アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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11話 ユタの迷路

 

「……今のシフトダウン、コンマ2秒早いな。ギアが泣いているぞ、ドライバー。愛が足りん、愛が」

 

ダッシュボードの上で、ケットシーが毛繕いをしながら溜息混じりに言い放った。

ネバダの砂漠を抜け、ユタの赤い大地へ踏み出した途端こいつはどこからともなく現れた。気づけば助手席のサンバイザーに挟まっていた「運行管理記録表」の中から、実体化して居座り始めたのだ。

 

「……うるさいな。この重い荷物を積んで、砂利道の坂を登ってるんだ。多少のショックは仕方ないだろ」

 

「言い訳は敗者の特権だ。いいか、このピータービルトは貴殿の体の一部だ。指先の神経を18輪の末端まで通わせろ。……おっと、次のカーブ。路面のカント(傾斜)を読み違えるなよ? 遠心力を殺せ、アリス嬢が目を回してしまうだろうが」

 

ケットシーはそう言うと、アリスの方を向いて恭しく帽子を脱いだ。

 

「アリス嬢、乗り心地はいかがですかな? この男の運転が荒すぎるようでしたら、いつでも仰ってください。

私が即座に免許停止の宣告を下しますので」

 

「……ふふ。先生、おもしろい。……おじさんの運転、……わたし、好きだよ。……少しだけ、……ドキドキするから」

 

アリスがクスクスと笑いながらスノードームを振ると、金色の粒がケットシーの髭に当たって弾けた。

 

「ギギィッ! ……おじさん、……こいつ、……ボクの場所……取った! ……どかして!」

 

「黙れ、羽の生えた電球。貴殿のような不規則なバグが同乗していること自体が運行管理上、極めて深刻な問題なのだ。大人しくしていろ」

 

ノッカーも寝台から首を出し、新しい「同居人」を珍しそうに眺めている。

 

「……猫。……幸運の、……属性。……燃費、……良くなった。……不思議」

 

「ガハハ! 猫先生、堅いこと言うな! 運が良くなるなら、俺の槌の当たりも良くなるか?」

 

賑やかすぎるキャビン。

だが、ケットシーが前方の赤い岩肌を鋭い眼光で見つめた瞬間、その声のトーンが少しだけ低くなった。

 

「……さて、ドライバー。教習はここまでだ。ここからは『沈黙のユタ』。言葉を失った岩たちが、貴殿の『意志の強さ』を試験しにくる。……ブレーキから足を浮かせるなよ。ここは、焦った奴から魂を削られる」

 

ユタ州に入ると、世界は音を失った。

そびえ立つ赤い砂岩の塔が、夕闇の中で巨大な墓標のように並んでいる。かつてそこにあったはずの乾いた風の音すら重厚な岩肌に吸い込まれ、ただピータービルトのV8エンジンが刻むリズムだけが、この真空のような沈黙に穴を開けていた。

 

「……おじさん。ここ、……みんな黙ってる。……岩の中に、……だれか……閉じ込められてるみたい」

 

アリスが窓の外、複雑に浸食された岩壁を見つめて呟いた。

彼女が抱えるスノードームも、今は砂時計も、その輝きを沈め、この地の静寂に同調しようとしている。

 

「……共鳴。……岩が、……音を……探してる。……エンジンの……振動……跳ね返ってこない……。……全部、……食われてる」

 

ノッカーが計器を睨みながら、不安げに呟いた。

 

「よし、ドライバー。ここが『ザ・サイレンス』……沈黙の難所だ」

 

ダッシュボードの端で、ケットシーが姿勢を正し、三度笠の角度を直した。彼の猫の耳が、存在しないはずの音を捕らえようとして微かに動く。

 

「いいか、今のギアは12速。だが、エンジン回転数を2000以下に落とすな。この岩たちは、弱った音、迷ったリズムを好んで喰らう。貴殿の迷いがアクセルワークに出た瞬間、このピータービルトは岩の一部と化し、永久にこの景色の一部として展示されることになるぞ」

 

「脅しにしては、できすぎだな。……先生」

 

俺は重いステアリングを握り直し、岩の裂け目を縫うように進むハイウェイを見据えた。

道は不自然に曲がりくねり、あたかも獲物を誘い込む蜘蛛の巣のようだ。

 

「ギギィッ……。……ボク、……ここ嫌い。……お空に、……壁がある……」

 

モスマンが怯えたようにアリスの足元に丸まる。確かに、空を覆うほどの赤い断崖は、脱出不能な巨大な檻のように見えた。

その時だ。

アリスが不意に、窓を開けた。

車内に一気に流れ込んできたのは、熱気ではなく、「何千もの声が押し殺されたような圧殺感」。

 

「……おじさん、……聞こえる? ……岩が、……歌ってる。……おじさんの……音を、……まねっこしてるよ」

 

アリスが指差した先。

夕陽を背にした巨大な岩壁に、俺たちのピータービルトの影が投影されている。

だが、その影は、実際の動きよりもわずかに遅れて動いていた。

さらに奇妙なことが起きた。

エンジンの音が、前方から跳ね返ってくるのではない。

左右の岩肌から、「自分たちの声」として再生され始めたのだ。

 

『……おじさん。……おじさん……』

『……おじさん……』

 

岩壁が、アリスの声を増幅し、歪ませて、幾重にも重なる合唱(コーラス)のように返してくる。

 

「……エコー、……じゃない。……これは……模倣……。……岩が、……俺たちの……存在を……コピーしている……」

 

ノッカーの声が上ずった。

 

「落ち着け、ドライバー! ステアリングを放すな!」

 

ケットシーが鋭い爪を立て、ダッシュボードを叩いた。

 

「これはユタの『鏡像岩(リフレクション・ロック)』だ。奴らは音を食い、姿を食い、最終的には実体を入れ替える。今、外に見えている影に気を取られるな。貴殿が『俺はここにいる』と強く念じてアクセルを踏み続けなければ、実体はあちら側の岩の中へ引きずり込まれるぞ!」

 

「……かわいそうに。……みんな、……自分の声が……わからなくなっちゃったんだね」

 

アリスは、岩壁から響いてくる「自分の声」を聴きながら、悲しげに微笑んだ。

彼女は砂時計の底を指先で弾き、その微かな「チリン」という音を、岩の迷宮へと放り投げた。

 

「……先生、この『模倣』ってやつは、空気の振動に連動してるんだな?」

 

俺はそう言いながら、カーステレオのボリュームをゼロにし、窓を閉め切った。

岩壁から返ってくるアリスの声や、歪んだエンジンの残響が遮断され、キャビンの中には一瞬、肺が圧迫されるような濃密な静寂が満ちた。

 

「ほう、音を断つか。だがドライバー、音を消せば貴殿の存在感はさらに希薄になるぞ。この岩たちは空腹だ。沈黙は奴らにとって、最高のご馳走になりかねん」

 

ケットシーが耳をピクつかせ、警告するように尾を振った。

 

「音を消すんじゃない。奴らが真似できない『言葉』に変えるんだ」

 

俺は隣に座るアリスに視線を送った。

アリスは、砂時計の琥珀色の光を指先で弄びながら、じっと外の「影」を見つめている。

 

「アリス、そのスノードームと砂時計……中にある『光』を、全部トラックのヘッドライトに繋げることはできるか?」

 

「……光を? ……うん、……できるよ。……みんなの……温かいところ、……お外に……出してあげるのね」

 

アリスが鍵をスノードームの底にそっと差し込む。

すると、ドームの中の金色の粒と、砂時計の琥珀色の輝きが混ざり合い、目も眩むような「極彩色のエネルギー」となってダッシュボードを駆け抜けた。

 

「……接続、……完了。……フィラメント、……耐えられない……! ……光の……波長が、……物理法則を……無視してる!」

 

ノッカーが叫びながらも、配線を強引にバイパスさせた。

次の瞬間、ピータービルトのフロントライトから放たれたのは、ただの白い光ではなかった。

それは、アリスが救ってきた「亡霊たちの記憶」を乗せた、視覚化された思念の奔流だ。

ビームが赤い岩肌を撃ち抜く。

そこには、かつてこの地で消えていった者たちの笑顔、パン屋の朝の匂い、夕食の団らん……音では表現できない「生きた証」が、映像(ビジョン)となって投影された。

 

「……あ、……きれい。……岩さんたちが、……絵本に……なっちゃった」

 

岩壁は、音なら簡単に模倣できた。

だが、この「多層的な感情の光」まではコピーしきれない。

投影された幸せな記憶の熱量に、音を食らう岩たちが戸惑うようにひび割れ、俺たちの姿を模した「影」が苦しげに形を崩していく。

 

「ガハハ! 見ろよ、岩が眩しがってやがる! これなら俺の槌も、迷わずあいつらの急所をブッ叩けるぜ!」

 

イッポンダタラが荷台で快哉を叫び、消火栓の蓋を光に向けて掲げた。

 

「なるほど……。音(聴覚)ではなく、記憶(視覚)で圧倒するか。これは採点外だが、面白い解決策だ」

 

ケットシーが満足げに髭を整えた。

 

「さあドライバー、道は照らされた。この光の道筋が消える前に、12速から14速へ一気に跳ね上げろ! 影が追いつけない速度で、この迷宮をぶち抜くのだ!」

 

俺は返事の代わりにアクセルを床まで踏み込んだ。

光り輝くピータービルトは、もはやただのトラックではない。

何千もの人生を乗せて走る、「記憶の彗星」となって赤い迷路を突き進む。

 

ピータービルトのフロントライトから放たれる「記憶の奔流」が、赤い迷宮の最深部を白日の下に晒した。

岩壁は、もはや音を盗む余裕すらなくアリスが解き放った濃密な人生のビジョンに焼かれ、表面がガラスのように剥がれ落ちていく。俺たちが走るたびに、左右の断崖は断末魔のような軋み声を上げ、巨大な岩の破片が背後で崩落していった。

 

「……おじさん、見て。あそこに……出口があるよ」

 

アリスがフロントガラスの向こう、陽炎と光が混ざり合う一点を指差した。

そこは、左右から迫り来る岩壁が完全に合流し、行き止まりのように見える場所だった。だが、光のビームがその「壁」に直撃した瞬間、岩の表面に巨大な「扉」の紋様が浮かび上がった。

 

「……あ、……あれは……、……旧時代の……座標……? ……岩の中に、……ゲートが……隠されてる……!」

 

ノッカーが計器を叩きながら叫んだ。

 

「……この光の……エネルギーが、……岩の……偽装を……剥ぎ取ったんだ……!」

 

「ガハハ! 出口なら俺がこじ開けてやるぜ! 運転屋、減速するな! そのまま突っ込め!」

 

荷台のイッポンダタラが、限界まで熱せられた鉄の棒をゲートに向けて突き出した。

 

「いいか、ドライバー! 速度計を見るな! 貴殿の『意志の速度』を信じろ!」

 

ダッシュボードで、ケットシーが帽子を深く被り直し、鋭い爪を立てて咆哮した。

 

「影も、音も、過去も、すべて置き去りにしろ! 合格点はその向こう側にある!」

 

俺は返事をする代わりに、アクセルペダルを床板が抜けるほど踏み込んだ。

14速のギアが唸りを上げ、30トンの質量が光の槍となって、そそり立つ絶壁へと激突する。

 

――ドォォォォォォォンッ!!

 

衝撃は来なかった。

代わりに、世界が真っ白に染まった。

数秒、あるいは数分。

時間の感覚が消失し、ただアリスのスノードームが奏でる「チリン……」という涼やかな音だけが鼓動のように響いていた。

視界が戻ったとき、俺たちの前には、これまでとは全く違う景色が広がっていた。

赤茶けた岩山は消え、そこには見渡す限りの「白い平原」。

ユタ州が誇る巨大な塩湖の跡地、ボンネビル・ソルトフラッツだ。

地平線の果てまで続く、雪のように白い塩の平原。

空の青が鏡のような地表に反射し、上下の感覚さえも狂わせるその場所で、ピータービルトは静かに速度を落とした。

 

「……きれい。……真っ白……。……何も、……書かれてない……画用紙みたい」

 

アリスが窓を開け、冷たく乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

彼女の手の中の砂時計は、すっかり静かになり、琥珀色の光が微かに瞬いているだけだった。

 

「……ふぅ。……九死に……一生。……演算……ユニット、……再起動……完了。……ノイズ……消失」

 

ノッカーが安堵の溜息を漏らし、モスマンもようやく顔を上げた。

 

「ギギィ……。……静か。……ここ、……音が……死んでるんじゃなくて、……まだ……生まれてない……音の……匂いがする」

 

ケットシーがダッシュボードの上で器用に立ち上がり、ドライバーである俺に向けて、仰々しく一礼した。

 

「……お見事だ、ドライバー。難所『沈黙の迷宮』を、記憶の光で突破するとはな。私の教習始まって以来の、破天荒な模範解答だった」

 

彼はニヤリと牙を見せて笑った。

 

「合格だ。貴殿を正式に、この不条理な世界の『一級運送士』と認めよう」

 

俺は返事の代わりに、最後に残ったエンジンの余熱で少し温まった缶コーヒーを煽った。

フロントガラスには、先ほどの激闘で付いた細かい砂の傷が、星図のように刻まれている。

 

 

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