逃げる側も追う側も、物語が動かないせいで日常に閉じ込められ、終わらない恐怖と停滞に苦しんでいた。
しかしこの“長期休載”を自身を磨く絶好の機会と考え動き出す男がいた。
夜の海岸。
波の音だけが静かに、しかし確実に耳を打つ。
その砂浜の端にポツンと建てられた小屋。
その中でスーツ姿の男が正座していた。
目の前に置かれた赤々と熱せられた鉄板によって、利根川の全身は大量の汗を発している。
「……ッ!」
意を決して、利根川は火傷するかしないかのギリギリの距離まで顔を近づける。
熱気が皮膚を刺す。その熱気がかつてのトラウマ、カイジに負け兵頭によって真っ赤に熱した鉄板の上で10秒以上も土下座した痛みと恐怖がよみがえる。
「……ッ!!」
その時を思い出し離れようとする自分を利根川は叱咤する。
(なぜ離れようとしている、ワシ!? 熱せられた鉄板に直接触れていたあの時と比べてこのようなものは……屁、無風に過ぎん……! この程度で怯んでいては……あの男には勝てん……!!)
利根川の脳裏にカイジの姿が浮かぶ。
何も持っていない、積み上げていない男。その男によって全てを無に帰された怒りが利根川の恐怖をねじ伏せた。
額から落ちる汗が鉄板の上でジュッ! と音を立てる。次々とかき鳴らされる蒸発音が利根川のトラウマを刺激する。
(ワシは……負けん……! あの焼き土下座の屈辱……! あの時の痛み……! あの時の恐怖……! すべてを……超える……! ねじ伏せる……!)
鉄板の表面が赤く染まり、ゆらゆらと陽炎が揺れる。
その揺らぎを、利根川はまばたきもせず見つめ続けた。
(う……、熱い! ……痛い! ……だが……退かぬ!)
今すぐやめたい、別に止めても問題ない。誰も見ていない。
心の底から語りかける誘惑に耳を貸すことなく利根川は鉄板に顔を近づけ続ける。
鉄板を赤くした炭がその仕事を終え、鉄板はゆっくりと元々の黒へと変化する。
それを見届けた利根川はゆっくりと顔を上げた。
「クククッ……。この苦行を行うこと実に数百回。……ワシはついに克服した、あの忌まわしきトラウマを……!」
すぐに用意していた経口補水液で失われた水分を補給し、大量の汗を何枚ものタオルでふき取る。
利根川はニヤリと笑う。
「ワシは『このマンガがすごい! オトコ編 2017』──第1位
『中間管理録トネガワ』の主人公。このワシが復活となれば漫画カイジは盛り上がることは間違いない……! 「スピンオフで……本編の主人公を差し置いて……1位……! こんな芸当……前代未聞……! 読者はワシを求めている……!
累計発行部数──300万部突破。
アニメ化──全10話。
Twitterトレンド入り多数。
これだけの実績を残した男が……再登場しないはずがない……! ……出版社も……読者も……ワシの“復活”を待っている……!」
利根川は十分な休息をとるとスーツからジャージへ着替える。
小屋を出た利根川は、夜の海風を胸いっぱいに吸い込んだ。
波の音が、まるで観客のざわめきのように聞こえる。
(ワシは……求められている……! 数字が証明している……! 実績が裏付けている……!)
「そして……!」
利根川はニヤリと笑う。
「何より……ワシ自身がそれを理解している……!)
自信に満ちあふれた顔で利根川は、夜空を見上げた。
「ワシほどの男が……再登場しないはずがない……! “中間管理録トネガワ”という奇跡を起こしたこのワシが……再び舞台に立つのは……必然……! 運命……! 宿命……!」
その声は海岸に響き、波に飲まれ、夜空へと消えていった。
まるで、夜空そのものが告げているかのように。『お前の出番など……ない』と。『仮にあったとしても苦渋を舐めさせられ地べたをはいずり回るだけ……』、そう言わんばかりに。
だが利根川は確信していた。
自分の復活は、もはや“もし”ではない。“いつ”かの問題に過ぎないのだと。
利根川は覚悟していた。
最初から負けを考えるような
「待っていろ……カイジ……。次にワシが登場する時……お前はもう……逃げられん……!」
利根川は夜の海岸を走り出した。
その足音は、まるで“復活の序章”を告げる太鼓のように響いていた。
利根川は心の中で語りかけた。
「作者……ワシは準備を終えたぞ……後はお前が動くだけ……! さぁ、さっさと続きを描いて読者に『まさか、ここで利根川が出てくるのかよ!?』と度肝を抜かせろ……!」