発熱しながら書いたので、おかしな所があれば言ってください。
カツン、と。
闇に響く足音。
月光に照らされた影が、二十メートル近い大穴から飛び降りる。
老人──『磔刑』のクロイツと名乗った吸血鬼殺しは、何の危なげもなく着地した。
それだけで老人の身体能力が如何に人間離れしているのかが伺える。
(どうする、どうする、どうする⁉︎)
地上へ辿り着いても『姉』は救えない。
目の前の老人を倒しても意味はない。だからと言って、逃げ場所もない。世界全てが敵に回っているのだから。
(……裏都じゃ袋小路だ。地上に逃げるという選択に変わりはない。だけど……
逡巡は一瞬だけ。
迷いを振り切って決意する。
吸血鬼は夜にしか活動できない。
鬼ごっこをできる時間は限られている。
だから──追手を潰すなら夜の内に済ませるしかない。
(
『姉』を助ける方法は分からない。
でも、夜の間にクロイツを倒して逃げる。
少なくともそれは、『姉』を一時的にでも逃すための最低条件だった。
本当に倒せるのか、そんな疑念が浮かぶ。
相手はたった十人で古今東西の怪物を絶滅させた『
……いや、考えない。
倒せるか、倒せないか……じゃない。
倒すしかない。コイツを倒した先にしか『姉』の未来は切り開けない!
「……姉さん、安静にしていろよ」
『
目の前に立つ老人は、そんな『姉』の無様な姿を鼻で笑った。
「ハッ。姉……シスターか、笑えるな。
「(……こう見えて私は
ぼそりと呟いた『姉』の声も聞こえないほどに集中する。
全神経、肉の破片一つ一つにも意識を注ぐ。
『
顔の十字傷を見る限り、老人は盲目だ。不可視の透明人間だろうと普通と変わらない。
電磁波を使った爆破は効くだろうが、アレは近距離しか使えない上に、速度で言ったら普通に殴った方が早い。鎧を纏ってもいない老人に使う技ではない。
故に、重要となるのは変身能力。
吸血鬼の基礎性能。
『皮』と『肉』と『骨』、三種の変身でクロイツを上回る!
「弟を執行する」
先手必勝……と言うよりも後手に回る余裕がない。
ただの人間が──それも、誰よりも怪物に詳しい老人が吸血鬼の目の前に立つという事は、どれだけの
間違いなく何かがある。吸血鬼を殺害できる手段。
先手を譲れば瞬殺される。
そんな嫌な予感に突き動かされ、僕は最初から全力全開を放出する。
『皮』の変身。
空気抵抗を受けない小さくて薄い
『肉』の変身。
軽くて瞬発力に優れた
『骨』の変身。
万物を切り裂くほど薄く尖った
速度に特化したカタチ。
たった一歩の前進に全てを注ぎ込む。
二歩目は必要ない。一歩で対象を鏖殺してみせる。
目にも止まらぬ速さ。
人間に対応できる
人間と怪物の絶望的なまでの
役目を果たした太腿は弾け飛んだ。
一歩に全てを賭けた代償。
問題ない。吸血鬼ならばそれもすぐに修復できる。
右手から突き出した、鋭く尖った『骨』の剣を振り抜く。突きと薙ぎが混ざったような、見る者が見れば不出来とも笑う一閃。
ただし、音速に乗った一撃はそれだけで脅威だ。何の技も使わない自動車がヒトを轢き殺すように、極まった速度は技術を無視してヒトをなぶり殺しにする。
老人を斬殺する。
「──────は?」
指が止まる。
息が止まる。
筋肉が止まる。
瞬きが止まる。
多分、心臓も止まっている。
『
だが、違う。あり得ない。老人は人間で、だから、異能のはずがない。異能のはずがないのに、異能でしかあり得ない超常現象。
混乱で思考さえも停止する。頭の中がぐちゃぐちゃだ。訳も分からず、僕の口は勝手に結論を導き出した。
「
「
不快そうに老人は返す。
怪物と間違えられた事がそれほどまでに嫌だったのか。
停止する僕に向けてクロイツは十字剣を振るった。
しかし、その動きはあまりにも遅い。
老人としては速いのだろうが、吸血鬼の動体視力からしてみれば──『姉』の視界越しであっても──止まって見える。
どぐんと心臓が脈打った。硬直を振り払うように、生存本能が騒ぎ立つ。咄嗟に、僕は十字剣を避けるように大きく飛び退いた。
「ぐ、があっ⁉︎」
そぶり、と刃が僕の肉に沈む感覚。
避けたはずの攻撃を食らったように。
ゆっくりと、神経を炙られたような寒気が走る。
「がッ──ァァアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ⁉︎⁉︎⁉︎」
喉の奥から絶叫する。
イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。イタイ。
傷もないのに、痛みだけが発生する。
まるで痛覚の信号を脳に直接叩き込まれたかのような不可解な現象。
じわ……と胸部に血が滲む。
切り傷。触れられてもいないのに、痛みに後追いする形で外傷が生まれる。
「なん、だ……何をした⁉︎」
「我輩は何もしていない。傷を生み出したのは貴様だ。足を止めたのも、攻撃の手を止めたのも……全て貴様自身だ、
「は────」
「吸血鬼は思い通りのカタチに変身する。変幻自在のカタチは物理ではなく心理に由来している。ならば、我輩が物理的なキズを生み出す必要はない。ただ、貴様の心を刻めば良い。
実際に痛みがある訳ではない。
実際にキズがある訳ではない。
痛いと思い込まされているから、痛い。
傷があると思い込んだから、傷が生まれる。
体が止まったのも単純な話。
体が止まったと思い込んだから、止まった。
本当には動くのに、自分自身の脳が止めていた。
なんてデタラメ。
なんて無法。
人の身で怪物の異能に近しい力を振るう者。
『姉』が『
これが『
生きる伝説、人域の極限……っ‼︎
「終いか。……哀れな。怪物になったばかりか、怪物に情を移すなど」
老人の声が耳に響く。
それだけで、身動きが取れなくなった。
足や手が釘で打ち付けられたみたいに、僕は抵抗する事もできずに倒れる。
これまで、様々な怪物を見た。
肉体を自由自在に変化する吸血鬼。
見たモノ全てを停止させる吸血鬼。
物体を浮遊させて操作する吸血鬼。
自分を『姉』だと洗脳する吸血鬼。
だが、目の前の老人は違う。
怪物ではない。なのに、怪物よりも怪物。
弱点がない。予定調和の倒し方がない。
倒せない。殺せない。この男には勝てない。
「さて。我輩の役目は貴様らを殺す事だが……まだ時間はある。折角だ、我輩の鬱憤を晴らすのに付き合ってはくれんかね?」
「な、にを……」
「『磔刑』のクロイツというのは、
背筋が凍りつくような感覚。
触れもせずにこれだけの痛みを与えられる老人が、本気で拷問を行ったら……それはどれだけの苦痛だ?
声だけで分かる。本気だ。心の底から楽しそうに、老人は笑って言った。
「
────、
────────。
チカチカと視界が点滅する。
心臓の鼓動が抑えきれない。
恐怖で失神しそうになるなんて初めての経験だった。
「に、げろ……」
ああ。僕が間違えた。
戦うなんて考えるべきじゃなかった。
最初から逃げるべきだった。
敵う訳がない。
たった十人で怪物を絶滅させた『
驕っていた。思い上がっていた。吸血鬼の力に酔っていた。
「姉さんだけでもっ、逃げてくれ……‼︎」
僕の間違いに『姉』を巻き込みたくなかった。
『姉』だけでも助かって欲しかった。
だが、返答はない。
『姉』の声は聞こえない。
「……ねえ、さん?」
「何も聞かされてはいなかったのか。……『耽溺公』アインソフ=オールナイトは動けない。
思い返せば、そうだった。
『姉』は老人を声を聞いた瞬間に脱力した。
声を聞けば聞くほど、力が抜けていった。
最初は言葉を返す気力があったのに、今となってはうめき声を出す事すらできない。
「ヤツの弱点は我輩そのものだ。……そうだな、時間はたっぷりある。話をしてやろう。
「本体、だって……?」
「気付いていなかったのか?
…………は?
「『
待て、待て待て待て。
思考が追いつかない。
老人の言葉を理解できない。
……いや、理解したくないだけなのか。
「死体に憑依する事で人格の復活を阻止した吸血鬼もいたが、それは長く続かない。憑依した肉体を使うのは吸血鬼自身だ。人格が復活できないほど壊れた脳を使っていれば、吸血鬼の精神さえも壊れ始める。吸血鬼としての再生能力で脳を修復しても良いが、それでは死体に憑依した意味がない。故に、『耽溺公』は憑依対象を厳選した。
彼女が『姉』でいようとしてくれる限りは、僕は彼女の味方をすると決めた。
自惚れでなければ、きっと彼女も『姉』でいる努力をしてくれると思った。
でも、それは今と未来の話だ。
どれだけ彼女が頑張ったって──過去は消えない。
「──『
僕が『姉』と慕っていたのは。
何処かの家庭から奪った罪もない子供だった。
「千年以上、『耽溺公』は赤子に憑依している。特に、死産して打ち捨てられた赤子ならば、勝手に憑依しても気付かれないものだからな。人類世界の片隅で、何の罪もない赤子を食い潰して生きている。赤子には記憶がない。思い出すほどの人格もない。ヤツの精神体という弱点を突かれる事はない」
完全無欠。
本体は見つからず、精神体は傷付けられない。
『耽溺公』アインソフ=オールナイトを殺す手段など人間には存在しない。
「────
『耽溺公』の唯一の弱点。
それこそが、目の前の十字傷の老人。
「胎内記憶。ごく稀に母親の腹の中にいた時の記憶を持って生まれる子供がいる。精神体が傷付くほどハッキリとした人格はない。ほんの僅かに体の自由を奪う程度の記憶しかない。それでも、あの子は腹の中で聞こえた声を────
つまり。
つまり。
つまり。
つまり。
「
(ヒロインの悪行を盛りすぎたか……?)