アメリカの空は、どこまでも高く、そして残酷なほどに透き通っている。
都市部を見上げれば、低軌道衛星網と連動した全地球規模の量子管理システム「LAW(Logical Authoritative World-system)」が放つ、目に見えない論理(ロゴス)の網目だ。
路上の隅々に設置された高精細カメラとセンサー、高度監視アーチが、通過する全車両のナンバー、形状、走行履歴をリアルタイムで照合し続けている。
最新の電気自動車が磁気回路の上を音もなく滑り、ドライバーたちは「最適化」されたルートを疑うことなく走る。そこには渋滞も、無駄な加減速も、そして道に迷うという概念すら存在しない。すべてが計算され尽くした、清潔で、退屈で、完璧な楽園だ。
「……ふぅ。ここのダイナーのコーヒーは、相変わらず泥水みたいだな」
俺はミズーリ州の州道沿い、今にも風に吹き飛ばされそうなダイナー『ブルームーン』のカウンターで、使い捨ての紙コップを置いた。
「文句があるなら、街へ戻ってあっちのオートカフェにでも行きな。あそこなら、お前の好みを完璧に分析した『汚れなき一杯』を出してくれるぜ」
店主の老人は、皮肉っぽく笑いながら、油の染みたタオルでカウンターを拭いた。
「よせよ、親父。この泥水みたいな苦味が、俺がまだマシンの歯車じゃないってことを教えてくれるんだ」
そんな、何の生産性もない、データにも残らない軽口の叩き合い。それこそが、今の俺にとっては一番の贅沢であり、人間としての証明だった。
店の外には俺の愛車であり、家であり、唯一の居場所でもある1980年代製のピータービルトが鎮座している。
漆黒の塗装に覆われた18輪の怪物(リグ)。
こいつは、LAWが推奨する「クリーンな自動運転」の理想とは正反対の存在だ。
物理的なギアを力任せに叩き込み、化石燃料を爆発させて真っ黒な煤煙を吐き出す。
LAWの監視網から見れば、このトラックは捕捉不可能な空白地帯――現代という完璧なシステムに空いた「バグ」そのものだった。
「ギギィ……」
車内で、巨大な赤い複眼が瞬いた。蛾の怪異モスマンだ。
当然、店主の親父や他の客に彼の姿は見えていない。
彼らの目には、俺の助手席に置かれた「少し大きめで、たまに震える古ぼけたボストンバッグ」にしか映っていないだろう。
彼らとの出会いは、一年前のあの日から始まった。
俺の古いスマートフォンに、正体不明の男――スティーブンと名乗る人物から、一本のファイルが届いた。それがすべての始まり、『悪魔召喚プログラム(DDS)』だった。
『これをインストールしろ。それが、この監獄を抜け出す鍵だ』
そのメッセージ以来、スティーブンからはほとんど音沙汰がない。
彼は頻繁に指示を飛ばしてくるようなお節介じゃない。たまに、忘れた頃にスマートフォンが震え、地図上に「歪み」を示す座標が一つだけ表示される。それだけだ。あとは俺が、この18輪の怪物とともにどう動くかを決める。
運送屋として荷を運ぶこともあれば、ただ気の向くままにアクセルを踏むこともある。
「……そろそろ行くか」
俺は店を出て、ピータービルトの重厚なドアを開けた。キャビンの中には、独特の重油と古い革の匂いが充満している。
「おい、ノッカー。左のデフ、異音は……収まったか?」
運転席後部の寝台(スリーパー)から、油まみれの小さな手が、スパナを握ったまま突き出された。工作員のノッカーだ。
「……直した。……ついでに、燃料噴射装置を磨いておいた。……いい燃焼だ。……火を吹くぞ」
彼は言葉少なに呟くと、再び寝台の闇の中へと消えていった。
一般人には、彼が作業する音は「年季の入ったトラックのガタつき」程度にしか聞こえない。
「ガハハ! 運転屋、いいダイナーだったじゃねえか!
あの店主の親父の『頑固さ』、いい鉄が打てそうな気配だったぜ。次はもっとマシな鉄屑が拾える場所へ行こうぜ!」
荷台の特設工房から、巨躯のイッポンダタラが豪快に笑う。
彼もまた、一般人の目には「荷台に積まれた古い工作機械」にしか見えない。だが、彼の手によるメンテナンスがなければ、この老いたピータービルトはとうの昔にスクラップ置場で錆びていただろう。
俺はダッシュボードのスマホを確認した。
数週間前に届いたスティーブンからの座標が、セントルイス外郭を指して静かに明滅している。
急かす者は誰もいない。この「ぶらり旅」のペースを決めるのは、道路の混み具合と、俺の気分、そしてエンジンの機嫌だけだ。
俺は重いクラッチを蹴り込み、15段変速のギアを力強く叩き込んだ。
ピータービルトが腹の底に響くような咆哮を上げ、サイド出しの排気筒から真っ黒な煤煙を吹き出す。
ハイウェイの合流地点。はるか上空、都市部の高層ビルの間を、青い光を放つ最新の監視ドローンが滑るように飛んでいるのが見えた。
あの無機質な光は確実に、この平穏な田舎道へと、そして人々の生活の細部へと侵食しようとしていた。
「モスマン、音楽を頼む。ラジオから流れるあのお決まりのプレイリストじゃないやつだ」
モスマンが翅(はね)を震わせると、古いスピーカーから、かつてのカントリーロードがノイズ混じりで流れ出した。その不協和音こそが、今の俺たちには心地よい。
俺はハンドルを握り、アクセルをじわりと踏み込む。
18輪のタイヤが、ひび割れたアスファルトを力強く掴む感覚。
システムがすべてを定義し、管理し尽くすその前に、俺はこの広大なアメリカを巡り、まだ名前のない真実と、人間らしい無駄を運び続ける。
「真実の積荷は、まだ道の上だ。……行くぞ、野郎ども」
俺は仲魔たちにそう告げると、燃えるような西日に向かってピータービルトを走らせた。
エンジン音は、自由を愛する者たちの唯一の鼓動となって、大平原の果てまで響き渡っていった。
ミズーリの地平線は、どこまでも平坦で、病的なほどに穏やかだった。
ハイウェイを跨ぐように設置された最新型の監視アーチ――自動ナンバー読取装置の進化版である『LAW』の末端ユニットが、通過する車両の個体識別番号と、フロントガラス越しに見えるドライバーの表情を無機質にスキャンし続けている。
現在の道路において、完全な「匿名」で走ることは不可能に近い。
速度、車間距離、そしてわずかな蛇行。それらすべてがデータ化され、AIによって「模範的な市民」か「潜在的なリスク」かが瞬時に判別される。
異常が検知されれば、排除こそされないものの、次の検閲地点で執拗な職務質問を受け、社会的なクレジットを削られることになる。
「……あんなにじろじろ見られたら、普通なら落ち着かないもんだがな」
俺はピータービルトの重厚なステアリングを握り直し、バックミラー越しに助手席を盗み見た。
そこには、サイズの大きな俺のネルシャツを羽織り、膝を抱えて丸まっている少女、アリスがいた。
彼女と出会ったのは、数日前の雨の夜だ。
オクラホマの州境に近い、地図からも忘れ去られたような寂れた給油所。
錆びついた給油ポンプの影に、ずぶ濡れのまま、まるで見捨てられた人形のように座り込んでいたのが彼女だった。
スティーブンからの座標にいたわけでもなければ、誰からの依頼品でもない。ただ、放っておけば翌朝にはハイウェイの塵になって消えてしまいそうなほど、彼女の存在は希薄で、それでいて周囲の空間を歪ませるような強烈な「違和感」を放っていた。
俺は気づけば、この出所不明の「遺失物」を助手席へと招き入れていた。
「……ギギッ」
助手席の足元でモスマンが短く、そしてどこか遠慮がちな羽音を立てる。
普段はLAWの気配に過敏な反応を示す彼だが、アリスがこのトラックに乗ってからは、妙に大人しい。それどころか、彼女を刺激しないように自らの存在を薄めているようにさえ見える。
それは寝台(スリーパー)に潜むノッカーも、荷台の工房で槌を振るうイッポンダタラも同じだった。
異形を惹きつけ、あるいは撥ね退けるはずの仲魔たちが、彼女に対しては「そこにあるのが当たり前の風景」として沈黙を守っている。それが逆に、俺の肌を粟立たせた。
「……アリス。喉は乾いてないか。さっきのダイナーで余ったオレンジジュースがあるが」
俺が努めて平穏な声で問いかけると、アリスはゆっくりと顔を上げた。
透き通るような白い肌と、焦点が合っているのかさえ定かではない、深い夜のような瞳。
一般人の目には、彼女はただの「長距離トラックに乗せられた少し影のあるドライバーの娘」にしか見えないだろう。だが、俺にはわかる。彼女が乗ってからというもの、このピータービルトを執拗に狙う『LAW』の監視の目が、わずかに、だが決定的に「逸れて」いるのだ。
システムの赤いフラッシュが俺たちを捉える直前に不自然に瞬き、俺のIDを照合しようとすると、決まってサーバー側で「該当なし」のノイズが走る。
彼女がこのトラックに座っているだけで、18輪の怪物は物理的なステルス機能を備えたかのように、管理社会の網目をすり抜けていく。
「……あれ、なんか眠たそうな顔をしてる」
アリスがフロントガラスの向こう、橋脚に設置された最新型の監視カメラ群を指差して、小さく笑った。
その指先が向けられた瞬間、カメラのインジケーターが意味をなさない点滅を繰り返し、レンズが力なく下を向いた。
「眠たそうだって? ……そうかもな。システムってのは、完璧であればあるほど退屈に弱いもんだ」
俺はわざとらしく鼻を鳴らし、再び前方を向いた。
この旅は、もはや単なる仕事ではない。かといって、声高な反逆を掲げた逃走劇でもない。
ただ、管理された現代という巨大な網目の中を、アリスという「不可解な触媒」を乗せて、のんびりと走り抜けるぶらり旅だ。
立ち寄る先々のダイナーで、名もなき労働者たちと、昨日見たスポーツの試合や、まともに動かない古いトラクターの話を交わす。
システムが記録し、数値化しようとする「効率」の影で、こぼれ落ちていく「無駄」や「余白」を確認していく作業。
「ガハハ! 運転屋! 次の街には古い鉄道の車輪が捨ててあるっていう噂だぜ! それを拾って、アリスに新しい靴でも作ってやろうじゃねえか! 鉄の靴なら、どこまで歩いても減りはしねえ!」
荷台からイッポンダタラの陽気な声が、エンジンの振動に混じって響く。
アリスはそれを聞いて、少しだけ口角を上げ、嬉しそうに頷いた。
LAWがどれだけこの広大な国を網羅し、視覚化しようとも、この18輪の怪物の中だけは、まだ神話と日常が分かちがたく混ざり合った古いアメリカの時間が流れている。
「……行くか。目的地は決まってない。だが、道はどこまでも続いてる」
俺はアクセルを緩やかに踏み込み、V8エンジンの心地よい鼓動を背中で感じながら夕闇に溶けゆくハイウェイを突き進んだ。
俺と、三体の仲魔と、一人の少女。
この奇妙な「家族」を乗せたピータービルトは、システムの盲点を突き、自由という名の影を追い続けていく。