MC-1 介入
| 推奨平均レベル LV.20 | |
感染者保護を掲げるキローガ家の令嬢アーネストは、暴徒に包囲された感染者たちを救うため夜を駆ける。 | |
演習 行動開始 | |
| 推奨平均レベル LV.20 | ||
感染者保護を掲げるキローガ家の令嬢アーネストは、暴徒に包囲された感染者たちを救うため夜を駆ける。 | ||
演習 行動開始 | ||
蜃気楼の彼方 幻の街に
集いし魂は 永遠を夢見る
されど帰還の道は 灰燼に帰し
旅人よ 汝は何処へ還る
――― 偽典「ゲルンの託宣」より抜粋
夜が燃えていた。
ヴェルナー家の小屋を、三十人ほどの群衆が取り囲んでいる。松明の炎が闇を裂き、怒号が夜気を震わせる。
「出て来い!」
「仕事を奪う寄生虫が!」
「この村から消えろ!」
窓ガラスはとうに割れていた。扉には石が投げつけられた痕があり、壁には「感染者は出ていけ」と赤い塗料で殴り書きされている。
小屋の前に、一人の男が立っていた。
ヴェルナー。三十代後半の痩せた農夫だ。両腕を広げ、背後の家族を庇うように立ちはだかる。その腕は震えているが、足は一歩も退かない。
「お願いです……」
ヴェルナーの声は、怒号にかき消されそうだった。
「子供たちだけでも、見逃してください……娘は、まだ十二です……」
「どけ!」
群衆の先頭に立つ男——村の自警団長だろう——が松明を振りかざす。
「お前らのせいで、俺の弟は死んだ! 同じ畑で働いてたから感染したんだ!」
「違う、私たちは……」
「黙れ!」
男が一歩踏み出す。ヴェルナーは後ずさりしない。できない。背後には、娘エルザと幼い息子を抱きしめる妻がいる。
エルザは震えていた。十二歳の少女の首筋には、隠しきれない鉱石病の結晶が微かに光っている。彼女は弟の手を握りしめながら、群衆の憎悪に満ちた目を見つめていた。
——私のせいだ。
心の中で、その言葉が繰り返される。
私が感染したから。私が村にいたから。皆が怒っている。お父さんが、こんな目に遭っている。
「お前らさえいなければ、弟は——」
男の声が震えた。怒りの底に、深い悲しみがある。だが、悲しみは時として、最も残酷な暴力を生む。
「焼いちまえ!」
「そうだ、感染源を断つんだ!」
「火ぃつけろ!」
群衆の叫びが重なる。
理性の糸が、音を立てて切れていく。男が松明を振り上げた。
エルザは目を閉じた。弟の小さな手を、もっと強く握りしめる。
——ごめんね。お姉ちゃんのせいで、こんなことになって。
涙が頬を伝う。だが、声は出さない。泣き声を上げれば、弟がもっと怖がる。
男が松明を振り下ろそうとした、その瞬間——
蹄の音が、闇を裂いた。
アーネスト・デ・キローガは、夜の闇を駆けていた。
蹄獣の蹄が土を蹴り、冷たい夜風が頬を打つ。領地の西の外れ——グリューネ村から火の手が上がっていると、使用人が息せき切って報告してきたのは、ほんの十分前のことだった。
また、感染者への暴動か。
アーネストは歯を食いしばった。この半年で、何度目になるだろう。経済的困窮が深まるにつれ、感染者への風当たりは強くなる一方だ。仕事を奪っている。病を広めている。そんな根拠のない噂が、隣人同士の絆を断ち切っていく。
丘を越えると、村の灯りが見えた。松明の炎が、闇の中で不吉に揺らめいている。
——間に合って。
心の中で、その言葉を繰り返す。
——どうか、間に合って。
脳裏に浮かぶのは、二年前の記憶だった。同じように蹄獣を駆り、同じように炎を目指した夜。あの時は——間に合わなかった。
マグノリア。
幼馴染の名前が、胸を締めつける。
エラフィアの女性。オリーブグリーンの髪、少し皮肉屋だけど誰よりも聡明で、誰よりも優しかった人。二十歳で鉱石病に感染し、それでも五年間、領地の感染者たちのために働き続けた。
そして二年前、彼女は姿を消した。
『アーネスト、私はウイユヴェールへ行くわ』
最後に交わした言葉を、今でも鮮明に覚えている。
『蜃気楼の街? あんな伝説を信じているの?』
『伝説かどうかは、自分の目で確かめるわ。それに——』
マグノリアは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
『このまま領地にいたら、あなたに迷惑をかけるもの。キローガ家の令嬢が感染者と親しくしているなんて、噂になったら大変でしょう?』
『そんなこと、気にしていない』
『私は気にするの。あなたの未来を、私のせいで潰したくない』
引き留められなかった。
あの時、もっと強く言葉を重ねていれば。もっと必死に、行かないでと懇願していれば。
——必ず見つける。
アーネストは、その誓いを胸に刻んでいる。
ウイユヴェールが実在するなら、マグノリアはそこにいるはずだ。そして私は、彼女を連れ戻す。
たとえ、彼女が望まなくても。
丘を駆け下りると、群衆の姿が見えた。松明を持った三十人ほどの男女が、小さな小屋を取り囲んでいる。その中心で、一人の男が松明を振り上げている——
「お待ちなさい」
凛とした声が、夜気を貫いた。
同時刻——リターニアとヴィクトリアの国境から遠く離れた場所。
移動要塞ロドスアイランドのブリーフィングルームに、数名のオペレーターが集まっていた。
スクリーンの前に立つのは、白衣を纏った長身の女性——ケルシー。ロドスアイランドの医療部門責任者であり、この艦の実質的な意思決定者の一人だ。
「アーミヤはロドスのCEOとしての業務のため、本ブリーフィングには出席できない」
ケルシーは淡々と告げた。その視線が、一瞬だけ部屋の隅——ドクターの方へ向けられる。
「……そうか」
ドクターは小さく頷いた。最近、アーミヤと顔を合わせる機会が減っている。各地の感染者コミュニティとの交渉、龍門との協議、カジミエーシュとの折衝——ロドスアイランドのCEOとしての責務が、彼女の時間を奪っていた。
昨日も、廊下ですれ違っただけだった。「ドクター、お話ししたいことが」と言いかけた彼女を、秘書官が「次の会議が」と連れ去っていった。
——いつか、ゆっくり話せる日が来るだろうか。
「本題に入る」
ケルシーの声が、ドクターの思考を遮った。
スクリーンに、一枚の衛星写真が映し出される。リターニアとヴィクトリアの国境地帯——砂漠と荒野が広がる空白地帯だ。
「三日前、我々の観測機器がこの地域で異常を検知した」
写真が拡大される。砂漠の中に、不自然な影がある——建造物のような、しかし次の瞬間には消えている輪郭。
「この画像は、三日前の午前三時十七分に撮影されたものだ。注目すべきは、この影が映り込んだのは僅か〇・三秒間だけだったという点だ。前後のフレームには、何も映っていない」
ケルシーは画像を切り替えた。
「源石嵐の観測データと照合したところ、興味深いことが分かった。この地点の嵐は、十五年以上前から不自然に安定している——これ自体はリターニアの調査で既知の事実だ。」
「つまり……」
「何かが、嵐を制御している。そしてその制御が一瞬だけ緩んだ結果、嵐の向こうに隠されていた何かが、我々の観測に捉えられた」
「嵐を制御?」
声を上げたのは、メテオだった。カジミエーシュ出身の元森林火災監視官。その鋭い目がスクリーンを見つめている。
「そんなことが可能なの?」
「源石嵐を引き起こすこと自体は、不可能ではない」
ケルシーが答えた。その声には、どこか慎重な響きがあった。
「四皇会戦において、巫王はアーツで源石嵐を戦場に呼び起こしたという記録がある。古代サルカズや古代サルゴンの巫術にも、類似の技術が存在したとされる」
「だったら——」
「だが、問題はその持続時間だ」
ケルシーは別の資料を表示した。
「この地域の嵐は、十五年以上にわたって安定している。それも、単に荒れ狂うのではなく——何かを『守る』かのように、一定のパターンを維持し続けている。これほど長期間にわたる精密な制御は、私の知る限り、テラの歴史上に前例がない」
彼女は一拍置いた。
沈黙が落ちた。ケルシーは続けた。
「技術的な話はここまでだ。次に、現地の状況について説明する」
彼女は資料を切り替えた。
「最近、周辺地域の感染者たちの間で、ある噂が広まっている」
スクリーンに、手書きの地図と断片的な証言が映し出された。
『感染者の楽園がある』
『源石嵐の向こうに、病が癒える街がある』
『蜃気楼の街、ウイユヴェール』
「ウイユヴェール……」メテオが呟く。「聞いたことがないわね」
「当然だ。公式な記録には一切存在しない。地図にも載っていない」
ケルシーは腕を組んだ。
「だが、証言は複数ある。しかも、その街を目指して旅立った感染者たちは——誰一人として、戻ってこない」
沈黙が落ちた。
「死んだ、ということ?」メテオの問いに、ケルシーは首を横に振った。
「分からない。遺体も見つかっていない。ただ——消えた」
「興味深いな」
新たな声が、部屋の隅から響いた。
壁にもたれていた男が、ゆっくりと前に出てくる。その佇まいには歴戦の戦士の貫禄があった。
イプセン。
二十四日前にロドスアイランドと遭遇し、臨時契約を結んだオペレーター。その素性には不明な点が多いが、戦闘能力は折り紙付きだった。
「蜃気楼の街、か」
イプセンは、どこか懐かしそうな目でスクリーンを見つめた。
「迷い込んだ者が戻れない街。おとぎ話のようだな」
「おとぎ話で済めばいいが」
ケルシーが資料を切り替える。
「問題は、この噂が急速に広まっていることだ。感染者たちの間で、ウイユヴェールを目指す動きが加速している。もしこれが何者かの罠だとすれば——」
「多くの感染者が、危険に晒されることになるわね」メテオが、厳しい表情で言った。
「だから、調査が必要というわけか」イプセンが呟く。
「そうだ」
ケルシーは頷き、ドクターの方を見た。
「今回の任務は、ウイユヴェールの実態調査だ。街が実在するのか。実在するなら、そこで何が行われているのか。そして——感染者たちが『戻ってこない』理由は何なのか」
スクリーンに、任務メンバーのリストが表示された。
「メンバーは、ドクターを指揮官として少数精鋭で編成する。メテオ、イプセン、それから医療オペレーター数名。機動力を重視した構成だ」
「了解したわ」メテオが頷く。「ケルシー先生は?」
「私は本艦に残る。来週、緊急度の高い手術が複数予定されている」
ケルシーはドクターに視線を向けた。
「現地での判断は、ドクターに一任する。……任せた」
その言葉には、普段の無機質さとは違う、僅かな信頼の響きがあった。
「了解した」ドクターは頷いた。
「整理しよう」ケルシーが腕を組んだ。その声には、いつもの淡々とした響きがある。
「現時点で判明している事実は三つ。一つ、この地域で源石嵐のパターンが不自然に安定している。二つ、周辺の感染者コミュニティでウイユヴェールの噂が急速に広まっている。三つ、この街を目指した感染者は——誰一人として戻ってきていない」
スクリーンに、過去十年間の失踪者リストが表示された。名前、年齢、最後に目撃された場所。その数は、百を優に超えていた。
「家族への手紙を残した者もいる。『楽園に着いたら連絡する』と。だが、その連絡は一度も届いていない。遺体も発見されていない。彼らは文字通り『消えた』」
「源石嵐で命を落とした可能性は?」メテオが眉をひそめる。
「否定はできない。だが、それだけでは説明がつかない点がある」
ケルシーは新たな資料を表示した。
「リターニアの学術機関が十五年前に実施した源石嵐の調査記録だ。この地域の嵐は、通常の源石嵐とは異なる特性を示している。嵐の中心部に向かうほど、むしろ源石濃度が低下する」
「それは……」
「通常ならあり得ない。源石嵐の中心部は最も危険な領域であるはずだ。にもかかわらず、この地域の嵐は——まるで何かを『守る』ように機能している」
「リターニアは、その『何か』を見つけられなかったのか?」メテオが訊ねた。
「見つけられなかった——というより、『見えなかった』と言うべきか」
ケルシーは資料の一節を拡大表示した。
「調査団は嵐の中心部に到達したと報告している。だが、そこには何もなかった。砂と岩だけの荒野。彼らは『異常の原因は地下深くにあるか、あるいは自然現象の偶然』と結論づけて撤収した」
「でも、感染者たちはその『何もない場所』を目指して消えている」
「そういうことだ。学術調査団には見えないものが——感染者には見えている可能性がある」
ケルシーは一拍置いた。「あるいは、見せている何者かがいる」
沈黙が落ちた。ケルシーは続けた。
「ここから推測できる状況は以下の通りだ。一、ウイユヴェールは実在する可能性が高い。二、その街には源石嵐を制御する、あるいは利用する技術が存在する。三、感染者たちが戻らない理由は、死亡ではなく——街に『留まっている』可能性がある」
「留まっている?」
「自発的にか、強制的にかは分からない。だが、百人以上の感染者が全員死亡し、かつ遺体が一つも発見されないという確率は、統計的に極めて低い。彼らは——生きている可能性がある」
「だとしたら、なぜ戻らない?」イプセンが口を開いた。
「それこそが、この任務の核心だ」
ケルシーはスクリーンを切り替えた。
「取りうる選択肢は三つ。」
「このまま放置する。噂は自然に収束し、新たな失踪者も減少するかもしれない。だが、既に失踪した者たちの運命は永遠に不明のままとなる」
「リターニアやヴィクトリアに調査を依頼する。だが、両国とも国境地帯の不毛な土地に関心を示す可能性は低い。感染者の失踪など、彼らにとっては優先事項ではない。そして——先ほど述べた通り、十五年前の調査では街は『見えなかった』とされている」
「ロドスが直接調査を行う。リスクは高い。だが、感染者の保護と治療を使命とする我々にとって——」
ケルシーは言葉を切った。
「——この選択肢を検討しないという判断は、ロドスの存在意義に関わる」
「十五年前の調査記録だけでは、現在の状況は分からない」
ケルシーは続けた。
「嵐のパターンが変化している可能性、街そのものが移動している可能性、あるいは——調査団が見落とした何かが存在する可能性。いずれにせよ、現地に赴かなければ確認のしようがない」
ドクターは黙って聞いていた。
「予測される結果を述べる」
ケルシーの声は淡々としている。
「調査チームが街に到達できた場合、三つの可能性がある。」
「ウイユヴェールは単なる感染者コミュニティであり、彼らは自らの意志で外界との接触を断っている。この場合、我々は彼らの選択を尊重し、撤収することになる」
「ウイユヴェールは何らかの組織によって運営されており、感染者たちは——意図的に隔離、あるいは拘束されている。この場合、我々は彼らの救出を試みることになる」
「ウイユヴェールには我々の理解を超える何かが存在し、感染者たちは——その影響下にある。この場合……」
ケルシーは一瞬、言葉を切った。
「……調査チーム自身が、同様の状態に陥る可能性を考慮しなければならない」
「つまり、私たちも戻れなくなるかもしれない、ということ?」メテオの表情が硬くなる。
「可能性としては、否定できない」
ケルシーはドクターを見た。
「源石嵐対策として特殊な防護装備を用意する。嵐の中でも六時間程度は活動可能だ。ただし、完全な防御ではない。現地での補給も期待するな。最低一週間分の物資を携行すること」
「メンバーは少数精鋭で編成する。ドクターを指揮官とし、メテオ、イプセン、医療オペレーター数名。機動力を重視した構成だ」
「出発は明後日の朝」
ケルシーは腕を組み直した。
「以上が、現時点で私が提示できる全ての情報と選択肢だ」
そして、静かに言った。
「最終的な判断は——ドクター、君に委ねる」
ドクターは、しばらく黙っていた。
スクリーンに映る失踪者リスト。百を超える名前。彼らには家族がいた。友人がいた。帰りを待つ者がいた。
そして——誰も、戻ってこなかった。
「行く」ドクターは言った。「感染者たちが何かに囚われているなら、それを明らかにする必要がある。見て見ぬふりはできない」
ケルシーは頷いた。その表情は変わらないが、どこか——安堵のようなものが、その目の奥に浮かんだように見えた。
「了解した。……任せた」
そう告げると、彼女はブリーフィングルームを出ていった。
オペレーターたちも、それぞれ準備のために席を立つ。
分からないことが多すぎる。ウイユヴェールとは何なのか。感染者たちが『戻ってこない』理由は——
スクリーンに映る砂漠の影を見つめながら、ドクターは呟いた。
「蜃気楼の街、ウイユヴェール——」
その名前が、どこか不吉な響きを持って、ブリーフィングルームに残った。
群衆が振り返る。
丘の上から、一頭の蹄獣が駆け下りてくる。その背には、貝紫色のドレスを纏った女性の姿があった。
アーネスト・デ・キローガ。
キローガ家の次期当主は、群衆の前に蹄獣を滑り込ませ、松明を持つ男とヴェルナーの間に割って入った。
「何だ、お前は」
「キローガ家の次期当主、アーネスト・デ・キローガです」
名乗りながら、鞍上から群衆を見渡す。農具や棒切れを手にした者もいる。その目には恐怖と怒りが入り混じっていた。
「貴族様か。だったら何だってんだ。俺たちの邪魔をする気か」
「この者たちは、私の領民です」
アーネストは静かに、しかし明瞭に言った。
「感染者であろうとなかろうと、キローガ家の領地に住まう者は、等しく私の守るべき民。それを傷つけることは——」
「綺麗事を!」男が遮った。唾を吐き、アーネストを睨みつける。
「あんたみたいな貴族様には分からねえだろうよ。俺たちがどれだけ怯えてるか。あいつらと同じ井戸の水を飲んで、同じ空気を吸って——いつ自分も感染するか分からねえ恐怖が!」
「存じております」
「嘘だ!」男が叫んだ。その声には、怒りだけでなく、切実な悲痛さがあった。「去年、俺の弟が感染した。あいつらと同じ畑で働いてたからだ。弟は——弟は、もういねえ!」
群衆から、同意の声が上がる。
「俺の娘も」
「うちの親父が」
「隣村では、感染者の家を焼いたら病が広がるのが止まったって話だ」
「そうだ、元を断たなきゃ——」
アーネストは黙って聞いていた。その表情は変わらない。だが、手綱を握る指が、わずかに白くなっていた。
「お気持ちは、分かります」
「分かるもんか!」
「分かります」アーネストは繰り返した。今度は、少しだけ声を落として。「私も——大切な人を、失いました。鉱石病に」
群衆が、一瞬静まる。
マグノリアの顔が、脳裏をよぎった。あの日、別れを告げた時の寂しそうな微笑み。オリーブグリーンの髪を揺らしながら、振り返ることなく歩いていった背中。
「だからこそ、申し上げます。憎むべきは、この病です。苦しむ人々ではない。彼らもまた——」
「黙れ!」別の男が叫んだ。鍬を握りしめ、前に出てくる。「俺の女房は、感染者を介抱しようとして感染した。優しさが仇になったんだ。病を憎めだと? だったらなぜ、あいつらをこの村に住まわせた!」
群衆がざわめく。アーネストへの敵意が、じわりと膨らんでいく。
「貴族様は安全な屋敷にいるからそんなことが言えるんだ」
「俺たちの苦しみも知らねえくせに」
「感染者を庇うなら、あんたも同罪だ」
空気が変わった。松明の炎が、不穏に揺らめく。
アーネストは蹄獣から降りた。群衆の前に、一人で立つ。
「皆様のお怒りは、ごもっともです」
静かな声だった。だが、その目は真っ直ぐに群衆を見据えている。
「この病がもたらす恐怖、喪失、悲しみ——私はそれを否定しません。皆様が家族を守りたいと願うのは、当然のことです」
一呼吸置いて、続ける。
「ですが、今夜ここで彼らを焼いたとして——皆様の苦しみは、消えますか?」
沈黙が落ちた。
「弟を失った悲しみが、癒えますか? 娘を失った痛みが、和らぎますか?」
誰も答えない。松明を持つ男の手が、わずかに震えた。
「私に、提案させてください」
アーネストは一歩前に出た。
「この家族は、私が保護します。明日の朝までに、この村から離れていただきます。キローガ家の責任において、彼らを安全な場所へ移送することを約束します」
男は答えなかった。ただ、長い間アーネストを見つめていた。
松明の炎が、ぱちりと音を立てる。
「……どうする」男が、背後の群衆に問いかけた。「俺は——」
その時。「待てよ」
群衆の後ろから、新たな声が上がった。
がたいの良い男が、人垣を割って前に出てくる。その手には、農具ではなく——剣が握られていた。
「村長」群衆がざわめく。
「感染者を追い出すだけじゃ生ぬるい。根を断たなきゃ、また別の場所で増えるだけだ」
村長と呼ばれた男は、アーネストを冷たい目で見据えた。
「キローガ家の令嬢様か。親父殿は立派な方だが、娘は随分と甘いようだな」
「甘い、ですか」
「そうだ。感染者を庇うなど、この土地の秩序を乱す行為だ。貴族なら、領民の安全を第一に考えるべきだろう」
「領民の安全を考えているからこそ、私はここにいます」
「ほう?」村長が、嘲るように笑った。「では聞こう。この村で感染者が増え続けたら、責任を取れるのか? キローガ家が、全ての感染者を養えるのか?」
アーネストは答えなかった。
それは——答えられない問いだった。
キローガ家の資産には限りがある。領内の感染者シェルターは既に満員だ。新たな施設を建てる余裕もない。そしてこの経済状況では、感染者を雇う領主など、他の貴族たちから白い目で見られる。
それでも——
「答えられないか」村長は剣を掲げた。「俺たちは俺たちのやり方で、家族を守る。貴族の綺麗事に付き合う義理はねえ」
群衆の空気が、再び殺気を帯びる。
「貴族様には帰ってもらおう。これは村の問題だ」
「そういうわけには参りません」
「なら、力ずくでも退いてもらう」
村長が剣を構えた。その背後で、群衆が農具を握り直す。
アーネストは動かなかった。
背後のヴェルナー一家を庇うように、その場に立ち続ける。エルザの怯えた目が、アーネストの背中を見つめていた。
「……私は、退きません」
「死にたいのか、令嬢様」
「死ぬつもりはありません。ですが——」
アーネストの目が、静かに光った。
「この者たちを見殺しにするつもりも、ありません」
睨み合いが続く。
松明の炎が、二人の顔を照らしていた。
村長が一歩踏み出す。アーネストは腰の剣に手をかけた。
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
——このまま斬り合いになれば、勝てるだろうか。
アーネストは冷静に状況を分析していた。村長の剣は錆びているが、腕には力がある。背後の群衆は三十人以上。一人で相手にするには、数が多すぎる。
だが、退くわけにはいかない。
背後には、怯える家族がいる。この少女の——エルザの瞳に映る恐怖を、見捨てることはできない。
『いつか、この世界が変わる日が来る』マグノリアの言葉が、脳裏をよぎる。
『感染者も、そうでない者も、等しく明日を夢見られる日が。私はそれを信じている』
あなたの言葉を、私は信じている。だから——
「最後に、もう一度だけ申し上げます」
アーネストの声は、夜の静寂を切り裂くように響いた。
「剣を収めてください。これ以上は、誰も傷つけたくありません」
村長は答えなかった。
ただ、剣を握る手に力を込める。
そして——
夜が、動き出そうとしていた。