およそ2010年前後の日本では、アイドル戦国時代と呼称されるほどには数多のアイドルたちがしのぎを削っていた。
何故これほどまでにアイドルを目指した者たちがいたのか。それは誰にでも煌びやかな夢を掴めるチャンスがあると思わせたからである。
かつてのアイドルといえば完成された存在だった。テレビや雑誌の中で笑い、ステージの上から手を振る。選ばれた者だけがテレビに出てスターになれる。
そのアイドルへと抱くイメージが変わったからこそ、これだけアイドルを目指そうとした者が増えたのだ。
アイドルになりたい?それならオーディションを受けよう、とそれだけ身近なものに変化していた。
アイドルは最初から完璧である必要が無くなった。まだ何者でもない女の子がアイドルへと成長していく、そんな物語がアイドルを志望する女の子にも、それを応援するファンにも望まれた。
地下アイドルとして活動していた少女が全国区の人気者になる。地上波の歌番組でセンターに立つ。それが夢物語ではなくなったのだ。
もしかしたら自分もあのスポットライトの下で輝けると手を伸ばした。
そして2012年頃、のちにアイドル全盛期と呼ばれたその時代に一人のアイドルが誕生した。
リアルライブも握手会も一切しない。彼女の姿を見ることができるのは画面越しにだけ。時代に逆行したアイドルスタイルで、彼女は異彩を放っていた。
しかし、彼女はアイドルとしての名を上げてから三年間、2015年に至るまでアイドルの頂点に君臨し続けた。
彼女の伝説は数えきれないほどある。新しい曲を出せば音楽ヒットランキングの一位を必ず手にし、テレビで彼女の動画を流せば視聴率を数%跳ね上げる。
彼女が歌って踊っている姿を銀行強盗に見せたら改心して自ら自首したなんて話もあるくらいだ。それくらい彼女に人々は熱中していた。
誰もが彼女という光を追っていた、トップオブアイドルの名は彼女の為にあると言っても過言ではない。
そんな怪物のようなアイドルが誰なのかと問われると、そう琴音である。
◆ ◆ ◆
今思えば喫茶店でのスカウトが転換点だったのだろう。
「私は貴女があのステージに立つ姿が見てみたいんです。」
ステラプロダクション所属の黒瀬の言葉から、琴音はアイドルというものに少なからず興味を持っていた。
(アイドルと知り合いになれる環境って、普通にレアじゃないか?)
ただ琴音をアイドルにしたいのなら、黒瀬に必要なのは琴音の説得ではなかった。ちょっとしたボタンの掛け違いだけで十分だったのだ。
もし、黒瀬に話を持ちかけられた際に琴音が幸運への適応を切っていたら。
偶然、テレビに映っていたスポーツ観戦を目にしてバレー部のことを思い出さなければ。断るだけの理由が思い浮かばなければ。
それだけで琴音の運命は大きく変わっていた。
「その、……少しくらい、なら。」
「本当かい!?」
こんな風に押しに負けて見学し、なあなあで断ることもできずにアイドル候補生になり、周囲の期待から辞められず適応してアイドルを続けることになる。
もしかしたら、そんな世界線もあったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
マネージャーの黒瀬の運転に任せて琴音は後部座席で縮こまっていた。
黒瀬の表情は輝いており、人生楽しすぎて最高と言わんばかりにエネルギッシュだ。対して琴音はオドオドとしており、三年もマネージャーをして貰っているのに未だに慣れていない。
アイドルという逃げ道ができたせいで高校生活をおざなりにし、コミュ力がまるで育っていないのだ。授業が終わればアイドル関連の仕事をこなす必要があるからと部活すらしていない。
加えてアイドルに関しては適応に任せることになるので、素の琴音として会話するのはマネージャーの黒瀬だけである。もう高校三年生であるのにまるで成長していない。頼みの綱は玲奈であるが、学校の中でくらいしか会話する機会は無く、プライベートはアイドル業に占有されてしまい直接の交流は中学生の時と変わらず殆ど無かった。
アイドルとしては大成功しているが、リアルが充実しているとはとてもではないが言えなかった。
車は都心のビル街を抜け、ステラプロダクションの入っているビルへと向かっていた。
「新曲の撮影もいつも通り順調に終わって良かったですね。今日も、最高のパフォーマンスでしたよ!」
「……はい、ありがとうございます。」
「はは、貴女は初めてあった時からずっと変わりませんね。ほら、いいこと何ですから笑いましょうよ!」
そう言った黒瀬に琴音はアイドルへと一瞬だけ適応して、ルームミラー越しに最高の笑顔とウィンクを送った。
黒瀬のハートを撃ち抜き、思考を吹き飛ばす。その瞬間だけ、車内がアイドルのステージになったのでは思わせるほどの華やかさだった。
黒瀬は突然のファンサをきあいのタスキで耐えてハンドルを乱さずにすんだ。これも三年間の修行の賜物である。一般人であったらこれで気絶していただろう。
「アイドルモードになるのは卑怯ですよ!ですが……、いい笑顔でした。ありがとうございます!」
琴音は元のすんっとした表情になり、窓の外へと視線を向けた。ちなみに普段の琴音とアイドルモードの琴音を同一視出来るのは黒瀬しかいない。アイドルへの適応中の琴音は纏っているオーラが違い過ぎるのだ。だから適応を切った状態の琴音と結びつけられない。一種の認識阻害に近い状態となっている。虚像がデカすぎるのだ。
「どこのテレビ局も貴女の新曲にとびついて、うちで放映させて欲しいなんて血眼になってお願いしてきますからね。貴女ほどのアイドルは他にいません。」
文字通りの国民的アイドルにまで琴音は上り詰めていた。しかし、琴音の内心的には偉業を成し遂げたことへの誇りもなく、ただ当初思い描いていた感じと違うことになんだかなと思っているだけだった。
(褒められても適応に任せてるだけだし、実感がないんだよな。それに、他のアイドルと知り合って友達になるなんてことも無いし、なんか思ってた感じと違うな……。)
最大の温度差は、適応中の自分がアイドルとして振る舞っている姿を琴音が見れていないからだろう。それがどれほどのもので、見た者を熱狂させるのか理解できていないのだ。
アイドルとして煌びやかで可愛らしい服を着て踊っている自分を、琴音は恥ずかしくて映像で見直そうとは思わなかったのだ。
アイドルとして適応中の姿を見ていたら、琴音自身をもファンにしていたことだろう。
アイドルとは何か、人によって様々な見方があるだろう。
それでもその本質は偶像であり、多くの人から憧れ、応援される存在だ。
つまりは、他者からの印象によって成り立つものだ。
であれば、適応によって極限にまでアイドルとしての姿を突き詰めた姿は人々にどう映るのか。
琴音というアイドルは、それを見た者に各々の憧憬を抱かせる。
子供の頃の眩しい理想を思いださせる。諦めきれない夢へと後押しをしてくれる。完璧な少女性に惹かれる。全てを受け止めてくれるような包容力を感じる。これ以上無いと思わせる完成度を誇っていても、まだこれからも成長すると感じさせてくれる。
アイドルに求める全ての感情を、それぞれの人間に琴音は与え続けるのだ。
もはや精神汚染の類いである。ただ、それだけ人々の偶像に求める感情が強かったということの裏返しでもある。それに応えるのであれば、こうなるのも致し方無い。
アイドルとは一般的な職業ではなく概念に近いものだ。適応はそれを完璧に形作っていた。
「……その、黒瀬さん。」
「ん、なんだい?」
「えっ……と。」
とはいえ、それは琴音にとってなんの関係もない。
「今年を最後に、……アイドルを辞めても、いいですか……?」
「は……?」
果たして黒瀬の順風満帆な明日は守られるのか。
体調を崩して執筆が殆どできていなかったので、前編後編に分けて書きます。また来週に投稿できるかどうかは分かりません。中々、書く時間がとれず、お待ち頂けると幸いです。