鐘が二回、午前二時。行くか。
武術の練習着に着替えた。ショルダーバッグには比較的華美でなくグレードも低いアクセサリを、いくつか詰め込んだ。お気に入りの帽子は、この服には合わないので置いていこう。
ちなみにこのバッグは、メイドであるサリーの私物だ。その返礼は固辞されたまま。
バッグの紐を握りしめる。
部屋に暫定で設置された、壁の穴をふさぐ石ブロック4段からなる壁。一つ一つのブロックは重たいが、一番上のブロックを横にずらすことは可能だ。ずらし、空いたスペースから、穴、まだ暗いながらも外が見える。
城壁周囲にぽつぽつと配置された灯明台が時折、動く影を炙り出す。
昨夜もそうして観察していた。城の外周を兵二名がそれぞれ逆向きに周回していることがわかる。
改めてしばらく観察したが、その規則的な動きは昨夜と変わっていなかった。
……告げ口は無かったのかな。何か異変を感じるのであれば、すっぱり諦めようと思っていた。そんな異変は、無い。
さて、そうして、何度目か、周回兵をやり過ごし。
私は後ろ向きで、壁の穴に片足ずつ入れ、そこから体を穴に通す。
体が外にぶら下がる。両腕だけを壁穴に残し、体重を維持する。まだ室内に残した手にはカバン。両足は空中でぶらりと落ち、つまさきは壁をつついている。
次、壁穴に左腕のみを残し、右手でカバンを首に通す。ふと、壁穴の枠に縁どられて小さく見える、私の薄暗い部屋を見た。
感慨は特になかった。
あとは、最後に残すのは右手の指先のみ。指四本でぶら下がり、壁に張り付く。
直下、暗くて見えないはずの地面を睨む。私の部屋は三階。そして二、三階は一階よりも面積が狭い。
従って、三階のここから落ちたとすると、面積の広い一階部の屋上に降りることになる。
つまりこの、ぶら下がった私の眼下に見えるのは、地面ではなく一階の天井部。
つまり一階分の落下、問題ないはず──。
「っ……」
よし、怪我無し、音も大して立てていない。大したことはない。暗さに恐れていただけだ。
そのままその一階屋上で伏せ、念のため、外周の周回兵一名をやりすごすことにする。
目視で確認ではなく、耳で。
……よし、通過、した。問題なし。ここまでは順調だった。
今の私のいる一階屋上。二階部建物を中央に持ち、この一階屋上はそれぞれ左右に回り込むように広がっている。
その二階部に隠れた死角の方から、
「姫様」
反射的に振り返る、そこには、六年前まで同じく机を並べて授業を受けていた、一人の男がいた。もちろん六年ぶりということもないが。
「クリ、フト?」
長身に暗色のマントを身につけ、暗い周囲と同化している。例外は首から上、月明りに映える髪が印象的だった。目にかかる長さで切り揃えられた青髪がきらきらと。ああ、私の白基調の服は目立つかもと気付く。
いや、そんなことはいい。人に見つかってしまった。
捕まってはならない、逃げなくてはならない。ここから地上へは、三階からと同じく慎重に降りる予定だった。
しかしこの状況。このまま飛び降りるか?
その場合、怪我をしてすぐにその場から動けない可能性も。それに1秒逡巡してしまった、しかし。
「どうこうするつもりはありません、私は!」
彼、クリフトは両手を上げ、しかし早口で言う。私の考えていることが彼にばれていたようだ。さらに、
「話は後です。城から離れましょう。ひとまずこちらへ」
と、私を置いて、二階部を回り込んで奥へ行ってしまった。
どうこうするつもりは、ない? ……罠、かもしれない、けど。彼はそんな嘘をつくのだろうか?
彼についていくことにした。
追いついた彼、クリフトは、暗がりから木製のハシゴを取り出していた。
「ちょっとあなた、それ……」
「ご存知でしたか。ですがご心配なく。ハシゴが禁じられているのはあくまでも城外であって、ここはれっきとした城内です」
クリフトの声色は冷静なままだ。よどみない所作で彼は、ハシゴを地面へ下ろす。
「え? え?」
「巡回兵が来ますので、早めに降りていただけますと」
気にするのを忘れていたが、確かに外周を巡回している兵もいる!
言われるがまま、クリフトより先に地面へ降りる。と――。
「あなたまで! どうして」
「お久しゅうございます」
クリフトを、6年前まで同じく机を並べて授業を受けていたと言うなら、この老年の男ブライは、その時の教師だ。
マントを羽織り、全体的に地味な格好はクリフトのそれと似ている。
「ひとまずここを急ぎ離れ、サランまで参りましょう」
とクリフトが言う。
「なにからなにまで、王命なのね」
と私は、隠す気もなく城壁前に放置されたハシゴを見ながら言った。
クリフトのことはよくわからないが、お父様と距離の近いブライまでいるということは、そうなのだろう。
「その話は落ち着いた場所にて」
とクリフトは私をじっと見、反応をうかがう。
「……」
何一つ、辻褄は合っていなくて、どこまで信用していいのかわからない。
「一つだけ。あなたたち、私の邪魔はしないと言える?」
「姫様が何をなさるか次第ではありますが、少なくとも本日は誓いましょう」
とクリフトはブライを一目見、ブライはブライで小さく頷いた。
少なくとも本日は誓う、か。
「わかったわ。後で話は聞かせてもらうけど、それまでは、任せる」
「承知しました」「御意」
ひとまず城からまず距離を取る。そして城を遠目に見つつ回り込むことで、街灯の照らされた街道に出た。すでに城からは素性を特定される距離ではない。
「参りましょう」
先頭にクリフト、その後ろに私とブライで、街サランへ進む。
王城と街の間は、2kmほどのこの街道でつながっている。ぼうと、うたた寝をするサントハイム城と比べ、サランの街は随分明るく見えた。
なお私のいた王城、サントハイム城は城壁で囲まれている一方、城下町サランは、人ならば跳んで容易に越えられる堀で囲われている程度の備えとなっている。
と。
「姫様」
ブライが話しかけてくる。
「ここからはお忍びにございます。まずはその歩く所作、なんとかなりませぬか?」
はい? 歩き方?
クリフトもクリフトで私を振り返り、確かに、とこぼす。
「ええと? 首の角度が悪かったかしら?」
周囲に視線を散らせすぎだったか。
「いえ、そういう類ではなく」
「……なによ」
返ってくるべき言葉は目下選定中なのだと推測できる数秒があった。
「クリフトの所作を参考になさるのはいかがか」
「え!? 男の人の歩き方でしょう?」
「王城の常識はお捨て下され」
「そんなにも、常識が違うの……」
クリフトの歩き方を見る。クリフトが察し、止めた足を再度動かす。
頭が上下するほどに歩幅が大きい、足を前に投げ出す開始挙動。さほど胸は張らない。足に合わせて両手を交互に振り出す、つまり腹部に手を添えるなんてことはしない。
……男性的でしかない。
「私に性別を偽れということ?」
「性別問わず、民はそう歩きまする」
「えぇぇ」
どう考えても、まずブライに怒られそうな歩き方だった。
どう見ても、そしてブライは冗談を言っているわけでもない。
「ええと」
やろう。真似。
一歩歩み、止まり、一歩歩み、止まり、手ごたえを確かめる。
行けそうだ。歩く。
「もうちと、肘を曲げるがよろしかろうと存じまする」
「なるほど」
掌の開き具合、足首角度の運び、重心位置など、気になってくる点は限りない。
これが外を渡る術なのだと思うと、集中し甲斐もある。楽しいとも。
「もっと遅い時間ではなくて良かったです」
と、突然クリフトが、つぶやくように言う。
「……?」
顔を上げてクリフトを見ると、まず周囲が若干暗いことに気づいた。
道路両端を灯すはずの街灯が、右片側しか点灯していない。
あれと思い、後ろを振り返るも、やはり道の片側しか点灯していない。
いや、確か記憶では先ほどまで、両側に。その頭の中を読むように、クリフトは続ける。
「街灯は蝋燭です。点灯した順に消えて行きます。まずはサランの南側から、そしてサントハイム城まで行き折り返し、
サラン北側に戻ってきます」
と、人差し指で大きく円を描く。
街灯は道路の両側、それぞれ北側と南側の2列で並んでいる。南側が順に消え、次に北側が順に消えるというわけだ。
なるほど、もっと遅い時間には照明が完全に消えているということか。
言われてみれば、王城の方の街道ではいくつか光が消えているようにも見えた。
繋がりが消えていくのだ。
言いようのないもの、いや、不安、それが頬からこみ上げてきたように思った。
いや。奮い立たせる。
これも私の見たかったもの、楽しみたかったものだ。
私はサランを向いた。
そして。
「サランです」
街の門に到着した。
クリフトの選んだ宿泊施設は、ブライとの話から推測する限り、街の中でも真ん中のグレードらしい。そしてブライは、もっと上のグレードの宿であるべきと思っている風。
ちなみに私からも、コーネリアから教わった宿を挙げてみたが、「この時間はやってませんね、そこ」と、淡々と一蹴された。宿って24時間営業ではないのね!?
さて、このクリフトの選んだ宿に入って。
中は石むき出しの壁。木むき出しの床と天井。
建物に入った後、薄暗い物置小部屋を通らないと受付に到達できないという、わけの分からなさ。いやもう、全体的に狭い。
馬の住処でもまだ配慮されるのではないかという雰囲気に、言葉が出なかった。
宿の受付から何らかの説明をクリフトが受けていたが、私はそれを聞き取る集中力もなかった。
気付けばクリフトは、
「行きましょうか。静かに」
と言い先導し、二階へ上り奥から一つ手前の部屋に入った。
「ここに、泊まるのね……」
「姫様の部屋は隣、奥です」
「な、なるほど」
では私はその隣の部屋へ、つまり私の部屋へ今移動した方が良いのかなと思っていたところ、お座りくださいとクリフトに促された。促された寝台に座る。
いや、これは寝台というよりも、本棚を裏に伏せ倒し、そこに毛布を掛けただけのような、包み込む気の欠片もない家具だった。もちろん部屋の中で他に、体を横にする場所は見当たらず!
これが寝台。
クリフトとブライは私の前、床にひざまずく。まあ、他に座れる場所も無く。頭を切り替えるべく、軽い咳ばらいをした。
「顔を上げて? まずあなたたちの王命を、聞かせてもらえる?」
「はっ。ではわたくしめから」
とブライが切り出す。
「昨夜、王より我らに下知があり申した。近い夜、姫がお一人で王城を抜けなさるだろうと。その時には同行し、力になってはくれぬかと」
一人で城を抜け出すことが事前に予測されていること、気に食わない。
同行し力になれという内容、具体性に欠け何を考えているか不明で、気にくわない。強めに、早口で、
「ああそう」
と言葉に出た。
しかし裏返すと、外を見て回る許可を暗にもらったことになる。
……複雑だ。素直に喜べない。明日にはころっと忘れて素直に喜べるだろうか。
忘れる努力をしたい。お父様のことは忘れて、明日以降について考えたい。
などと考えていたが、クリフトが、
「力になるというご命令です。ですので重要なのは、姫様の目的、となります。何をなさるおつもりでしょう?」
と聞いてきた。
「……目的」
と復唱するも、果たしてこの二人が納得できる言葉がすぐに出るだろうか。
数秒考える。
ひざまずきつつ私を見るブライ、そしてクリフトの表情に変化は無い。
これ、私が目的を即答できないことも想定内ということなのでは?
……変に考えても仕方がない。
「外の広い世界を見たいと思っただけ。そうね、国内を周ってみたいわね」
抽象的過ぎて恥ずかしい発言とは思ったが、特に二人にはそういった感想はなさそうだった。
「なるほど。では東端の街、フレノールへということでしょうか」
とクリフトは、私ではなくブライに問う。私への追及は発生しないようだ。
「……なるほどの。ひとまずそれが良かろうと存じまする」
商業都市フレノール。
サントハイム城膝元の今いる街サランよりも賑わっているというのは、正直想像ができない。以前の訪問の記憶は曖昧で、全く参考にならない。
まあ、そうね、言われてみると確かに、面白そうではある。フレノールについてコーネリアから多少話も聞いていることだし。
「陸路と海路があります」
「陸路となると山越えにございます。海路で回るが常套というもの」
「その海路は通ったことがあるし、船に乗るだけで到着というのは、なんだか違うでしょう?」
あ。二人は、何が違うのかという顔をした。それも1秒だ。
「……御意」
「陸路、巡礼路ですね。復活の日も過ぎて閑散として、お忍びには丁度良いかもしれません」
「徒歩か。わしはなんとなるが」
「どちらにせよ良い経験となるでしょう」
などと、二人で話を進めてしまっている。
しかし、まあ。思い出したことがそのまま言葉に出た。
「昔の、次の授業内容を決める時を思い出すわ。クリフトがいろいろ挙げて、ブライが総括して」
二人とも、その発言を受けて、なんだか困ったような、いたたまれないような表情を見せた。
もしかするとあの時の話は、二人にとってタブーに近い話なのかもしれない。
でも私にとってはやはり大切な思い出で、
「私は、楽しかった。お父様によってあの授業が取り止めとなる前までね。今回、6年越しの課外授業としたいもの」
「……御意」
当初、家出はもちろん一人の予定だった。しかしそこに他人の補助はあったほうが良いかもしれないと、この宿に入る時には思い直した。宿を決めるのも部屋に入るのも一苦労だろう、一人なら。
それに、せっかくなら楽しい旅にしたいと思う。
「当時と比べて、ブライの元気がないことが気になるのだけど」
「無茶をおっしゃいまする。姫が淑女に成長あそばせる以上に、矢の如く老うてしまい申した。とてもとても」
淑女などと絶対に思っていないだろうに。皮肉か、皮肉だろうか。
しかしまあこのように、随分ブライは丸くなってしまった。
「あなたは随分、多分、図々しくなったわね」
とクリフトには率直に言う。
「姫様には負けます」
「そういうところ!」
真顔で、私の気分をうかがわず発言するところ。いや訂正しよう、真顔で、私がひっかかりを感じるだろうことを予測した上であえてそれに気づかないふりをして発言するところ!
6年前にかろうじてあった可愛げもすっかりなくなり、その澄ました顔のせいで、より私に刺さるようになったのかもしれない。
「……この宿から抜け出そうなどと、私に思わせないで頂戴ね」
「無論です」
そういうところ! だめだ、話していると不当に疲れてくる。
と同時に睡魔の存在にも気づき始めたところ、
「姫様の偽名も考えねばなりますまい」
とブライが言う。
「偽名、ね……」
また、面白いことを。
姿はごまかしようがあっても、アリーナ・サントハイムの名で呼ばれてしまえば意味がない。かといって、あまり自分になじみのない偽名では、注意を払えず不適切、なのかもしれない。
「では、レナンディアはどう?」
すんなりと、母の名前が口から出た。しかしクリフトとブライは唖然とする。安直すぎただろうか?
「……あのですね、国民は王族の名を使ってはいけない、という法律がございます」
とクリフトが切り出した。
「あ、そうか、私が気を付けることになるなんて。出生時だけじゃなくて偽名の時も気を付けるのねそれ」
と言って、変な感想を発してしまったとも自分で思った。気を取り直して、では別の名前を考えなければ。
サリー、コーネリア、マリア……うーん、馴染みのある名前というのは、それはそれでどうなんだろう。などと考えていると、クリフトが提案する。
「レナ、はいかがでしょうか」
レナンディアの短縮形とも思える。
「レナ、いいわね! とてもかわいらしいわ!」
もしかすると母も、幼少期にそう呼ばれていたかもしれない。
「ちと短すぎる気もしまするが……」
「最近はそれほど気にされる人もいないようですよ」
「姫様がよろしければ」
「レナで!」
「姓は……そのままスタンフィードを借りましょう。商家遠縁の末娘が護衛を連れてお忍び旅行、というのはいかがです? 多少の世間知らずは辻褄が合います」
私は、世間知らずか……、それはそうだ。ところで気になることが、
「それは、許可取っているの?」
「無論無断です」
「あっそう」
私の侍女であった、コーネリア・スタンフィードの血縁。貴族ではあるが元は商家。悪くない選択だと思う。そして少なくともコーネリアは、事後報告でもそれに喜んでくれそうな気がする。私も今、それに不当なわくわくを感じてしまっている。こんなこんな、名前の変化だけで明日以降が輝いてしょうがない。
「目が冴えてしまわれたか」
「え、私?」
クリフトは軽い溜息をついて私を見ていた。その能面だった表情が、多分、わずかに和らいでいる気がした。呆れられているのでは。なんだか恥ずかしい。単純すぎる、私。話す度にぼろが出ているように思えてくる。
顔を両手で覆った。閉じた瞼の上に当たる指が心地よく、指で瞼の柔らかさを楽しんだ。指を離し目を開けると、視界が若干ぼやけていた。目をぱちぱちさせてみる。
「もう夜も遅いことです。明日早めに街を立つとして、今日はこのくらいにしましょうか」
「それがよろしかろう」
「では、姫。部屋に」
クリフトに連れられて部屋を出る。
隣、明かりを弱くした部屋に案内される。
そしてドアが閉まる。一人だ。
ああ。
暗いのは良くない。
もうさっきの瞬間に膝の力が一瞬だけ抜けた。
何も考えずに寝ようと、崩れ落ちるように持参の寝間着に着替えそのまま、横になった本棚の上に横になった。