私は至って普通の女子だ。これは自称でも謙遜でもない、ただの客観的事実。他の子より秀でた能力がある訳でも無いし、学校の成績も取り立てて良くはない。視力だって眼鏡を掛ける程度に悪ければ、趣味も特技も他人に誇れる素敵なものでも何でもない。どこにでも居る、誰にでもなり得る、ただの普通の女の子。でも実のところ、そんな風に思う自分自身の事もきらいじゃない。
こういう事を時々考えるのはきっと、身の回りに「普通じゃない子」があまり居ないせいだ。確かに皆は私とは違う。彼女達はいずれも目立って長所と呼べる部分を有しているし、そうでなくとも秀でた何かを各々持っている。例えばそれは、今年同じクラスになった吹奏楽部の皆だってそう。葉月ちゃん、緑ちゃん、秋子ちゃん、小田さんに森本さん、高久さん。私が持っていないものを、皆は幾つも持っている。
けれど彼女達と自分を比べて嫉妬したり、自分を卑下したりなんかしない。だって私がそうであるように、皆の裏側にも大なり小なり『欠点』はあるものなのだから。
きっとそれが普通という事だ。
だから、私は私がきらいじゃない。
「――三年生になって転校ということで、友達もいなくて心配してたんですが、仲良くしてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」
教室を揺らした拍手の音に、つばめはそれまでの思考を中断して前を向く。流暢に自己紹介を終えたその子は教壇を降りてつかつかと靴音を鳴らし、こちらへ近づいてきた。彼女に割り当てられた席は緑輝の一つ後ろで、つばめの右隣。教室の左前方から男女の別なく五十音順に並ぶこの三年三組の教室内で、つばめと緑輝の間がほぼ一列分ほど埋まっているのは、どうやら同級生に『加茂』『茅野』『唐沢』といった「かま」から「かわ」までの苗字の人物が多いせいであるらしい。よろしく。こちらこそ。そんな風に周囲の者達と交わされた転校生の小声の挨拶が、次につばめへも向けられる。
「よろしくね」
「ああ、うん。よろしく」
これが彼女達の、黒江真由と釜屋つばめの、最初の出会いだった。
「清良女子からの転校生、かぁ……」
本日の授業――というか始業式とその後の各種連絡、係決めの時間――を終えて午前中までで放課後を迎えたつばめは、手洗い場でお弁当のカラを軽く水洗いしながら先程までの事を振り返っていた。それは昼休憩の時間を利用して件の転校生に校内設備を案内して回っていた、その最中に交わした雑談の内容だ。
黒江真由。九州は福岡の吹奏楽強豪校、清良女子で二年間しのぎを削って来た子。高校最後の一年というこの時期での急な転校は父親の仕事の都合によるものだったらしいが、その内情を真由はあまり詳しく語ってくれなかった。ただ彼女の家庭は親子三人暮らしのごくごく普通な環境で、転校は平均して二~三年に一度のペース、移動範囲もほぼ全国規模に渡るとの事だった。
『だから転校直後はいつも友達作りに苦労してたんだけど、今回はこんなに早く頼れる友達が出来て、ほんとうに良かったよ。これからも仲良くしてねつばめちゃん。もしも私に何か気になるところがあったら、何でも言ってくれていいからね』
こんな事を述べる真由はその性格も実におっとりと穏やかで、気品と言っていいのか分からないがどこか自分には無い上質さも醸し出している、そういう女子だった。けれどつばめはそんな真由の事を少しも億劫に感じなかった。だってそういう子達との付き合いも、とっくに慣れたものだから。
こと吹部において、育ちの良い子は決して珍しくも何ともない。そもそもの話、吹部に籍を置く子は扱う楽器の維持管理や教本類の調達に相応の費用を伴う以上、親の社会的地位や経済力もそれなりに盤石である事が多いものだ。かく言うつばめとて一般家庭に毛の生えた程度とは言え、娘達のやる事に不自由をさせないぐらいには親が手厚い支援をしてくれる。きっと黒江家も概ねそのような環境であるに違いない、と、この時のつばめは真由の身の上をあまり深く考えてはいなかった。
『でも、本当に大丈夫かな。今から私が吹部に入っても』
『大丈夫だって。さっき他の皆もそう言ってたでしょ? 部員が一人でも増えるのは嬉しい事だし、それに強豪校の出身なら即戦力間違いなしなんだから、真由ちゃんが入部するのに反対する人なんているハズ無いってば』
『そう言ってくれるのは、嬉しいんだけどね』
励ますつもりで述べたつばめの言葉に、真由は何故か微笑を保ったままで難色を示した。気になる事でもあるの? とつばめは追って尋ねた。
『久美子ちゃんって、北宇治の部長さんで、しかもユーフォ吹いてるんでしょう?』
『そうだよ』
『それがちょっと心配なんだ。迷惑にならなければいいなあ、って』
微かな困り顔で真由がそう言ったのは何故なのか。つばめにはちっとも理解できなかった。その真意を尋ねる前に次の教室へと辿り着いたつばめは順々に案内をしていって、あの会話の痕跡もいつしか二人の間からは綺麗さっぱり抜け落ちてしまっていた。
あれはどういう意味だったんだろう。食べかすをすっかり削ぎ落とした弁当箱の隅を指で拭いながら、つばめは小さく息を抜く。美味しい食べ応えであった筈の今日のお弁当も、こうして全てを平らげてしまった後では舌の上に仄かな後味と胃袋に重みを残すばかりで、どんな具材がどのように敷き詰められていたかを正確に思い出す事も難しい。
――まぁ、部活が始まってみれば判るか。確か真由ちゃんが練習に来るのは来週の入部式の日から、って言ってたよね。
蛇口のノブを捻って水を止め、弁当箱を軽く振って水滴を切る。ぴっぴ、と流し台に叩きつけられた無数の水玉はそこへ留まったままで、いつまで経っても本来向かうべき排水溝へと流れ落ちていく様子を見せやしなかった。それをあえて流そうともせず、薄青色のランチクロスに弁当箱を包み直してつばめは教室へと戻っていった。
後につばめは知る。真由がマイ楽器持ちのユーフォニアム奏者であった事。そしてそうであるが故に、三年目の今から自身が北宇治吹部に入る事によって何が起こってしまうのかを、彼女は初めから憂慮していたという事を。
「では、今日この時間は修学旅行の班決めをします。班は一つにつき五、六人。男女は混じっても構いません。班がまとまったら各班で班長を決めて貰います。二日目の自由行動の日程も来月の半ばまでには決めないといけないんで、班長が決まり次第班内でよく話し合いをして、自由行動の計画書を出来るだけ早く私まで提出して下さい」
四月も折り返しを過ぎ、本日六時間目にあったホームルームでは来たる六月の修学旅行に関する話し合いの時間が設けられていた。壇上のクラス委員長が要綱を説明するその声を聞くでも無しに聞きながら、つばめは脳内でぼんやりと思索を巡らせる。
つばめ達の学年、というか北宇治伝統の行き先は東京。国会議事堂の見学を行程に組み込む為というのがその主たる理由となっているらしいが、あんなもの見て何が面白いのか、とつばめは内心訝しむ。東京なんてどうせ行こうと思えばいつでも行けるのだし、海外とまでは言わないまでもせめて、高校時代の思い出として心に残るような珍しい場所を選ばせて欲しいものである。
「つばめちゃんは、もう誰と班を組むか決めてる?」
級友達が机を離れガヤガヤと班づくりの談義を始めてほどなく、頬杖をついていたつばめに隣席の真由が声を掛けてきた。
「ううん、まだ。別にどっか適当なグループに混ぜて貰うのでもいいんだけど」
「そうなんだ、私もおんなじ。でもせっかくの修学旅行だし、どうせなら気の合う人達と一緒のグループで回りたいよね」
「だね」
とは言いながら、二人とも席から立ち上がろうとはしない。自分はともかく真由の場合、自発的に動いてメンツをかき集めるのではなく、どこか他人から誘われるのを待っているような節がある。この時期までにはつばめもまた、真由のこうした気質を何となくではあるが把握し始めていた。
「真由ちゃんは去年清良にいた時も修学旅行に行ったんだよね。確か、それも東京だっけ」
「うん。北宇治と大体同じ日程で、二日目が班ごとの自由行動で三日目がクラス別のツアー、私達のクラスが行ったのはお台場。四日目が国技館の見学と築地か月島の選択観光で、夜にディズニーリゾートって感じだったよ。私は一時期東京に暮らしてた事もあったから、観光で行くような場所には大体行った事があるかな」
「じゃあ真由ちゃんが一緒の班は心強いね、案内役になってくれる訳だし」
「流石にそこまで詳しい訳じゃないよ」
「えー、絶対ウソ。私よりは詳しい筈だよ」
「ホントだって」
などとじゃれ合いのような会話を繰り広げていたところに、おいーす、と快活な声で葉月が割り入ってきた。
「何やらボサーっと座ったまんまで話し込んでますけど、お二人さん、班決めはどうしたの?」
「ああ葉月ちゃん。ちょうど今、どこの班に混ぜて貰おうか、ってつばめちゃんと話してたところだよ」
真由がそう答えると、葉月は大仰にくわっと目を見開いた。
「えー、まだ決まってなかったの? そんなボサっとしてたらヤッベェゾ、それ絶対ヤッベェゾ」
「それは『コロチキカトウ』」
「でもそんなお二人に朗報です。安心して下さい、空いてますよ」
「それは『とにかく明るい加藤さん』」
葉月の繰り出すギャグに次々とつばめがツッコミを入れると、横で見ていた真由が口に手を当ててくすくすと可憐に笑む。
「っていうか、『穿いてる』じゃなくて『空いてる』って、何?」
「修学旅行の班だよー。ウチらの班、今んトコ私と久美子と緑の三人だから、あと二人ぐらいなら余裕で入れるよって話」
どうやら葉月の本命はそっちにあったようだ。どうする? とつばめは真由を見やる。真由はほんのり遠慮がちな微笑みと共に、そうだなぁ、と唇を白魚のような人差し指で押さえた。
「今から私達が入っても、邪魔にならない?」
「邪魔どころか大歓迎! 班のメンツを早く固めちゃった方が自由行動の計画も立てやすいしさ。あっそうそう、うちの班は私が班長やる事になってるんだけど、つばめ達もそれでいい?」
「もちろん」
「異議なし」
真由とつばめが揃って返事すると、よっしゃ、と葉月が緩めのガッツポーズを決める。
「だったら二人とも早くこっちおいでよ、ホラホラ。おーい久美子ー、緑ー、残りの班員ゲットだぜー!」
手ずからの収穫に気を良くしてか、葉月が意気揚々と前方の席に向かう。その先では久美子と緑輝が手を振ってつばめ達の合流を歓迎してくれていた。同じ吹部という事もあるし、あの三人と一緒なら何かと心強い。行こう、と先んじてつばめが席を立つと、緩やかに首肯した真由も椅子から腰を上げる。成り行き上の事とは言え、真由と一緒の班になれて良かった。つばめは純粋にそう思った。
ガタガタ、と机を動かして設けられた葉月達のグループの席へ、つばめと真由はおずおずと着座する。この顔ぶれが一つ処に集まるのも、今までありそうで無かった事だ。
「後からでごめんね。よろしく」
「よろしくお願いします!」
眩しいくらいに光り輝く緑輝の笑顔が、ガツリとつばめの網膜を直撃する。緑輝のこういう気性は彼女の美点ではあるし自分も決して苦手な訳では無いのだが、常日頃から間近に置くにはどうにも心の節々に刺さるものがある。何かと気の置けない付き合いをするならば、もう少し落ち着いた人柄の方が自分の性には合っている。そう、例えば彼女のように。
「こっちこそよろしくねつばめちゃん、真由ちゃん。二人とも行きたい所とかあったら、遠慮せずにどんどん言って」
「うん。ありがとう久美子ちゃん、私達のこと気遣ってくれて」
如才の無い返事をする真由に合わせ、どういたしまして、と久美子もにっこりと相手を包み込むような笑みを湛える。
「こういう時にすかさずその一言が言えるなんて、久美子ちゃん、流石は部長の器だね」
「え? いやぁそんな事は、」
続けてつばめも賞賛の言葉を投げ掛けると、久美子の表情ははにかみの形に砕けた。それを見てつばめはくすりと笑む。久美子のこうした特性に、これまでつばめは幾度も助けられてきた。その最たるものはやはり昨秋の、アンサンブルコンテストに向けた練習中の一幕だろう。
今回の修学旅行の班決めと同じように、部員自らが自由意思でチームを組んで挑んだアンサンブルコンテスト。縁あって久美子と一緒のチームになったつばめは当初、皆の足を引っ張るような演奏しか出来なかった。それを気に病まなかったと言えばウソになる。過去のコンクールでも一年・二年とB部門メンバー、通称『チームもなか』だった自分なんかじゃ、上位大会進出の為の一軍とも言えるA部門メンバー常連の久美子ら上級者になど及ぶべくもない。そういう自分の心苦しさとその原因を一発で吹き飛ばしてくれたのが、久美子のたった一粒の助言だった。
『つばめちゃん、息してる?』
他人と息を合わせる。そうして一丸となって一つの物事に取り組む。言葉としてはとっくのとうに頭に入っていたその概念がまさか楽器演奏の場面でも活かせるものだったなんて、いざそうと言われるまでは思ってもみなかった。あのたった一粒の金色に輝く助言のお陰で、つばめの音楽に対する姿勢はがらりと変わった。見える景色がまるで別物になった、とまで言っても過言ではない。後輩にも新入生にも数多くの実力者を擁する北宇治吹部にあって、今やつばめは押しも押されぬマリンバ奏者の一番手。そんな自分の可能性を最初に見出してくれたのが同じパートの順菜や万紗子ならば、可能性ごと自分という存在を地中から引っ張り上げてくれたのが黄前久美子その人だ。
以来ずっと、つばめは久美子に大きな感謝と尊敬の念とを抱いていた。彼女の恩義に報いる事のできる、彼女の望みを叶える為の手助けができる、そんな奏者でありたいという願いと共に。
「じゃー早速だけど、自由行動の時に皆が行きたい場所の候補上げてこっか。私はズバリ日光東照宮!」
「葉月ちゃん葉月ちゃん、それ東京じゃなくて栃木だから」
「あり? そだっけ?」
久美子に窘められた葉月がキョトンとした顔つきで固まる。
「自由行動で行って良いのは原則二十三区内ですし、栃木までなんて絶対許可下りないと思います」
「それに、万が一許可が下りたとしても距離が、ね?」
「そうです。行って帰ってくるだけで自由行動の時間が終わっちゃいますよ」
緑輝と真由が畳み掛けるように補足を継ぎ足すと、えぇー、と葉月の口から至極残念そうな吐息が洩れる。
「なんだよー、せっかく関東行けるんなら東照宮見たーいって思ってたのにさあ。じゃあ後は皆の希望の場所を適当にって事でー」
「ちょっとちょっと葉月ちゃん、それは投げやり過ぎるよ」
「しっかりして下さい、班長さん」
「ちえー。こんなんだったら班長に立候補なんてするんじゃなかったぁ」
ぶうぶうと文句を垂れる葉月に、それ以外の一同がからからと笑い声を上げる。つられて真由も失笑のような呼気を握り拳の甲で押さえつけていた。この五人となら楽しい修学旅行の旅路になりそうだ。そんな風に、つばめの心はいつになく浮き立っていた。
「ようし、こうなりゃヤケだ! 皆の希望するトコ全部、最低一箇所ずつは回れるよう、班長であるこの私がバッチリスケジューリングしてみせよう!」
吹っ切れた葉月の宣言に、おおー、と久美子達が小さく拍手する。
「って、そんな大見得切っちゃって本当に大丈夫?」
「任せたまえよ久美子クン。何を隠そうこの私、空前絶後の! 超絶怒涛のチューバ吹き! 音楽を愛し音楽に愛された女! 墨田区、渋谷区、秋葉原、全ての都心の生みの親! 人呼んで、七福神八人目の旅行の神! そう、この私こそはっ――!」
カッ、と声にならない音を葉月の口が発する。その続きが出てくる前に、つばめは口を開いた。
「『サンシャイン加藤』、でしょ。それと幾ら何でも、言ってる事が支離滅裂すぎ」
「うわーん! もう助けてサファイアちゃーん、つばめのツッコミが容赦ないぃ~」
「その呼び方はやめて下さいってば。みどりはみどりですぅ」
会議は踊る、実に賑々しく。直後に担任の「静かにしろお前ら!」という怒声が飛び込んで、葉月達もつばめもビシリと居住まいを正した。その様子を見てまたくすくすと、真由は笑声を堪えながらも愉快そうにしていた。
新一年生を加えた吹部の動きが本格化してから早一ヵ月と少々。既に五月の終盤へと差し掛かり、先日までサンフェス向けの行進練習に勤しんでいた北宇治の一同も、今は本業とでも言うべき座奏主体の活動へと再シフトしていた。
「はい。じゃあ次、チェンジアップやります」
パートリーダーである井上順菜の掛け声に合わせ、パーカスパートの全員が練習パッドの前でスティックを構える。
「イチとーニイとサンとーシイとー、」
タンッ……タンッ……タン、タン、タン、タン。タッタッタッタッタッタッタッタッ。
四拍一小節を一括りに延々と刻まれる一定のテンポ内で、パッドを叩くスティックのリズムが二分音符から四分音符、四分音符から八分音符、と細かくなってゆく。さらに三連符四拍、十六分音符、五連符四拍、六連符四拍……と、続けざまに割られる音長の形は最終的に三十二分音符にまで到達する。
打楽器における基礎中の基礎の一つであるこのチェンジアップは、音符の示すリズムに合わせた叩き方を体得するのが目的であり、パーカッション担当者であれば誰もが日々取り組んでいるであろう必須級のトレーニングメニューと言っても過言ではない。
入部時には全くの初心者だったつばめも当初は苦心しながらこの基礎練をこなしていたものだが、それも三年目となった今ではお手の物だ。今年はパーカッションに加わった一年生が若干二名と少人数な事もあり、つばめ達最上級生も後進の育成には気合いを入れて臨んでいた。
「素手辺、奇数の連符の打ち方まだまだ甘いよ。三拍目五拍目が帳尻合えばいいんじゃなくて、全拍きっちりで音の長さを揃えるの。タカタンタカ、じゃなくタカタカタ、って」
発声で示したリズム通りにタタタタタ、と順菜がパッドを叩いてみせる。正確極まる順菜の打音には、彼女が積み上げてきた長年の鍛錬の成果が如実に顕れていた。
「それと砂井田も、十六連辺りからもう怪しい。こういう細かい音は楽器を叩いた時に違いがハッキリ出るから、拍に合わせて正確に刻めるよう気を付けて」
はい、と返事をした一年生二人も中学からの経験者なので本人なりにはやれているつもりなのだろうが、凄腕のパートリーダーは元より他の上級生達から見ればまだまだなのが一目瞭然だ。この壁を越えられないのであれば、コンクール全国金賞を目標に掲げる北宇治でその栄えある舞台に立つ事など到底叶わない。これは何も彼らに限った話ではなく上級生にしたって同じ。楽器歴が長いから、と胡坐をかいている者が次の瞬間、歴の浅い新人に蹴落とされる恐れだってある。それこそが北宇治の掲げる『実力主義』というものの恐ろしさであり、同時に清々しいまでの公正さなのである。
「ただリズムだけで捉えようとすると頭こんがらがるから、そういう時は言葉に置き換えながら叩いてみるのもアリだよ。例えば五連符だったら『ただまさし』とか」
「ええ? 声に出してやるんですか?」
「そうそう、こんな風にね。ターダーマーサーシーターダーマーサーシー、」
順菜がお経のように名を唱えながらパッドを叩くと、ぶふっ、と一年生達が噴き出す。以前からも順菜の指導はこんな風に、的確厳正ではあれど愛嬌溢れる愉快なものでもあった。結局のところ五文字であれば人物名に限らず『ピスタチオ』でも『バルセロナ』でも何でも良いのだが、チェンジアップの指導時に順菜がこの語句を好んで用いるのは、どうやら昔よく見ていたネット動画の影響があるらしい。つばめも最初に順菜からこのコツを教わった時、一年生達と同じような反応をしてしまったのを今でも昨日の事のように覚えている。
ともあれこの後も、チェンジアップの他にアクセント移動、休符移動、パラディドル、スピードアップ……と、種々の基礎練習は合計三十分ほど続けられた。
「――はい、じゃあ基礎練はこれでおしまい。次、五時まで各自個人練ね」
「はい」
順菜の号令の元、パート員達が各々の担当楽器のところへと散らばっていく。他の管楽器と違い、パーカッションは担当楽器の決め方もオーディションでの選ばれ方も独特だ。学校毎にも様々な文化はあるだろうが、北宇治の場合は大まかに「リズム系」「鍵盤系」「その他の小物系」といった具合に楽器種別の分類がされており、奏者はそれぞれの希望する種別の楽器を予め選択し日々の練習に打ち込む。後は実際に演奏する楽曲との相談となり、誰がどの楽器を受け持つかは楽譜上でのまとめられ方やその時その時で誰の手が空いているか等、状況次第でフレキシブルに対応しなければならない場合だってある。一つの楽器、一つのパートに専心していれば良いという訳にはいかない無い上に、楽器が変われば要領もまるで変わる。それがパーカッションの難しさであると同時に大きな魅力でもあるのだ。
「その点、つばめは盤石って感じだよね。今やマリンバを扱わせたら北宇治に敵なしだし」
「やめてよ万紗子ちゃん。私そこまで演奏の腕に自信あるってワケじゃないし」
「またまたぁ。少なくとも鍵盤に限って言えば、つばめはもう私よりも上手だよ」
セッティングの僅かな隙間時間中、パートの同輩である堺万紗子がそんな風につばめを褒め殺しにしてくる。謙遜の上にも謙遜を重ねつつ、つばめは苦笑いでこの居心地悪さをどうにかやり過ごそうと努めていた。
今年の北宇治のパーカッショニストは、学年が上であればあるほど粒揃いのオールラウンダーばかりだ。パートリーダーの順菜は言うに及ばず、元より音楽好きだった万紗子も太鼓系から鍵盤・小物類とそつなくこなせる技量の持ち主。二年生の東浦心子は中学生時代からの打楽器経験者で技量、ノウハウ共に豊富であり、同じく二年生で瓜二つの双子である前田兄弟は幼少の頃からドラムのレッスンを受けていただけあって、抜群のセンスを備えている。
それ以外の一年生を含む後輩達は技量や経歴の点ではほぼ横並びといったところだが、中にはハープを専属に担当する事で早々と周囲との競争から脱した二年・北田畝のような例もあり、絶対的な経験や技量で劣る者が必ずしもそれらに優れる者達の後塵を拝するのみとも言い切れない。つばめもまたこの部類に含まれる奏者だと言えよう。他種別の打楽器が苦手でも、得意なものに一点特化していれば、それだけで十分にAメンの席を狙える。これもまたパーカッションパートならではの特殊な光景なのである。
「とは言うもののさ、つばめの場合はマリンバ以外にグロッケン、シロフォン、ビブラフォンだってマスタークラスなワケだし。大体その辺任せとけば安心って、こないだ順菜も言ってたよ」
「まあ、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど……」
平素より妹以外の人間からは褒められ慣れていないつばめにとって、こうした賛美のことばは半分ぐらいが重荷になってしまう事の方が多い。それでも半分を受け取れるだけまだマシというものだろう。去年の今頃までは順菜や万紗子に同じ事を言われたって、到底信じる気になどなれなかった。私はそんな人間じゃない。言われるほどの能力なんて持ち合わせていない。それは自分の持つ能力に実績が、いや実感が追いついていなかったせいだ。
いつも合わせをしくじっては厳しい指摘を注がれる。求められた事を結果で返せない自身を幾度も再認識させられる。そうした日々の蓄積が、いつしか『私は出来ない側の人間だ』という自己認識をつばめの内側に刷り込んだ。そのままであればつばめの高校三年間は、競争激しい吹部にあってただひっそりと埋没する万年Bの一部員という、単にそれだけの存在として終わっていたかも知れない。
――そう、あの子が私に授けてくれた、あの黄金の一粒が無かったら。
「ハイ、じゃあ十分休憩ー。次はパート練入るから、各担当でローテ決めといて」
「はい!」
周囲の大きな返事の声に、ビクリとつばめは身を竦ませる。またやってしまった。練習に没頭し過ぎるあまり、他の事が一切頭に入らなくなるのは昔からつばめの悪い癖だ。それに、考え事をしながら楽器を演奏するのも集中力が欠けている証拠。散漫な意識でただ楽器を鳴らしたところで上達なんて望めない。少し気持ちを入れ替えて来よう。そう思い、つばめは一旦お手洗いへと向かう。
「……ふう」
手洗い場できちんと両手をすすぎ、ついでに近くの冷水機でごくごくと喉を潤す。口元を拭いながらふと辺りを見渡すと、校内にはありとあらゆる楽器の音色が廊下の隅から隅までを占拠するみたいに鳴り響いていた。あれはトランペット。こっちはサックス。今のはクラリネット。向こうからはホルンとフルート。――放課後のいつもの風景。月日を経ると共にそれが当たり前のものになって、気付けば好きになっている自分がいる。これもきっと吹奏楽部員であるが故に得られた心境というものなのだろう。そう考える自分が今ここに居る事が、つばめは少しくすぐったい。
「そう言えばすずめ、ちゃんと練習やってんのかな」
またいつぞやのように迷惑を掛けてやしないだろうか、とつばめの胸中には唐突に不安が湧き出る。この春吹部に入部した二つ年下の妹・すずめは、色々な意味で危なっかしい人間性をしていた。別に先輩に面と向かって楯突くような生意気をしでかすという意味では無いのだが、彼女の大胆かつ奇矯な振る舞いには年齢の多寡などものともしないパワフルさがあって、往々にして巻き込まれた者達の口から苦言が飛び出る事も少なくない。つい先日も、部長の久美子には多大なる迷惑と心労を掛ける羽目になってしまったばかりである。
ここは一つ姉として、妹が今再び暴走を引き起こさぬようきちんと監督しておかなければならないだろう。すずめの所属は低音パート。その練習場所である三年三組の教室は、ここからすぐ近くだ。
「……うん、いい感じ。佳穂ちゃんどんどん上手くなって来てるよ」
「はっはい。あの、ありがとうございます」
こっそりと覗き見た三年三組の教室、その中にはチューバを抱えるすずめの姿もあって、同級生や先輩の二年生らと共にせっせと練習に勤しんでいるみたいだった。よかった、と胸を撫で下ろすよりも先に、つばめの視線はそれとは別の場所へがっちりと固定される。
銀色のユーフォを構える真由。彼女は今、楽器初心者の一年生・針谷佳穂に初歩の手ほどきをしてあげているみたいだった。こうしてみて、と真由が諭すその度に、佳穂のユーフォの音色がみるみる洗練されてゆく。それはあたかも一流の彫刻師が一撫で二撫でするうちに、目の前の石膏が美麗な彫像へと姿を変えてゆくかのような変貌ぶりだ。
「もう楽譜をさらえるだけの力は身について来てるみたいだし、今度私と一緒に何か曲を合わせてみよう。たくさん吹いた方が上達も早まるから」
「はいっ。がんばってみます」
「ふふ、そんなに力んじゃダメだよ。体の余計なところに力が掛かっちゃうと音も強張っちゃうから、吹いてる時の状態を自分でチェックしながら体はリラックスさせて、きれいな音を遠くに通すイメージで吹いてみて」
「分かりました。アドバイスありがとうございます、ママ先輩」
佳穂の無垢な笑顔に、真由もまた柔和な綻びの表情で応える。葉月もいつの間にやらそうなっていたのだが、どうやら真由の『ママ』という愛称は低音パート内でもすっかり定着してしまっているらしい。転校からおよそ一ヵ月半、真由も今ではすっかり北宇治に馴染み、同級生や後輩との親睦を構築できているようだ。その事実に、つばめの心もほんのりと安らぐ。
「すいませんママ先輩。ここの場所なんですけど、吹き方がよく分からなくて」
佳穂が再び真由に質問をしている。楽譜を睨んで「んー、」と考え込むような仕草をした真由が、おもむろに楽器を構えた。
「今のところ、私ちょっと吹いてみるから。音の響きのイメージを掴んで、佳穂ちゃんもおんなじように吹いてみて」
「はい」
「じゃあ行くね」
スウ、と一息を吸って、真由がそのフレーズを吹き始める。――しばしの間、呼吸も思考も何もかも、聴覚以外のありとあらゆる感覚がつばめの身体からは掻き消えていた。ユーフォのベルから花園が広がり教室中を埋め尽くしている。そうとしか例えようの無いほどに、真由の演奏は桁外れの美麗さだった。
「今の感じで、軽く合わせてみよっか」
「はいっ」
今度は佳穂も楽器を構え、二人揃って同じフレーズをなぞる。こんな事は本人には言えやしないが、佳穂の音を邪魔に感じてしまうぐらい、真由の音は聴く者の脳髄を蕩けさせるような甘やかな響きを孕んでいた。胸を押さえてつばめは静かに後ずさる。硬い胸骨の内側では、未知の刺激を覚える全身に追加の血流をせっせと流し込もうとするみたいにトクトクと、躍起になった心臓が駆け足の鼓動を打っていた。
強豪校で吹いてたとは聞いていたけど、真由ちゃんって、こんなに上手かったんだ。
それはあまりにも想定外の驚きだった。こんなにも美しいユーフォの旋律を、つばめは数えるほどしか耳にした事が無い。そのうちの一つには久美子の奏でる音色も含まれている。ではどちらがより上手いか? その結論を弾き出す事は出来なかった。だって、ここまでレベルの高い演奏に良し悪しを付けられるだけの音楽的能力を、つばめは有していなかったから。
まだ心臓は落ち着かない。けれどそれをなだめすかせるだけの猶予が取れるほど、休憩の残り時間もそう多くはなかった。ごくりと唾を飲み込んで、つばめはその場を後にする。背中を追い越してくるユーフォの力強くも朗らかな響きは、他にも放たれている筈の一切の楽器の音色を遮断して、つばめの鼓膜をひたすらに独占し続けていた。
「お待たせ」
「ううん。じゃあ帰ろっか」
その日の夕刻、つばめは真由と肩を並べて校舎の正面玄関を出た。明日からはテスト期間中という事で、しばらく部活は休止となる。今日の居残り練もいつもよりは早めに切り上げる事、とのお達しにより、吹部は珍しくもまだ日が高いうちの解散となったのだった。
「ところでソレ持ってきてるって事は、真由ちゃん、テスト期間中も家で吹くんだ?」
「家っていうか、近所の空き地とかでだけどね。うちには防音設備なんて無いし、部屋で吹いたら近所迷惑になっちゃうから」
「それもそうか。楽器は練習場所の確保がとにかく大変だもんね」
うん、と真由がにこやかに返事をしながら、手に持った大型のハードケースを軽く揺する。中に収められているのは言うまでもない、真由のマイ楽器である銀色のユーフォニアムだ。北宇治では楽器管理係に届け出をすれば校外に楽器を持ち出す事が許される決まりとなっているのだが、マイ楽器であればそのような手続きを踏まずとも好きな時に楽器を持って帰る事が出来る。余談ながら、打楽器全般のような大型かつ高級な楽器は当然持ち出しの対象外である。
「こういうテスト休みの時って、つばめちゃん達は練習どうしてるの?」
「私達はスティックとパッド持ち帰ってひたすらリズム練か、後はイメトレが中心かな。楽器が目の前にあるのを想像して『こんな風に演奏する』って考えながら、その辺に置いてある雑誌を叩いたりとかして」
「そうなんだね。イメージの中で楽器を叩くのって、何だか面白そう」
「順菜ちゃんなんて凄いんだよ。ドラムの練習用にって思って一年生の頃からお小遣いとお年玉を少しずつ貯めて、それで今年ようやく電子ドラムのセット買ったんだって」
「あれでしょ、鳴らした音がヘッドホンで聴けるやつ。それで井上さんってドラムも他の楽器もあんなに上手いんだ」
「昔から練習熱心だからね。私も昔からずっと憧れてるんだ」
順菜の打楽器に懸ける熱意は凄まじい。自分も最初からあんな風だったらきっと高校三年間は全く別物になっていただろう、とつばめは思う。
「後ね、順菜ちゃんってピアノも弾けるんだよ。だからリズム感だけじゃなく音感も凄く良くて」
「へえ。凄いね、あれもこれも上手だなんて。私も習い事でなら色々やったけど、結局ユーフォぐらいしかまともに吹けないから、そういう話聞くとますます井上さんのこと尊敬しちゃうな」
真由が素直に感嘆のことばを口にする。それがちっとも厭味ったらしく聞こえないのは、真由の人柄が成せる業なのか、それとも持って生まれた人徳によるものなのか。どちらも持たぬつばめには分かりっこない。
続けて万紗子の自主練話も繰り出した辺りで、つばめの足は通学路の下り勾配を捉え始める。このひたすら続く坂を下り切った先にある駅で、つばめと真由はそれぞれの家へと向かう電車に乗る。真由の住まいがどの辺りに所在しているのか、それは本人の口から一度も聞いた事が無い。だからこちらからもあえて聞き出そうとはしなかった。
「こういう話聞くのってなんか新鮮。前いたところは部員の人数が多かったから、クラスが同じとか本当に仲良い子以外ってなると、そういう子達のパートの話ってあんまり詳しく聞く機会なくて」
「そんなに多かったの? 前の学校の吹部って」
「一学年に五十人以上いたからね。私が入った年なんか、合計で二百人近くはいたかなあ」
「にひゃく、」
思わずつばめは絶句する。北宇治吹部だって百人近い大所帯。近郊の学校と比べれば倍近い部員数を誇る規模だというのに、その更に倍ともなると、ちょっと想像が追いつかない。
「ビックリしちゃうよね。私が今まで入った事のある学校の中でも、一番の大人数だったもん」
あはは、と真由の艶やかな唇の端が空笑いのような音を奏でる。
「でもその分、部員全員と膝を突き合わせて交流するって訳にはなかなかいかなくて。仲の良い先輩とか同級生は沢山いたんだけど、やっぱりどうしても偏りが出ちゃうんだよね。繋がれるところが何かしら無いと繋がれないっていうか」
「あ、でもそれはちょっと分かる。私だってパーカスの皆とは仲良く出来てるけど、それ以外ってなると葉月ちゃんや吉沢さんみたいに同じクラスの吹部の皆とか、あとは一年の頃からBメンで一緒だった子達ぐらいしか付き合いのある人っていなくて」
「ふうん。つばめちゃんは、友達を多く作るのってあんまり好きじゃなかったりする?」
やけに突っ込んだ質問を真由が飛ばしてきた。どうだろう、とつばめはほんの少し黙考する。
「んー……好きかどうかっていうよりかは、得意じゃないっていう方が近いかな。友達の数よりも付き合いの深さの方が大事だって思うし、あっちもこっちもって手を広げるよりは、自分を大事にしてくれる相手にその分を返してあげる方がいいような気もするから」
こういった物事は改めて考え出すと、自分の中でもハッキリした答えの無いまま曖昧にしてきた事が浮き彫りになる思いがする。トモダチって何だろう。つばめにとってのそれは日常の付き合いや関わり合いの中でごく自然に発生し、気付けば一緒にあちこち出掛けたり何かをしたりする、そういう存在だ。それは高校生になった今でも同じ。葉月にせよ順菜や万紗子にせよ、どちらかが「友達になろうよ」と言って友達になった訳では無い。もっと小さかった頃ならそういうやり取りもあったかも知れないが、この場合も相手との関係は既にそれなりの良好さを構築できていて、ダメ押しの一言として「友達になろうよ」が発されただけだったのだと思う。
「だからってワケじゃないけど、多分私はこういう人付き合いの仕方が性に合ってるんだと思う。元々そんなに器用な方じゃないしね。仲良くしてくれる子と仲良くしたいって私は思うし、それが出来れば十分、って感じかな」
「そっか。だよね、それで十分なんだよね、普通は」
いつもより真由の声色が低い。そう思ってつばめは横を見た。隣に並んでいると思っていた真由はいつの間にか、つばめの少し斜め後ろに立っていた。面相こそいつもの穏やかな微笑を保ってはいるが、そのつぶらな瞳は何かを考え込む時のようにほんのりと下方を見据えていて、「真由ちゃん?」と声を掛けたつばめの視線とも焦点が合わない。
「ねえつばめちゃん。つばめちゃんは私の事、友達だと思ってくれる?」
「え、何、急に」
「ごめんね。何となく気になっちゃって」
真由の事を友達だと思うか? そう問われて、つばめの脳裏に選択肢は一つしか無かった。だって同じクラスで隣同士の席で、お昼ご飯もほぼ毎日一緒に食べて、体育や合同授業の時など大体一緒に移動していて、同じ吹部で、帰り道もこうして駅までの道を一緒に歩く事もあって、それで二人のこの関係に他のどんな呼び名を与えれば良いのだろう。だから頭に浮かんだそのままを、つばめは相手への回答としてストレートに口にする。
「もちろん。っていうかもう友達でしょ、私と真由ちゃんは」
そう答えてあげると真由は僅かに目を瞠った。嬉しい、という言葉に続いて彼女の麗しい美貌が満開の花々を咲かせる。それはあたかも、彼女が吹いていたユーフォの音色みたいに。
「北宇治に来てハッキリ友達だって言ってくれたの、つばめちゃんが初めてだよ。これからもよろしくね、つばめちゃん」
「――こちらこそ」
改まってこんなやり取りを交わすのも、どうにも気恥ずかしい。元より白磁の陶器を思わせる頬をほんのり上気させた真由のあでやかな笑顔が眩し過ぎて、目を逸らしながらつばめはもじもじと指を弄る。
「あーっとそうだ、さっき教室の前通りがかった時にたまたま真由ちゃん達が練習してるところを見掛けたんだけど、すっごく上手だったよ、真由ちゃんの演奏」
「あ、そうだったんだ。ありがとう褒めてくれて。北宇治のみんなもとっても上手いけどね、特に久美子ちゃんとか緑ちゃんとか」
「ううん、真由ちゃんぐらい上手い演奏なんて、殆ど聴いたこと無かったからビックリしちゃった。流石は清良女子だね」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど……」
何故か遠慮がちに言葉を濁しながら、真由は困った時のような顔を象った。それを見て、あ、とつばめは思う。この反応は今しがた万紗子や伝聞上の順菜、彼女達の言葉に褒めそやされた自分のソレとそっくりだった。
だからなのかも知れない。互いにとっての初対面だったあの日、この子と仲良くなれたら嬉しいと直感的に思ったのは。
初夏の夕焼けに包まれながら、二人は駅までの残り僅かな坂道を下ってゆく。黒江真由。つばめにとっての彼女は今日この時よりもずっと前から、疑いようもなく友達の一人だった。仮にその全容を、つばめが未だ知らぬままだったとしても。
第一章
そこは彼女の巣となった(完)
……あるいは私も?