その琴音の言葉に車内が凍りついたみたいだった。ハンドルを手放さなかっただけ黒瀬は有能だろう。
「今年を最後に、……アイドルを辞めても、いいですか……?」
「は……?」
車内に訪れた沈黙が黒瀬のパニック具合を表している。それくらい衝撃的なことであったし、宇宙猫状態だ。
まるで理解が追いつかない。暫くの間、微妙な空気感が車内を流れていたが、黒瀬が漸く再起動した。
「……はっ!すみません、少し寝ていたみたいです。それでなんの話をしていたんでしたっけ?」
そんな黒瀬のとった行動は無かったことにするであった。なにも、無かった!血反吐を吐いて行動に移す勇気である。余りのショックに防衛機制ちゃんが働いたのだろう。おいたわしや。
ただ、現実が変わることはない。夢オチにできるのはギャグ漫画くらいのものだ。
「え、と……。アイドル活動を、今年で最後に……したいです。」
「????????????」
受け入れられない現実についに黒瀬は完全にノックアウトされたようだ。
それから黒瀬がまともに会話できるようになるまでに随分と時間がかかったが、それでもまだダメージが抜け切っていなかった。黒瀬は絞り出すように琴音へと問いかけた。
「……理由を聞いても、いいかな。」
「来年から、大学生なので……。その、勉強に集中しないと……。」
「それは、アイドル活動してる今だって成績は良かったですよね。十分両立は可能かと思いますが。」
琴音が口にしたのはまず勉学についてだったが、黒瀬は直ぐに否定した。アイドル業が私生活に負担をかけ過ぎないように調整するのも黒瀬の業務だった。成績についても把握しているし、その点での問題はこれまでなかった。本命の理由ではないのだろう。
それから琴音は膝の上で両手を握り合わせながら、ぽつぽつと言葉を続ける。
「その……、アイドルって、いつまでも続けられるものじゃ……ないですから。」
「それは……。」
「なので、高校生の間までにしようかと思って……。大学に通って、卒業したら就職しないとですから。」
琴音の言葉には、まるで悲壮感がなかった。引退を決意したアイドル特有の寂しさも、未練もない。
ただ、当たり前のことを話しているような声音だった。
「……就職。それはつまり、安定した仕事を探したいと。」
「えと、……そんな、感じです。」
あれだけ他人の視線を気にしてしまう琴音が、何故アイドルを辞めるという選択を口に出せたのか。その選択が自分の為ではないからだ。
アイドルは一般的な職業と違って定年まで続けられるものではない。そこに金銭をどれだけ得られるかどうかは関係ない。手にした職が無くなるという可能性が安心できるものではなかった。
全ては両親が安心してくれるかどうかである。そこで相談なりが出来ないのが琴音の生態の悪い所である。
黒瀬が呆然としてしまっている。その反応を見て、琴音は何かまずいことを言ったのかと疑問を口にした。
「……駄目、ですか?」
「いや、駄目では……ないんですが。」
黒瀬は言葉を濁した。運転中でなければ、頭を抱えていたかもしれない。
何せ目の前にいる少女は、現在最も有名なアイドルなのだ。今の露出を極力減らした売り方を止めれば、これから先十年だって二十年だって芸能界の第一線に居続けられる。そんな実力を持っている。少なくとも黒瀬はそう思っていたし、周りの人間だって賛同するだろう。
琴音にとってのアイドル活動と、黒瀬やステラプロダクションから見たアイドル活動への認識に大きな溝があったのだ。
「琴音さん、アイドルを辞めた後のことまで、もう考えてるんですか?」
「少しだけ……ですけど。」
「差し支えなければ、聞かせていただけませんか?」
「……普通に就職活動をして、会社に入って……。」
「会社員に?」
黒瀬の口が閉じる。何か言おうとして、しかし言葉が出てこない。
そして脳裏に浮かんだのは、初めて彼女に会った日のことだった。自分の顔がどれだけ人目を引いているのかも理解していないような少女だった。どこまでも自分に自信がなさそうだった。
だから黒瀬は、これまで彼女を育ててきたつもりだった。それでも、彼女に自信をつけさせてあげることはできなかったという事なのだろう。
結局あの時から変わらず、彼女は彼女自身の価値を理解できないまま此処まで来てしまっていた。
黒瀬には知り得ない情報だが、琴音にとって誰かからの賞賛は適応した状態に向けられたものだ。多少なりとも感じる部分があっても、その殆どが実感などない。
結局、適応頼りでアイドル活動している状態を琴音は自分自身のことだと思えていなかった。
アイドルを辞めることを惜しんでいるわけでもなければ、何か大きな夢を追いかけるために辞めたいわけでもない。
ただ、自分の将来を考えていてアイドルという仕事が永遠ではないから、その先にある人生のために今のうちから普通の人生へ戻る準備をしたい。それだけなのだ。
「……一般の会社、ですか。貴女なら、きっとどんな仕事だってできると思いますよ。」
「そう、でしょうか。」
「ええ。」
それは間違いなく黒瀬にとっての本音だった。彼女であればどんな場所でも輝きを見せられることだろう。
今の省エネモードでは考えられないだろうが、アイドルとしての彼女を見ればその意味が痛いほど分かる筈だ。
黒瀬はそこで言葉を止めた。けれど、どんな仕事場でも輝ける力があったとしても、一番見ていたい姿は一つだけだった。
「……でも。」
「はい?」
「……いえ、なんでもないです。」
もちろんいつかはアイドルをやめる時がくるだろう。その時は尊重するつもりだった。ただ、全てが急すぎた。
マネージャーである以前に彼女のファンなのだ。黒瀬は言葉を飲み込んだ。アイドルを続けてほしい、辞めないでほしい。そんな言葉を口にはできなかった。
しかしだ、引き留めてしまえば彼女が三年間ずっと、自分でもよく分からないまま走り続けてきたことを、また繰り返させることになる。
アイドルという檻に閉じ込めるべきではないのではと。
「…………。」
黒瀬は前を向いたまま、長い沈黙の後に小さく息を吐いた。
誰だって受け入れられないだろう。説得して、引き留めるべきだ。会社的にも、ファンとしても、果てしない損失になる。
けれど、誰も受け入れられないのなら。自分だけは彼女の味方でいるべきなのではないか。
「……少し、考えてみます。ですが、これだけは頭に入れておいてください。簡単に事は進まない筈です。上の人間が貴女を簡単に手放すとは思えませんから。」
「そう、……なんですか?」
「はい、ですが可能な限り希望に沿った形を目指します。ただ代替的な案にも視野に入れていただけると……。」
そうして、琴音のお騒がせなアイドル引退騒動が幕を開けたのだった。
◆ ◆ ◆
【超朗報】キングオブアイドル琴音、リアルライブ開催決定
名無しのドルオタ:
ファッ!?
名無しのドルオタ:
は?????????????
名無しのドルオタ:
嘘だろ?
名無しのドルオタ:
おいおいおいおいおい
死んだわ俺
名無しのドルオタ:
電子上の生き物じゃなかったのか!
名無しのドルオタ:
公式サイト重すぎて開けねえwwwwwww
名無しのドルオタ:
リアルライブって現実でライブやるってことか?????
名無しのドルオタ:
決まったな、俺の命日が
名無しのドルオタ:
アイドルなのにファンが交流する機会ゼロの神話生物がついに表舞台に立つ時がくるのか!
名無しのドルオタ:
うおおおおおおおおおおおおおおお!!!!
名無しのドルオタ:
会場どこだよ
キャパいくつ!?
名無しのドルオタ:
どこでも一瞬で埋まるだろ
名無しのドルオタ:
日本中から人が集まるんだよなあ
名無しのドルオタ:
どうせ首都圏
地方民は死ぬしかないじゃない!
名無しのドルオタ:
頼むから関東にしてくれ
いや地方公演もやってくれ
いや全国ツアーをやってくれ
名無しのドルオタ:
欲望が止まらなくて草
名無しのドルオタ:
一公演だけでもいい
一度でいいから生で見たい
名無しのドルオタ:
動画ですら何してても目が離せなくなるのに、生で見たらどうなっちまうんだ
名無しのドルオタ:
あの子が映ってる瞬間だけ部屋が明るくなった気がする
名無しのドルオタ:
お前、窓のない部屋に住んでるのか?
名無しのドルオタ:
言い方はキモいけど、言いたいことは分かるわ
名無しのドルオタ:
キモいのはそうなんだけど実際、琴音ちゃんの動画って不思議なんだよな
最初は曲を聴くつもりで再生するのに、気づいたら何回も見てるし
名無しのドルオタ:
キモニキネキがフルボッコで草
名無しのドルオタ:
わかるわぁ
ただ、歌が上手いとかダンスが凄いとか、そういう部分じゃないんだよなあ
なんかずっと背中を押して前に進むように励ましてくれる感じがずっとすんのよ
名無しのドルオタ:
そうかあ?個人的には頑張ってて偉いねみたいな肯定してくれてる感じがするんだけど
名無しのドルオタ:
お前ら洗脳されてるぞ
名無しのドルオタ:
今さらだろ
名無しのドルオタ:
琴音教の信者しかいなくて草
名無しのドルオタ:
我らの神様がついに下界に降臨されるんだぞ
そりゃ騒ぐしかねえよなぁ!
名無しのドルオタ:
神様とかやめろwwwwww
名無しのドルオタ:
今までの露出ゼロ活動を考えると、ライブをやること自体が事件なんだよな
よくオッケーが出たな
名無しのドルオタ:
事務所が徹底的に守ってるんだと思ってた
名無しのドルオタ:
あれだけ人気があるのに露出を増やさないのは不思議だったな
名無しのドルオタ:
むしろ露出を絞ってるから希少価値が上がってる説
名無しのドルオタ:
希少価値で片付けられるレベルじゃないんだよなあ
名無しのドルオタ:
で、チケットの販売はいつからだ?
名無しのドルオタ:
公式には来週から抽選受付開始って書いてあったぞ
名無しのドルオタ:
おぉん、抽選……当たる気がしねえ
名無しのドルオタ:
今から徳を積むんだよ
名無しのドルオタ:
神社行ってくる
名無しのドルオタ:
神様「いやワシの方が欲しいんじゃが……」
名無しのドルオタ:
転売屋がアップを始めました
名無しのドルオタ:
やめろ
本当にやめろ
名無しのドルオタ:
転売対策だけは頼む
本人確認必須にしてくれ
名無しのドルオタ:
さすがに事務所も分かってるだろ
何万人が応募すると思ってんだ、転売ヤーにただでさえ少ない枠が潰されたらかなわん
名無しのドルオタ:
というか何万人で済むのか?
名無しのドルオタ:
全国のファンに加えて海外勢もいるぞ
名無しのドルオタ:
握手会とかもやらないから海外ファンとの差が比較的小さいんだよな
みんな画面越しに応援するしかないし
名無しのドルオタ:
初ライブだしセトリどうなるか全然想像つかんな
名無しのドルオタ:
全部の曲がヒットしてるからなぁ
代表曲に絞るとかも無理なんだよな
名無しのドルオタ:
デビュー曲は絶対やるだろ
あれを生で聴けたら泣く自信がある
名無しのドルオタ:
全曲やってくれ
名無しのドルオタ:
無茶を言うなwwwwww
三年分あるんだぞwww
名無しのドルオタ:
ただリアルのライブ経験ないのがちょい不安だわ
大丈夫なのか?
名無しのドルオタ:
お前は三年間何を見てきたんだ
名無しのドルオタ:
むしろ生歌でどこまでやれるのか見たい
名無しのドルオタ:
音源と同じクオリティで歌って踊ってきそうで怖い
名無しのドルオタ:
実はアンドロイド説、まだ諦めてないからな
名無しのドルオタ:
やめろ
ライブで充電ケーブルが映ったらどうする
名無しのドルオタ:
舞台袖から電源コード引きずって登場する姿想像して草
名無しのドルオタ:
一回でいいからファンサもらいたい
名無しのドルオタ:
ファンサされたらその場で崩れ落ちる自信がある
名無しのドルオタ:
チケット代が多少高くても文句は言わんから盛大にやって欲しいぜ
名無しのドルオタ:
とりあえず今日は眠れそうにない
名無しのドルオタ:
伝説の始まり
名無しのドルオタ:
なおチケット抽選の倍率
◆ ◆ ◆
ドームを埋め尽くす光の海。数万人もの観客が息を潜め、ステージの中央を見つめていた。
照明の落ちた暗闇の中で、電子音が一つピコン、と鳴った。夜空に星が瞬くような、澄んだ音だった。
続いて、軽快なシンセサイザーの音色が会場を駆け抜ける。そこへキラキラとした高音が重なっていく。どこまでも明るく、どこまでも前向きで。聴いているだけで、何かが始まるような気持ちにさせてくれるイントロだった。
スクリーンに映し出されたのは、星空。無数の星が瞬く夜空の中、ひときわ小さな光が生まれる。
それは一瞬、頼りなく揺らめいて。次の瞬間、まばゆい輝きを放ちながら空へと駆け上がった。そしてステージの中央に、一本のスポットライトが落ちる。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。きらびやかで可愛らしいアイドル衣装を着て、マイクを手にゆっくりと顔を上げた。そして、弾けるような笑顔とともに、彼女は歌い始めた。
『夜空のすみっこで 夢を見てたんだ』
『Astra』。それが、彼女のデビュー曲だった。
『君と巡り会う そんな日々を』
夢を追いかける少女が、まだ見ぬ誰かに見つけてもらうために走り出す。そんな物語を歌にしたものだ。
どこまでも真っ直ぐで可愛らしくもある、そんなアイドルソング。
『もっと輝いてみせるから 君の瞳に映るまで』
曲が始まった瞬間、観客は理解した。これこそが、自分たちが三年間ずっと待ち望んでいたものなのだと。
「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」」」
爆発するような歓声。何万本ものペンライトが、一斉に星空を模したステージカラーへと染まった。
その光が波となって、ドームの端から端まで駆け抜けていく。観客たちは叫ばずにはいられなかった。何度も何度も繰り返し見た映像。何百回と聴いた歌声。気がつけば日常生活の一部になっていた。ずっと画面越しに見つめてきた少女が、今、確かにそこにいる。
「琴音ちゃああああああああああん!!」
「うおおおおおおおおおおおお!!」
「会いたかったあああああああああ!!」
泣いている人も、笑っている人もいる。あまりの感動に声すら出せず、ただ両手を握りしめている人もいた。中には、開演前から泣き続けていたせいで、既に目元が真っ赤になっている人だっている。
全ての人間が、ステージの中央に立つ彼女から目を離せずにいた。リアルで見たら、もしかしたらという一抹の不安も軽々と吹き飛ばしてくれた。
そんな琴音の内心はというと。
(スカート短い……!太ももがオープンワールド過ぎる!!)
大変だった。身体は完璧にアイドルとして動いている。ターンに、ステップと、指先まで計算された振り付け。髪を揺らし、笑顔を浮かべ、観客に向かって手を振る。その全てが、神がかり的な完成度で繰り出されていた。
(せめてもうちょっと丈の長い衣装でもよかったんじゃ……!)
身体は優雅にターンを決めた。スカートがふわりと広がる。琴音は恥ずかしさに悶えていた。適応中は眺めているだけだからか、そこまで恥ずかしさを感じることはこれまでもあまりなかった。けれど、身体が感じた感覚はダイレクトに伝わってくるのだ。女性として生を受けて十数年、未だにスカートには慣れてはいなかった。
そして、身体はそんな内心など一切お構いなしに、最高の笑顔を振りまき続けていた。気絶でもしないと抜け出せない拷問を受けているなどと、この世の誰にも知る由もないだろう。
琴音は歌い、踊る。軽やかにステップを踏み、くるりと回り、片目を閉じてウインクをする。たったそれだけの動作で、ドームが揺れた。
その歌声は、音源と変わらないどころか、画面越しでは決して伝わらなかった息遣いや声の伸びまでが鮮明に響いていた。そのダンスは、映像で見たとき以上に鮮やかだった。
指先の動き、視線の向け方、全てが自然で、全てが美しい。誰もが夢に描いた最高のアイドルを、現実のものとして見せつけていた。
やがて、最初の曲が終わりポーズを決めた琴音が、満面の笑みを浮かべる。
『聴いてくれてありがとうーっ!』
琴音の声が響いた瞬間、観客席から再び巨大な歓声が巻き起こった。
その声は、もはや一曲目を終えたばかりとは思えないほどの熱量だった。まだまだ、彼女の歌声を聴くことができる。それだけで、彼らは幸せだった。
そんな期待と興奮が、会場の隅々にまで満ちていた。
ライブは続いていく。二曲目、三曲目と次々に切り替わっていく。三年という月日を圧縮したみたいだった。
彼女が歌うたび、見ている者の心が動く。観客の思い出が呼び起こされ、かけがえのない何かを思い出す。
それは初恋の記憶かもしれないし、諦めてしまった夢かもしれない。もしかしたら、もう会えなくなってしまった誰かとの思い出かもしれない。
琴音の歌声は、それぞれの人間が胸の奥にしまい込んでいた感情を、優しく引っ張り出してくる。
だからこそ、誰もが彼女を自分だけの特別な存在だと思ってしまうのだろう。そして、その感情に応えるかのように、琴音の身体は完璧なパフォーマンスを続けていた。
◆ ◆ ◆
ライブ開始から、約一時間半。最後を飾ったのは最新曲である。観客たちにはこれが締めの曲であると理解できていた。
ステージの中央に立つ琴音が、ゆっくりと息を吐く。ドームの中には、まだ熱気が残っていた。
観客たちは立ち上がり、ペンライトを振りながらアンコールを叫んでいる。
「「「「「アンコール!アンコール!」」」」」
彼らにとっては聴き足りなかった。MCも無しに歌い続けた時間としては既に十分な時間ではあるが、この熱狂が消える訳がなかった。
もっと見たい、もっと聴きたい、もっとこの場所にいたい。そんな思いが、何万人もの観客の胸の中で渦巻いていた。
やがて、琴音がマイクを口元へと運んだ。その動作だけで、会場の歓声が少しずつ静まっていく。
誰もが彼女の言葉を待っていた。期待に満ちた視線が、ステージの中央に集まる。琴音は、ゆっくりと頭を下げた。
『ライブに来てくれてありがとう!この瞬間がこんなに素敵なものになったのは、わたしとみんなで一丸となったからだよ!』
その言葉に温かな拍手が起こった。琴音が柔らかく微笑み、その笑顔を見た瞬間、殆どの観客が胸を押さえた。
そして琴音は、マイクを握り直し言葉を続けた。
『今日はわたしからみんなに重大発表があるよ!アンコールはそのあとでね?』
その言葉に、会場の空気が変わった。重大発表と聞いて思い浮かべたのは新曲についてや、新しいアルバム。それか今回のリアルライブや、もしかしたら全国ツアーについて。
それとも、今までやってこなかったテレビ番組への直接の出演だったりするのだろうか。観客たちの期待が膨らんだ。
『わたし、今年いっぱいでアイドルを引退します!』
――。
――――。
――――――。
会場が、静まり返った。比喩ではなく文字通り、何万人もの人間が一斉に黙り込んだ。
ペンライトの光だけが、何事もなかったかのように揺れている。誰もが、今聞こえた言葉を理解できなかった。理解したくなかった。
「…………は?」
誰かが、呟いた。その声をきっかけに、会場の空気が一気に崩れた。
「……え?」
「え、ちょっと待って……今、何て?」
「引退……?」
ぽつり、ぽつりと困惑の声が上がり始める。頭の中が真っ白になっていく。
「うわあああああああああああああああああああああ!!」
「いやああああああああああああああああああああああ!!」
悲鳴が上がった。魂を抜かれた人間が、現実を否定するために発する悲鳴だった。何人か死んでそうである。ドームが阿鼻叫喚の渦に包まれた。さっきまでの熱狂とはまるで違う。
喜びに満ちていた空気が、一瞬にして絶望へと塗り替えられていく。
まさに天国から地獄へのジェットコースターだ。
そんな中でも琴音は変わらず言葉を続けていく。
『ごめんね。いつまでもアイドルではいられないから、いつかは別の道を歩き始めるしかないの。わたしにとってはそれが今だったってだけで。』
そんな子供をあやすような言葉に少しずつざわめきが収まっていく。しかし、現実を受け入れられず無意識のうちに涙を流している者だっていた。
『きっとね、アイドルって儚いものなんだと思う。』
琴音はそれに気づいているのかいないのか、変わらない笑顔で言葉を続ける。
『でもね、アイドルはなくならないよ。』
声の調子が、ほんの少しだけ明るくなった。観客たちが顔を上げて琴音へと視線を送った。
『わたしがいなくなっても、たくさんの女の子がアイドルを目指して、歌って、踊って、誰かに見つけてもらうために頑張っていくんだから!』
琴音は片手を胸元に添えた。そして、重大発表を口にした。
『だからね、ステラプロダクションでは新しいアイドルを募集することにしました!そして……わたしも、その子たちのお手伝いをすることになりました!』
ざわり、と会場の空気が動いた。引退、その言葉に塗り潰されていた意識が、少しずつ別の方向へ向かい始める。新人アイドルの募集、誰もがその言葉の意味を理解しようとしていた。
『トレーナー、っていうのかな?歌やダンスを教えたり、ステージに立つためのお手伝いをしたり……そんなお仕事をする予定です。』
そんな彼らに、琴音は明るく告げた。
『今度はわたしが、新しい星を探す番なんです!だから……どうかわたしの新しい旅路を、祝福してくれたら嬉しいです!』
彼女はいつものように、弾けるような笑顔を浮かべた。その笑顔を見て。誰かが、泣きながら拍手をした。小さな音だった。けれど、確かに会場に響いた。それに続くように拍手が鳴り、まばらだった拍手が少しずつ広がっていく。
泣きながら、鼻をすすりながら、何度も目元を拭いながら。それでも、彼らは拍手を送った。
大好きなアイドルが、アイドルを辞める。その事実を受け入れられたわけではない。明日になれば、きっとまた悲しくなるだろう。これから先、何度も引退を撤回してほしいと思うに違いない。それでも彼女が笑って、その道を歩いていこうとしているのなら。せめて今だけは、その門出を祝福したかった。
やがて拍手は、ドーム全体を包み込むほどの大きさになった。何万人もの人間が、たった一人の少女に拍手を送っていた。
『最後に、わたしからみんなに贈り物を!』
拍手の雨の中で彼女はマイクを持ち直し続けた。
『それでは聴いてください、新曲Ad Astra。』
◆ ◆ ◆
ステラプロダクション所有のトレーニングスタジオにて三人と一人が顔を合わせていた。
「よーし、みんな、揃ってるね!それじゃあ、まずは簡単に自己紹介からお願いしようかな、うーん右端の貴女から!」
九条琴音、三年間、アイドル界の頂点に君臨し続けた少女。その人気な国民的アイドル、それすら飛び越えて世界的なものだったと言ってもいいくらいだ。
今日から彼女は、ステラプロダクションが新たに募集したアイドル候補生である三人の指導を一部担当することになっていた。ただし、トレーナーとして参加するのは週に数時間程度だ。これがステラプロダクションが出した琴音捕獲の案であり、何としてでも引き留めておきたいという意思が見える。
「はいっ!喜んで!」
少女は弾むような声で返事をした。ふわふわとした栗色の髪に、大きな瞳。小柄な身体に、柔らかな印象を与える丸みを帯びた顔立ち。
まるで小動物のような愛らしさを持つ少女だった。年齢よりも幼く見える容姿も相まって、誰が見ても守ってあげたくなるような雰囲気をまとっている。
彼女は胸の前で両手を合わせ、満面の笑みを浮かべた。
「初めまして!私、花咲ひまりっていいます!好きなものは可愛いものと、甘いものと、あと……。」
そこで、ひまりは一瞬だけ言葉を切った。琴音の方をみらりとみる。
「……琴音ちゃんのことが、大好きですっ!」
「ふえっ?そんなにストレートに言われると照れちゃうよ。でも、ありがと!わたしも好きだよ!」
「あ、あぁ、ありがとうございます!!」
表面上は穏やかな会話である。アイドルとファンの雰囲気だろう。ステラプロダクションに応募した女の子たちは、その大半が琴音目当てだった。
ひまりも琴音の大ファンであり、この瞬間に歓喜していた。
今、自分の目の前で、自分に向かって微笑んでいる。
(琴音ちゃん可愛いよお!今すぐ全人類が消滅して、琴音ちゃんと私だけの世界にならないかなぁ!)
彼女は数多の応募の中から面接を突破した女である。社会性も、協調性も、必要なだけは持ち合わせていた。必要なだけは。
今はまだ、私だけのものではない。だからこそ、ここに来たのだ。他の女に琴音ちゃんを渡さないために。その内心では、すでに他の二人をどう出し抜くかという計算が始まっていた。
ひまりはそんな内心を少しも表に出さずに可愛らしい笑顔を見せている。小動物の皮を被った狂信者だ。
「じゃあ、次の人は……左の貴女、お願い!」
「……はい。」
二人目の少女が、黒髪のロングヘアーに、切れ長の瞳。
整った顔立ちではあるが、表情の変化に乏しく、どこか近寄りがたい雰囲気がある。背筋は真っ直ぐに伸びており、無駄な動きがない。その佇まいだけを見れば、冷静沈着な優等生といった印象だった。
「……水瀬静香です。」
「うん、水瀬さんだね。」
「……はい。」
会話が終わってしまった。琴音はしばらく待ってみたが、静香はそれ以上何も話さない。
「あ、えっとぉ。アイドルを目指した理由とかはあるかな!」
「……琴音さん。」
「うん?」
「……琴音さんが、好きだからです。」
静香は変わらない表情のまま、淡々と言葉を続ける。
「歌も、ダンスも、全部好きです。だから、私もアイドルになりたいと思いました。」
「そうなんだね、ありがとう!わたしも真摯な貴女が好きだよ!」
「……はい。」
表面上はクールに見える。淡々と言葉を吐いているが、その内心はまた別物だった。
(流石は私の妻、何をしていても可愛らしい。ただ、他の女も一緒なのは不満です。きっと優し過ぎるから断りきれなかったのでしょう。仕方ないですね。)
彼女は天才だった。勉強も、運動も、記憶力も、同年代の少女たちとは一線を画している。
一度見たものは忘れない。一度聞いた言葉は、細部まで正確に記憶している。その能力は、琴音と出会った瞬間から、彼女にとって呪いとなった。
最初は、何気ない動画だった。勉強の合間に、何となく再生した音楽、画面の中で歌い、踊る彼女を見た。
そして、脳を焼かれた。完全記憶能力とは、忘れたいことまで忘れられないということだ。初めて琴音の歌を聴いた瞬間の感覚。初めてその笑顔を見た瞬間の衝撃。それらすべてが、昨日のことのように鮮明に残っている。
端的に言って琴音は静香にとっての十六倍弱点だったのだ。
最大の問題は琴音の姿を見ていないときでさえ、その存在を感じてしまうのだ。静香は常に琴音が隣にいるという幻覚を見続けていた。
そして静香は、その存在を何と呼ぶべきか、随分前から結論を出していた。妻である。異論は認めない。
ただ天才故に飽きっぽい性格だった為、長時間の運動に耐えられる体力はなかった。
アイドルを目指すうえでは、致命的な欠点であるが静香は気にしていなかった。それが必要ならやるだけだ。妻はわたしのものだと分からせてやる。
「それじゃあ、最後に真ん中の貴女。お願いね!」
「はい!」
三人目は長いポニーテールに健康的な肌、すらりとした手足に引き締まった身体。これまでの二人とは違い、活発でスポーティーな印象を受ける少女だった。
表情も明るく、誰に対しても自然な笑顔を向けられる。
いかにもクラスの中心にいそうな、社交的なタイプである。
「初めまして。私、朝比奈美月といいます。よろしくお願いします!」
「うん、よろしくね!」
琴音が笑顔で応じ、美月もまた、爽やかな笑みを浮かべた。
「身体を動かすのが大好きです。持久力には自信があります!」
他の二人に比べて随分とまともそうである。いやまあ、表面上は似たようなものではあるのか。
因みにこの持久力があるというのは、トライアスロンを完遂し、フルマラソンを完走できるという意味である。体力バグキャラであった。
「アイドルを目指した理由は琴音さんです!琴音さんの歌やダンスを見ていると、私も頑張ろうって思えるんです。だから、今度は私が誰かを元気にできるようになりたいと思いました!」
「わぁ、素敵な理由だね!美月ちゃんなら、きっと素敵なアイドルになれるよ!」
琴音が嬉しそうに微笑む。彼女は至って普通のファンである。少なくとも、本人はそう考えている。
部屋には琴音のポスターが貼り巡らされており、棚には琴音のCDや雑誌、グッズが並んでいる。部屋のあらゆる場所を琴音で埋め尽くしていた。
琴音のグッズを大量に購入するのは、ファンとして当然の行為。部屋をグッズで埋め尽くすのも、好きなものに囲まれて暮らしたいという自然な欲求。
過去の映像を何度も見返して、わずかな表情の違いを記録するのも、熱心なだけ。何もおかしくない。
机の上には、琴音のデビュー当時からの活動記録をまとめたファイルが置かれている。
ファイルは年代ごとに分類され、さらに楽曲、衣装、映像作品、公式発表といった項目ごとに整理されていた。情報の出典まで記載されている徹底ぶりである。
なお、本人は自分を至って常識的な人間だと思っている。
「うんうん、三人ともよろしく!分からないことがあったらなんでも遠慮なく聞いてね!」
「「「はい!」」」
その言葉を受けて、三人は揃って頷く。とても素直な返事だった。礼儀正しく、やる気に満ちていて、協調性も申し分ない。
面接官が見れば、これほど採用したくなる候補生たちもそうはいないだろう。
三人とも同担拒否でなければ。彼女たちの中で結論は同じだった。
(((この二人、邪魔だな。)))
互いにそう思いながら、三人は笑顔を交わしていた。その笑顔は、あまりにも自然なものだった。まるで、これから仲良く切磋琢磨していく仲間同士のように。
琴音は、そんな三人を見てほっと胸を撫で下ろした。
(よかったぁ……。みんな、いい子そう。)
適応に任せているとはいえ仕事だ。面倒ごとは少ない方がいい。三人が素直で礼儀正しい少女たちで本当によかったと内心では安堵していた。
これから三人の間で琴音争奪戦争が繰り広げられるなんて、琴音は思いもよらなかった。
琴音「どう見たって儚いだろ! 明日にはもう会えなそうだろ!事務所に行ってももぬけの殻だろ!もうお前は!会えないだろ!!儚いの!」
絶対にこれは儚くない(確信)