「……あ、あぁ……。なんで、こんなことに……」
視界が、どろりとした赤に染まっている。
鼻を突くのは、生々しい血の臭いと、神経を逆撫でするエーテルの異臭だ。さっきまで俺の隣で怯えながら笑っていたはずの避難民の男は――今はもう、ただの物言わぬ肉塊に成り果てていた。
(ゼンレスゾーンゼロの世界だ、なんて浮かれていた自分を殺してやりたい)
「転生してゲームの知識があれば無双できる」なんて、ただ現実を知らないガキの幻想だった。
何故気づかなかったのだろう。もうすぐこの都市に終末を迎えるあの事件が来るということを。
目の前にいるのは、圧倒的な『死』そのものとしてのエーテリアス。そいつの鋼鉄のような爪が、俺の腹部を深く抉り、地面へと縫い止めていた。
「が、はっ……っ!」
口から溢れるのは熱い血の塊だ。内臓が掻き回されるような激痛。
脳が「死ぬぞ」と警報を鳴らし続け、視界が明滅する。
(痛い。熱い。怖い。嫌だ、死にたくない……!)
そんな俺の視界の端に、小さな影が見えた。
「うぅ……。お母様……」
瓦礫の陰にうずくまる、あどけない少女。星見雅だ。後の「虚狩り」の片鱗もない、ただの無力な子供。邸宅を襲った地獄から、彼女はここまで逃げてきた。
彼女の背後には、別のエーテリアスが音もなく忍び寄っている。
「……に、げ……ろ……っ」
雅は震える瞳で、血の海に沈む俺を見つめている。彼女は世界から見捨てられたような顔をして、ただ死を待っていた。
(……そんな顔、させられるかよ)
雅だけは、ここで終わらせちゃいけない。英雄になるはずの彼女が、こんなところで、ここで踏み潰されていいはずがない。
「……ぁ、あああああああ!」
俺は腹を抉っている爪を両手で掴み、死に物狂いで押し返した。骨が砕ける音。その一瞬の隙に、俺は残った全生命力で、雅を安全な瓦礫の隙間へと突き飛ばした。
「――逃げろッ!!」
直後、視界が反転した。
エーテリアスの怒りに任せた一撃が、俺の胴体を軽々と両断する。下半身の感覚が消え、内臓が地面にぶちまけられる感触。自分という人間が無残に壊れていく、耐え難い苦痛の絶頂。
(ああ、これが死か。……こんなに不格好で、無意味な――)
意識が、深い闇の底へと沈みきった。
――不意に、重力が戻ってきた。
「はっ、……あ、か、はっ……!!」
激しい過呼吸と共に、俺は飛び起きた。
反射的に腹部を押さえる。……ない。抉られた傷も、溢れ出していたはずの臓器も、どこにもない。
代わりに手のひらに触れたのは、安物のシャツのごわついた感触と、冷や汗だけだった。
(死んだ。俺は、確かに死んだはずだ……!)
喉の奥には、今も鉄錆の味がこびりついている。
耳の奥では、自分の骨が砕ける不快な音が反響し続けている。
「……おにいさん、大丈夫……?」
足元から声をかけられ、心臓が跳ねた。
そこには、俺の隣で怯えていた雅がいた。
「まさか……時間が、戻ったのか……?」
混乱で頭が割れそうだ。何が起きている? 幻覚か?
だが、遠くでアスファルトが爆ぜる音が響く。一度目と同じ、あの絶望の始まり。
理屈はわからない。だが、このままでは数分後に俺はまたあの肉の塊に逆戻りだ。
俺は雅の手を掴み、がむしゃらに走り出した。
「雅…っ。絶対お前を助けてやるからな…!」
背後からエーテリアスが迫ってくる。しかし、逃げた先で瓦礫が崩れ、俺は雅を庇って押し潰された。
「……っ、がはっ!!」
「おにいさんっ!!」
追いかけてきていたエーテリアスが目前に現れる。
「グルルル」
「クソ野郎が…っ」
エーテリアスが鋭い牙で頭を噛みちぎり、無惨に殺された。
3度目。
「っ、がっ、あ゛あ゛あ゛あ゛ーっ!!!」
頭を噛みちぎられたような痛みが、刺青のように刻まれていく。
「ひっ……お、おにいさん…?大丈夫?」
「ぐっ……ウッ……」
俺はこんな苦痛を味わい続けなければいけないのか?……この子を助けるのにどれくらいかかる?いや、なんの力もない俺にできることはあるのか?
「おにいさん、……泣いてるの……?」
雅が不安そうに俺の顔を覗き込む。
……だめだ、弱気になるな。誰がこの子を救うというんだ。取り返しのつかなくなってしまうだろう。なにより、目の前にいる子が死んでしまうなんて嫌だ。
俺は自分の顔を強く叩き、無理やり恐怖を奥底へ押し込めた。
「雅。……今度こそ、お前を逃がす。いいか、絶対に離れるな!」
俺は彼女の手を引き、一度目も二度目も選ばなかった、人混みの激しい大通りへと飛び出した。
そこは、さらなる地獄の入り口だった。
逃げ惑う群衆。爆発する車両。
その喧騒の中で、俺の耳に、幼い少年の必死な叫び声が飛び込んできた。
「リン! 立て! 頑張るんだ!」
「お兄ちゃん……足が、動かないよ……っ!」
見れば、転倒した幼い少女を、必死に覆い隠すようにして庇っている少年がいた。
その背後――瓦礫の影から、禍々しい爪を振り上げた侵食体の影が伸びている。
(あれは……っ、アキラ……リン……!?)
助けなきゃいけない。わかっている。
だが、今の俺の手には雅がいる。雅を守るだけで精一杯なのに、あっちにまで首を突っ込めば、俺はどうなる?
『――逃げろッ!!』
一度目の死の間際、自分が雅に放った言葉が脳内で反響した。
俺の足は、思考を追い越して踏み出していた。
「雅、ここを動くな! 壁際に伏せてろ!」
雅を路地の隙間に押し込み、俺は落ちていた鉄パイプを拾い上げて兄妹の元へ走る。
バケモノの注意を引くために、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「こっちだ! こっちを向け、クソ野郎!!」
そいつの視線が、獲物から俺へと移る。その瞬間、こちらへその鋭い爪で飛びかかってきた。
「グルゥッ!」
「ぐっ……!この、あっちいけ!」
鉄パイプで攻撃を受け止め、足でそいつを蹴飛ばした。
俺は兄妹を抱え起こし、雅が待つ路地の方へと突き飛ばした。
「行け! 走れ! あそこに女の子がいる、一緒に逃げるんだ!」
「え……っ、あなたは!?」
少年――アキラが、驚愕に目を見開いて俺を見た。
「いいから行けっ!!」
俺が二人に背を向け、バケモノを食い止めようと鉄パイプを振り上げた瞬間。
背中に、形容しがたい激痛が走った。
「ウッ……!?」
声が出ない。
視界が急激に傾き、地面のアスファルトが目の前に迫る。
背中を、深く、深く抉られた。熱い液体が溢れ出し、急速に体温が奪われていく。
(……ああ。まただ。また、死ぬのか……)
3度目の、死。
二人が、雅が、絶望に満ちた瞳でこちらを見ているのが見えた。
助けようとした。救おうとした。
なのに、結局、俺は彼らの目の前で無様に食い千切られることしかできない。
(……痛い。痛い痛い痛い痛い!! 嫌だ、もう、こんなの嫌だ……っ!)
意識が、プツリと断線した。
━━━━4度目の、目覚め。
「……はっ、がはっ、おえっ……!!」
俺は、道端に胃液を吐き散らした。
目の前には、まだ何一つ始まっていない、静かな街角。
そして、「おにいさん!大丈夫?」と、何も知らない雅が声をかけてくる。
「……ふざ、けるな」
震える拳で、地面を殴りつけた。
死の恐怖。痛みの記憶。
それが、俺の中に「死体」のように積み重なっていく。
今、目の前で心配そうに笑っている雅も。
この数分後に俺を心配してくれるはずのアキラやリンも。
俺が味わったあの激痛を、絶望を、一秒だって共有してはくれない。
(助けるさ。……助けてやるよ。何回死ねばいいんだ? 何回殺されれば、お前たちを救い出せるんだよ……!)
俺の心の中で、何かが音を立てて壊れ始める。それは、「普通の人間」としての感情が死に、代わりに「結果」だけを追い求める狂った執念が芽生え始めようとする瞬間だった。
5度目。
6度目。
7度目。
何回、あの爪に貫かれただろうか。
何回、あの冷たいアスファルトの上で、自分の臓器が零れ落ちる熱さを感じただろうか。
最初は叫んでいた。次は泣いた。その次は、神に祈った。
けれど、10回を越える頃には、俺の頭の中にあるのは「恐怖」ではなく、冷徹な「検証」だった。
(次は、あと2秒早く雅を突き飛ばす。アキラとリンを拾い上げたら、右の路地ではなく、左の崩れかけた壁の隙間へ滑り込む。そこなら、あの巨体は追ってこれない)
死ぬたびに、俺の心は摩耗し、透明になっていく。
目の前の景色は、もはや「地獄」ではなく、攻略すべき「盤面」に過ぎなくなっていた。
「……はっ、はぁ……っ!!」
二十数回目――もう正確な数は数えていない。
目覚めた瞬間、俺は隣にいた雅の手を掴み、迷いなく走り出した。
もはやパニックはない。無駄な動きもない。
雅をビルの上層へと逃がし、その足で大通りへ向かう。
予測通り、あの兄妹が転倒している。
俺は彼らを襲おうとしたエーテリアスの眼球を、鉄パイプの先端で迷いなく突き刺した。
「ギャアアアッ!?」
エーテリアスが怯む。その一瞬の隙に、俺はアキラとリンを両脇に抱え上げた。
「え……っ!誰、おにいさん……!?」
「いいから黙ってろ! 舌を噛むぞ!」
俺は二人を抱えたまま、瓦礫の迷路を全力で駆け抜ける。
背後で建物が崩れる音。エーテリアスの咆哮。
あんなに絶望的だったそれらが、今はただの「合図」にしか聞こえない。
雅が待つビルの麓にたどり着き、俺は二人を下ろした。
そこへ、屋上から必死に階段を駆け下りてきた雅が合流する。
「おにいさん! 無事だったのね……!」
雅が、短い手足で俺に飛びつかんばかりの勢いで駆け寄ってくる。その瞳には、恐怖でこぼれそうな涙が溜まっていた。後の「虚狩り」の威厳など微塵もない、ただの震える仔犬のようだった。
「2人に頼みがある。この子も連れてシェルターへ行け。あっちの角を曲がれば、治安当局の防衛線がある」
「え……? でも、おにいさんは……?」
幼い雅は、俺の手を離すのを恐れるように、小さな手で俺のボロボロの袖をぎゅっと握りしめた。
「俺もすぐに行く。とにかく、今はその子たちについていくんだ」
俺は雅の頭を一度だけ撫で、アキラとリンに彼女を託した。彼女らが走って行く様子を見送る。
「…おい。いるんだろ。出てこい」
「グルルルッ」
「ガァーッ!」
すると、瓦礫の陰から、2体のエーテリアスが姿を現す。
「やっと、成功のルートを辿れたんだ。邪魔されて、たまるかっての…!」
あの子たちを守るために、もう一度俺は鉄パイプを構え、戦闘態勢に入った。もうあとは、ただの攻撃パターンを解析する作業だ。
数分後。
俺は、地響きを立てて閉じるシェルターの巨大な鋼鉄の扉の向こう側へと、滑り込みで逃げ延びた。
外を彷徨う侵食体たちの遠吠えが、厚い壁に遮られて遠ざかる。
「……はぁ、……はぁ、……っ」
冷たい床に膝を突くと、一気に疲労が押し寄せてきた。
周囲には、同じように逃げ延びた避難民たちが、虚脱した様子で座り込んでいる。
(…あの子たちも、ちゃんと助かったのか?)
そう思い、周囲を見渡すとアキラ達がこちらへ駆け寄ってきていた。
「待って、君……名前は……! せめて、助けてもらったお礼を……!」
アキラが、俺の服の裾を強く掴んだ。その瞳には、自分たちを救ってくれた見知らぬ者への、必死な感謝と不安が混じっている。
「……レンだ。……それより、早く休め。……死ぬなよ」
絞り出すように名前を告げ、俺は壁に背を預けて座り込んだ。
「レン、さん……。本当に、ありがとうございました。私、あなたがいなかったら……」
隣で、雅が俺の横顔を覗き込んでいた。彼女にとって、俺は危機的状況から自分を連れ出し、死に物狂いで救い出してくれた、唯一の縋り所なのだろう。
アキラとリンも、俺の隣で安心したように肩を寄せ合っている。
幼いリンは、俺の服の端を握ったまま、こらえきれずに小さな泣き声を漏らした。
「……ああ」
俺は短く答えて、目を閉じた。
温かい。シェルターの中の空気は、あんなに惨愄だった外の景色が嘘のように、平穏に満ちている。
だが、俺の耳の奥では、今も自分の骨が砕ける音が止まらない。
俺の皮膚は、今もあの鋭い爪に引き裂かれた感覚を鮮明に覚えている。
(……誰も、わからないんだな)
俺が今日、何回死んだのか。
俺がどんな思いで、自分の死体を踏み越えてここまで来たのか。
彼らの瞳にある「レン」という人間は、一度も失敗せず、颯爽と現れて自分たちを救ってくれた、強く、優しい人なのだろう。
だが、俺の中にいる「レン」は、もう壊れている。
普通ならありえないほどの死の味を知りすぎた心は、彼らの純粋な感謝を、もうまともに受け取ることができなかった。
感謝されればされるほど、俺の中の「死の記憶」が疼く。
彼女たちの命を繋ぐために、自分の精神を削られ、恐怖を押し殺して「効率」をひたすらに求めた。その孤独な苦闘は、決して誰にも理解されない。
これが、俺の始まり。
誰にも言えない秘密を抱え、俺という存在が、平穏な世界から一歩ずつ、深い澱みへと沈み始めた、最初の夜だった。
推敲すればするほど、この展開どうなん?とかどうしても疑心暗鬼になってしまうんですよね。
アイデアや、意見待ってます。