全身から力が抜けていく。
自分の意識が徐々に曖昧になっていくのを感じる。
瞼が徐々に降りてくる。
__ああ、私は死ぬんだ。
そう確信し、私は緩やかに目を閉じた。
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再び目を覚ました時、彼女は布団に寝かされていた。
体を起こして周囲を見回すと、彼女の寝床の近くで様子を見ていた男女が彼女に話しかけた。
彼ら__宝塚夫妻は、彼女が自分たちの管理する薔薇園で眠っているのを見つけたという。
寝床の障子戸から外の様子が見える。
一面に咲き誇る美しい白い薔薇の園。
朝露に濡れた葉の匂い。
宝塚夫妻に手鏡を渡され自分の顔を見た時、まるで自分の顔でないかのように違和感を感じた。
ここから一つの可能性に思い至る。
転生。
自分が趣味として読んでいたネット小説でもよく扱われた題材だ。
あくまで創作の出来事であり俄かには信じ難い。
ただ自身に残る一般常識や学問の知識、そして鮮明な死亡時の感覚が、自分に前世の記憶があり転生をしたのだという確信に繋がっていた。
今振り返ってみても何故、どのようにして死んだのかはわからない。
元の自分の顔や名前や家族のことも忘れてしまった。
今後どうすればいいかもわからず不安が心に生まれる。
しかし宝塚夫妻はどこから来たのかも分からない、年齢もはっきりしない少女を見捨てなかった。
夫妻は乃和のために戸籍を整えてくれた。
学校に通えない事情もきちんと調べて、通信教育という形を選んでくれた。
名前を思い出せない彼女に乃和、という名前をくれたのもその二人だった。
「和やかに生きられるように」
そう言って少し照れくさそうに笑った顔を乃和は今でも覚えている。
特別扱いをしすぎないように、でも放り出さないように。
その距離感が、乃和には、ありがたかった。
お礼に薔薇園の手伝いや、彼らの子供たちの世話など、自分にできることをやるようになった。
家には一人息子がいた。
玻璃人。
泣き虫で、少し気が弱くて、放っておけない子だった。
彼の世話をする中で、乃和は「姉ちゃん」と呼ばれるようになっていた。
血のつながりはないけれど、それを意識することはなかった。
本当に幸せだった。
——だからこそ。
乃和は、自分の異常さに気づいてしまった。
同じ年頃の少女と比べて、身体が異様に丈夫だった。
高いところから落ちても、擦り傷ひとつ残らない。
身体能力も高く、自分より大きな荷物も軽々持つことができた。
決定的だったのはある日、自分が道を歩いている際に不注意で転びそうになった時だった。
身体から黒い薔薇と茨が伸びたと思うと、近くの樹に巻き付き体を支えた。
乃和はすぐに理解した。
——自分は普通じゃない。
前世の記憶があるから余計に分かった。
だから隠して生きようと決めた。
家族を壊さないために。
自分が異物にならないために。
しばらくは上手くいっていた。
弟を助けようとして、うっかり力を使ってしまうまでは。
それは、本当に些細なことだった。
いつもの散歩道で、いつものように玻璃人が先を歩いていて、乃和は少し後ろから見ていた。
——目を離したのは、ほんの一瞬。
「わっ——!」
足を滑らせた玻璃人の身体が、斜面の方へ傾いた。
「危ない!」
乃和は、考えるより先に動いていた。
手を伸ばした、その瞬間。
伸ばした腕から生えた黒い荊が、玻璃人の身体を絡め取った。
時間が、止まった。
風の音も、鳥の声も、すべてが消えた気がした。
乃和の視界に映ったのは、自分の腕から伸びる黒い荊。
——見せてしまった。
心臓が強く跳ねた。
血の気が一気に引いていく。
玻璃人の無事を確認するより先に、乃和は後ろを振り返った。
両親が立ち尽くしていた。
怒っているのか。
怯えているのか。
それとも——。
それでも乃和の頭に浮かんだのはただ一つだった。
——ここで、終わる。
「……ごめんなさい」
声が、震えた。
何に対して謝っているのか自分でも分からなかった。
ただ、拒絶される準備だけはできてしまっていた。
しばらくして父親が息を吐いた。
「……びっくりしたな」
それだけだった。
母親は荊を見てから、乃和を見てゆっくりと微笑った。
「怪我はない?玻璃人も大丈夫?」
その言葉に、乃和の膝から力が抜けた。
「すごい……姉ちゃん魔法使いみたい!」
玻璃人が笑って言った。
——魔法。
その言葉が胸に刺さった。
すべてが終わると思った。
拒絶されると本気で思った。
でも両親と玻璃人は違った。
怯えもしなければ責めもしなかった。
「薔薇の妖精かもしれないな」
父親は玻璃人にそう言って笑った。
その夜、玻璃人を寝かしつけた後。
乃和は居間で両親と向かい合っていた。
「乃和」
父が声をかける。
「……今日のことだけどね」
母が静かに声をかける。
乃和の指がきゅっと握られる。
「驚いたのは、本当よ」
「でも……」
母は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「正直に言うとね。私たちは最初から乃和が普通の子供と違うって気づいていたの。」
「……え?」
乃和は顔を上げた。
父が続ける。
「乃和は昔から少し不思議だった」
「見た目の年の割に落ち着きすぎてた」
「泣きわめいたり癇癪を起こしたりもしなかった」
母が静かに笑った。
「なにより初めて会った日がそうだったわ」
母は少し遠くを見るような目で話し始めた。
「薔薇農園の隅にね、黒い荊があったの」
「繭みたいに丸く絡まっていて……。黒い薔薇がいくつも咲いていた」
「最初は何かの病気か害獣の巣か何かかと思ったの」
「近づいたら、その荊が……自然に、開いたのよ」
「中に、眠っている乃和がいた」
乃和は、息を止めた。
「……怖くなかった、と言ったら嘘だな」
「正直、警察に連絡するべきか本気で悩んだ」
父が苦笑する。
「でもね」
母の声が少しだけ柔らいだ。
「乃和が目を覚まして、私たちの薔薇園を見て……すごく、楽しそうにしていたでしょう?」
父が静かに頷く。
「その時、思ったんだ」
「——ああ、この子は危ないものじゃないって」
乃和の視界が滲んだ。
「それに」
母が乃和を見る。
「ちょうど息子がいたでしょう」
「……だから姉弟みたいに育てるのも、悪くないかなって」
冗談めかした口調。
「……ごめんなさい」
乃和は俯いた。またその言葉が出た。
母は首を振る。
「謝ることじゃないよ」
父も静かに言う。
「乃和は乃和だ」
「今日、それが分かっただけだ」
——それだけ。
優しすぎるほどの結論だったが、その優しさが乃和を救った。
同時により強く縛りもした。
——この人たちを裏切れない。
それから先も乃和は隠して生きた。
家族に迷惑をかけないように。
けれど「ある事件」が起きた。
あの事件を境に「気をつける」だけでは足りなくなった。
守るためには力を知って制御しなければならない。
乃和は薔薇農園の手伝いをしながら少しずつ力を鍛え始めた。
そんな日々の中で玻璃人が東京に進学することになった。
出立の日。
「玻璃人、元気でな」
「辛かったらいつでも帰ってきなよ」
「心配すんなって。…おっとう、おっかあも元気でな」
玻璃人と両親が言葉を交わした後、乃和は小さな箱を渡した。
中には黒い薔薇のペンダント。
自分の能力制御の一貫で生み出した黒薔薇を加工したものだった。
「お守り。これを姉ちゃんと思えば寂しくないよ。」
そう言って手渡した。
「……俺もう子供じゃないぜ、寂しがったりしないよ。」
「でもまあ、大事にする。」
玻璃人は少し拗ねたように言いながらもそれを受け取った。
弟が去っていくのを見送る中で、胸が少しだけ痛んだ。
——行かないでとは言えなかった。
——付いていくとも言えなかった。
白薔薇の園で黒薔薇の少女はまだ踏み出せずにいた。