「……よし、野郎ども。野宿は終わりだ。腹を括れ」
俺は重いブーツの先で、純白の塩を踏みしめながら運転席へと跳び乗った。
シートに腰を下ろした瞬間、以前とは違う「重圧」が背中から伝わってくる。
ダタラが叩き上げた赤い装甲と、ノッカーが組み込んだ重力制御ユニット。この30トンの巨体は今、獲物を狙う猛獣のように、静かな殺気と熱を孕んでいた。
「……システム、……オールグリーン。……オイル……循環……開始。……心臓を、……叩き起こせ」
ノッカーが助手席の足元で、自らの指先を新設した外部スロットへ差し込む。
俺はイグニッションキーを回した。
――ドォォォォォォンッ!!
地響きのような始動音。
ボンネビルの鏡のような地表がV8エンジンの咆哮で細かく震え、ひび割れる。
赤い装甲の隙間から、アリスの砂時計に共鳴した琥珀色の蒸気が一気に噴き出した。
「ガハハ! 最高の鼓動じゃねえか! これなら地獄の門番のケツも、ひとひねりでぶち抜けるぜ!」
荷台のダタラが、新調された装甲板を拳で叩いて景気を付ける。
「ふむ、アイドリングの安定感、完璧だ。幸運の女神も、この音なら振り向かざるを得まい」
ケットシーがダッシュボードの定位置に座り、三度笠をキリリと深く被り直した。
「……おじさん。……この子、……とっても……笑ってる。……早く、……走りたいって」
アリスが助手席で愛おしそうにダッシュボードを撫でる。
彼女の瞳には、地平線の彼方に揺らめく不気味で美しい「蜃気楼」が映っていた。
俺は15段変速のシフトレバーをロー・レンジに叩き込んだ。
「行くぞ……。アリス、舌を噛まないようにしてろよ!」
クラッチを繋いだ瞬間、ピータービルトは塩の平原を蹴り飛ばし前方へと弾け飛んだ。
背後には巻き上げられた真っ白な塩の尾を巨大な翼のように引いて。
白い平原の彼方。
揺らめく空気の中から、一つの「影」が急速に巨大化していく。
それは、かつてこの地で速度の限界に挑み、消えていった者たちの執念が形を成したものか。
あるいは、LAWの追撃を振り切るために現れた、この地の新たな「主」か。
「……前方に、……異常な……熱源反応。……時速……300、……400……。……まだ……上がってる……!」
ノッカーの声が緊張に震える。
「ギギィッ! ……おじさん、……何か、……来る! ……とっても……速い……『何か』が!」
モスマンが窓に張り付き、複眼を激しく明滅させた。
蜃気楼の向こうから現れたのは、流線型の銀色のボディを、血のような赤いラインで縁取った異形の「最速悪魔」。
奴は車輪を持たず、塩の地表を数センチ浮遊しながら、物理法則を嘲笑うような軌道でこちらへと迫ってくる。
「……先生。教習に『追いかけっこ』の項目はあったか?」
「あいにくだが、逃げ切るだけでは赤点だぞ、ドライバー。……来い! 『最速』の称号を、その赤い装甲で奪い取って見せろ!」
ケットシーが叫ぶ。
俺はアクセルをさらに踏み込み、新しくなった過給機(ターボ)を咆哮させた。
「……ねえ、おじさん。あの人、とっても急いでる」
時速400キロに迫る猛烈な風圧の中、アリスの声だけが不思議なほど鮮明に俺の鼓膜に届いた。
彼女は窓の外、並走するように現れた銀色の閃光をじっと見つめている。その瞳は、いつもの藍色ではなく、塩の平原を反射したような透き通るような白に染まっていた。
「……急いでる? あのスピードじゃ、どこへ行く間もなく世界を一周しちまうぞ」
俺がステアリングを抑え込みながら答えると、アリスは首を横に振った。
「……ううん。……あの中の人、……どこかへ行きたいんじゃなくて、……『止まるのが怖い』の。……止まっちゃうと、……自分が消えちゃうから」
アリスが砂時計の表面をなぞる。
すると、銀色の悪魔の周囲に立ち込める蜃気楼の隙間に、一瞬だけ「核」が見えた。
それは最新鋭の流線型ボディとは裏腹に、驚くほど古びた、ランドスピード・レーサーの残骸。そしてそのコクピットに固着した、真っ白な塩に覆われたドライバーのミイラだ。
「……あの人の時計、……ずっと前に壊れちゃってる。……だから、……走り続けないと、……今がどこかわかんなくなっちゃうの」
アリスの悲しげな言葉に呼応するように、銀色の悪魔が耳を劈くような金属音を立てて咆哮した。
奴の「速度」は、もはや移動の手段ではなく、消滅を拒絶するための終わりのない断末魔だった。
「……おじさん、……止めてあげて。……あんなに速く走ってたら、……誰の顔も、……見えないもん」
アリスが窓から身を乗り出し、新調されたヘッドライト――『ライトゲート・プロジェクター』にそっと手を触れた。
彼女の指先から救ってきた亡霊たちの「静かな時間」が、トラックの回路へと流れ込んでいく。
「……了解だ、アリス。あいつの『止まる恐怖』ごと、この30トンで受け止めてやる」
俺は重力制御ユニットを最大出力にセットした。
タイヤが塩の地表を掴む力が、物理的な重さを超えて増幅される。
「よし、ドライバー! 奴の『孤独な独走』を終わらせるぞ!」
ケットシーがダッシュボードを蹴って咆哮した。
「幸運の女神は、寂しがり屋のスピード狂には微笑まん! 貴殿の『重み』を教えてやれ!」
「……落ち着け、ドライバー! 肩の力を抜けと言っているだろうが! 貴殿の緊張がステアリング・コラムを通じて、この子の『神経』に伝わっているぞ!」
ケットシーがダッシュボードの上で、四肢の爪を立てて踏ん張りながら怒鳴り散らした。時速450キロ。キャビンを叩く風切り音はもはや爆鳴に近く、視界の端では白い塩が一本の細い線となって後ろへ流れていく。
「……五月蝿いぞ、先生! アジャスターが効きすぎて、ハンドルの手応えが消えかかってんだ!」
「それを補うのが『心眼』だ! 良いか、よく聞け。今の貴殿は『路面を走っている』と思うな。塩の地表という名の『薄い氷』の上を、指先だけで滑らせているとイメージしろ!」
ケットシーが鋭い眼光で、並走する銀色の亡霊を見据える。
「奴の動きを見ろ。左フロントが微かに浮いている。あの速度域での空気の壁に、奴の『孤独』が負け始めている証拠だ。……今だ! 奴の懐に潜り込め!」
「おい、この速度でか!? 乱気流でひっくり返るぞ!」
「弱気を吐くな! 貴殿にはダタラの『赤い鎧』と、アリス嬢の『守護』がついている! 次の瞬きでトップからダイレクトへ落とせ!
エンジンブレーキと重力増幅を同期させ、奴の真空ポケットにフロントバンパーを捻じ込むんだ!」
俺は歯を食いしばり、ケットシーの怒号に合わせてクラッチを蹴った。
新調されたトランスミッションが火花を散らすような音を立てて噛み合い、30トンの巨体が、一瞬だけ物理法則を無視した「不自然な減速」を見せる。
その刹那、ピータービルトの巨体が銀色の亡霊の真後ろ、文字通り数センチの距離まで吸い寄せられた。
「ギギィッ! ……お、おじさん、……ぶつかる! ……銀色の人が、……すぐそこに!」
「……大丈夫。……この子、……とっても……静かになった」
アリスが窓越しに手を伸ばす。
スリップストリームの中は、狂ったような風の音が消え、ただ二つの巨大な質量が寄り添い、併走する奇妙な静寂が支配していた。
「よし、合格だ! 奴の恐怖を、貴殿の『重み』で包み込んだ。今、この瞬間、奴は一人ではない!」
ケットシーが満足げに牙を見せた。
「ドライバー、そのまま『ライトゲート』を最大にしろ。奴に、止まっても消えない『居場所』を見せてやるんだ!」
「……もう、大丈夫だよ。……いっしょに、止まろう?」
アリスがフロントガラスに掌を当てる。その瞬間、ヘッドライトから放たれた『ライトゲート』の光が、スリップストリームの真空を琥珀色に染め上げた。
俺はケットシーの指示通り、重力制御ユニットを逆噴射に近い設定へと叩き込んだ。
18輪のタイヤが塩の地表を掴み、火花ではなく「結晶の砕ける白煙」を猛烈に吹き上げる。
「……出力、……マイナス100%……! ……空間を……引きずり戻せ!」
ノッカーが叫び、外部スロットから青い火花が散る。
銀色の亡霊は、逃げることをやめた。
ピータービルトの赤い装甲が放つ圧倒的な「存在の質量」と、アリスの優しい光に包まれ、奴の流線型のボディが少しずつ、本来の年代である鉄の塊」へと形を戻していく。
並走する二つの影。
時速450、400、300……。
猛烈なGがキャビンを襲い、俺の腕の筋肉が悲鳴を上げる。だが、隣を走る銀色のマシンのコクピットが見えた。
そこには塩のミイラではなく、かつて速度に全てを賭けた一人の男の、穏やかな「残像」が座っていた。彼は俺を見て、短く、満足そうに頷いた。
「……止まった。……世界が、……見えるよ」
アリスが呟いた瞬間、ピータービルトと銀色のマシンは、完全に静止した。
ボンネビルの白い大地のど真ん中。
あんなに狂暴だった風の音は消え、ただエンジンのパキパキという冷却音だけが、完璧な静寂の中に響いていた。
銀色のマシンは停止すると同時に、砂の城が崩れるように静かに白い粉へと還っていった。
後に残ったのは、錆びついた一本のゴーグルだけ。
「ギギィッ……。……終わった? ……あんなに速かったのに、……今は、……ただの風……」
モスマンが窓から首を出し、銀色の粉が舞う地平線を眺めた。
「ふむ、見事なブレーキングだった。停止距離、姿勢制御、共に100点だ」
ケットシーが三度笠を脱ぎ、消えていった亡霊に向けて静かに黙祷を捧げた。
「奴は今、初めて自分の『記録』を超えて、本当の終着点に着いたのだな」
アリスが外へ降り、塩の中に残された古いゴーグルを拾い上げた。
彼女がそれを砂時計の横に並べると、ゴーグルのレンズが琥珀色に一度だけ光り、アリスに「ありがとう」と告げたような気がした。
「……おじさん。……この人、……やっと……ゆっくり……景色が見れるね」
アリスの微笑みは、どこまでも広がる白い平原と同じくらい純粋で、空っぽだった。