「始めるぞ。私の異能で
『姉』の爪が小さな手を裂く。
蒼白い肌に赤い線が走る。
溢れた一滴の『血』が、押さえつけられた
「我が心臓は動かない。銀の杭で縫い止められ、『血』を巡らせ異能を活性化させる事はできない。──余裕だ。この程度、『耽溺公』アインソフ=オールナイトが本気を出すまでもないさ」
『姉』の片目が赤い輝きを放つ。
そして──
──
不発か、と首を傾げ。
しかし直前で思い直す。
『
逆に言えば、目に見えて分かるような変化などないに決まっているのだ。側から見ても分からないからと言って、何も起こっていない訳ではないのだろう。
「…………ちが、う」
──
「弟くん。違った。違ったんだ、これは『
「……は? じゃあ、これは何だって言うんだ。死体が動いているのは何なんだ⁉︎」
「動いているんじゃない! 動かされていたんだ! つまり、この異能は────」
『 、 』
ごぽっ、と。
不思議な水音が響く。
何か言葉を言い掛けて、『姉』は中断する。
それだけじゃない。
『姉』と共有された視界も途絶する。
視界はぼやけて分からない。
視界の共有を打ち切られた……とは違う。
あの時とは違った感覚。
これは、そう、『
『 。 、 』
ドサ、と。
何かが地面に倒れた。
いや、馬鹿か。何かなんて決まっている。
『姉』だ。『姉』が倒れた。遠近感が掴めないまま、手探りで『姉』を抱き寄せる。
(何がッ、何が起こっている⁉︎)
不自然な失神。
敵の攻撃は既に始まっている。
見えない、という事がこんなにも不安を誘う。
(集中しろ。音だ。音だけに集中するんだ。敵の正体を探れ!)
──────、
──────、
──────────ざざ。
聴覚が捉える。
かすかに、
その発生源は────
「……
体内。
そこに、何かが埋め込まれている。
『ざざ、ざざざざ、ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ』
……いや、
僕だ。僕の頭が、この音をただの
ああ。きっと、それは呼びかけだった。
僕を──
だから、無視したかった。だから、無視できなかった。
意識してしまえば呆気ない。
どうしようもない
『──そろそろ聞こえますか、日渡昇悟くん』
ピタリ、と
代わりに響くのは女の声。
こんな地下でも電波って通じるんだ……と場違いな感想を抱く。
『もう一度言いましょう。自分達
女は告げる。
今更、分かりきった真実を。
『
日渡昇悟は一人っ子だ。
『姉』は僕の姉じゃない。
(────終わった)
アインソフの胸に浮かぶのは絶望。
血反吐を吐いて地面に倒れながら、ぼんやりとした瞳で少年を見上げる。
『
「…………」
『異能の正体は「
「………………、」
『ですが、お陰で弱点が一目瞭然でした。「
伝承で語られる吸血鬼の弱点の一つに、十字架というものがある。
あれは、実際に十字架そのものが弱点という訳ではない。憑依された対象の信仰心を呼び起こす事で、精神体を傷付けられるという事だったのだ。
事実、アインソフは傷付いた。
完全に憑依している訳でもない日渡昇悟の記憶が蘇った事で、肉体が内側から灼かれるかのようなフィードバックを受けた。
『自分達からすればアインソフ=オールナイトはどうでも良かった。
道中を思い返す。
傷付ける事すら躊躇った。彼らは徹頭徹尾、秩序の番人であり、秩序に反していたのはアインソフ=オールナイトの方だった。
『頭に残っているかは分かりませんが、先ほど自分が声に出したのは日渡くんのご両親の名前です。自分の声が日渡くんに届き、記憶を取り戻す事ができたのは、日渡くんの中にご両親を想う心があったからです』
「……父さんと、母さんが、」
『待っています。日渡くんの帰りを。
少年の心が離れていくのを感じる。
当たり前だ。清廉潔白で絶対正義の『姉』なんて何処にもいない。
ここにいるのは、『姉』を名乗る知らない誰かなのだから。
「ま、て……待ってくれ、弟くん。たすけて、くれ……」
血反吐と共に、喉から声を絞り出す。
プライドも何もかも
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
だけど、死ぬような目に遭う事はある。弱体化した今の状態では、抵抗する力もない。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。不便なのは嫌だ。気持ち悪いのは嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
「な、なあ。何でもしてやろう! 君の大好きな姉でも何でも、好きなように振る舞ってやる! 好きな姿形に変身するし、好きな女がいるならそいつを洗脳してやってもいい!」
「…………、」
「楽しい! きっと楽しいぞ! 欲に溺れた毎日を過ごそう! 人類が生み出した快楽と悦楽と娯楽を貪り続けようっ! だからッ、だからァ! オレをっ、見捨てるなァァアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎」
必死の懇願。
みっともない吸血鬼の落ちぶれた姿。
少年は『姉』の──そう名乗った誰かの様子を見て、静かに首を振った。
「
「──────────」
終わった、と。
アインソフはもう一度、心の中でそう呟いた。
『……言葉を交わす必要はありません。アインソフ=オールナイトは自らの我欲のために「
「そう、だね。あなたの言う事はもっともだ」
何の反論もできない。
アインソフは姉じゃない。人間じゃない。少女じゃない。女ですらない。
外見をどれほど整えた所で、その中身は醜い怪物に過ぎない。大した理由もなく、目先の欲に負けて一千万人を吸血鬼に変えた最低最悪の怪物。
「
なのに、あり得ない言葉があった。
文脈を無視した、存在するはずのない
「
思わず、見上げる。
日渡昇悟は、アインソフを抱き抱えて宣言する。
「
「──────え?」
言葉が漏れた。
意味が分からなかった。
なのに、アインソフの目に涙が滲む。
「何かを提供する必要なんてない。姉さんが姉さんである限り、僕は姉さんを助ける」
『……忘れたんですか? その吸血鬼こそ、日渡くんの日常を奪った犯人。
「
『──はい?』「は???」
無線機の向こうの女とアインソフの声が重なる。
清廉潔白……アインソフ=オールナイトが? ……頭オカシイのではないか???
『こ、後遺症ですか? いや、しかし……』
「あなたこそ忘れているんじゃないのか。姉さんの事をボロクソ言っているみたいだけど……少なくとも今日一日、姉さんから手を出した事はない。他人を害したのは正当防衛で、しかも、誰一人だって殺してはいない」
『日渡くんが止めなければ殺していたでしょう! それと今日だけが無害であっても、吸血鬼が犯した罪は変わりません。彼が引き起こした「
「それだ」
それも言いたかった、と。
少年は無線機に向かって指を突きつける。
「『
『悪いに決まっているでしょう⁉︎ 何の罪もない一千万人の東京都民がっ、二度と太陽の下に出られないようになった! 姿形を自在に変えられる特性のせいで治安が悪くなった! どれもこれもアインソフ=オールナイトのせいでしょう‼︎』
「
『………………は、』
「
『…………、…………………………………………』
沈黙。
押し黙った無線機に、日渡昇悟は言い放つ。
「
一千万人が吸血鬼に変貌した事で、
「当然だ。吸血鬼は頑丈で、日の光に当たる以外で死ぬ事はそうない。病気にはならない。交通事故でも死なない。老衰する事もない。
治安が悪くなったのは確かだろう。
きっと軽犯罪の数は跳ね上がった。
日の下での生活を奪ったのは確かだろう。
きっと今でも地上の生活を夢見る人は多い。
でも、それでも。
吸血鬼になったお陰で死ななかった人は大量にいる。
人口の1%が毎年死亡していた東京で、その死者数がほとんどゼロになった。
つまり、一千万人×1%×年数分だ。『
「そして、僕も」
目が合う。
日渡昇悟の視覚は失われている。
だけど、確かに少年の目がアインソフに笑いかけた。
「
東京都在住、人間。
彼の人生はずっと『白』と共にあった。
白い壁、白い天井、白い寝具。
そして、白衣を着たお医者さん。
真っ白に染められた病院で十五年の時を過ごした。
生まれつき、重度の心臓病だったらしい。
心拍数が少し上がっただけで死ぬくらいの。
運動をして息があがるなんて論外。
それどころか、ゲームやアニメで興奮して倒れ、娯楽を取り上げられた事もあった。
好きな女の子ができてドキドキするとか、映画のシーンでハラハラするとか、そういった感情でさえ日渡昇悟は死ぬ。
病院の外に出る事はもちろん、病院の中で何かをする事もできない。
味のしない病院食を噛み、変わり映えのしない景色を眺め、つまらないお医者さんの話を聞き、心臓が跳ねる事のない一日を過ごす。
日渡昇悟には心臓を動かす自由もなかった。
無味無臭の何の刺激にもならない日々を生きていた。
でも、生きているだけだった。
「命を救われた訳じゃない。生きるだけなら、病院でもできた。……でも、姉さんと出会う前の日渡昇悟は空っぽだったんだ」
何の楽しみも、何の意味もない人生。
ただ生きて、ただ死ぬだけなら無機物と何が違う? 日が昇って落ちるだけの現象と同じじゃないか。
「でも、姉さんが僕に意味をくれた。『姉』を守る弟というカタチをくれた。……中身のない、空っぽな原動力でも、僕はようやくこの世界を歩く理由を得たんだ」
記憶を思い出した事でようやく気付けた。
やっぱり『姉』は清廉潔白で、絶対正義なのだと。
『……偶然、ですよ。アインソフ=オールナイトは、自分の洗脳に抗わない人間──空虚な精神を求めていた。それと偶然、日渡くんが合致していただけ。他人を救おうという意思は一切ありません』
「だろうね」
『「
「────
偽善。ハリボテ。空虚。
そうだろう。彼女が他者を救ったのは偶然で、僕だって僕が勝手に救われただけ。
清廉潔白で絶対正義の『姉』じゃない。彼女は
「中身なんて分からない。だから、僕はカタチを見る。動機も感情も関係ない。心が善人だろうと、殺人を犯したのならそれは罪だ。……勿論、状況にもよるけどね。同じように──
全ての行為を許す訳ではない。
間違っている事は間違っている。
アインソフ=オールナイトが何者だろうが、罪を犯したのならばそれは『姉』ではない。
でも、少なくとも。
今、目の前の彼女は罪を犯してなんかいない。
それがたとえ自分の我欲や保身のためであっても、中身がどれだけ醜いのだとしても、彼女の行動は結果として僕を救ってくれた。清廉潔白で絶対正義な
ならば、『姉』だ。
姉じゃなくても、女ですらなくても、『姉』として振る舞う彼女を『姉』として受け止める。
いつか罪を犯した彼女をこの手で殺す事になったとしても、今目の前にいる『姉』を救わない理由にはならない。
「きみ、は……」
「言え、あなたが自分の口で言うんだ、アインソフ=オールナイト。あなたはどんなカタチで在りたい? 人類の敵か、最低最悪の吸血鬼か、それとも──」
「────オレ、は……私は、
「了解した。姉さんは僕の『姉』だ。少なくとも、あなたがその
ざざ、ざざざざざざざざ、と。
視界に砂嵐が走る。
視覚の共有。『姉』の力が戻り始める。
『……本気ですか? 洗脳された訳でも、気が狂っている訳でもない。本気で、日渡くん自身の意見で、その怪物に味方すると?』
「当たり前だ。弟っていうのは『姉』を守る生き物なんだから」
言うべき言葉は全て交わした。
日渡昇悟を案じるその声を、正面から裏切る。
あの夜、一人の吸血鬼に与えられた
「
カタチと中身のギャップ、美少女のカタチをした男を美少女として扱って良いものか。
本作はTSの是非を正面から論じた真面目作品です(なお、お漏らし)