あれ以来、つばめと真由の交友はより一層の発展を見せた。だがそうは言っても特別何かこれといった出来事があった訳でもない。六月のあがた祭りへは一緒に遊びに出掛け、修学旅行でも宿舎の同部屋で共に寝泊まりをし、たまに帰りの会う日には少しだけ寄り道をして遊んだりもする、そういう友達同士として当たり前の交流を当たり前に行う機会が増えたというだけの事だ。
真由も真由で少しずつ交友関係の輪を広げているらしく、近頃は吹部の関係者ではない同級生と会話や接触をする機会も増えていて、時には男子にこっそりと呼び出されて席を離れる事もあった。その割にはすぐ戻って来て「ちょっと用事があっただけで、大した話じゃなかったみたい」と相も変わらぬ如才無き振る舞いで同級生達の追及を躱していたのだが。
ああして真由を呼び出す男子達の用事、それをつばめは密かに知っている。呼び出された先の校舎裏や屋上でその男子の告白を受ける真由の姿を目撃したと、他の吹部の女子達が口々に噂していたからだ。それも、何例も。だがその全てを真由はことごとく断っているらしく、夏休みに入った今も彼女が誰かと付き合っているとか、もしくはデートに出掛けていたなどという風聞を耳にする事は一度も無かった。
『だと思うよー。少なくともママ先輩、パートでもそういう話って全然しないし。あーでも、他の子の恋バナとかには結構乗ってくるけどね』
いつぞやの折、それとなくすずめに探りを入れてみた時にはこんな答えが帰ってきた。それに、吹部の活動は朝から晩まで忙しい。コンクールシーズンともなればそれは尚更の事で、だから真由が部外の男子と恋愛関係になって遊び歩く暇など無い事ぐらいはつばめにだって薄々見当がついてはいた。ただ、それを俄かには信じられなかっただけだ。
「真由ちゃんってさ、今まで彼氏作ろうとか、誰かと付き合いたいって思ったこと無いの?」
思い切って本人に問うてみると、それはあたかも「今まで恋人を作らなかったのがおかしい」と相手を難じているような響きにも聞こえた。対する真由はそれに気を悪くしたふうでも無く、むしろ自嘲するかのようにフフッと吐息をこぼしながら、こう述べた。
「別に思わなかったワケじゃないんだけど、私ってそういうのにあんまり向いてないみたいで。前いた学校の友達からも良く言われてたんだ。いつか変な男に引っ掛かりそうとか、真由の恋愛観はどうにも危なっかしい、って」
「そ、そうなんだ」
その友人とやらの舌鋒鋭さに内心ドン引きしつつ、しかし分からなくもない、とつばめは得心の念を抱かされた。何せ真由は他者の悪意というものをまるで考慮に入れていない。地頭も学業も決して悪くは無いどころか人並みよりも優れている筈なのに、こと人付き合いとなるとどこか肝心要の部分が抜けている。例えるならばそれは、首紐を引っ張ればどこまでも無条件に寄ってくる子犬の如き人懐っこさだ。
もしも首紐の持ち主が真由に限りなく好意的で、足元までやって来た真由の事をひたすらに溺愛してくれる善性の塊みたいな人物なのであれば、問題なんてどこにも無い。だが世の中がそんな人間ばかりでない事を知る者達からしてみれば、真由のこの無垢すぎる従順さはそれと隣り合わせで破滅の香りすら漂わせるものがあった。たった一度道を踏み外しただけでずるずると坂を転がり落ちて、そのまま這い上がる事も叶わず谷底を彷徨う事になりかねないという、それほどまでの危うい香り。なまじ真由が性別問わず多くの者から美人と称えられる容姿の持ち主である事も、少なからず相関性はあるのだろう。
人好きのする温和な性格に、異性の目を引くスタイル。そして疑う事を知らぬかのような純粋無垢さ。こんなものを好き勝手に出来る権利を与えられたら、人によっては良からぬ事を企てたとしたって何らの不思議も無い。あるいは件の友人達もそうと考えて、自ら危険に手繰られようとしている真由の人生観をどうにか是正してあげたい、と考えたのかも知れなかった。等と言っても真実がどうであったかは知る由もない事なのだが、真由の身辺を憂慮していたであろうその友人達の気持ちが、今のつばめには実によく分かる。
「でもいつかは素敵な恋人が欲しいなあ、と思ってはいるよ。今は部活とか受験勉強が忙しいから、そっちにはちょっと手が回らないけどね」
「そっか。勝手なこと言っちゃうみたいで何だけど、真由ちゃんにはずっと今のままの真由ちゃんでいて欲しいな」
「ふふ、つばめちゃんも変なこと言うんだね。私は昔からずっと私のままだし、これからもきっとこのままの私だよ」
だから余計に心配なんだ、という言葉は喉のすぐそこまで出かかったが、辛うじて押し留める事が出来た。付き合いを深め真由の人となりを知るにつれ、つばめは少しずつではあるが確実に気付き始めていた。黒江真由という女子の持つ、『普通』ではない一面に。
「ごめんね、いろいろ見て回るの付き合ってもらっちゃって」
「別にそんな。私だって買いたい物あったし、むしろ真由ちゃんが一緒で助かったよ」
お盆期間中の三日間だけという吹部の短い夏休み。その最終日である本日、つばめは真由を誘って宇治市内のショッピングモールまで買い物に出掛けていた。つばめの家からだと少し遠出を強いられる地理関係ではあったが、これは真由の家との距離的な意味での折衷案、といったところである。
先般のコンクール府大会にて無事代表選出という成果を獲得し安堵したのも束の間、次なる関西大会には全国常連の強豪がひしめいている。昨年の北宇治はそこで躓いたが為に、全国金はおろか出場権をもぎ取る事さえ叶わなかった。その難関を突破すべく演奏力強化を図る為の今回の合宿。これまた毎年恒例ではあるのだが、今年の部員達は今まで以上の気概と覚悟でもって臨むに違いない。今日までのお盆休みはそれに向けた最後の羽伸ばし、または調整期間であったと言えよう。
「それにしても、何だかんだで結構買い込んじゃったね。さっきのって『変T』って言うんだっけ? ああいうのも初めて買ったよ」
「なんか知らないけど吹部の毎年の伝統でさ。合宿中は原則体操着なんだけど上は何着てても文句言われないからって事で、部員の何割かが体操着の他に一枚か二枚用意してくるの。中にはありったけ奇抜なのを選んでわざと笑い取りにいく、って子もいるぐらいだし」
「こういう文化も面白いね。清良の時も普通のTシャツぐらいならあったけど、わざと変Tにするって発想は無かったから。みんながどんなの着てくるかっていうのも楽しみかも」
それなら良かった、とつばめは手元のカップを手繰り寄せ、ストローの先端を口に含む。今は二人ともあらかたの買い出しを終え、モール内のフードコートで少し遅めの昼食を取っているところだ。つばめの注文はダブルチーズバーガーにMサイズのポテト、それとコーラという定番中の定番。片や真由の注文はベーコンレタスバーガーにカップサラダにストレートのアールグレイティーと、こちらは何ともヘルシーそうな組み合わせだった。
「真由ちゃんってもっとオーソドックスなもの頼むのかなって思ってたけど、結構あっさり派なんだね」
「そうかな? ただ何となく気分で選んだだけだよ。今日はサラダがおいしそうだなって思ったのと、サラダに合わせるなら甘くない飲み物の方が良いかなって。つばめちゃんこそ、こういう時は変わったものにチャレンジするタイプだったりするのかなって思ってたけど、案外そうでもないんだね」
「食べ物で冒険すると大体痛い目見るからねぇ。親の支払いとか誰かの奢りでってのならチャレンジしてみるのもいいかなって思う事もあるけど、限られたお小遣いでハズレ引いたら勿体ないし」
「現実派なんだ、つばめちゃんは」
「そりゃあ勿論。きょう無駄遣いして首絞められるのは明日の自分ですから」
くすくす、と互いに笑い合い、それからつばめは手にしたダブチーにがぶりと齧りつく。この少々濃すぎるかに思えるチーズの風味とパティの肉っ気がまた、十代の貪欲な味覚には堪らない。
「そう言えばつばめちゃん、さっきバーガーを包装ごと上からギュって軽く押し潰してたけど、あれって何か意味があるの?」
「ん? 意味っていうか、そうすると食べやすいってだけだよ。バーガーってバンズがふわっと乗っかってる事が多いけど、そのままだと食べてるうちにずれたりソースがこぼれたりするでしょ? だからちょっとだけ潰して、一口で噛めるようにしたの。ホラ、」
そう述べて、つばめは自らの歯形がついたバーガーを真由にかざしてみせる。押し潰しにより縦方向の嵩が減った事で、つばめの小さな口でもきれいに噛み切れた断面がそこには形成されていた。行儀が悪いと言われればぐうの音も出ないが、そもそもバーガーとは気楽な食べ物だ。今さら細かい事など気にしたって仕方ない。
「なるほどね。今まで特に気にしたこと無かったけど、そう考えてみるとすごく合理的な気がする」
それに彼女は何かしら感銘を覚えるものがあったらしい。つばめの真似をして包み紙に覆われた自らのバーガーを同じく上から押し潰し、それから真由はおもむろに包みを開いていった。確かにバーガーは平たくなっていたが、つばめの時とは違って中の具材やソースがはみ出るほどにまで潰れてしまっている。
「あー、ちょっと強く押し付け過ぎちゃったかも」
「こればっかりは慣れだね。頼んだものによってもベストな力加減は変わるものだし」
何かに失敗する真由の姿を見る機会も実に珍しい。つばめは些か得意気にポテトをひったくり、その中ほどまでを噛みちぎる。高温の油に揚げられた表面のカリっと感と、そのすぐ内側にて待ち受けるほくほく具合。塩振りの絶妙さもあいまって、ここのポテトがあらゆるバーガーチェーンの中で一番しっくりくる、とつばめは思う。
「すごいね、つばめちゃんは。何でも知ってる」
「え?」
急に真由が変な事を言い出した。残り数センチのところまで齧ったポテトを口から離し、つばめは真由を凝視する。添え付けのプラスチックフォークでサラダをいじる真由の白い手は、生まれてから今までに傷一つ負った事がないかのようにつやつやと淡く輝いていた。
「何でもって、大げさだなあ。どうしてそんな話になるの?」
「だって、そう思ったから。私って引っ越す度に友達もいっぱい作ってきたし、一緒にあちこち出掛ける事も多かったけど、こういう事を教えてもらう機会ってあんまり無かったんだ。だから、つばめちゃんから教わる事の一つひとつが私にはとっても新鮮に見えて」
「大した事なんて何も教えてないよ。学校の事とか私の好きなお笑いの話とか、それとこんな役に立たない事ぐらいしか、私の持ってる知識なんて無いし」
「そんな事無いよ。つばめちゃんに色々教えてもらって私は毎日楽しいし、何よりすごく助かってるもん。学校の事にしろ、吹部の事にしろ」
真由が横髪をかき上げながらおっとりとサラダを口に運ぶその間に、つばめはもう一度バーガーを齧る。バンズの隙間から溢れたソースが口の端にこびりつく感触がして、咄嗟に舌で舐め取りたい衝動を堪えつつ、予め取ってあった紙ナプキンで念入りに口元を拭く。ソースの濃い色を帯びた紙はもはや、丸めてごみ箱へ捨てるぐらいしか使い道がない。
「今日の買い物だってそう。つばめちゃんに誘ってもらわなかったらきっと家にあるものだけで準備済ませちゃってたし、そしたら変Tも買わないままだったと思う」
「まあ変Tは、別に無ければ無くてもいいとは思うけど」
そもそもつばめ自身が変T派では無いし、部員達にしたって全員が全員変Tに命を懸けてるなんて訳でもない。ただ変Tの文化を真由が知らないままだったら幾分かわいそうだなと、そんな老婆心から教えたまでの事だ。
「それが私には本当に嬉しいし、ありがたいなって思ってるんだよ。今までも転校する度に思ってきた事だけど、やっぱり転校して来てすぐの時に優しくしてくれる子がいるかいないかで、その後が全然違ってきちゃうんだよね。私の方から打ち解けたいって思っても、向こうにその気が無いとなかなか打ち解けられないっていうか」
真由の手がようやく主菜であるハンバーガーへと伸びる。細い指先で包み紙を丁寧に押しのけ小麦色のバンズに唇を寄せるその挙動を、つばめは何故だかえらく背徳的だと感じた。
「だからね、つばめちゃんに助けられて、私本当に感謝してるんだ。ありがとうねつばめちゃん。突然転校してきた私と、最初にお友達になってくれて」
「そんな。私だって、真由ちゃんと友達になれて良かったって思ってるよ」
そこで会話がふつりと途絶え、つばめと真由は同時に押し黙った。もぐもぐとバーガーの咀嚼を進める真由を前にして、どうにも手持ち無沙汰な気分になったつばめは殆ど飲み干しかけていたドリンクをズズズ、と音を立ててすする。半分以上が溶けた氷で割合を占められたその液体は、ひどく薄まったコーラの微かな芳香と砂糖の曖昧な甘味がするだけだった。
「あのね、そんなつばめちゃんにだからお願いしたいんだけど」
たっぷり一分近くが経った頃、再び真由が口を開いた。つばめはずり落ちかけていた眼鏡を指で直し、何? と目の前の相手に視界のピントを合わせる。自らの横髪を指先で絡め取るようにしつつ、真由は述べた。
「もしも私におかしなところとか嫌だなって感じる部分があったら言ってね。私、直すようにがんばるから」
――前にも似たような発言をされた覚えがある。さっき飲み下したコーラの水割りが今また胃の底から立ち上ってくるような気がして、思わず噎せそうになったつばめは唇を固く結んだまま、しかと真由を見つめた。こちらを覗き返す真由の瞳は極めて平静に満ちた穏やかな色をしていて、己の発言に少しも迷いや葛藤を抱いていないかのようだった。
そんな事考えなくたっていいよ。真由ちゃんはそのままでいいんだよ。
あの時の自分の回答が真に正しいものであったかどうか、つばめには分からない。真由は少しだけ申し訳なさそうな微笑みを浮かべた後、バーガーの残り一口を食べていた。彼女の手に潰された時はあんなにも不格好だったのに、最後の一片となったバーガーは具材もソースも綺麗にバンズの内側へと収められていて、それを真由がどうやって成したのかがつばめにはひたすら不思議でならなかった。
……府大会の少し前辺りから部内の空気が乱れている。そういう情報は別段自分から聞き込みに行かずとも、吹部に籍を置いているだけで否応なしに耳に入ってくるものだ。つばめは初め、それらの小声を無視していた。いや、正しく言えば耳に聞こえてはいたのだが、だからと言って何か行動を起こそうという気にはなれなかった。それは或いは、他の部員達も同じだったのかも知れない。
誰がどのような思惑を抱えていようが、状況は止めどもなく流れていく。たかが一人のちっぽけな力ではどうしようも無いほどに。
「つばめ、今回もマリンバソロおめでとう!」
順菜に手放しの祝福をされ、ありがとう、とつばめは感謝の意を告げる。続けて万紗子や後輩達からもありったけのおめでとうを浴びせられ、はにかみながらもその胸中は複雑さが七割以上、というのが正直なところだ。
『――次にユーフォニアム。三年、黒江真由さん』
去年までの年一回方式ではなく各大会毎にベストメンバーを抽出するという意図の元、合宿一日目の夜に挙行された部内オーディション。明けて今朝、顧問の口から発表されたその結果に場は騒然となった。
元清良の真由が関西大会のユーフォソリストに選ばれる急展開。と同時に、部長である久美子のまさかのソリスト陥落という衝撃的事態。
盤石と目された人物が落選する一方で思いもかけない人物が席を獲るだなんて、北宇治では過去にも数え切れないくらい前例のあった事だ。だがそれだけでは収まらないものが今回の選考結果、ひいては顧問である滝の今年の采配にあったのもまた、事実として否定のしがたい事ではあるだろう。
明らかに部員達は揺らいでいた。それもネガティブな意味で。彼らの口からこぼれる怨嗟とでも呼ぶべき声が、振り向けばそこかしこから湧き出ている。その事にもつばめは気付いていた。
「マリンバソロおめでとう。それと、良かったねつばめちゃん。黒江さんがちゃんとソリストに選ばれて」
練習の合間にそんな声を同学年の女子から掛けられ、つばめは半笑いで応じつつも大いに困惑していた。実のところ、部員達の何割かはユーフォのソリストが部長から転校生へと交代になったその現実を、ただ現実として受け止めた事だろう。これこそが北宇治の掲げる実力主義。例外なんてありはしない。仮にそれが吹部を維持する為に長年挺身してきた上級生や、今現在部を率いる立場にある要職の人間であっても――そういう苛酷な現実を。
だが、つばめとしてはそうも簡単に片付ける事のできない話でもある。部長。転校生。そんなものは彼女達に貼りつけられた数あるラベルのうちの一つに過ぎない。件の中心人物である二名のユーフォ奏者、久美子と真由。二人はつばめにとって、かけがえのない大切な人達なのだから。
夜の広場、そこかしこに広がる色とりどりの炎と煙。ある者がおっかなびっくり点火した筒から闇をも焦がしそうな火花が立ち昇り、またある者が振り回したスティックの先端から噴き出る青い閃光が闇夜を切り裂く。それに多くの者達が歓声を上げる。全ては例年通りの賑わい。二日目の合宿練習を終えた北宇治の一同は毎年恒例、夜の花火大会に興じていた。
「久美子ちゃん、やっぱり疲れてるみたいだったね」
「だね」
真由の言葉につばめは同意を重ねる。それは先刻の事。花火の広場の片隅で一人座り込む久美子を気遣ったか見かねたのか、どうにかして彼女の傍にドラムメジャーの高坂麗奈を居させてやって欲しい、と真由は言い出した。これを受けたつばめが麗奈に比較的話を通しやすい順菜を呼び、自分達で部員達のレクリエーションタイムを監督するという方便を用意した上で、麗奈にも協力を仰いで久美子と彼女をお風呂へと送ったのだった。その後、久美子と立場を入れ替わるように一人ポツンと座り込んでいた真由に「線香花火、やろう?」とつばめから声を掛け、時は今現在へと至る。
「清良でも、合宿でこんな風に花火やったりしたの?」
「うん。花火だけじゃなくて肝試しもあったかな。先輩がお化け役で、それがメイクも衣装も凄く気合い入ってたもんだから、後輩の子がものすごい悲鳴上げちゃったりもしてね」
「へえ。なんだか意外」
「意外って?」
真由がくりりとつぶらな瞳をさらに丸くする。
「そういう時間、清良みたいな強豪でもちゃんとあったんだなって。清良の事って私達はニュースとかで聞く外側の話しか伝わって来ないからさ。真由ちゃんは実際居た訳だから、内側の話も色々知ってるんだもんね」
「ああ、そっか。確かに他の学校の事なんて、外から見るだけじゃ分からない事の方が多いよね」
「他にもそういう風に、部員同士で遊んだり騒いだりして過ごす事ってあったの? 部活以外の行事とかでも」
「勿論。みんな、何をするにも一生懸命な人達ばっかりだったよ。楽器の練習だけじゃなくて勉強もしっかりやって、校内行事にも全力で取り組んで。青春真っ盛り、っていうのかな、ああいうの。清良の人間でいられる時間はたったの三年間しか無いからって言って、一分一秒も無駄にしたくないって考える人が本当に沢山いて」
「それは、凄いね」
つばめのその相槌は半分が純粋な感嘆、もう半分は自分の知り得ぬ思想の一端に触れたが故のカルチャーショックによるものだった。清良に限らず高校生活はたったの三年間しか無い。そのたった三年を国内有数の名門吹部に捧げると決めた以上、起こる事と得る事の全てを有意義なものにする。そこまでの覚悟を抱いてこの北宇治で活動している人間が、果たしてどれだけいるものだろうか? 北宇治の部員達と清良の部員達、学校や部の歴史および文化。それ以前の問題として、双方に潜在する根本的ロジックの相違。それをつばめはこの瞬間、真由という人間を介して、ほんの僅かながら感じ取ってしまったのかも知れなかった。
「……みんな、怒ってるよね」
え? とつばめは真由を向く。一瞬考え事をしていたせいで気付かなかったが、真由の手にある線香花火には既に火が点いていた。
「私がソリに選ばれた事」
暗がりのせいもあろうか、真由の表情はあまり温度感の無い、それこそいつもと大して変わりの無さそうな微笑にほんの僅かな困惑を混ぜて溶かしたような色合いをしていた。その何とも言えなさに、どうだろう、とつばめは一つ前置きをする。
「怒っては、ないと思うよ。久美子ちゃんは部長だから、ソリには部長が選ばれるべきだって推す声はあったかも知れないけど」
つばめも自分の線香花火をろうそくの火にかざす。ジリジリ、と唸った後にか細い火花を散らし始める火の玉。手元のその地味で儚げな閃光が、つばめにはどうにも愛おしく思えてしまう。
「けど、いつも聞いてて思ってた。真由ちゃんならソリに選ばれてもおかしくないって。だから私はホッとした。滝先生はちゃんと音を聴いてメンバーを選んでくれた。部長だからとか幹部とかそんなんじゃなくて、私達の実力だけを見て誰が相応しいかを判断してくれてたんだって、そう思えたっていうか」
噛み砕くように自身の胸中を整理しながら、つばめはその一つずつを真由に伝えていく。実際こうと思っていなければ、つばめの口が何かを語る事もありはしなかっただろう。例えそれが、真由を慰める為に捏造した全くの出まかせであったとしても。
北宇治は実力主義。耳にタコが出来るほど周りの人達に言われ続け、自分でも口が酸っぱくなるほど発して来た吹部のその在り方は、三年掛けて日陰者からAメンバーソリストの地位を掴み取るまでに至ったつばめにとって、今やそう簡単に否定する事の出来ない絶対的イデオロギーだ。
「私ね、去年アンコンで久美子ちゃんと一緒のチームになった時、久美子ちゃんに訊いたことがあったんだ。『ずっとBなのが当たり前だったこんな私でも、順菜ちゃんみたくAで出たいって思っていいのかな』って」
「久美子ちゃんは、何て答えたの?」
「ダメって言う人なんていないよ、って」
あの日の事を思い出すと、今でも泣きたいぐらいに胸が熱くなる。そう、久美子のあの一言が、つばめの心の奥底にある本心を大空へと解き放ってくれた。私でもうまくなりたいって思って良い。うまくなって、晴れの舞台にみんなと一緒に立ちたい。もしもそれが無ければつばめは今でもソリストどころかAメンにすらもなれず、「どうせ私なんか」と自分を卑下し続ける毎日だったかも知れない。――いやそれどころか、と心のもう一方から湧き上がって来た黒い想念に、つばめは慌てて蓋をする。
「と、とにかく、私も久美子ちゃんに引っ張り上げて貰えたから今こうやっていられるの。だから私は久美子ちゃんの期待に応えたい。きっと私と同じように去年までBメンだった葉月ちゃんや他の子達だってそうだと思う。久美子ちゃんはみんなと一緒にがんばって、上手い子達が選ばれた最高のチームで全国に挑んで、金賞を取りたい。それが久美子ちゃんの望んでる事で、その為に私が力になれるなら力になってあげたいって、私はそう思ってるから」
だから、北宇治の実力主義は正しい。真由もこの結果を気に病む必要なんてこれっぽっちも無い。つばめが伝えたかったのはそういう事だった。二人の持つ線香花火は火花を散らす段階をとうに終え、紙紐の先ではじゅくじゅくと膿んだような火球の粒が今にも落ちそうに震えている。こうなったら終わりが来るのは一瞬の事。その美を果たして隣にいるこの子はどう感じているだろうか。――じゅ、と土を焦がす音と共に火の玉を先に落としたのは、後から火を点けたつばめの花火だった。
「あちゃあ、思ったより早く落ちちゃった」
あとちょっとのところが一番綺麗だったのに。微かな煙を立てる花火の燃えがらを眺めてつばめはぼやく。と、それを見ていた真由がクツリと喉を震わせた。
「優しいんだね、つばめちゃんは。私の事も久美子ちゃんの事も心配してくれてる」
「え、そうかな?」
「そうだよ。だから私がソリになった事も、これは久美子ちゃんの考えに適った結果なんだから大丈夫、って言ってくれてるんでしょう? それを私があれこれ心配しなくたっていいんだよ、って。それってつばめちゃんが久美子ちゃんの事も心配してて、久美子ちゃんの考えに寄り添おうとしてるからなんだと思う」
「そう、なの、かな……」
真由の言葉につばめはしばし考え込む。自分が真由の事を心配していたのは確かだ。その一方で久美子の事をも心配している、という自覚はあまり無かったのだが、言われてみるとそういう気もしないではない。……いいや、もしかしたらこれは単なる後付けの理屈であって、その実『久美子はこう考えている』と決め打ちをする事によって、現在の久美子の心理状態から目を逸らしていただけなのかも知れなかった。
久美子は、本物の彼女はこの結果をどう捉えているのか?
本当に部の為になる事ならそれでいいと、今の久美子は言い切れるのだろうか?
そこに奏者としての拘りや未練は全く無いと、久美子は、つばめは、断言出来るのか?
「あ、こっちも終わっちゃった」
はたと見やると、真由の線香花火の火球もふつりと消え失せていた。燃えがらをつまんで「残念、」とつばめに見せびらかした真由が、おもむろに立ち上がる。
「花火のごみ、捨ててくるね。ついでにちょっとその辺散歩してくる」
「あ、うん。ありがと」
「じゃあまたね、つばめちゃん」
差し伸べた手で二つの燃えがらを掴むと、真由はそのままスタスタと、水バケツの置いてある所へ歩き去ってしまった。ごみを始末した真由が迷いなく付近の散策路へと向かうその背を見送ってから、つばめは肺に溜まっていた息を一気に放出する。真由は、自分のことばにきちんと励まされたのだろうか。そもそも自分は真由を励ますつもりでいたのか、それとも単に真由と花火に興じたかっただけなのか、それすらも今は良く分からない。点火用のろうそくの灯りだけがゆらゆらと視界を照らす中、つばめは辺り一帯に首を巡らせる。
北宇治の部員達は今、自らが掲げてきた『実力主義』がもたらしたこの現状をどう思っているのだろう?
その問いに最適な答えを出してくれそうな者は、少なくともつばめの薄弱な視力で捉えられる範囲には一人も見当たらないのだった。
合宿の三日間を終え、部内はいよいよ関西大会へ向けて大詰めという局面を迎えつつあった。緊張感と熱意が最高潮に漲る本番前のラスト一週間。だが今年はそれ以外にもう一つ、部員達の間に蔓延しているものがあった。
今回のオーディションに落ちた者達がこぼす恨み節。それが顧問である滝への不信を根源としていたのは疑いようもない。一方では滝を擁護する者達を中心とし、彼らと同じ意見の持ち主や幹部を含めた今年の吹部の指導体制にまで疑念を唱える者達を腐すような声も聞かれるなど、部内の空気はお世辞にも良いものとは言えなくなりつつあった。
「そっか。やっぱりリーダー会議でもそういう空気になってたんだ」
「順菜ちゃんが言うにはね。一応落ち込んでる子のケアは各パートで個別にしていくって話にはなったらしいんだけど、部全体の方針としては今まで通り行くって事でまとまったみたいで」
合宿明け初日の練習を終えての帰り道、真由に誘われ一緒に下校したつばめは、これまた真由に尋ねられた事柄を自分の知り得る限りで回答していた。別に情報のあやふやな自分なんかに訊かなくたって、真由ならば自身の所属する低音パートのリーダーである緑輝辺りから直接訊き出せば良い筈なのだが、彼女がそうしないのには何か理由があったのだろうか。
久美子には、訊けなかったろうな。つばめはそう推量する。あの合宿の日以来、真由と久美子の関係は決定的に破綻したという訳でもなさそうだったが、かと言って以前のように気楽なやり取りが出来ている様子もとんと見られなかった。
「確かに高坂さんの言うように曲自体の完成度は上がってるし、ここへ来て活動体制に大きな修正掛けるのも却って後が怖いからってのもあるにはあるんだと思う。部全体で対応するとしたらその分時間も気力も取られるだろうし、それで演奏の調子を落としたら関西がどうなるか、って言ったらね」
緩く息を吐きながら、つばめは虚空を見上げる。『鬼のドラムメジャー』などと呼ばれる麗奈はこの吹部内でも人一倍音楽に厳しい。かつて彼女とアンコンで同じチームにいたつばめだからこそ、麗奈の気質はよくよく知り得ている。現状維持の方針をリーダー会議の場で強く打ち出したのも彼女だったそうだし、恐らくその見立てに誤りは無い。何せ麗奈ほど音楽的能力に長けてはいないと自認するつばめでさえ、今年の北宇治の演奏力が去年のそれを大きく上回っているという実感を得ているぐらいなのだ。
「高坂さんの言いたい事は解らなくもないんだけど、それもどうかなって私は思っちゃうな」
「って言うと?」
真由が誰かの意見に反論調の物言いをするなんて珍しい。そう思いつつ、つばめは続きを促す。
「コンクールで勝てるかどうかに関係なく、レベルの高い音楽をしようと思ったら要求される水準もやっぱり厳しくなるものだとは思うの。けどそれが原因で部の空気が悪くなって、結果的にたくさんの人達が嫌な思いしながら吹くのって、誰も得しない事じゃない? ついて来れない子が出てくるのはしょうがないにしても、その子達の不満や文句に引きずられる状況にはあんまりメリットが無いって言うか」
「え、」
氷水を浴びせられた時みたいな衝撃に、つばめははくりと瞼を見開く。それは真由が至極真っ当な正論を述べたからでは無かった。損得勘定。ドライで怜悧なその理屈が他ならぬ真由の口から出てきた事が、何より驚きだったからだ。
「部の目標を第一に考えるなら勿論、上手い子を揃えて一生懸命練習して、これがベストだって思える状態で本番に臨むのが何よりなのは確かだよ。でも、今の北宇治の状態って本当にベストだって言えるのかな。みんな何処かで納得出来てなくて、何かしら言いたい事を我慢しながら一番上手い演奏に拘り続けるよりだったら、今と同じぐらいのクオリティで演奏ができて部の全員がもっと気持ち良く活動できる、そういうメンバーを選ぶっていう選択肢だってあると思う」
「それは。でも、そんな事言ってたらコンクールは、」
「強豪校の沢山いる関西大会を突破なんてできるワケがない。つばめちゃんはそう言いたいんだよね?」
真由に思考を先読みされ、がふりと喉をつっかえさせながらもつばめは首を縦に振る。んー、と顎に手を添えてほんの数秒、真由は思案のそぶりを覗かせた。
「大会の結果がどうなるかまでは私にも保証できる事じゃないけど、少なくとも今の北宇治だったら何人かはメンバーを入れ替えたって、全体の演奏にそれほど大きな差は出ないんじゃないかな。つまりは結果も変わらない。だったらほんのちょっとの上手い下手に固執しないで、長年部に貢献してきた上級生や周囲に推されるような子をメンバーに入れて部全体の士気を高める方が、結果的にもっと良い演奏にも繋がる。つばめちゃんだってそう思わない?」
それは。あまりにも超越的過ぎる真由の意見に、どうにか追い縋ろうとするつばめの声はもう声にならなかった。それでは北宇治の実力主義が完全に崩壊する。自分達の信じて進んできた道が根底から覆されて、何を頼りに頑張ったらいいか判らなくなってしまう。……けれど実際にそうやって歩んできた道のりの果てが北宇治のこの現状だ。上手くはあれど息苦しい。不満の火種を消し切れない。この事実を眼前に突きつけられれば、つばめには何も言えなくなるのだった。
果たして今が北宇治のベストオブベストなのか。それとももっと良い状態となり得る為のカードが、実は手の内にあるというのか。仮にこの演奏で仮に関西を切り抜けられたとして、次に待ち構える全国大会はそれ以上の魔境だ。二年前の時だって、準備万端整えて意気揚々と乗り込んだ北宇治が持ち帰れたのは銅賞という、実質参加賞並みの成果、それのみ。今年の自分達の目標は全国金賞。『今年もただ名古屋で演奏してきました』では、それこそ部員の誰もが納得しない。
「私ね、思うの。こないだのオーディションで何人か実力のある子がAメンから外されちゃって、ユーフォのソリも久美子ちゃんから私になって、この結果を部のみんなが一人残らず納得できてるならそれでもいい。でもね、もしも納得できない子の方が多くて部の空気がおかしくなっちゃうのなら、やっぱりそのやり方に拘るべきじゃないと思うんだ。人の気持ちを変えるのは、一番難しい事だから」
「でもだからって、関西大会までもう一週間も無いワケだし、こないだ決まったメンバーをまたすぐ変えるっていうのも流石に難しいんじゃないの?」
「そうだね。だから、今回はこれで仕方ないかなって。次からならまだ間に合うと思うし」
つばめの背筋がぞくりと震え上がる。次も何も、ここで転けたら自分達三年生はそれでおしまいなのだ。先の事なんて考える余裕は全く無い。なのに真由には、この子の眼には、一体何が見えているのだろう? さっきは大会の結果なんか保証できないと言っていたのに、今しがた述べられた真由の語調と内容は、まるで関西大会で代表権を勝ち取ることを確信しているかのようなニュアンスだ。
「でももし全国に行けたらその時は私、また久美子ちゃんに言おうと思ってるの。ソリ辞退するね、って」
――は? つばめは我が耳を疑う。ソリを辞退? ただでさえ混乱していたところへ更に叩きこまれた想定外すらをも遥かに超えるその一撃に、つばめの大脳は完全に機能を停止してしまった。
「え、いや、って言うか、『また』って?」
「あれ、つばめちゃんに言ってなかったっけ? 私、今まで何度か久美子ちゃんに訊いてたの。オーディション辞退できないかとか、こないだのオーディションの後もソリ代わろうか、とかって」
「……初めて聞いたよ、今」
「ああごめんね、ビックリしたでしょ。急に変なこと言い出しちゃって」
「ううん。別に、変ってワケじゃ」
というかそんな事より、面と向かって真由にソリを代わろうかなんて言われて、久美子は怒ったのではないだろうか? つばめの心中は焦りに近い動揺の念に駆られる。少なくとも自分ならば、だ。演奏会ならまだしもコンクールの大舞台で『ソリやりたいなら代わったげるよ』と誰かに言われて、ワアありがとう、なんて無邪気に喜ぶ事は出来そうも無い。例えそれが順菜や万紗子といった、ごく近しい人からの進言だったとしても。
「でも、その度に久美子ちゃんには断られちゃって。北宇治は実力主義だし、各パートで上手い人が選ばれてベストメンバーで挑むんだから、って言われるの。もちろん私も北宇治のやり方には出来るだけ合わせようって思ってやって来たし、今度の関西大会でも本気で吹くつもりだよ。だけど、全国大会ではやっぱり久美子ちゃんがソリを吹くべきだって思うんだよね、私」
「……どうして?」
恐る恐る、つばめは真由に尋ねる。答えはもう、先に言われていたというのに。
「だって、その方が北宇治の為になるから」
結局あの後は結論らしい結論を見る事も無いまま、話はうやむやになった。真由と駅で別れ、ひとり電車に乗ったつばめは、脇に置いたスクールバッグにその身を預けるように寄りかかって座っていた。
「私、何か思い違いをしてたのかな」
そうも言いたくなってしまうぐらい、さっきの真由の言動は明確に、つばめの中にあった既存の真由像を粉々に打ち砕くものだった。優しくて、おっとりしていて、友達思い。当初抱いたそれらの個人的印象は今でも何一つ変わっていない。けれどそういう表層の一枚裏側にあるもの、黒江真由という人物を形成する内核の部分。そこに関してはまるで見えていなかった。
真由は恐らく想像以上にしたたかな人物だ。北宇治についても周囲の人間関係についても、彼女はただあるがままを諾々と無思考に受け入れているのではなくて、表向きそうしつつも常に冷静な観察と思索をし続けていたのだと思う。でなければ現状の北宇治についてあんな事は言えないし、その解決策として久美子にソリを譲るだなんて発想が出てこよう筈も無い。少なくともつばめには、そんな解決策など思いつきもしなかった。
『優しいんだね、つばめちゃんは』
『それってつばめちゃんが久美子ちゃんの事も心配してて、久美子ちゃんの考えに寄り添おうとしてるからなんだと思う』
何処がだ、と今では思う。あの日以来、つばめは久美子自身の本音を聞き出すどころか直接対話した事すら一度だって無い。それは近頃の久美子の苦悩を帯びる表情を見るにつけ、己の考えに自信を失いつつあったからだ。久美子は北宇治における実力主義派の急先鋒。誰にも分け隔てする事の無い、絶対的基準に基づく冷厳かつ公正な裁定を何よりも尊ぶ人。ずっとそう思ってきたし、だから今回のソリ落選という結果にもきっと彼女なりに納得はしているのだろうと、そう信じてもいた。
けれど、全くショックを受けなかったかと言えばそんな事も無かった筈だ。一年生の頃から上級生をも押しのけコンクールメンバーに選ばれ、二年生の時には課題曲のソリストも務め上げた、名実共に北宇治ユーフォのエース。その他各種の演奏会でも一昨年の冬からずっと、ユーフォのトップ奏者を意味する楽団中央寄りの座席に据えられていたのは久美子ただ一人であり、それは三年生となってからもつい先日まで変わる事は無かった。首席奏者としてのプライド。自分にいまいち欠けているその概念が久美子には存在する可能性を見落としていた時点で、彼女に関するつばめの洞察は全く足りていなかったと言わざるを得ない。
――でも。
「真由ちゃんがそこまで考えてたのが久美子ちゃんを心配しての事だった……っていうのも、多分違う、よね」
漠然とした発想ではあったが、これを否定する材料がどこにも見当たらない。もしも真由が久美子のそういう諸々の心情を余すところなく把握した上で、彼女の事を本心から気遣うつもりでいたのなら、何度考えたってやはり「ソリの座を譲る」などと直接進言するのは逆効果もいいところだ。近頃見受けられた久美子の苦悩もひょっとしたら、その半分ぐらいは真由の度重なる打診に原因があったのでは、という気さえする。
一奏者としての願望はともかく、北宇治の部長でもある久美子が真由からのその施しとも取れる権限譲渡をありがたく頂戴する筈が無い。いや、したくとも出来ないに違いない。実力主義を標榜する吹部の統率者である久美子が自らそれを裏切るような行為に手を染めたら、部内の誰もが今以上に納得できなくなる。自分や先輩達の味わってきた思いは何だったのかという話になり、最悪の場合は部の体制そのものが瓦解する。そうしてBメンどころかAメンをも巻き添えにしてガタガタになった今年の吹部が、果たしてコンクールでどんな結末を迎えるか――自分などよりも遥かに聡明な真由に、それが解らぬ筈は無い。
では何故、相手を苛む事になってでも、真由は自分よりも久美子がソリを吹くべきだと主張し続けるのか。そうなる事が北宇治のベストだと信じているだけなのか。あるいはそうした方が彼女の主張するように、北宇治にとって本当のベストとなり得るのか。その前では個々の悩みや拘りなど実にちっぽけなものでしかないと、そう真由は言いたいのか。
「……疲れた」
目を閉じ、つばめは一旦思考を放棄する。練習によって生じた肉体的疲労と諸々のせいで負った精神的疲労がダブルパンチで嵩むこの状況では、とてもじゃないが冴えた答えを導き出せるような気がしなかった。
もう眠り落ちてしまいたいぐらいなのに、電車に揺られる体がつばめの脳を止めどなくノックし続ける。お前は何が正しいと思うのだ、と。
第二章
止まり木は二つに割れた(完)
……私の心も真っ二つ。