頭おかしいんだよ。
『怪しい民家があるから確認しろ』だとさ」
吐き捨てるような声。
「どうせ貧乏人だろ。
離れたとこに家構えてる連中なんて」
兵は、ちらりと倉庫の中を振り返った。
「で、こっち来てみりゃ……」
鼻で笑う。
「ガラクタばっか。
金になりそうなもんは一つもねぇ」
苛立ちがはっきりと混じった。
「町じゃ女も酒も――」
言葉が途切れ、兵の視線が再びアルに戻る。
「……おい」
一歩、近づく。
アルは動けなかった。
足が地面に縫い付けられたように重い。
ミアが小さく息を吸う音が聞こえた。
服を掴む指が震えている。
「そんなもん抱えてどこ行くつもりだ?」
兵は顎をしゃくる。
「逃げてきた口か。
運がいいのか、悪いのか……」
口の端が歪む。
「まぁ、どっちでもいいか」
兵は剣に手を掛けた。
抜かない。
ただ、触れるだけ。
「荷、置け」
短い命令。
「それから――」
視線がミアに落ちる。
「そっちもこっちに寄越せ」
その言い方はあまりに軽かった。
アルの中で何かが軋んだ。
血の感触が蘇る。
町の裏路地。
柔らかい抵抗。
骨の音。
胸の奥が冷えていく。
「……嫌だ」
声が思ったよりも低く出た。
兵は一瞬、間の抜けた顔をした。
理解できない、というより考える必要がないものを見る目だ。
「は?」
短く、間抜けな声。
次の瞬間、兵の表情が歪んだ。
苛立ちがそのまま形になる。
「何様だよ」
言葉と同時に兵の足が動いた。
避ける間もなかった。
腹に重い衝撃が入る。
息が一気に抜け、視界が跳ねた。
蹴りが腹に食い込みアルの身体が浮く。
抱えていたミアごと横に吹き飛ばされた。
地面が迫る。
背中から叩きつけられ空気が押し出される。
「――っ!」
声にならない音が喉から漏れた。
ミアが腕の中で跳ね、地面に転がる。
小さな身体が土に打たれる音がした。
「ミア……!」
手を伸ばそうとするが身体が動かない。
腹の奥が痺れ、力が入らない。
兵はゆっくりと近づいてくる。
急ぐ様子はない。
「ガキが逆らうからだ」
吐き捨てるように言う。
「お前も、そっちも――」
剣に手を掛ける音。
アルは歯を食いしばった。
立ち上がろうとする。
だが、足が言うことを利かない。
恐怖がまだそこにある。
血の感触が、また甦る。
町の裏路地。
柔らかい抵抗。
骨の音。
身体が拒否している。
ミアがかすかに動いた。
土に手をつき顔を上げようとしている。
その頬に赤い線が走った。
アルの視界が、歪んだ。