チュン、チュン……。
小鳥のさえずりと、遠くから聞こえる
カーテンの隙間から差し込む朝日が、瞼をオレンジ色に染める。
(……朝か。いい天気だな)
レンは布団の中で、まどろみながらそう思った。ここでの生活は悪くない。記憶喪失の行き倒れだった自分を拾い、こうして寝床と役割を与えてくれている。感謝してもしきれない。
「……さて、起きるか」
レンは大きくあくびをして、伸びをしようとした。脳から「腕を上げて、背中を反らす」という信号を送る。普通なら、ここで筋肉が収縮し、心地よい脱力感と共に体が動くはずだ。
――けれど。
(……ん?)
一拍、遅れた。自分の腕が、自分のものじゃないような、分厚い着ぐる越しに操作しているような違和感。あくびを噛み殺した口の端から、ツー、と何かが垂れる感触がある。手で拭う。赤い。鼻血だ。でも、何も感じない。
(……ああ、そうか。今日も「バグ」ってるのか)
穏やかな朝の空気はそのままに、レンの中の認識だけが、スッと冷たい現実に切り替わる。痛みはない。ダルさもない。ただ、自分の体が「そこにある」という感覚だけが、ひどく希薄だ。
レンは瞬きをする。天井のシミの数を数える。三つ。昨日と同じだ。
(……よし、起動。システム、チェック)
脳内で無意識に呟く。すると、視界の端にノイズが走り、無機質なログが流れるのが見えた。
『……左腕部神経、接続不良。バイパス回路へ迂回中』
『……肝臓機能、低下。エーテル濾過フィルター、交換推奨』
『……本日の稼働予定時間、残り14時間』
ああ、今日も一応「動く」らしい。レンはベッドから身を起こした。ボキリ、と体の中で乾いた音がしたが、痛みは伝わってこない。便利な体だ。これなら、どんなに酷使しても治療費がかからない。
「――おーい! レン兄ちゃん! いつまで寝てるんですかーっ!!」
ドガンッ!! 遠慮のない蹴りで襖が吹き飛び、朝の静寂が粉砕された。
朝日を背負って仁王立ちしているのは、虎耳の少女。雲嶽山期待の星にして、レンの天敵(可愛がられているとも言う)、
「……元気いっぱいだな、福福。障子は蹴るもんじゃないぞ」
「もうお日様はとっくに登ってますよ! お師匠様が『全員揃って
福福はプンスカしながら、ベッドの上のレンの布団を引っぺがした。その拍子に、レンのパジャマの袖がめくれ、包帯だらけの左腕が露わになる。
「あ……」
福福の動きが止まった。彼女の視線が、包帯の隙間から覗く、赤黒く変色した肌に釘付けになる。エーテル侵食の痕跡。普通なら激痛で発狂してもおかしくない傷跡だ。
「……レン兄ちゃん、また包帯、血が滲んでますよ。……痛くないんですか?」
福福の虎耳が、ぺたりと力なく伏せられる。彼女はレンの過去を知らない。レンがなぜこんな体なのか、何があったのか、詳しいことは儀玄たちに教えてもらっていないのだ。ただ、「レン兄ちゃんは体が弱いから、守ってあげなさい」と言われているだけ。
レンは、慌てて袖を下ろし、「笑み」を貼り付けた。
「ん? ああ、これか。昨日の修練でちょっと転んだだけだ。全然痛くないぞ」
「嘘です! 転んでそんな色になるわけないじゃないですか! もう、レン兄ちゃんはすぐ無理するんですから……」
「本当だって。ほら、この通り」
レンは立ち上がり、軽くジャンプしてみせた。着地の瞬間、膝の軟骨あたりに違和感があったが、表情筋には信号を送らせない。ニカっと笑ってピースサインを作る。
「元気、元気。……さ、飯に行こうぜ。潘の野郎が待ちくたびれてる」
「むぅ……。後でちゃんと、潘さんに塗り薬もらってくださいね!」
福福はまだ納得いかない顔をしつつも、肉まんの誘惑には勝てず、レンの手を引いて廊下へと駆け出した。 その小さな手から伝わる体温が、レンには熱すぎるほどに感じられた。
「ほらほら、レン! 遅いぞ! せっかくの『雲嶽流・薬膳爆裂肉まん』が萎んじまう!」
台所から顔を出したのは、パンダの
「悪い、潘。寝坊した」
「まったく、お前さんは本当に手がかかる。……ほら、一番でかいのを食え。肉汁で火傷するなよ?」
潘はレンの皿に一際大きな肉まんを乗せた。その手付きは、手のかかる悪友を世話する兄貴分のそれだ。
「頂きます」
レンが肉まんにかぶりつこうとした、その時だった。
「――待て」
凛とした、しかし氷のように冷たい声が響いた。空気が凍る。福福がビクリと肩を震わせて箸を止め、潘が「おっと」と苦笑いをして下がる。
居間の入り口。そこに、古風な道士服を着崩す一人の女性が立っていた。長い銀髪に、切れ長の金色の瞳。彼女から放たれるプレッシャーは、ホロウのヌシよりも恐ろしい。雲嶽山第十三代宗主、
「おや、お師匠様。おはようございます」
食卓の端で眼鏡を拭いていた青年――二番弟子の
「うむ。釈淵、潘、福福。お前さんたちは先に食っていろ」
儀玄は弟子たちには穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。 そして、その金色の瞳が、ゆっくりとレンの方へ向く。その瞬間、温度が数度下がった。
「……おはよう、儀玄」
レンは肉まんをくわえたまま、なるべく愛想よく挨拶した。だが、儀玄は挨拶を返す代わりに、無言でレンの元へ歩み寄り、その胸元に人差し指を突きつけた。
「……レン。お前、昨夜、何をした?」
「え? 何も……普通に寝てただけ「嘘をつけ」
儀玄の瞳が、金色に鋭く発光する。「気」を見る目だ。彼女の前では、体の状況が丸裸にされる。
「お前の肺の
儀玄の声は静かだった。怒鳴り声ではない。だからこそ、怖い。
「夜中に抜け出して、裏山の野良エーテリアスを狩りに行ったな?」
(……バレてる)
レンは冷や汗をかいた。確かに昨夜、能力のテストも兼ねて、奥の裏山にいる小型エーテリアスを数体ほど処理した。準備運動にもならない程度の戦闘だったはずだが、彼女の目は誤魔化せない。
「い、いや、ちょっと散歩がてら……。それに、かすり傷ひとつないだろ? 俺はピンピンしてるし――「黙れ」
「お前が『痛くない』と言うたびに、私はお前の口を縫い合わせたくなる。……いいか、よく聞け」
儀玄は顔を近づけ、レンの目を覗き込んだ。その瞳の奥には、怒りよりも深い、底なしの「恐怖」と「焦燥」が渦巻いているように見えた。
「お前のその体は、お前だけのものではない。姉様が……私たちが、どれだけの代償を払って繋ぎ止めたと思っている」
その言葉が出ると、レンは黙るしかない。記憶のない自分には分からない「あの日」。彼女たちが命がけで守ってくれた命だという事実だけが、レンを縛る最強の鎖だ。
「……悪かったよ」
「分かればいい。……今日は外出禁止だ。潘、こいつに特製の『苦い薬湯』を飲ませろ。三杯だ」
「えぇ……三杯はキツいって、儀玄……」
「文句があるなら五杯にして効果を高めようか」
「飲みます! 喜んで!」
レンが即答すると、儀玄はようやく満足そうに鼻を鳴らし、自分の席についてもそもそと肉まんを食べ始めた。
横で見ていた葉釈淵が「はは、レンさんには敵いませんね」と小声で苦笑し、潘が「ほらよ兄弟、愛の鞭だ」とドス黒い液体が入った茶器を差し出してくる。
(……愛、ねえ)
レンは苦い薬湯を流し込みながら、ぼんやりと考えた。これは愛ではないだろう。壊れかけの道具を、延命させているだけ。俺がここにいられるのは彼女たちの優しさゆえなのだ。
だからこそ、俺はいつか完全に壊れる前に、彼女たちの役に立っておかなければならない。
(……よし。儀玄が昼寝している隙に、脱走しよう)
レンは懲りずに、新たな計画を立て始めた。
朝食後、皿洗いを潘に押し付け(「後で肩たたき券やるから!」と交渉した)、レンは適当観の奥座敷へと向かった。そこは、寺の中で最も静かで、最も空気が澄んでいる場所だ。
「……おはよう、レン君」
窓際のベッドから、鈴を転がすような優しい声がした。そこに横たわっているのは、一人の女性。首から下が動かず、絶対安静の状態にある
「おはようございます、儀降さん。……調子はどうですか?」
レンは慣れた手付きで枕の位置を直し、彼女の上半身を少しだけ起こしてあげた。
「ええ、今日はとてもいい気分よ。……レン君、窓を開けてくれる?」 「はい」
窓を開けると、衛非地区の雑多な街並みが見えた。儀降は動かない体で、その景色を愛おしそうに眺める。
「……ふふ。今日も街は生きているわね。……あの日、守れて本当によかった」
「あの日?」
「ううん、独り言よ」
儀降は微笑んで、レンの方を向いた。その瞳は、何もかもを見透かしているようで、けれど決してレンを責めたりはしない。
「……レン君。儀玄に、また叱られたんでしょう?」
「え、なんで分かるんですか? まさか地獄耳……」
「あの子の声が大きかっただけよ。……ふふ、あの子ったら。貴方のことが心配で仕方がないのね」
儀降は楽しそうに笑う。レンは、この姉妹にだけは勝てないと思う。妹の儀玄は過保護な看守で、姉の儀降はすべてを包み込む聖母だ。
「そうだ。午後から、街の方へ買い出しに行ってきます。儀降さん、何か欲しいものはありますか?」
「あら、儀玄には内緒で?」
「ええ。……ちょっと、確かめたいことがあって」
レンは言葉を濁した。最近、失われた記憶の欠片がうずくのだ。「学園都市」の方へ行かなければならない気がする。
「そうね……。じゃあ、美味しいお茶菓子をお願いできるかしら? 儀玄と一緒に食べたいの」
「了解です。とびきり甘いやつを買ってきますよ」
レンは立ち上がり、部屋を出ようとした。廊下に出ると、柱の陰に葉釈淵が立っていた。
「……おや、レンさん。トイレ掃除ですか?」
釈淵は眼鏡の位置を直しながら、わざとらしいほどすっとぼけた声を出した。
「ああ、そうなんだよ釈淵。ちょっと裏門の方まで念入りにな」
「そうですか。裏門は今、誰もいませんよ。師匠も瞑想に入られましたし……僕は何も見ていません」
彼はふっと笑い、道を譲った。この男は賢い。レンがじっとしていられない性分だと理解しているし、儀玄の管理があまりに厳しすぎることにも同情的だ。
「恩に着るよ」
「いえいえ。……お土産、期待していますよ」
こうして、レンは「理解ある共犯者」たちに見送られ、適当観を脱走した。
午後2時。レンは衛非地区の路地裏を抜け、新エリー都の中心街へと続くロープウェイ乗り場へ向かった。
服装は、雲嶽山の黄色い道着ではなく、どこかの古着屋で調達したラフなジャケットとジーンズ。背中には、護身用の剣を一本、布に包んで背負っている。
「……ふぅ。シャバの空気はうめえな」
ロープウェイから見下ろす新エリー都の街並み。平和に見える日常の裏で、ホロウ災害の脅威は常に潜んでいる。
(……俺の
窓ガラスに映る自分の顔を見る。黒髪に、黒い瞳。どこにでもいる平凡な青年の顔。だが、その左目は――よく見ると、微かに赤い燐光を宿している。
『
ロープウェイが終点に到着する。そこは、将来のエージェントやエリートたちを育成する「メーティス総合学園」の最寄り駅。レンは雑踏の中に紛れ込み、学園の方角へと歩き出した。
数分後。学園の近くにあるハンバーガーショップの前で、レンは足を止めた。そこには、妙に目を引く奇妙な二人組がいた。
一人は、背の高い制服姿の少女。姿勢が良く、いかにも規律を重んじる委員長タイプといった風情だが、その表情はなぜか悲壮な決意に満ちている。
そしてもう一人は――明らかに、場違いだった。制服こそ着ているが、どう見てもまだ中学生ぐらいにしか見えない、子ども。だが、その傍らには、一際目を引く無骨な「刀」が背負われている。
凸凹な二人は、まるで世界の終わりかのような深刻な顔で、ハンバーガーショップのメニュー表を睨みつけていた。