その日、教室ではそわそわとした雰囲気に包まれていた。主に男子の間で。
今日は二月十四日だ。そう、バレンタインデーである。チョコを貰えた人間は優越感を得て、貰えなかった人間は悲しみに暮れる恐ろしいイベントだ。母親から貰ったチョコをカウントに入れるまでがセットである。
だから男子生徒は女子からチョコが貰えないかと期待していた。女子がチョコを持っていようものなら一体誰に、と思ってしまうものである。
この頃はもう友チョコが一般的なものだったので女子から女子へのルートなのだが、期待してしまうのが男子のさがだ。
(なんだか今日はやたらと見られてるような……、気のせいかな。)
そんな中で琴音はちらちらと寄せられる視線を感じ取っていた。流石の琴音でも何度も見られれば気づくというものだ。
驚くかもしれないがバレンタインデーだというのに琴音は平常心だ。他の男子と同じように琴音もそわそわしていないのは何故かと思うことだろう。女子とお近づきになりたい琴音がそんな無反応だなんて、と。
思い出して欲しい、琴音は転生者だ。それは既に前世で通り過ぎた道だということを。
貰えないのが当たり前過ぎてとっくにわくわくするフェーズにはいない。生涯チョコレート0個を経験した人間だ、面構えが違う。
因みに去年玲奈からチョコレートを貰っていたが、あれは明確に詫びチョコであるからと頭から抜けている。
(んー?やっぱりすごい見られてる……?何かしたか?)
何かする方がお前だぞと誰か言ってやって欲しいところだ。
琴音へと向けられた視線は勿論気のせいではない。中学三年生も残りわずかとなって、これまでの学校生活で琴音がどんな人間であるのかは把握されている。会話に積極的ではない点以外は超優良物件である。見逃される筈がなかった。つまりこれはラブコールであった。
ちなみに教室ではこんな会話がされていた。男子生徒二人組が本人に聞こえないようにひそひそと会話している。
「なあ、九条ってさ。今日、誰かに渡すと思うか?」
「誰かって……チョコを?」
「他に何があるんだよ。今日バレンタインだぞ。」
男子生徒の一人が、ちらりと琴音の方を見る。
「あー……でも、九条が誰かにチョコ渡してるところなんて見たことなくね?」
「それだよそれ。普段からそういうのに興味なさそうじゃん。だからこそ、本命がいるなら今日しかないだろ。」
「なるほど……。」
妙に納得した様子で、もう一人も琴音を見る。
「つまりさ、九条からチョコ貰った奴が勝ちってこと。」
「……お前、狙ってんの?」
「お前こそ。」
「いや俺は別に……。」
「その割にはさっきから九条のことチラチラ見てるけど。」
「お前だって見てただろ。」
実に滑稽だ。取らぬ狸の皮算用と言うべきだろうか。琴音の自意識は男なのだ、男子に作る気はないのでやっぱりノーチャンである。
◆ ◆ ◆
そして、無常にも時は流れてお昼休み。琴音は教室から離れてあてもなくふらふらと歩いていた。教室に一人でずっといてボッチだと思われたくないという無駄な抵抗だ。
「九条さん、ちょっといい?」
「ぇ……、あ、はい。」
声をかけてきたのはクラスメイトの綾瀬沙羅だった。
修学旅行のちょっとしたアクシデントや、文化祭の演劇を通して流石の琴音でも彼女のことは記憶していた。ただ、突然呼び止められると誰とか関係なく慌ててしまうのだ。悲しきぼっちの習性である。
「これ受け取って。かなり迷惑かけちゃったし、そのお返し。」
「チョコ……?あ、ありがとう、ございます……。」
「はぁ、その他人行儀なのどうにかならない?ああ、いいやそれが九条さんだし。」
クラスメイトとして一年間、同じ教室で生活しているというのに未だに普段の態度はこれなので沙羅も思わず愚痴を溢してしまう。助けて貰ったのも、手助けして貰ったことにも感謝しているけど、それはそれだ。こればかりは沙羅にとっての人生観に基づくものだ。
努力したなら、実力を身につけたなら、堂々と胸を張れ。
琴音の内情を知らないので仕方がないのだが、適応ありきの琴音ではそこから得られた功績に胸を張ることはないだろう。つまりは平行線だ。
「お返しとかはいらないから気にしないで。」
「え、えと……。」
「だから、気にしないでって……。」
「す、すみません……!」
平謝りする琴音の姿はさぞ沙羅のイラつかせたことだろう。これでも適応せずに会話をしようとしている琴音なりの努力をしているのだが、沙羅には逆効果だった。まあ、中学生相手にたじたじな琴音が悪いだけである。
綾瀬沙羅からしたら容姿も声も良くても、誰かを守れるくらい強くても、演者として最高だったとしても、やはり九条琴音のことは嫌いだった。
「そこまで気にするならお礼、貰っておこうか。」
「え、な、なに……っ!!??」
急に距離を詰めてきた沙羅にテンパる琴音。琴音が何かを言う前に沙羅が琴音のことをぎゅっとハグした。
琴音の頭がショートする。正直、神様に会ったり適応みたいな能力よりも非日常のように感じた。
沙羅が満足するまで数秒、琴音は混乱と至福の時間に包まれていた。
「はい、お礼はこれでいいから。じゃあね九条さん。」
「??!………!?。」
未だに復帰できていない琴音をその場において沙羅は離れていった。
沙羅にとって普段の琴音は嫌いだ。けれど、嫌いという感情が出てくるほどその人を注目しているという意味でもある。
沙羅もまた、九条琴音という星を見ていた。
「やっぱり嫌いだな。」
そんな言葉を口にしながら、清々しい表情のまま沙羅は教室へと向かっていった。
「あ、九条先輩!これ部員のみんなで作ったんです、良かったらどうぞ!」
「……はい。ありがとう、ございます……。」
「また部活に遊びに来てくださいね!」
部活の後輩からもチョコをゲットして、前世含めての最大のモテ期だ。ただ、沙羅からのハグからまともに頭が回っていない琴音は未だに夢見心地だった。
もしかして、本当に夢を見ているのかドッキリでも仕組まれてるのかと疑っていたりする。
「お久しぶりです九条先輩。」
「あ、玲奈さんの……弟さんの……。」
「はい、翔です。覚えていて下さったんですね。」
チョコラッシュで立ち尽くしていた琴音に声をかけてきたのは西園寺玲奈の弟の翔だった。
「こうして、学校で直接お話しするのは初めてですね。」
「そ、そうですね……。」
「?」
あまりに会話を続ける気のない琴音に翔は少し違和感を覚えた。あの日、兄に詰め寄った姿とかけ離れていることを疑問に思うが、翔は口には出さずにさらりと流した。潤滑な人間関係の構築には見てみぬふりも必要だ。
何故、年下の男子にここまで気を遣われているんだい?
「そうだ、もしお時間があれば姉さんに会ってあげてください。」
「どうして……?」
「それは、……その方がきっと喜ぶからですよ。」
翔としては姉の琴音への入れ込みようは見ていてすぐに分かるほどだった。だからちょっとしたアシストのつもりなのだろう。
「それと、もし渡すものがなかったらこれでも渡してあげてください。それではいい一日を。」
「あっ、……はい。」
琴音はまた一つ増えたチョコに困惑するのだった。
◆ ◆ ◆
翔との遭遇を終えた後、個人的な用事があった琴音は玲奈を探して校内を歩いていた。
今日一日だけでかなり会話をした気がしているが、そんなことはない。普段の会話が少な過ぎるだけである。
しばらく廊下を歩いていると、見覚えのある姿が視界に入った。
「あ、玲奈さん……。」
向こうも琴音に気づいたらしく、ぱっと表情を明るくする。
「琴音さん!」
小走りで近づいてきた玲奈は、そのまま鞄から綺麗に包装された箱を取り出した。
「いつ渡そうかと思っていたけど、丁度良かった。」
「え……?」
「はい。今日はバレンタインでしょう?」
差し出された箱を見て、琴音は一瞬だけ固まった。琴音は差し出されるままに受け取った。
今日だけで既に何個目になるのか分からないチョコレート。それでも、玲奈から渡されるというだけで妙に意識してしまう。
「それじゃあ、また。」
「あっ、……待って。」
「何か用事でもあった?何でも言って。」
目的は達成したと戻ろうとする玲奈をなんとか引き留める。
琴音が玲奈を探していた目的がまだなのだ。ただ、引き留めたはいいものの琴音は石像みたいに固まってしまった。その内心では大焦りである。
(なんだこれ、すごい恥ずかしい。面接の時より何倍も緊張するんだが!?渡して終わりのはずだったのに!)
琴音は鞄の中にある綺麗に包装された箱を意識した。まごうことなきチョコレートである。そう、琴音も用意していたのだ。翔に渡されたものを使う必要もなく、自分で準備してきていた。作った理由は単純なものだ、友達だからだ。
因みに去年のお返しはしていない。ホワイトデー?何それである。そういうところだぞ。
(普通に、友チョコなのに。なんでこんなに渡しづらいんだ!?)
やはりというべきか、琴音にはチョコレートを渡した経験などない。
それに土壇場でチョコを渡すという行為を意識してしまったせいで余計に渡し辛くなってしまった。沙羅がハグなんてしてきたせいでもある。
「……あの、琴音さん?」
「……。」
「どうしたの?」
玲奈も押し黙ってしまった琴音を不思議に思っている。
何故か喉から出てこない。つい先ほどまでなら、普通に渡せると思っていた。流れで自分が用意してきたチョコを渡して、それで終わり。それだけのはずだった。
玲奈の顔を見ると、目線が合った。その瞬間、琴音の思考が完全にショートした。
(無理だ。これ、自力じゃ無理だ。助けてイケメン女子!)
耐えきれなくなった琴音は反射的に適応に頼ってしまった。恥ずかしさの限界値を突破して防衛本能が逃避を選んだ。これぞ呼吸をする如く適応である。精神面がへなちょこ過ぎる。
さっきまで落ち着きなく泳いでいた瞳が、玲奈だけを真っ直ぐに捉えた。
琴音は澱みない動作で鞄から箱を取り出して、玲奈の目の前へ差し出した。
「お返しにこれ、玲奈にプレゼントだよ。」
「……私に?」
「ふふっ、他に誰がいるの?」
先ほどまでとはまるで違う、落ち着いた声。柔らかくそれでいて、妙に耳へ残る声。
あの彼女だ、玲奈は瞬時に気づいた。玲奈の顔がみるみる赤くなっていく。焦りから上手く話せなくなっていることを玲奈は自覚していた。
「ねえ、玲奈。」
「な、なに?」
「もしかして今日、わたしからチョコを貰えないかって楽しみにしてた?」
「……え?」
玲奈の思考が止まった。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳からはからかいの色が見える。ただ不思議と不快な気持ちにはならなかった。会話をリードされているみたいな、普段感じることのない感覚だ。
「だって、名残惜しそうにわたしのこと見てたからさ。」
「み、見てない!」
「そう?」
琴音が笑う。その笑顔が、あまりにも自然だった。
まるで最初から玲奈の反応が分かっていたかのように。
「なら期待していたのは、わたしだったみたいだね。」
「え?」
「チョコを貰うのを期待しているって、そうであってほしいなって思ってたみたいだ。」
完全に言葉を失う。玲奈は必死に何か言おうとする。
けれど、口から出てくるのは意味のない言葉だけだった。だってその考えだと、まるで琴音も自分と近しい思いを持っているみたいだったから。
「え、あ……その……。」
「玲奈、受け取って。これはあなただけに用意したの。」
琴音が箱を少しだけ押し出す。玲奈は震える手を箱へと伸ばした。何度目か分からない夢みたいな光景に幸せすぎて倒れてしまいそうだった。
「……っ!あ、ありがとう。」
玲奈の顔が更に赤くなる。玲奈は心底大事そうに両手で箱を受け取った。
その瞬間、琴音がその両手に手でそっと包むように覆った。
「っ!?」
「素敵な笑顔だね、用意した甲斐があったよ。」
「ーーーッ!!!???」
ここまで耐えてきた玲奈だったが、超至近距離からの炸裂によって玲奈の意識は光に呑まれていった。
「来年は期待させてみせるよ。じゃあ、わたしはもう行くね。」
琴音はトドメとばかりに微笑みウィンクを送った。それから琴音は踵を返し、そのまま歩いていった。
残された玲奈は箱を胸元へ抱きしめたまま、その場で動かない。こいつは立ったまま絶命した、伝説の豪傑こと武蔵坊弁慶だね。
「…………っ!」
顔が熱い、心臓がうるさい。頭が全然働かない。ただ、手元の箱を見つめる。その重みに自然と頬が緩んでしまった。
「……もう。ほんと、ずるい。」
そんな言葉がポツリと漏れた。
◆ ◆ ◆
一方、その頃。廊下の角を曲がった琴音はといえば。
「――――ッッッ!!」
身体の主導権が戻った瞬間、顔を真っ赤にして壁に手をついた。
(な、な、な、なに言ってんのわたしぃぃぃぃぃ!?うわあああああああああああああ!!)
琴音は声にならない悲鳴を上げた。なお、この日。西園寺玲奈と九条琴音は貰ったチョコを家に帰ってから眺め続けた末、結局その日のうちには食べられなかったのだった。