母と、本を読むことが好きだった。
文字の読めない幼い私に代わって、母が読んで聞かせてくれた。
今となってその本の内容は思い出せないけれど。
当時ももしかすると、その内容なんて理解できていなかったかもしれないけれど。
新しい世界を知る、その原初が詰まっているように思えた。
やさしさと一緒に。
温かさと一緒に。
そんな記憶がフラッシュバックし、意識が急浮上した。
意識がどこかへ行っていた時間はほんの一瞬のはず。
自室、机に座って突っ伏している私。
本を先ほどから開いていることに気が付く。
本の感想もそのまま蘇り、そのまま出た。
「……つまらない」
本を脇にどけ、ゆっくりと机に横顔を載せる。
「ふふ。面白そう、ではなかったのですか?」
部屋で一緒に読書を楽しんでいた侍女、コーネリアが顔を上げる。
「今日はただでさえ、想像力が働かないみたい」
「想像力って……」
コーネリアは呆れた顔で私の本の背を覗く。
植物百鑑。
彼女から感想を求められているように感じたため、言ってみる。
「ずいぶんと他の書物から引用があったから楽しみだったけれど、うーん……、
文章だけで説明しきるというのは、違うのでは?」
起き上がって本の内容を見せる。
「最初はまだ挿絵があるの、これ、これ。だけどこれ、これ、これ!」
と、心が黒づいていった流れを、見せながら続ける。
「一つ一つがなんだかわからない! 掲載数の多さに価値があるかもしれないけれど、これは、後の研究者は解釈に困ったでしょう。使われることが考えられてない。これ! 例えばオルフェンという花。青に白縁の花びらが4枚から6枚で? 春に咲く花、というだけ? 絵はある。そしてこちらの方に、キリ草という花があって、ええと……、これ! 紺に白縁の花びらが5枚から6枚で? これも春に咲く花。高緯度山岳地帯に生息? 区別できるこれ!? 本当に別の花!? 情報が集まらず自信が無いからあえて簡素な説明にして、ページを離して掲載してるとしか思えなくなってくるわ……」
「姫様らしくない感想でございますわね」
と彼女はにこやかだ。
「……ごめんなさい、今、目が滑ることの理由をとにかく後付けした気がするわ。そうね、多数の花に名前を与えようとしたことで、この本は評価されているのかしらね」
この最後のコメントは、いつもの私ならすぐに思いつくコメントなのかも知れない。
私の心は今、別の方を向いているということ。
コーネリアにはいつも心を見透かされている気がする。自分の単純さが恥ずかしくなる。
そんな様ですら彼女にはお見通しで。
また彼女はくすっと笑った後、
「雨も止んで2時間ほどですか、そろそろ乾いてきたかもしれません」と囁いた。
「ああ! もうだめ、集中できるわけがない」
座った椅子の上。体をさらに上に伸ばすついでに、天井をにらむ。
石造りの天井であっても、私には青空しか想像できなかった。
そのまま、外の誘惑に負けようか。
「お着替えを用意させましょうか」
「お願い」
コーネリアはあきれ顔1割の笑顔で、部屋を後にした。
私は頭の鈍さをかき消すように、一度頭を横に振り払う。
さて。
では、外で体を動かす前の準備運動を、先にやっておきますか。
「……最っ高!」
息を軽く切らしたまま、私は中庭に敷かれた、厚手のじゅうたんへ身を任せた。
その隣でコーネリアはいつもの通りに紅茶を楽しんでいる。
たまに私と目が合い、微笑むその表情がなんだか卑怯だ。
私はあおむけで動悸しながら少しの間、曇り空を背景とした彼女の顔を下から眺めていた。
また目が合い、彼女はつぶやいた。
「まだ準備ルーチンだというのに」
「それよ!」
「あら」
勢いをつけてがばっと起きてしまう。
「見てもらいたい発勁があるの!」
「あらあら」
先日思いつき、試したくて、見てもらいたくて仕方がなかったこと。
起き上がり、絨毯近くの、いつもの木の前に立つ。
コーネリアは武術に詳しくないが、物の美醜の判断は的確なように思う。
彼女が思う美しい振る舞いというものを、私の一つの指針にしていた。
「こう右拳を突いて、通すとき、こう、左足かかとを前に出そうと思うの。
これでコンパクトに、そして安定すると思う、きっと」
「ふふ、どうぞ?」とコーネリアは楽しそうだ。
いや、それ以上に私が楽しそうに見えているのだろう、その自信はある。
「じゃ、やってみるね?」
試そう。
樹皮のはげた、いつものポイントに右拳を当てる。
昨日までの発勁のイメージは、ただ向こうに突き抜けること。
それを少し変える。
抜けた後に左へ若干、本当に若干、えぐる。脊髄中心の回転を意識して。身体をもっと載せるように。
イメージを先行させ、次に右拳接点を意識し、そのまま右肩、右膝、左膝へ爆発をフローさせた。
視界が揺れる。
「──えっ?」
微動だにしない木のはずだった、私をいつも受け止める木のはずだった。
拳が幹に飲み込まれたかと思った。
いや、そのまま、打点を中心に木が上下に割れる。
音。
木がこちらに倒れてくる。
一方で私の体は、左へ回転を継続していて。
視界も左へ左へ移る、左端にコーネリアの驚いた顔が映る。
待って。
この方向、この距離。
倒れる木が、コーネリアの方まで届くかもしれない。
そう気づいた瞬間、私はすぐに両手両足の位置を確認する。
存外、体はさほどぶれていない。
体は左へ回転を続けている。左手は体の後ろにある。
これ、もっと回転すると左の裏拳が使えるわよね?
スローな世界の中でゆっくり、左腕をもっと後ろ、上方へ伸ばす、限界まで、頭を低める。
左の裏拳が倒れようとする幹を捉えた。
この木を、できるだけ遠くへ飛ばさないと。
ん、ここでも左足のかかとを内向きに回したらどうか。
左足と左手が関連づくのがわかる。
発勁が、打てる――!
そうして、音が戻った。
木は地面へ。巻き込まれた人は!?
急いで振り返り、確認する。少し危なかったが……巻き込まれた人は無し!
忘れていた呼吸を戻す。一息付けるかと思ったが、呼吸がすぐには休まらない。
ひとまず膝をついた。
その状態のまま、無理させた左肩の状況を右手で確かめていたところ、
駆け寄ってきたコーネリアに抱き着かれてしまった。
がすぐに私の両肩を持ったまま、コーネリアは私の体を離して正面から、
「びっくりした!!」
と言い放った。
「わ、私も……」
私は彼女の声の大きさにびっくりした。
そしてすぐに、彼女を危険に晒してしまった情けなさに、私は遅れて襲われていた。
しかしコーネリアの視点は少し違うようで、
「怪我はありません!? 肩、肩の調子?」と私の心配をする。
仮に痛めていたとして、彼女が力強く、にぎにぎと肩の具合を確かめるのはどうなのだろうと思いながら。
大丈夫大丈夫と言いながら。
改めて周囲の被害を確認するも、倒れた幹が向こう低い垣根の一部を乱した程度のようだ。
大きな音がしたのだろう、衛兵が駆けて来る。
公然ではあるが一応は非公式の鍛錬である都合上、このお転婆は、少々大丈夫ではないかもしれない。
コーネリアと目が合う。
彼女は駆けつける衛兵を一目見、軽く表情をしかめ、顔を横に小さく振った。
夕食後自室に居ると、私専属メイドであるサリーが衛兵を伴って部屋を訪問してきた。
「……なんです?」
私の部屋にとって異質な存在である衛兵に、疑うように聞いてしまう。
「はっ! 王命の伝達に参りました!」
「王命」
お父様の命令。メイドのサリーからではなくわざわざ衛兵が?
「申し上げます」
と、衛兵は一枚の紙を広げて読み上げる。
「アリーナ姫様を自室での、無期限の謹慎と、致します……」
「な、そんなことになる!?」
昼のあのちょっとした騒動を受けてのお父様の判断だろうが、しかし。
王命書を取り上げ、中身を確認する。
「これ、城内法じゃない! そこまでする!?」
この対象は私ではない、城内の人すべて。全ての人をもって、私の外出を禁止するものだ。
こんな早い通達は、お父様の独断ということ。こんな例は知らない!
一体何を考えて。
「も、申し訳もございません……」
と、目の前の衛兵の様子に気が付く。
この規則のため、例えば彼らが私を監視することになるのだろう。
彼の罪悪感が目に取れた。私に対してもこの内容は報告しづらかっただろうと思う。
「……ごめんなさい、少々興奮してしまいました。確かに、承りました。ご苦労様」
衛兵が退室する。
サリーは残る。その表情が悲しげに見え、私はすぐ目をそらしてしまった。
数秒の静寂。耐えきれなく、
「ああああ……なんだか頭が回らないわ」
と、つい彼女に愚痴をこぼしてしまった。
生きる楽しさを奪われたら、混乱するに決まっている。
狭い庭であっても、息苦しさを忘れられるのは、外の自由が垣間見られるため。
いや、外にあるものが重要ではない。城内に何もないのだ。
なのに。
「お察しいたします。まさかここまでなさるとは」
「そんなにあれは良くないこと? ううん違う、良い口実なのねこれは」
私が武術に興味を持っていることを、お父様は元々良く思われていない。
昔、武術の先生が突如解雇されたことを思い出した。
別の話だが、図書一部を取り上げられたこともついでに思い出し。
そう、こんな感じ! 私の大切なものを軽々奪って、私は自分の無力さにイライラして! そして私の思いは絶対お父様に届かない!
この時間には普段入れない紅茶を、サリーは用意してくれた。カップに手を伸ばそうとし、やはり手を止め、私は聞いた。
「お父様は今どちらに?」
夕食は一緒ではなかった。城外か。
「確か、ですが、今夜は業務統括長官のお屋敷、だったかと」
一方的に私に命令したいことを命令しておいて、自分は聞く気もないという態度?
ああああ……、頭の中が断続的にほてって仕方がない。怒りと無力感で、次の言葉を絞り出すことで精いっぱいだった。
「ごめんなさい、あとは一人にしてもらえるかしら?」
そうして、自室に一人となった。
私の振る舞いがお父様の目に余るのはわかる。であっても、伝え方というのがあるのではないだろうか? これは子供のわがままか? にしても!
……だめだ、先ほどから思考が繰り返されて仕方がない。
許せない、情けない。
ピクリと右手に力が入る。そのまま右手の平を目の前に出し、固く握ると、私の嫌な感情が手に集中していく様がわかった。
ちらりと壁が目に付く。堅牢そうな壁。そこへゆっくりと近づく。壁を軽くノックしてみる。木板の向こう、頑強な石造りの壁が、壁紙に覆われていても、感じることが出来た。
右拳を壁に添える。目をつむる。頭の中が静かになる。
拳にイヤな感情が集中している。発散させるためには?
私は壁に対して、右手へ注がれる流れを放った――。
ああ、ああ。
デジャブだ。いやデジャブじゃない。
てっきり私を打ち返すだけかと思った堅牢な壁だったが、まず表面の壁紙がめり込み、中の木板を割り、拳が突き抜けてしまった。
……。
部屋は静か。もともと静か。私は冷静になった。
「ああ、ああ……」
腕が壁にめり込んだ以外には、特に周囲に異状はない。
さて。イヤな感情は発散したというより、それを忘れるほどの事態だ。
ひとまずゆっくりと、腕を壁から引き抜く。特に腕に怪我は無いようだ。袖が無いため服に被害も無い。
次に、壁に空いた穴を覗き込んだ。壁の中を構成する石ブロックの一つ、縦30、横50、奥行き20cmほどのもの。
それが豪快に奥に押し込まれ、しかし壁から外れるほどには、外に落下するほどには、押し込まれ切っていない。
とはいえ、その石ブロックは、今にも落下しそうなぎりぎりの位置を保っている。そしてそのブロックのずれた左の隙間から、暗いとはいえ、外の緑が見えた。
……しばし、その緑を凝視していた。
はっと意識が戻り、落ち着こうと、いったんソファに座る。
壁面破壊。
また問題を起こしてしまった、とはどうしても思えない。やるところまでやってしまったという、清々しい気持ちに今は襲われていた。
カップに口をつける。
そのままふと壁に目を戻すと、穴からは、先ほどよりも若干外が広く見えることに気づき、その直後鈍い衝突音が外から聞こえた。多分、物理的な振動も伴った。
城内が騒ぐ数秒前だった。