冷たい。
頬に触れるアスファルトの感触で、俺はゆっくりと目を覚ました。鼻を突くのは、
「……なんだ、ここ」
体を起こそうとして、全身の関節が
ふらつく足で立ち上がり、俺はネオンの光が漏れる方――大通りへと歩み出た。
「……ッ」
路地を抜けた瞬間、息を呑んだ。
空を覆うようにそびえ立つ無骨なビル群。空中に投影された極彩色のホログラム広告。見たこともないメーカーの車が行き交い、巨大なモニターからは無機質なニュースの音声が響いている。
だが、何よりも俺の目を釘付けにしたのは、通りを行き交う「人々」の姿だった。
「そこのあんちゃん、邪魔だぜ!」
俺の肩をぶつかって通り過ぎていったのは、全身が灰色の毛皮に覆われた、狼のような顔を持つ大男だった。その隣を、狐の耳と尻尾を生やした女性がスマートフォンをいじりながら通り過ぎていく。
(
コスプレなんかじゃない。すれ違った瞬間に漂った獣特有の匂い、感情に合わせてピクピクと動く耳、重心のバランスを取るように自然な軌道で揺れる尻尾。それらの圧倒的な「現実感」が、俺の脳を激しく揺さぶった。
ここは俺の知る世界ではない。ゲームの世界だとか、そんな呑気な妄想を抱く余裕すらなく、ただ根源的な「未知への恐怖」が全身を粟立たせた。
俺は誰とも目を合わせないように俯き、逃げるようにして再び薄暗い路地裏へと逃げ帰った。
数時間が経過した。ビル群の隙間から見える空が、どす黒い紫色へと変色し始めている。 ネオンの光が街を毒々しく照らし始める中、強烈な「飢え」と「喉の渇き」が、俺を絶望的な現実へと引き戻した。
ポケットを探るが、入っているのは日本の硬貨と、画面が真っ暗なまま全く反応しないスマートフォンだけ。圏外どころか、電波の規格すら違うのだろう。
大通りへ戻り、誰かに道を尋ねようと何度も考えた。だが、すれ違う人々がどんな「常識」を持っているか分からない。もし不用意に声をかけて、俺がこの世界の身分証を持たない不法入国者だとバレたらどうなる?
警察に通報されれば、牢獄の中に入れられるかもしれない。そんな被害妄想ばかりが膨らみ、俺はどうしても他人に声をかけることができなかった。
転移から丸二日が経過した。終わりの見えない逃避行は、確実に俺の肉体と精神を削り取っていた。冷たい雨が降りしきる中、俺はショーウィンドウ越しに、湯気を立てる肉まんや色鮮やかな食事を見つめることしかできなかった。
自動販売機の明かりに群がる虫のように、ただ温かそうな光のそばに立ち尽くす。胃袋は空っぽで、内側から自分自身を消化しているような錯覚に陥る。足の裏にはマメが潰れ、一歩歩くたびに激痛が走った。
空腹と疲労、そして何より極度のストレスで、足元がおぼつかない。賑やかな通りにいると、すれ違う人々の笑い声や話し声が、すべて俺を拒絶しているように聞こえた。俺だけが、この狂った世界でただ一つの「異物」なのだ。
その圧倒的な疎外感に耐えきれなくなり、俺は無意識のうちに、人目のつかないさらに奥の路地――機械のスクラップやゴミが散乱する、少し寂れたエリアへとフラフラ歩いていった。
「……はぁ、……はぁ……っ」
繁華街のネオンが完全に遠ざかった、薄汚れたコンクリートの壁際。ついに限界を迎えた俺の足はもつれ、冷たい壁に寄りかかるようにしてズルズルと座り込んだ。立ち上がろうと腕に力を込めるが、泥を掴むだけで体が言うことを聞かない。寒さと絶望で、歯の根がガチガチと鳴った。
(ああ……俺、ここで死ぬのか……)
弱いやつから死んでいく、冷たくて残酷な現実。恐怖すらも摩耗し、ただ諦めだけが心を支配していく。薄れゆく意識の中で、俺はゆっくりと目を閉じた。視界が暗闇に沈んでいく。 ――その時だった。
ザッ、ザッ。 水たまりを踏む、誰かの足音が近づいてくる。
「おい、大丈夫か?」
意識が
「……ひどい熱だ。生きてるのが不思議なくらいだな。……ほら、立てるか」
ゴツゴツとした、油の匂いがする大きな手が、冷え切っていた俺の腕を掴み、力強く引き上げようとする。この狂った世界で初めて触れた、嘘偽りのない「人の温もり」。
(……助かった、のか……?)
その事実を脳が理解した瞬間、俺の心に張り詰めていた警戒と恐怖の糸が、切れた。俺は、完全に意識を手放した。
ふと、意識が水面へ浮上した。ゆっくりと重い
(……俺、死ななかったのか)
絶望的なまでに冷え切っていた体は、今は分厚く温かい毛布に包まれている。額には、きちんと冷やされた濡れタオルが乗せられていた。自分の体が、確かにここにある。その事実に小さく息を吐き出し、俺はそっと視線を横へ動かした。
「……」
ベッドの傍らに置かれた丸椅子。そこで、一人の少女が毛布の端を握りしめたまま、すうすうと小さな寝息を立てていた。
アホ毛がぴょこんと跳ねた、明るいブロンドのショートボブ。頭には大きなストライプ柄のリボンが結ばれており、胸元には金色の「太陽のエンブレム」が輝いている。白いフリルがあしらわれたエプロンには、泥水で汚れたはずの俺の服を拭いたのか、所々に黒い汚れがついていた。
(この子が、ずっと看病してくれていたのか……?)
この狂った世界で、見ず知らずの、どこの馬の骨とも知れない浮浪者を。自分だけが異物だという圧倒的な疎外感に殺されかけていた俺の胸の奥で、カチカチに凍りついていた何かが、じんわりと溶け出していくのを感じた。
俺が体を起こそうとして、ベッドが小さく軋む音を立てた。その僅かな物音に反応し、少女の肩がビクリと跳ねる。
「……ん、……んんっ?」
彼女は目をこすりながら顔を上げ、俺とバッチリ目が合った。光を取り込んだ蒼い瞳。彼女は一瞬ぽかんとした後、ホッと困り眉を下げて、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「よかった、気がついた! ずっとうなされてたから、心配したんだよ」
「...あ……ア...」
喉がカラカラに乾いていて、声がうまく出ない。少女はすぐに立ち上がり、「待っててね!」と赤いストラップシューズを鳴らして部屋の奥へ駆け出すと、湯気の立つマグカップと、温かいスープが入った木製のボウルを持って戻ってきた。
「はい、お水。ゆっくり飲んでね。スープも作ったの。……あ、熱いからフーフーしてね?」
促されるままに体を起こし、俺は震える手でマグカップを受け取った。水が、干からびた内臓に染み渡っていく。スープを一口すすると、野菜の甘みと塩気が、空っぽだった胃袋を優しく満たしてくれた。
「……ありがとう。助かった」
「えへへ、どういたしまして! ほとんどお師匠様が用意してくれたんだけどね」
人心地ついたところで、俺はマグカップを両手で包み込むように持ち、恐る恐る口を開いた。
「あのさ……ここは、どこだ?」
「ん? ここは『ガレージ・パンドラ』だよ! 壊れた機械を直したり、いらないものを売ったりしてるお店。この辺りは『ミネルヴァ区』の外れで、あんまり治安は良くないんだけどね。あ、でもこの近くには『ヘーリオス研究所』っていうすごい建物もあって――」
ガシャン、と。俺の頭の中で、決定的なパズルのピースがはまった。
ミネルヴァ区。ヘーリオス研究所。すれ違った
血の気が引いていくのが自分でも分かった。マグカップを持つ手が、カチカチと小刻みに震え始める。
「……っ」
俺の明らかな異変に気づき、少女は不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの? どこか痛い?」
「……いや、なんでも、ない」
俺は視線を落とし、毛布を強く握りしめた。身分証もない。知り合いもいない。元の世界に戻る方法なんて分からない。これからどうやって生きていけばいいのか、その道筋が全く見えない。
そんな暗い泥沼に沈みかけようとした俺の視界に、ふわりと、あの太陽のエンブレムが入り込んだ。少女はベッドの縁から身を乗り出し、俺を安心させるように、優しく微笑みかけてくれた。
「大丈夫だよ。……私はソラ! お師匠様の弟子で、ここで一緒にお店を手伝ってるの」
彼女は自分の胸をポンと叩き、俺の顔を下から覗き込むようにして尋ねた。
「あなたの名前は、なんていうの?」
「……え」
名前。口ごもり、視線をソラから不自然に逸らした。毛布を握る手に、じわりと嫌な汗が滲む。ここは異世界だ。俺の本当の名前――日本の名前なんて名乗っていいのだろうか。不審に思われないだろうか。もし適当な偽名を名乗って、後でボロが出たら?
数秒の沈黙。ソラは急かすことなく、ただ俺の瞳をじっと見つめて待ってくれている。その瞳に宿る、疑うことを知らない純粋な優しさ。……この子には、嘘をつきたくない。
「……レン。……ハイバネ、レン、だ」
俺は、消え入りそうな震える声で、ポツリと自分の名前を教えた。それを聞いた彼女は、パッと顔を輝かせた。
「レン! じゃあ、レンくんって呼ぶね!」
「……俺、そんな、親しげに呼ばれるような立派な人間じゃ……」
「だーめ! 同じ屋根の下で暮らすんだから、遠慮はなし! これからよろしくね、レンくん!」
ソラが、俺の手に自分の小さな手を重ねてくる。レンお兄ちゃん。その屈託のない響きが、俺の心にスッと入り込んできた。元の世界では何の意味も持たなかったただの俺が、この狂った世界で、初めて「名前」を呼ばれ、輪郭を与えられた瞬間だった。
(……そっか。俺、ここにいてもいいんだな)
張り詰めていた警戒心が解け、俺の口元に、転移してきてから初めての、微かな笑みが漏れた。
ガチャリ。
ソラとの和やかな空気が流れた直後、部屋のドアが開いた。そこに立っていたのは、首から古びたゴーグルを下げ、油にまみれた作業着を着た初老の男だった。顔には深いシワが刻まれ、その奥にある眼光は、猛禽類のように鋭い。
「ほう。ようやく気がついたか、厄介な拾い物め」
「あ、お師匠様!」
ソラがパッと振り返る。老人が一歩部屋へ足を踏み入れると、先ほどまでの温かい空気がピリッと引き締まり、俺は思わず居住まいを正した。
この人が、倒れていた俺を運んでくれた『お師匠様』。ただのジャンク屋には見えない。その佇まいには、隠しきれない圧倒的な強者の気配があった。
老人は俺のベッドの横まで来ると、腕を組み、厳格な表情で俺を見下ろした。
「身分証も金も持たず、死にかけの状態で路地裏に転がっていた。……どこかの厄介事に巻き込まれたクチか? 訳ありなら、さっさと出ていってもらうぞ」
「い、いえ……俺は……」
「待って!お師匠様、この人は悪い人じゃないの!」
俺が言い訳を探して口ごもっていると、老人は突然、その厳格な表情を崩し、ニヤリと口角を上げた。
「……なーんてな。冗談だ。こんなヒョロヒョロの小僧が、裏社会の陰謀に関わってるわけがねえ」
「へ?」
「それに、せっかく拾ってやったんだ。タダで追い出すほど、俺も底抜けのお人好しじゃねえ。……飯代とベッド代、きっちり労働で返してもらうぞ、小僧」
老人はそう言って、俺の頭をポンポンと乱暴に撫でた。その手はゴツゴツと硬かったが、確かな温かみがあった。
助けてもらったお礼。そして、この世界で「どう生きていくか」を突きつけられた瞬間。だが、俺の心にはもう、路地裏で感じたような絶望はなかった。
「……はい。何でもやります」
俺が真っ直ぐに答えを返すと、老人は満足そうに頷き、ソラは「やったー!」と無邪気に飛び跳ねた。
ガレージ・パンドラ。 ――それが、俺の新しい日常の始まりだった。
◆ ◆ ◆
『飯代とベッド代はきっちり労働で返してもらうぞ』
あの日、老人が言った言葉は決して冗談ではなかった。
「……ふぅ。こんなもんか」
俺は額の汗を拭い、油まみれのウエスを放り投げた。『ガレージ・パンドラ』の店先には、どこから拾ってきたのかも分からない機械のスクラップが山のように積まれている。俺に与えられた仕事は、それらの部品を磨き上げ、錆を落とし、分類することだった。
全身は機械油と
だが、今の俺にそんな不満は微塵もなかった。この異世界で、雨風を凌げる屋根があり、温かい毛布がある。そして何より――。
「レンくーん! 休憩にして! おやつ焼けたよー!」
店の奥から、パタパタと軽やかな足音が近づいてくる。振り向くと、大きな白いエプロンを着けたソラが、両手に木製のトレイを抱えて小走りでやってくるところだった。アホ毛がぴょこんと跳ねた明るいブロンドヘアに、胸元で揺れる金色の太陽のエンブレム。その瞳は、いつだって俺を見つけると花が咲いたように細められる。
「お疲れ様! はい、これ。できたてのアップルパイだよ」
「お、サンキュ。……って、ソラ」
「ん?」
「顔。粉、ついてるぞ」
俺が指差すと、彼女はキョトンとした後、自分の頬に真っ白な小麦粉がべったりと付いていることに気づいたらしい。途端に、彼女の顔が林檎のように真っ赤に染まった。
「わ、わわっ! 嘘、恥ずかしい……っ! 見ないでレンくん!」
ソラは慌ててエプロンの裾で頬をゴシゴシと擦り、困り眉をさらに八の字に下げて照れ隠しのように笑った。
「……もー、言ってよ! ずっとこの顔でパイ焼いてたじゃん!」
「いや、今見たばっかだし。……でも、美味そうな匂いだ」
「ふふん、匂いだけじゃないよ? ほら、あーん!」
彼女はスプーンで掬い上げた熱々のパイの中身を、ふーふーと息を吹きかけて冷まし、俺の口元へと差し出してきた。距離が近い。無邪気すぎるその距離感に、俺の方が少しドギマギしてしまう。
「……あ、熱くないか?」
「大丈夫! 私がちゃんと冷ましたもん。ほら、食べて?」
押し切られる形で口を開けると、バターの濃厚なコクと、シナモンの香りが口いっぱいに広がった。路地裏で泥水を舐めていた俺の胃袋に、それは暴力的なまでに甘く、温かく染み渡っていく。
「……美味い。店出せるぞ、これ」
「やったー! レンくんに褒められた!」
ソラは「えへへ」と赤いストラップシューズを鳴らして、太陽のような満面の笑みを浮かべた。この笑顔だ。彼女が笑いかけてくれるたび、俺の心に巣食っていた異世界での孤独や、自分だけが異物だという疎外感が、嘘のように溶けていくのを感じた。
夜。ガレージの奥にある居住スペースには、騒がしくも温かい疑似家族の食卓があった。
「ほれ、小僧! もっと食え食え! そんなヒョロヒョロじゃあ、ウチのガラクタもまともに運べねえぞ!」
「ちょ、お師匠様! レンくんの茶碗、もう山盛りだよ! こぼれちゃう!」
首からゴーグルを下げた『お師匠様』――賢者が、大皿に乗った肉炒めを俺の茶碗へドサドサと放り込んでいく。厳格そうな顔立ちに似合わず、彼はとても若々しく、豪快で、少しお調子者だった。
「いいんだよ! 若いオスは米を山ほど食って、死ぬほど寝りゃあ大抵の傷は治るようにできてるんだ。そうだろ、レン?」
「……アンタの理屈だと、俺は人間じゃなくて熊か何かか?」
「はっはっは! 熊の
「お師匠様ったらもう……。レンくん、無理して食べなくていいからね。お茶、淹れるね」
呆れたように笑いながら立ち回るソラと、ガハハと豪快に笑う賢者。ただの居候であるはずの俺を、二人はまるで昔からそうであったかのように、家族として受け入れてくれていた。
食後の片付けを終え、布団の中で一人になった時。俺は暗い天井を見つめながら、静かに、そして冷徹に思考を巡らせていた。
(……平和だな)
だが、俺には「知識」がある。この世界が『ゼンレスゾーンゼロ』であるなら、ここは旧都。いずれ『旧都陥落』という未曾有の大災害が発生し、この街は――このガレージ・パンドラもろとも、ホロウの闇に飲み込まれる運命にある。いつ起こるかは分からない。明日かもしれないし、数年後かもしれない。俺は何の力も持たない、ただの一般人だ。災害が起きれば、真っ先に瓦礫の下敷きになって死ぬだろう。
(逃げるか? ……いや)
俺は、目を閉じて、ソラのあの笑顔を思い出した。「レンくん」と呼んでくれた声。泥だらけの俺を抱き起こしてくれた、小さな手の温もり。行き倒れていた俺を拾い、飯を食わせてくれた賢者の不器用な優しさ。
俺は、元の世界に未練なんてなかった。何も持っていなかった俺に、初めて「ここが居場所だ」と思わせてくれたのが、この二人だった。
(... 力だ。俺には誰かを守れる強さと技術がない...)
恐怖よりも、諦観に似た強烈な決意が、俺の心臓を縛り付けていく。この太陽だけは、絶対に失わせない。理不尽な災害が来るというのなら、俺がこの命をすり減らしてでも、彼女が明日も笑ってパイを焼ける世界を死守する。そのためには――俺には、「力」が必要だった。
翌朝。俺は、ガレージのシャッターを開けようとしていた賢者の背中に向かって、深く頭を下げた。
「師匠。頼みがあります」
「あん?どうした改まって」
「……師匠。俺に、戦い方を教えてください」
俺の言葉に、賢者は手を止め、ゆっくりと振り返った。その金色の猛禽類のような瞳が、俺の頭の先から足の爪先までを、値踏みするように舐め回す。普段の食卓で見せるお調子者の顔ではない。圧倒的な死線をくぐり抜けてきた、歴戦の強者としての圧圧が、ガレージの空気を重くした。
「……戦い方、だと? 何の力も持たねえ、ただのヒョロガキが、何と戦う気だ」
「何が来ても。……ソラと、アンタを守れるくらいには」
「はっ」
賢者は短く鼻で笑い、そして、酷く獰猛な――けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……いい目をするようになったじゃねえか。拾った時は、今にも死にそうな捨て犬の目だったのにな」
「……」
「いいだろう。だが、俺の『術法』を教えるには、今のテメェは器が貧弱すぎる。まずはそのナマクラな体を叩き直すのが先だ」
賢者は俺の胸をドンッと突いた。
「死ぬほどしごいてやる。泣き言をほざいたら、その瞬間に破門だ。覚悟しな」
「……望むところです」
その日から、俺の地獄の修練が始まった。術法や魔法のようなものを教わるわけではない。まだ扱える力量が備わっていないのだ。
ひたすらに泥臭い、基礎体力作りだった。足腰にジャンク品の重りを括り付けられての走り込み。巨大な鉄骨の運搬。息も絶え絶えになっているところに容赦なく飛んでくる、賢者の木刀による打ち込みの回避。
「遅え! そんな足捌きじゃ、エーテリアスの爪に真っ二つにされるぞ!」
「ぐっ……! まだだ、もう一回……ッ!」
来る日も来る日も、俺は泥と汗と血にまみれた。肺が破けそうになり、手足の筋肉が千切れそうになっても、俺は決して立ち止まらなかった。賢者の指導は理不尽なほどに厳しいが、その裏には、確実に俺を「生き残らせる」ための確かな経験と、不器用な親切さが隠れていることを、俺は殴られるたびに感じ取っていた。
日が落ち、空が薄暗い紫色に染まる頃。全身ボロボロになり、足を引きずるようにしてガレージへと帰還した俺を待っていたのは、いつもの温かい光だった。
「レンくん!!」
店の前で待っていたソラが、俺の姿を見るなり慌てて駆け寄ってくる。
「もう、またこんなにボロボロになって……! お師匠様、やりすぎだよ!」
「平気だよ、ソラ。……ただの擦り傷だ」
俺が強がって笑うと、ソラは「全然平気じゃない!」とプンスカ怒りながら、首にかけていた清潔なタオルで、俺の顔の泥を優しく拭ってくれた。
「ほら、座って。すぐに消毒するから」
ガレージの隅の木箱に座らされ、ソラが救急箱を開ける。彼女の冷たくて小さな指先が、俺の傷口にそっと消毒液を塗り、絆創膏を貼っていく。その手つきは、壊れ物を扱うように慎重で、ひどく優しい。
「……ごめんな、いつも手当てさせて」
「ううん。私がやりたくてやってるんだもん。……でも、レンくんが毎日傷だらけになって帰ってくるの、やっぱり心配だよ」
ソラは俯き加減になり、イエローグリーンの瞳を揺らした。
「……どうして、そんなに急いで強くなろうとするの?」
その問いに、俺は少しだけ口ごもった。「近いうちにこの街が滅びるから」なんて言えるはずがない。言ったところで、彼女を怯えさせるだけだ。だから俺は、彼女の頭のアホ毛を軽く撫でて、一番の「本音」だけを伝えた。
「……ソラが、明日も笑ってパイを焼けるようにだよ。俺は、この場所を守りたいんだ」
俺の言葉に、ソラは一瞬ポカンと目を見開き――それから、顔を真っ赤にして、照れ隠しのように俺の腕をペチッと叩いた。
「も、もう! レンくんってば、たまにそういうキザなこと言うんだから……っ! 守られるだけじゃなくて、私もレンくんのこと、ちゃんと助けるんだからね!」
「ああ。頼りにしてるよ」
怒ったように笑うソラの顔を見つめながら、俺は心の中で深く、深く誓いを刻み込んだ。
(絶対に、強くなる。……俺の命がどうなっても、この人たちだけは、絶対に)
古びたガレージの片隅。ランタンの温かいオレンジ色の光の下で、俺とソラの影が、静かに寄り添い合っていた。