「――そんではご唱和下さい。北宇治ファイトー!」
「オー!」
チューニング室に北宇治一同の鬨の声が響き渡る。関西大会本番直前、恒例の部長演説によって決意を固めた部員達はいずれも闘志に漲る表情を湛え、舞台袖へと向かうべく続々と通路に出ていった。
「ホラつばめ、私達も行くよ」
「うん」
万紗子に急かされつつ、つばめはユーフォパートのところへ合流した久美子をちらと見やる。久美子も真由も、今は平静を保った顔つきをしている。それはいざ本番を前にして、自分達のやるべき事が一つに定まったからなのかも知れない。久美子は部長として皆を牽引する。真由は奏者として出来得る限り最高の演奏をする。遠目に見る限り、二人は会話らしい会話こそ殆どしていないみたいだったが、それでも摩擦や衝突の痕跡を感じさせないぐらいには双方迷いを振り切れているのかも知れない。例えそれが、本番を終えるまでの一時の事であるにせよ。
「ボケっとしてないで、私達もがんばるよ。絶対に関西抜けて全国行こう」
順菜の発破がつばめの耳を震えさせる。確かにそうだ。今は人の事にかまけてなんていられない。本番の舞台に立つのは自分も同じであり、しかもマリンバソロの重責もある。これを完璧に果たさずしてその先など有り得ないのだから。つばめは右手で自分の左腕をぎゅっと掴む。この二の腕を覆う北宇治の冬用制服。コンクールのステージ衣装を兼ねるそれを今この場で着ている意味を、手触りを通じていま一度胸に刻む。今日この舞台に立つ者も立てない者も、部員達の願いはただ一つである筈だ。
「うん。頑張ろう」
決然と順菜に頷きを返し、つばめは前を向いた。ここからの数十分は演奏の事にだけ集中する。それ以外の事は全部、本番が終わってから考えればいい。今の自分が久美子の為に、真由の為に出来る事。それは彼女達と同様、自分に出来る最高の演奏をする事だけなのだから。
「やー、しかし無事抜けられて良かったよー。これでもしダメ金に終わりでもしたらどうしようかと」
珍しく気の抜けたような声を洩らした順菜に、隣の万紗子がくすくすと笑みを返す。
「ホントだよね。あのまま関西で終わったら今頃最悪な事になってただろうし」
「最悪どころかゼッタイ地獄だったって。そりゃもう去年なんか目じゃないぐらいにさ」
「それねー。去年のステージ発表の時なんて、お客さんの『おめでとう』って声がザクザク胸に刺さるみたいで、いたたまれないの何のって。まあ金賞って言ったら普通は最高成績なワケだし、実際悪い成績でもないんだからそう思われるのもしょうがないんだけどさ」
ゴロゴロ、と廊下に響く音は順菜達が運んでいるビブラフォン、その足についているキャスターが転がる音だ。今日は北宇治の文化祭。先ほど体育館にて催された吹奏楽部の出番を終えた一同は、こうして撤収の為に楽器運搬をしている最中なのだった。
「でも関西抜けていよいよ全国、かぁ。これが問題万事解決済みだったら良かったんだけど、そういうワケでも無いのがネックだよね」
「だよねえ。うちのパートはまだマシな方ではあるけど、他は結構大変な所もあるみたいだし」
「ホルンとか特に大変らしいからね。パート内完全真っ二つだって、美千代も愚痴ってたし。他にも関西オーディションでメンバーの入れ替えがあったところを中心に、一、二年生が不満言ってるなんて話もちょこちょこ聞いてるしさ」
誰に憚る事無く順菜と万紗子がこんな突っ込んだ話をする事が出来ているのも、他の後輩達が別の楽器を先に運んでいったからだ。小物類ならばまだしも、大柄で重量もある打楽器の運搬には人手が要る為、多くは担当パートに依らず部員総出で取り掛かる事になる。しかし打楽器も楽器。落としたりぶつけたりが論外なのは勿論の事、下手な箇所を持って運べばチューニングが狂ったり、最悪の場合壊れてしまう。かくもデリケートな扱いを求められる以上、楽器一つに最低一人はパーカスの人間がついて回らなければ少々どころでなく危なっかしい。
そうしてパートの各員が方々に散ると、周囲はお祭りの熱気に沸く生徒達や来場客の喧騒があるばかり。それなりの声量で喋っても、それを聞きとがめる者など居やしない。この点、部室や登下校路などよりもよっぽど秘匿性が担保された今の状況下において、普段は固く絞られている順菜と万紗子の口が緩んでしまったのも詮無き事と言えるだろう。
「つばめはどう思う?」
「え。あっと、」
急に万紗子から話を振られ、つばめは身を竦ませる。話を聞いていたには聞いていたのだが、実のところその殆どはただ耳にしていただけで、頭の中まで入って来てはいなかった。
「ごめん、どういう話だっけ?」
「だから、今の部の空気だよ。本当にこのままでいいのかなって」
「あぁ、うん。確かに今のままじゃまずいかも、だよね」
「やっぱそう思うよね。あー、どうしたらいいんだろ。こんな空気の中じゃ練習だって身が入んなくなっちゃうよ」
万紗子のその嘆きは、日々の演奏を楽しむ事を生き甲斐にしている彼女にとって切実な問題だったに違いない。それに同意するかのように順菜も深々と溜め息をこぼす。部室に戻れば自分達は最上級生だ。こんな陰気くさい顔、後輩達に見せる訳にはいかない。立場ゆえにつきまとう抑圧感と閉塞感。それがこんなにも窮屈でうざったいものだなんて、つばめもつい先日までは思いもしなかった。
「……とにかく、チャンスがあったら声上げるようにしよう。私も次のパーリー会議でまた提案かけてみるし、今の状況で良いと私達が思ってるわけじゃないって事は、何かしらの方法で幹部や滝先生に伝えなきゃダメだと思うから」
順菜の提言に、そうだね、と万紗子も頷く。二人に合わせてつばめも一応は首肯するフリをした。しかしその頭の奥ではずっと、先日の真由との会話がいつまでも消えぬ残響のようにこんこんと鳴り続けていた。
『全国大会ではやっぱり久美子ちゃんがソリを吹くべきだって思うんだよね、私』
「……部の空気、かぁ」
家へと帰り着いたつばめは部屋の明かりも点けず、制服姿のままでベッドへと倒れ込んでいた。あの後は順菜も万紗子も重苦しい話題を口にすることは無く、いつも通りの明るい調子でパート員達をまとめ、その場は解散となった。クラスの出し物の当番も終えた後、つばめは同じく当番明けで暇そうにしていた真由を誘い、校内の出し物や展示品を見て回るなどした。その間、部活に関する話題は一切無し。真由という子はそうしていれば、実に全く人畜無害な存在だった。
『うわあ、凄い。今までテレビとかでしか見た事無かったけど、書道パフォーマンスって生で見ると随分迫力あるね。さっきのダンス部の演目も飛んだり跳ねたりでカッコよかったし、きっとみんなたくさん練習してきたんだろうなあ』
『釣り堀コーナー、けっこう面白い景品取れたね。カエルの巾着袋にビーズアクセセット、それと白いひまわりのファイルクリップ。きっと全部手作りだよね。つばめちゃんはどんなのが釣れた?』
『美味しかったね、弥生ちゃんのクラスのクレープ屋さん。自信あるから絶対来てって言うだけはあったなぁ。あんなに色々な具が入ってるのに味同士がケンカしないだなんて、やっぱり弥生ちゃんってクレープ作りのセンスあるよね』
こんな風に始終にこやかな真由と共に、つばめも今日ばかりは心置きなく楽しいひと時を過ごす事が出来た。だって、真由が吹部や久美子の事をどう考えていようが、その鋭さが自分に向く事は絶対に無いと判っていたから。そう、あの子は決して悪い子なんかじゃない。吹部の事も部員達の事も、恐らくは久美子の事も、決して否定的になんて見ていない。その事だけは、曲がりなりにも彼女と半年近くの日々を友人として過ごしてきた自分だからこそ断言出来る。
だが、だからこそなのだ。真由が久美子にソリを譲ろうとしている動機とその理屈。考えれば考えるほどそれは、真由の思考が他の誰よりも正解に近いところにまで到達してしまっているがゆえの事としか思えない。関西突破という成果を得てもなお悪化の一途を辿る部の空気、奏者久美子の地位と彼女の屈託、これらの問題を一挙に解決して北宇治を全国金賞という最大目標に導く。それには部長の久美子をユーフォソリに据える事でもって部内に燻る不満を鎮火する、というのが最善手なのではないか? ……こんな発想が、つばめの内側でも日増しに膨れ上がりつつあった。
真由の言う通りにした方が、結果的に北宇治の為にはなる。だが仮にそうだとして、久美子本人やそれ以外の実力主義を信じる子達の想いはどうなるのだろう。誰かの大事にしている想いを置き去りにしてでも目標達成のみを第一に追求するというのならそれは、実力主義の名の下に全てを斬り伏せ邁進してきた今までと一体何が違うのか。つばめには、それが未だに解せない。
「たーだいまぁー。あ~お腹減った、ご飯ご飯ー。っとその前に、お姉ちゃんお姉ちゃんー」
廊下からすずめの呑気な声が聞こえてくる。きっと文化祭の撤収作業を終えた後、いつもの仲良しグループとどこか寄り道でもしてきたのだろう。今日は本番後という事もあって吹部の活動も早めに上がりとなり、明日からの練習に備えて英気を養うだけの猶予が与えられた。そのなけなしの余暇をすずめは友達と過ごす事に充て、つばめはまっすぐ家へと帰って休養する事に充てた。この違いが両者の帰宅時間の差だったということだ。
「お姉ちゃーん、今日も本番がんばったから匂い吸わせて~……って、部屋真っ暗。もしかしてもう寝ちゃった?」
ノックも無しにドアを開けてきたすずめに、起きてるよ、とつばめは這いずり声で返事をする。それに安堵したのか、すずめは入り口傍にある照明のスイッチをパチンと押した。暗闇から一転して光に満ち溢れる室内。その眩しさに幻惑され、つばめはしばし目を瞑る。
「ありゃ、着替えもしてなかったの。でもまあそれはそれで濃い味になってるから良し! てなワケで、お姉ちゃん吸わせて~」
「はいはい、それはいいから」
どかどかとベッドにまで上がり込んできたすずめの抱擁を押しのけ、つばめは上体を起こす。期待していたご褒美に与れなかったすずめは床に座り込み、ぶー、と膨れっ面を向けた。
「ねえすずめ。最近の低音パートの空気ってどんな感じ?」
「へ? くうき?」
「うん。例えば練習中の雰囲気とか、パートのみんなの仲とか」
「うーん、仲か。そうだなぁ」
顎に手をやって、すずめが数秒ほど思案顔を浮かべる。
「別に悪くは無いと思うよ。府大会関西大会とオーディションで色々あったりはしたけど、基本的に先輩達みんな良い人だし。葉月先輩はいつでも一生懸命で、みっちゃん先輩は指導が的確、さっちゃん先輩は優しいけどがんばり屋さんで、先輩達の事は私も弥生もスッゴク尊敬してるもん」
「そうなんだ」
尊敬。すずめの口からそんな言葉が出てきた事に、つばめの胸は少々ほわりと温かくなる。
「それに緑先輩は音楽に詳しくてフォローも上手でしょ。求先輩はちょっと怖い時もあって距離感の難しい人ではあるけど、でも普通に話す分には普通に返してくれるし、きっと悪い人じゃないと思うな。この二人は時々ちょーっとアヤしい雰囲気になってる事はあるケド~、男女間的な意味で」
にしし、とすずめが白い歯を浮かべる。確かに傍から見ていても、あの二人は親密の度合いが他とは一線を画しているように窺える時がしばしばある。後輩部員の間でも『あの二人は絶対にデキてる』等と噂されている場面を、つばめは何度か目撃していた。……まあそれ自体は何だっていい。つばめにとっての核心部分ではないから。
「ユーフォのみんなは、どう?」
ここまでの流れに沿うようにしてつばめが問うた時、すずめの眼鏡がぎらんと光を放ったように見えた。聡いすずめの事だ。きっと今の質問一つで、こちらが何を訊き出そうとしているかはおおよそ予測がついたに違いない。けれどそんな気配はおくびにも出さず、さっきまでと同じような調子ですずめは述べた。
「久美子先輩とママ先輩は、まあ色々あるみたいだよね。でも練習中の会話とかは普通にしてるし、佳穂も二人の事は心配そうにはしてるけど、だからって特に居心地悪いって事も無いみたいだよ」
「そっか」
つばめは幾許かの安堵を得る。この春ユーフォに配属された佳穂は久美子達の言わば直属の後輩であり、従って久美子達に最も近いところにいる人間だとも言える。その佳穂が大丈夫だというのであれば、あの二人の関係もきっと、つばめが懸念する程の破滅的事態にまでは陥っていないのだろう。少なくとも、後輩達の前では。
「それとまあ、奏先輩が久美子先輩達の間に入ってるってのも大きいのかなー。仲を取り持ってるっていうのとはちょっと違う気もするけど、緩衝材っていうかフィルタっていうか、うーん何て言うんだろああいうの? とにかく奏先輩がいる事で久美子先輩と真由先輩も適度な距離を保ててるって感じ」
「ふうん。奏って二年の子だよね、あのおかっぱ頭の」
「ショートボブ、って言ってあげようよ。奏先輩はカワイくないの嫌いな人だしー」
本人のいない所での会話なんだし好きにさせて欲しい。そう思いつつ、つばめはベッドのシーツをきゅっと握り込む。この分だとすずめは真由の「ソリを辞退したい」という意思を知ってはいなさそうだ。もしかしたらこの件は当人同士だけの秘密となっていて、パートリーダーの緑輝や副部長ら幹部陣にすら共有されていない事柄なのかも知れない。だがもしもすずめが、他のパート員達が、どこからか真由のこの言動を聞きつけたとしたら? ――そんな想像は、正直あまりしたくなかった。
「ねえねえ、お姉ちゃんは?」
「ん? 私がどうしたって?」
「お姉ちゃんは今、部活楽しい?」
無垢に問うてくるすずめを前に、つばめは一瞬考え込んでしまう。それがもう答えだった。即答出来ない。去年の秋からつい先日までなら、間髪入れずに「楽しい」と言えた筈だったのに。心の奥底で疼くこの感触は、ずっと昔にどこかへ捨て去った筈の薄暗い何かだった。
文化祭が終わった翌週土曜日の基礎合奏練習前、事態は急転直下した。
「合奏の前に、私から話があります」
指揮台上の久美子、北宇治の部長である彼女の発した予定外の演説は、本人の心の奥底にあったものをただありのまま切々と紡ぐものだった。
北宇治をどんな場所だと思っていて、そこに居る者達にどう在って欲しいか。初めて露わにされた久美子の本音。それに部員達の誰もが心打たれ、あるいは発奮し、自分がどうあるべきかという指針を各々見定める事が出来たのはもはや語るまでもない。つばめの魂もまた大いに震えた。時おり涙をこぼしながらも部員達へ向けて懸命に想いを訴える久美子は、やっぱり自分の信じた久美子だった。
「部長、今こそアレだろ」
「アレって?」
「例のやつ」
そう言って、トロンボーンの第一席に座る副部長が握り拳を顔の高さに構えた。他の部員達も波打つように同じポーズを取り、後は部長の一声を待つのみとなった。制服の袖で目頭を拭った久美子が姿勢を正して息を吸い、「それではご唱和下さい!」と力強く宣言する。
「北宇治ファイトー!」
「オー!」
音楽室に北宇治一同の鬨の声が響き渡る。ついさっきまで室内に籠っていた鬱屈とした空気は、気付けばもういずこかへと消え失せていた。関西大会の時の様相とも違う。部員全員、ただ一つの目標に向けて明後日からの今年最後の部内オーディションに臨む、結果がどうあれそれを受け止め自分に出来るベストは尽くしたと言い切って本番の日を迎える、そういう決意と気概を一人残らずありったけ放っていた。
「久美子先輩、あの、今お時間いいですか?」
指揮台のところでは佳穂がデジタルカメラを構え、真由や奏も呼び寄せて四人だけでの写真撮影会を始めようとしていた。きっと今日という記念すべき日を記録という名のかたちに換えて残しておこう、と彼女は考えたのだろう。ぎこちない笑顔を浮かべる久美子と真由の姿がそこに並んでいるのがどうにも可笑しくて、つばめも遠目ながらについついその光景を凝視してしまう。
「はい、北宇治――」
「え、何それ」
パシャリ。呆気に取られた久美子達の間抜けな顔に、焚かれたフラッシュが浴びせられる。もう一回、という久美子のコールでもう一枚、今度は佳穂自身も加わってさらにもう一枚。なんとも仲睦まじそうにしているユーフォパートの集まりを見て、つばめの目頭にもツンと熱いものが滲んだ。
――全国大会まで残り一ヵ月半。ここからならきっと立て直せる。北宇治も、久美子と真由も。そう確信を抱けるだけの光景が、目の前には広がっていた。
「……そうなんだ。パーカスの子達も大変そうだね」
「まあ幸い他にティンパニーの練習してた子が居たから、今はその子が猛特訓中なんだけどね。筋は良い子だし、この調子なら全国の本番までは多分間に合うと思う、って順菜ちゃんも言ってた」
翌日。廊下で一人練習に励む真由のところを訪れたつばめは、本題の前にまず身辺の近況を喋るところから始めていた。パーカッションの二年生ではエース級の奏者だった心子のメンバー離脱、という緊急事態。関西大会の前後から違和感を感じつつも我慢して演奏をし続けた事が仇となり、重度の腱鞘炎を発症してしまったのがその原因である。当然ながら腕が完治するまで演奏はドクターストップ。明日明後日のオーディションは勿論の事、来月下旬に迫る全国大会出場も絶望的。その代役として急遽抜擢された二年生・林來理の演奏力向上が、目下パーカッションパートの急務となっていた。
「まあ不幸中の幸いって言ったらおかしな話だけど、ティンパニーの代理が務まる子が居たのは本人的にも救いではあったみたい。もちろん悔しそうにはしてたけどさ。私達三年生の最後のコンクールに致命的な迷惑を掛ける事にならなくて良かった、とは言ってたし」
「本人なりに納得は出来てる、って事なんだろうね。何にしてもその後輩の子も可哀想。早く治るといいんだけど」
「本当にね。って言ってもしばらくは安静にしなきゃいけないらしくて、もしも想定より早めに治ったとしても、練習できない期間を考えたら本番には出られないって判断にはなったんだけど」
つばめと真由、両者の間は教室の内外を分かつ窓付きの間仕切りによって隔てられている。その窓枠のレールに肘をつき、廊下側に座る真由と目線の高さを合わせるようにして、つばめは対話の姿勢を取る。
「こんな風に突然のトラブルでメンバーが入れ替わる事って、清良でもあったりした?」
「んー、私が居た時には無かったけど、卒業した先輩達の代でなら時々あったって話は聞いたかな。清良の場合はコンクールだけじゃなくてマーチングもあったから、練習中の怪我も付きものだったの。だから控えのメンバーもいつでもAに入れるように同じだけの練習をしてたし、ソリストを本番直前に決定する時もあったりして」
「へえ」
「それでも、一度決まったAメンバーはよっぽどの事が無い限りはそのままメンバーとして出場するんだけどね。よその強豪校の中には一回Aメンに選ばれても練習中の出来が悪かったらその場で外される、ってやり方をしてるところもあるみたい」
「言われてみれば、立華もそんなだっていう話を聞いた事があったかも。ああいう学校って『部員の層が厚い』って良く言われたりするけど、要はそういうことなんだろうね」
例えAに選ばれたとしても、それは決して以後の安泰を確約するものではない。何故なら控えの奏者でさえ、いつでもレギュラーに取って代われるだけの実力者揃いだから。それが強豪と呼ばれる団体の本質なのだと思うと、つばめは恐ろしくなってしまう。そういう猛者とも呼べる学校ばかりが集う全国の大舞台において、自分達は金賞獲得という大業を成さんと目論んでいるのだ。これがいかに困難で過酷なハードルであるか、それを改めて直視させられたような心地がする。
「それにしても、凄かったよね。昨日の久美子ちゃんの演説」
話題が一旦落ち着いたところで多少わざとらしく、つばめは話題の切り替えにかかる。真由は明日のオーディションに向けた最終調整の真っ最中、こっちも練習の合間に抜け出している身なのだ。互いの為にもあまり悠長にはしていられない。
「あの一言で部の空気が一斉に塗り変わって、やるぞ、って気持ちになって。流石だよね久美子ちゃん。部長に選ばれただけの事はあるよ」
「本当そうだね。北宇治の部長って、前の代の部長さんからの指名で決まるって言ってたよね?」
「そう。一応その前に新三年生会議っていうのがあって、部長指名を受けた人を信任するかどうかの多数決を、次の年に三年生になる子達だけでするんだけどね」
久美子の時は全会一致で文句なしの可決だった。その理由は多分、この年に彼女が一年生指導係として多数の新入生をサポートする活動をしていた事と、そのさらに前年には部内で勃発した幾つかの大きなトラブルを彼女の関与によって見事に収めてみせた、という諸々の実績を買われた結果だったのだと思う。それに比類する活躍をした部員なと、自分達の代では他に類を見ない。
「だったらやっぱり、久美子ちゃんには元から部長になれる器があったって事なんだと思う。私も前からずっと思ってたんだ。久美子ちゃんってカッコいいなあ、って」
「そうなの?」
「部長の仕事って、部員の信頼を得てないと務まらないものでしょ? それに色んな要望や期待にも応えてあげなくちゃいけないし。私にはそういうの無理だって思うから、自分に出来ない事が出来る久美子ちゃんはカッコいいって思っちゃうんだ」
「でも真由ちゃんだって、友達とか後輩のみんなからは慕われてるでしょ。演奏だって上手だし、こないだの関西本番もトランペットとユーフォのソリが凄く良かったって、あちこちで評判になってるよ。北宇治のみんなだけじゃなくてSNSとかでも」
ぐつ、とつばめは一度息を溜め込む。今まで踏み込み切れなかった、その一歩を踏み込む為に。
「どう? 大丈夫だったでしょ。真由ちゃんがソロ吹いても」
「そうかな。だったらいいんだけど」
少しだけ遠慮するかのように、真由が声のトーンを下げた。
「私は良かったって思ってるよ。真由ちゃんがソリで」
少し目を伏せ微笑んで、つばめはゆっくりと口を開く。相手と自分をなだめるように。
「実はね、私って今だからこそ北宇治は実力主義だからーなんて言ってはいるけど、昔は滝先生にあまりいいイメージ持ってなかったんだ」
「え? そうだったの?」
少々意外そうに真由がこちらへ視線を向ける。うん、と頷き、つばめはレールの溝を指でツウとなぞってゆく。指先にどかされたレールの埃は両脇に堆積し、そのまま置き去りとなる。
「突然赴任してきてガラッと部活の方針を変えて、それでオーディションでは実力主義でメンバーを選んで。最初はすごく自己中心的な先生だなって思ったよ。実力で選ぶのはいいけど、じゃあ学年が上がればコンクールに出られるって言われてがんばって耐え抜いてきた先輩達の気持ちはどうなるの、ってさ。しかも部の為に一生懸命やって来た上級生を押しのけてソロに選ばれた子が実は滝先生のコネだったんじゃないか、みたいな噂も立ったりして、それで余計に不信感持ったりもした。さも正論みたいな事言っといて、結局は自分の好みで選んでただけじゃないのって」
その告白は、つばめなりの懺悔だった。自分と同じように一年、二年とBメンだった子は数多くいる。その大半は滝の決定に納得していたし、落ちたのは自分の努力が足らなかったせいだと考えて必死に練習を積み重ねていた。ちょうど葉月がそうであったように。でも、自分は違う。一年生だったあの頃、自分は間違いなく滝という人物に嫌悪感を抱いていた。確かに音楽面での指導は優れているのかも知れない。彼の言う通りにすれば上手な演奏が出来て、コンクールでも相応の結果を出せるのかも知れない。でも指導者として以前に人として、この横暴極まる教師を信用してもいいのだろうか、と。
「その上級生を押しのけた子って、高坂さんの事だよね。前に久美子ちゃんからも聞いた事あるよ」
「そうだったんだ、じゃあ話が早い。その時の私は別に、どっちが吹いたっていいって思ってたんだ。高坂さんかその上級生の先輩か、どっちにしたって滝先生が好きに決めるんでしょ、って。だったら好きにすればいい。どうせ私には関係のない事だし。……昔の私はそういう、冷めた考え方の人間だった」
あの頃の心境を思い出すと、未だに腹の底が薄ら寒くなる。他の部員達が日に日に赤熱していく中にあって、つばめだけはそれとは正反対に冷え切っていくような心地だった。いや、実際には他にも似たような感情を抱える部員も多少は居たのかも知れない。だが居たか否かに関わらず、つばめ自身はそうだった、という話だ。
「でも順菜ちゃんとか万紗子ちゃんとか、私の周りにいた人達はみんな凄く良くしてくれる人ばっかりでね。まっさらな初心者だった私にスティックの握り方や楽譜の読み方、音楽の事をイチから教えてくれて。だから私も、良くしてもらった分ぐらいは頑張ってみようって思ったの。毎日家にスティック持ち帰って自主練して、楽譜もスラスラ読めるようにと思って色んな曲の譜面に目を通して……でもそうやって頑張ったって、二年目の私もやっぱりダメだった」
「言ってたもんね。つばめちゃん、去年もBチームの『もなか』だったって」
そう、と首肯したつばめの口からひとりでに、自嘲のような吐息が洩れた。
「結局私はそういうヤツなんだ、って思った。他の子より秀でた能力がある訳でも無いし、学校の成績も取り立てて良くはない。視力だって眼鏡を掛ける程度に悪ければ、趣味も特技も他人に誇れる素敵なものでも何でもない。どこにでも居る、誰にでもなり得る、ただの普通のヤツ。だからどんなに頑張ったって普通以上の何かになんてなれないし、凄い人達の活躍を下から見上げる事しか出来ない。もうそういう事でいいんじゃない? って。……だけどね」
そんな自分はもういない。あの日の事は今も、つばめの胸に鮮烈に灼き付いている。
「去年のアンコンの練習中、久美子ちゃんがくれたたった一言のアドバイスで、私の演奏は一気に変わった。そしたら今まで解らなかった事がすんなり解るようになって、苦痛だった演奏がどんどん楽しくなって来てさ。『世界が変わって見える』なんて良く言うけど、誇張抜きで私にはそう思えた。信じられる? たったの一言でだよ」
こんな体験を真由がした事があったとは到底思えない。だって彼女は、自分とは違うから。でもだからこそ伝えたい。伝わって欲しい。そうつばめは願う。
「その一瞬で、私の人生観も丸ごとガラッと変わっちゃった。頑張って来た事にはちゃんと意味があったし、その意味は普通だった私が私を褒めてあげられる、そんな特別な意味を持つものだった。こんな自分でも頑張っていい、頑張ったら昨日までとは違う何かが見える。下から見上げるだけだった凄い人達の世界にだって、もしかしたら手が届く。そう思ったっていいんだよって久美子ちゃんに諭されたから、今の私がある。ってコレ、こないだも言った話だよね」
「うん」
「だから私、思うんだ。きっと久美子ちゃんは誰の為にも間違った事を言わない。本人も気付いてないような事まで久美子ちゃんは気付いてて、それを一番欲しいタイミングで言ってくれる。昨日の演説だってそう。久美子ちゃんは自分の気持ちとして喋ってたけど、あれは私達の気持ちでもあった。ただ誰もハッキリしたものに出来なかったモヤモヤを、久美子ちゃんが言葉に換えて皆に伝えてくれたんだと思う」
「私もそう思うよ。あの時の久美子ちゃんのスピーチ、私も凄く感動したもん」
「だったらさ」
ここからが真の本題だ。窓枠についていた手を握り込み、しかし表情は柔らかくしたままで、つばめは尋ねる。
「久美子ちゃんの言うように、真由ちゃんも次のオーディション、辞退するなんて言わないで本気で吹いてみない?」
この提案に、真由は返答を寄越さなかった。何かを思慮しているのか、それともその要請には応じられないという意思表示なのか。ほんの少し困ったような微笑を湛えながら、真由が斜め下方に視線を逸らす。つばめもまた真由と同じ箇所を見やった。きれいに磨かれたタイルフローリングの廊下は、教室棟の端から端までまっすぐに伸びている。今からここを自分と二人して全速力で駆け抜け切ったとして、その向こう側に真由は何らかの意義を見出したりするのだろうか。つばめには想像もつかない。
「……つばめちゃんは、どうして私に吹いて欲しいの?」
ほろりと真由がそう問うてきた。どうして? しばし考え、それからつばめは思ったままの事を口にする。
「演奏してる真由ちゃんが、ホントの真由ちゃんって気がするから」
真由もきっと、音楽の事は好きな筈だ。そして彼女なりに真剣な筈だ。でなければ真由は今ここに居ない。もっと過ごしやすいところを選び、もっと楽な人付き合いを選び、もっと当たり障りのない立ち振る舞いをする。ただそれだけで、彼女は今よりもずっとずっと快適な人生を送る事が出来ていただろう。
けれど真由はそうしなかった。その意図も目的もつばめにはさっぱり不明だ。きっと自分なんかには解き明かせないし、直に聞き出したところで教えてなんかくれない。仮に教えられたとて、自分が納得できるかどうかも怪しい。でもそれでいい。相手の全てを知る事が、互いにとって良い事だとは限らないと、今はそう思うから。
この子はこの子のままでいい。私も私のままでいい。そうある事が、黒江真由という一人の少女にここでの居場所をもたらすものであるのなら。
繰り返しになるが、私は至って普通の女子だ。これは自称でも謙遜でもない、ただの客観的事実。もしも私が普通じゃないというのなら、それはこの世に存在するほぼ全ての人間が普通じゃないという事を意味する。そうした捉え方をする事によって自分を鼓舞し、或いは自分を慰める人も世の中にはいるだろう。皆そうだと言うのなら自分もきっと特別な何かである筈だ、と。
けれど私は知っている。私の周囲には、いや私の生きるこの世界には、自分なんかよりもずっと優れた人達が沢山存在している事を。そういう人達にも欠点はあるものだし、何かの部分で他より勝っていても別の何かで劣っている、大抵そんな風に出来ている。だからその人達もやっぱり普通だ。もしも「普通じゃない子」がいるのだとしたらそれはきっと、持ちうる何もかもが他の全ての人間よりも圧倒的に優れた存在。どんなにあがいても、どこまでひっくり返しても、欠点や瑕疵なんてどこにも見当たらない。そういう人の事を指すものなのだと思う。
初め、私はあの子の事も、そんな普通の人だと思っていた。けれどある日を境に「この子は普通じゃない」と考え始めた。私の理解を超越した全能の存在。私なんかでは及びもつかない、そうとも痛感させられた。実際今でも、あの子は凄いと私は思う。あらゆる点で突き抜けているし、満ち足りているし、底が知れない。もしもあの子が普通だと言うのなら、さっきとは真逆の意味で私は「普通じゃない」、そういう存在に堕ちてしまう。恐らくは世界中の殆どの人間と一緒に。
でもそれを理由に、私は自分が「普通じゃない」と卑下したりはしない。結局私はそういうヤツなんだ、と自分を諦める事ももうしない。だって、私はどこまでいっても私であり、他ならぬ私でしかないのだから。
だからきっと、こう考えてしまうのだろう。
私はあの子がきらいじゃない。
そう、自分と同じくらいには。
「それではこれより、先日のオーディションの結果を発表します」
オーディションの二日間が過ぎ去り、水曜日。放課後を迎えた音楽室には緊張が張り詰めていた。今年三度目のオーディション。今年最後のオーディション。ここで告げられた五十五名が、全国大会に挑む為の最終メンバーだ。欲した席を実力で勝ち取るラストチャンス。誰もがこの場で自分の名を読み上げられることを、心の底から願っている。それは各々の表情を見れば一目瞭然だった。
皆の前に立った滝がバインダーに視線を落とし、それから順々に合格者の名を読み上げていく。次また次と音楽室に響く返事の声。そして、呼ばれなかった者の悲哀の声。次に自分がどちらの側に回るかはその直前まで判らない。つばめもまた固唾を呑み、自分の番が来る瞬間に備える。例え呼ばれなかったとしても、私は私の歩いてきた道を信じてその結果を受け止める。そういう覚悟を腹に据えて。
「続いてパーカッション。三年、井上順菜さん」
「はい」
「三年、堺万紗子さん」
「はい!」
「三年、釜屋つばめさん」
「はいっ」
呼ばれた。反射的に出した返事と共に湧き上がる達成感。全国の舞台に、とうとうこの足で立つ権利を掴み取る事が出来た。体中を駆け巡る喜びを噛み殺し、つばめは前を向く。
パーカッションパートでは心子と來理の入れ替えがあった以外に人員の変更は無かった。他パートの人数構成もおおむねは前回と同じで、一部数名の転換があっただけ。全体の編成は関西大会時の布陣そのままに、各ポジションへはより理想的な人員を配置する。今回の滝の選考がそうした意図に基づくものであった事は明らかだ。
「以上の五十五名が全国大会のメンバーとなります。次、各ソリストの発表です」
つばめはユーフォパートを黙視する。久美子と真由は今回も勿論Aメンバーだった。前方に位置する二人がどんな様子でいるか、後ろ姿だけでは分からない。だが間もなく下されるソリスト決定の宣告を前にして、どちらも真剣な表情でその瞬間を迎えようとしているのだろう、とは思った。
どちらが選ばれるのだろう。そう考えるつばめの心臓が今までに無いほどの速度で鼓動を刻み始める。どちらが選ばれるべきなのか? そんな事はもう、これっぽっちも考えていなかった。
「まずは課題曲、サックスソロ。三年、瀧川ちかお君」
「はい!」
「次に自由曲、クラリネットソロ。三年、高久ちえりさん」
「はい」
「マリンバソロ。三年、釜屋つばめさん」
「はいっ!」
先程よりもひときわ強く返事をして、拳を握り込む。高校三年間、最後のコンクール。そのソリストとして過去最大のステージを踏む。この意味を、この時感じた事を、つばめは一生忘れない。
「コントラバスソロ。三年、川島緑輝さん」
「はい」
「トランペットソロ。三年、高坂麗奈さん」
「はい」
次だ。息を短く吸い、つばめはその時に備える。
どちらが選ばれようとも、どちらが落ちようとも、私はそれを受け止める。真由も久美子も、どちらが選ばれようともおかしくないだけの実力がある。それに見合うだけの努力もしている。この結果が何であれ、私の取るべき道は変わらない。だって二人とも、私の大切な存在なのだから。
「ユーフォニアムソロ――……」
あの二人の為に私がすべき事。それは。
あの日起こった事の全てを、私は永遠にこの胸に刻んで生きてゆく。
そして、今でもこう思う。
私はあの子達が大好きだ、と。
第三章
枝分かれの行く末は(完)
……あなたの思うままに。