アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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10話 ネバダの砂塵(後編)

 

断崖の底から、機械馬のエンジンが最期に爆ぜる鈍い音が響き、やがて砂嵐の咆哮にかき消された。

 

俺は大きく蛇行したピータービルトを、震える腕で強引に直進へと戻した。

タイヤがアスファルトを削る不快な悲鳴を上げ、ようやくトラックは平穏な走行ラインへと復帰する。

 

「……はぁ、……はぁ。……みんな、無事か」

 

返事の代わりに聞こえてきたのは、ルーフの上から転がり落ちるようにキャビンへ戻ってきた、油まみれの三体の喘ぎ声だった。

 

「……ぎ、……ギィ……。……ボク……もう、……羽が……動かない……」

モスマンは触角を力なく垂らし、アリスの足元で丸まった。

 

「ガハハ……! 冗談じゃねえ、あんな『熱い荷物』は二度と御免だぜ……」

イッポンダタラは真っ赤に焼けた両手を、窓から入る乾いた風に晒して冷やしている。

 

「……ノッカー。……よく、……繋いだ。……お前がいなきゃ、……今頃……俺たちは、……1945年の……塵だった」

 

「……計算、……外。……俺の……回路、……半分……焼けた。……修理、……一ヶ月……かかる……」

ノッカーはそう呟くと、寝台(スリーパー)の闇の中へ力なく沈んでいった。

 

そして、助手席。

そこには、赤騎士から奪い取った『黄金の砂時計』を、まるで壊れやすい小鳥を抱くように胸に当てているアリスがいた。

砂時計のひび割れからは、もう黒いヘドロは溢れていない。

アリスが触れている部分から、錆びた鍵の力が浸透し、狂っていた時間の奔流を優しく「静止」させていた。

 

「……よしよし。……もう、……痛くないよ。……みんな、……ここで……おやすみなさい」

 

アリスが砂時計のガラス面に唇を寄せて囁くと、中に閉じ込められていた赤黒いノイズが、穏やかな琥珀色の光へと変わった。

それは、砂漠で戦い、死んでいった者たちが、ようやく「戦い」という役割を終えて、ただの「記憶」へと還った証だった。

 

「アリス、その砂時計はどうする。……またどこかの街へ置いていくか?」

 

俺が問いかけると、アリスは首を振って、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 

「……ううん。……これ、……スノードームと……一緒。……わたしが、……持ってる。……いつか、……みんなが……帰る場所に……着くまで」

 

彼女は、自分の中にまた一つ、「世界の余剰」を積み込んだ。

それは物理的な重さではないはずだが、ピータービルトのサスペンションが、わずかに沈み込んだような気がした。

 

俺たちは、赤騎士が消えた谷底を一度も振り返ることなく、沈みゆく巨大な夕日に向かってアクセルを踏んだ。

背後には、ただ赤く染まった砂漠と、破壊されたハイウェイの残骸だけが残された。

 

管理社会『LAW』の監視ドローンがこの場所に辿り着く頃には、すべての痕跡は砂に埋もれ、そこには「何もなかったこと」という、完璧な記録だけが残るだろう。

だが、この18輪の怪物の中には、確実にまた一つ、救われないはずだった「時間」が積み込まれていた。

 

激闘の熱を孕んだまま、ピータービルトはネバダの州境近く、砂に埋もれた古いレストエリアへと逃げ込んだ。

もはや「休憩所」としての機能は失われていたが崩れかけたコンクリートの庇が、わずかな日陰を提供してくれている。

エンジンを止めると、焼けた金属が冷えていく際の「キン、キン」という乾いた音が、静まり返った砂漠に響いた。

 

「……よし、野郎ども。死んでなけりゃ、這い出してこい」

 

俺は重いドアを開け、熱風の中に飛び出した。

真っ先に確認したのは、騎士の軍刀に掠られた荷台の側面だ。厚い鋼鉄のプレートが、まるで熱いナイフで抉られたように融解し、不気味な赤黒い錆が広がっている。

 

「ガハハ……。……ひでえ有様だ。俺の自慢の塗装が台なしじゃねえか」

 

イッポンダタラが、ルーフから滑り落ちるようにして降りてきた。全身から蒸気を上げ、一本足でふらつきながらも、すぐに腰の道具袋から巨大な金槌を取り出す。

 

「だが、安心しな。この騎士の砂時計から吸い取った熱が、まだ俺の中に残ってやがる。この熱がありゃ、冷える前に叩き直せるぜ」

 

彼は真っ赤に焼けた自分の掌を、抉れた装甲に押し当てた。

じゅう、と肉の焼けるような音がしたが、ダタラは不敵に笑い、歪んだ鉄板を力任せに叩き始める。カーン、カーンと響く音が、この不毛な荒野で唯一の「鼓動」のように聞こえた。

 

一方、車内ではノッカーが、バラバラになったダッシュボードの裏側で死んだように横たわっていた。

 

「……ノッカー。生きてるか?」

 

「……辛うじて。……メイン回路、……一部……炭化。……仲魔の……『外付けハードディスク』を……増設して、……演算を……肩代わり……させる……」

 

彼は震える手で、モスマンの足元に転がっていた予備の電子部品を自分に繋ぎ直していた。

そのモスマンはといえば、アリスの膝の上で、触角を力なく丸めている。

 

「ギギィ……。……アリス、……お水……。……羽が、……カサカサ……」

 

「……はい、どうぞ。モスマン、頑張ったね」

 

アリスが、ダイナーで余ったミネラルウォーターをキャップに注ぎ、彼に飲ませていた。

モスマンは震えながらそれを啜り、アリスが抱える『砂時計』から漏れる、穏やかになった琥珀色の光に身を委ねている。

 

アリスは、砂時計を愛おしそうに磨いていた。

俺のネルシャツの袖を使って、表面に付いた砂埃を丁寧に、丁寧に拭き取っている。

 

「……おじさん。……この時計、……中が……少しだけ……温かくなったよ」

 

彼女が言う通り、赤騎士が持っていた頃の冷酷な殺気は消え、砂時計は今や、古い暖炉の残り火のような、どこか懐かしい温度を湛えていた。

 

俺はピータービルトのフロントバンパーに腰掛け、タバコに火をつけた。

修理中の金槌の音。

ノッカーが回路を繋ぎ変える、小さな電子音。

そして、アリスが砂時計の亡霊たちに囁きかける、優しい歌声。

管理社会『LAW』の監視網から外れた、この砂漠の片隅。

ボロボロになった18輪の怪物と、傷ついた仲魔たち。

それは、完璧なシステムの中では決して見ることのできない、不完全で、しかし何よりも強固な「家族」の風景だった。

 

「……さあて。冷える前に、オイルの点検もしなきゃな」

 

俺は煙を吐き出し、重い腰を上げた。

ユタの赤い岩肌へ向かうための、束の間の、しかし贅沢な休息だった。

 

「……ねえ、おじさん」

 

ダタラの金槌の音が止み、砂漠が夕闇に沈もうとする静寂の中で、アリスが隣に座り込んできた。彼女の腕の中には、スノードームと、先ほど奪い取った砂時計が重なるように抱えられている。

 

アリスは、遠くの地平線を見つめたまま、独り言のように続けた。

 

「……あの赤い騎士さん、最後、ちょっとだけ笑ってた気がするの」

 

「笑ってた? あいつがか」

 

俺は意外な言葉に眉を上げた。あの無機質な、数千人の絶叫を合成したような声の主が、感情を見せるなど想像もできなかった。

 

「……うん。……だって、あの砂時計、とっても重かったんだもん。……おじさんが崖から突き落としたとき、あの中にいた人たちが、やっと外に出られたって、キラキラしてた」

 

アリスは膝を抱え、砂時計を指先で弾いた。チリン、と澄んだ音が響く。

 

「……ねえ、おじさん。おじさんは、どうしてこの大きなトラックで、いろいろなものを運んでるの? ……きれいなものも、壊れたものも、……わたしみたいな、迷子も」

 

その瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。

管理システム『LAW』に身を委ねれば、荷物は最短ルートで、最も効率的に、意味のある場所へ運ばれる。俺のような非効率な旅、名前のない不純物を助手席に乗せて走る行為に、論理的な正解など一つもない。

 

「……さあな。俺が運びたいから運んでる。それだけだ」

 

俺は短くなったタバコを地面で揉み消した。

 

「……ふふ、おじさんらしいね」

 

アリスは満足そうに微笑み、俺の肩にそっと頭を預けた。彼女の体は、砂漠の熱を含んでいて、同時に驚くほど軽かった。

 

「……わたしね、おじさんのトラックに乗ってから、少しずつわかってきたよ。……きっと、おじさんは『忘れ物』を探してるんだね。……世界が、いらないって言って捨てちゃった、大事なゴミを」

 

アリスがそう言った瞬間、スノードームの中の光と、砂時計の中の光が、共鳴するように一瞬だけ強く輝いた。

 

「……いつか、このトラックがいっぱいになったら……。その時は、わたしが一番最後に、おじさんの『忘れ物』を預かってあげるね」

 

彼女が何を意味しているのか、俺には正確にはわからなかった。だが、その言葉には、底知れない優しさと、氷のような冷徹な結末が同居しているように聞こえた。

 

「……よし、アリス。そろそろ出発だ。夜の砂漠は、幽霊よりも冷えるぞ」

 

俺が立ち上がると、アリスは「うん」と短く答えて、俺の手をぎゅっと握り直した。

 

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