アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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14話 レッドロックの呼び声──岩に刻まれた地図

 

ボンネビルの白い静寂を後にし、ピータービルトは再び燃えるような赤い岩の世界へ足を踏み入れた。

ユタ州南部、レッドロック・キャニオン。

そこは、数億年の年月が「風」という名の彫刻刀で削り上げた地球の肋骨のような場所だ。

 

「……先生、ここから先は道が細くなる。タイヤ一本踏み外せば、奈落の底だ」

 

俺はアジャスターを微調整しながら、断崖絶壁に張り付くような細いトレイルを慎重に進んでいた。

赤い装甲を纏ったピータービルトの巨体は、ここではあまりに異質で、あまりに巨大すぎる。

 

「ふむ、慎重なのは良いことだ。だがドライバー、前方を見ろ。岩の色が変わっている。あそこから先は『聖域』……LAWの電波さえも届かない、古い神々の通信網が生きている場所だ」

 

ケットシーが耳をピンと立て、不穏な空気を察知して唸った。

 

「……ギ、……ギギッ……。……おじさん、……なんだか、……ノッカーが変……」

 

モスマンの不安そうな声に、俺はバックミラーへ目をやった。

助手席の足元で、いつも通り計器に指を繋いでいたノッカーの体が、奇妙なリズムで痙攣していた。

彼のゴーグル型のモニターには、これまでの電子的なノイズではなく、「古代の絵文字」のような幾何学模様が猛烈なスピードで流れている。

 

「ノッカー! おい、どうした! 過負荷(オーバーロード)か?」

 

「……ア、……アア……。……受信、……不能……。……岩が、……喋りすぎて……回路が……溶ける……! ……これは、……地図だ……。……この先の……地底に……眠る……『最初の街』の……!」

 

ノッカーの口から漏れたのは合成音声ではなく岩同士が擦れ合うような、ザラついた、そして重厚な「響き」だった。

彼の皮膚の表面に、赤い岩肌と同じような亀裂(クラック)が浮かび上がっていく。

 

「……ノッカー。痛いの? ……まって、……わたしが……聞いてあげる」

 

アリスが心配そうにノッカーの頭に手を置いた。

その瞬間、ピータービルトのキャビン全体が、巨大な共鳴箱(スピーカー)になったかのように激しく震え出した。

窓の外。

そそり立つレッドロックの岩肌にノッカーの脳内から溢れ出した「地図」が、眩い光の線となって投影されていく。それは、現存するどのGPSにも載っていない「世界がLAWに管理される以前からある魂の抜け道」だった。

 

「……いけない。……あの場所、……おじさんの……トラック、……呼ばれてる。……あの中に、……誰かが……ずっと……閉じ込められてる」

 

アリスの瞳が、深く、燃えるような緋色に染まる。

彼女の指先にある『錆びた鍵』が、熱を帯びて真っ赤に発光し始めた。

 

「ガハハ! 面白えじゃねえか! 地図があるなら、道なき道を行くだけだぜ! 運転屋、ノッカーが焼き切れる前に、その『地底の街』とやらに乗り込もうぜ!」

 

イッポンダタラが快哉を叫ぶが、俺はステアリングを握る手に汗が滲むのを感じていた。

ノッカーの変貌。岩が語り出す地図。

それは、この旅が単なる逃避行ではなく、世界の「根源的なバグ」へと向かっていることを示していた

 

「……くそ、このままだとノッカーが岩に食われるぞ!」

 

俺は強引にピータービルトを路肩の僅かなスペースに停めた。エンジンは切らない。

ノッカーの回路がトラックのシステムと癒着しすぎていて、今シャットダウンすれば彼の意識ごと消えかねないからだ。

 

「先生、何か手はないか! 悪魔の知識を貸せ!」

 

「焦るな、ドライバー! 奴の電子脳(コア)は今、数億年の『重力』と『時間』に圧殺されかけている。情報の洪水(フラッド)をせき止めるのは無理だ。……ならば、流し込んでやるしかない!」

 

ケットシーが鋭い決断を下した。

 

「ダタラ! 貴殿の持っている一番冷たい『素材』を出せ! モスマン、貴殿はノッカーの過剰な電荷を吸い取れ! アリス嬢は……そのまま彼を繋ぎ止めておいてくれ!」

 

「ガハハ! 任せろ! 昨日の夜、塩の平原で冷やしておいた『絶対零度の錫(スズ)』がある。こいつをノッカーの首筋のヒートシンクに叩き込んでやるぜ!」

 

イッポンダタラが荷台から飛び降り、凍てつくような冷気を放つ金属片をノッカーの項(うなじ)へと押し当てた。

 

「ギギッ! ……あ、……熱い……! ……ノッカー、……ピリピリ……する! ……ボク、……全部……食べる!」

 

モスマンがノッカーの胸元に張り付き、触角を端子に絡ませる。過剰なエネルギーを吸い取ったモスマンの羽が、ネオンサインのように激しく点滅し始めた。

 

「……ノッカー、……大丈夫だよ。……あのね、……全部……覚えなくていいの。……おじさんが、……ちゃんと……道を……見てるから」

 

アリスがノッカーの額に手を触れ、静かに囁いた。

彼女が持つ『錆びた鍵』が放つ鈍い光が、ノッカーの脳内に流れ込む「荒ぶる岩の記憶」を、優しく、かつ強引に「静止」させていく。

 

「……ガ、……アア……。……圧力が……下がる……。……濾過(フィルタリング)……開始……」

 

ノッカーのゴーグルに流れていた幾何学模様が、次第に整理された「線」へと変わっていく。

赤黒く変色していた彼の肌から亀裂が消え、いつもの無機質な、だがどこか安心させる電子音が戻ってきた。

 

「……フゥ、……再起動。……岩の……声、……アーカイブに……圧縮成功。……でも……ドライバー、……これ……道じゃない。……『穴』だ」

 

ノッカーが震える手で、ダッシュボードのモニターを指差した。

そこには、ノッカーが命がけで読み取った地図が映し出されていた。それは、前方の垂直に近い崖の底――。

物理的には絶対に進入不可能な「空間の裂け目」を指し示していた。

 

「……あそこ。……あの中に、……誰かが……泣き疲れて……眠ってる」

 

アリスが暗い谷底を見つめて言った。

 

「よし、全員席に戻れ。応急処置は終わりだ」

 

俺はシフトレバーを握り直し、ノッカーの肩を一度だけ叩いた。

 

「ノッカー、よく耐えた。あとのナビは任せたぞ」

 

「……待て。焦ってダイブして、ただのスクラップになるのは御免だ」

 

俺は崖の縁から数メートルのところでブレーキをかけた。タイヤが赤い砂を巻き上げ、奈落の底から吹き上がる不気味な風がフロントガラスを叩く。

 

「ノッカー、さっき圧縮したデータをもう一度広げろ。その『穴』の向こう側……何が待ち構えているか、もっと詳しく見たい」

 

「……了解。……アーカイブ……展開。……ノイズを……除去して……ワイヤーフレームで……再構成する……」

 

ノッカーが外部プロジェクターを起動するとダッシュボードの上に崖下の空間を解析したホログラムが浮かび上がった。

それは単なる地形データではなかった。

垂直の崖の中腹、目視ではただの岩肌にしか見えない場所に「歪んだ円環状のエネルギー体」が渦巻いている。

 

「……あれは、……ワームホール。……でも、……自然発生したものじゃない。……人為的な……『封印』の痕跡がある」

 

ノッカーの声が、解析が進むにつれて低くなっていく。

 

「……封印の……術式コード……LAWの……プロトタイプに……酷似。……数千年前の……記録が、……デジタルで……上書きされている……」

 

「LAWのプロトタイプだと? 奴ら、そんな大昔から……」

 

「ふむ、驚くには当たらんよ、ドライバー」

 

ケットシーがパイプを咥え直し、ホログラムを鋭い眼光で覗き込んだ。

 

「奴らは『管理』の化身だ。太古から、理(ことわり)に合わない存在を、こうして世界の『ゴミ箱』に放り込んできた。……だが、見てみろ。そのゴミ箱の底に、何か巨大なものがいる」

 

ホログラムの最下層、赤い岩盤のさらに奥深くに巨大な「鼓動する心臓」のような反応が映し出された。

それは、地脈そのものと一体化した巨大な植物の根か、あるいは血管のようにも見える。

 

「……おじさん。あのね、……あれは『声』の主だよ」

 

アリスがホログラムにそっと指を触れた。

 

「……ずっと昔、……世界がまだバラバラだったとき、……みんなを繋ごうとして、……でも『うるさい』って言われて、……ここに閉じ込められちゃったの」

 

「……ア、……アナサジ。……失われた……民。……彼らが……崇めていた……『通信の精霊(ココペリ)』……? ……いや、……もっと……根源的な……情報の……母体だ」

 

ノッカーが震える手でデータをスクロールさせる。

 

「……ここに入れば、……外の世界との……通信は……完全に遮断される。……LAWの……監視衛星も……届かない……『沈黙の底』……」

 

「ガハハ! 監視の目がないってんなら、暴れ放題じゃねえか!」

 

ダタラが拳を合わせるが、俺にはアリスがその「心臓」に共鳴して、少しずつ透き通っていくように見えていた。

 

「よし、調査は十分だ。……要するに、あそこはLAWが隠し続けてきた『歴史のバグ』が溜まっている場所ってことだな」

 

俺はシフトレバーを握り、キャビン全体を包み込むような深い溜息をついた。

この先に待っているのは、ただの物理的な危険ではない。

世界が「なかったこと」にした記憶との、真っ向勝負だ。

 

「……よし、あんな得体の知れない穴に丸裸で突っ込めるか。野郎ども、最後の仕上げだ。地底の底まで、俺たちの『実体』を繋ぎ止める準備をしろ」

 

俺の声に応じ、一行は手慣れた様子で持ち場に散った。奈落から吹き上がる「歴史の澱み」を含んだ風が、赤い装甲を叩き、異様な音を立てている。

 

精神的・電子的装甲:【カオス・ファラデーケージ】

 

「……ノッカー、……外部回路を……完全に……物理遮断しろ。……これからは、……俺たちの……内側にある……記憶だけが……羅針盤だ」

 

ノッカーは、ボンネビルで得た銀色の亡霊の残骸――純度の高い「速度の記憶」を含んだ導線を使い、キャビン全体を網目状に包み込んだ。

 

「……これで、……外からの……LAWの干渉も、……地底の……呪いも……入ってこれない。……キャビン内は、……俺たちだけの……絶対領域(サンクチュアリ)だ」

 

物理的耐圧:【ダタラの不壊リベット】

 

ダタラは、赤の騎士の軍刀を溶かして作ったボルトを、トラックのフレームの要所に打ち込んでいった。

 

「ガハハ! 次元が歪もうが、崖から落ちようが、このボルトだけは外させねえぜ! 運転屋、このトラックは今、一本の『楔』になった。地底の岩盤だろうが、歴史の壁だろうが、ぶち抜いて進め!」

 

特殊調整:【アリスの『沈黙の耳栓』】

 

アリスは、砂時計から溢れる琥珀色の砂を、トラックの吸気口や窓の隙間にそっと振りまいた。

 

「……しーっ。……あそこの声、……とっても大きいから。……この子が……びっくりしないように、……お守り、……しておいたよ」

 

その砂が触れた場所から、ピータービルトの震動が「トクン、トクン」と、まるで生き物のような鼓動へと変わった。

 

「先生。……これで、崖から飛び降りる『合格点』はもらえるか?」

 

俺が尋ねると、ケットシーはダッシュボードの上で器用にパイプを片付け、シートベルトを自分に巻き付けた。

 

「ふむ。準備に手落ちはない。……だがドライバー、これだけは覚えておけ。最後の一線を越えるのは、機械でも幸運でもない。貴殿の『行こう』という意志そのものだ」

 

俺はヘルメットの顎紐を締め直し、ステアリングを握る。

新調された赤い装甲は、夕闇の中で血のように暗く、力強く輝いている。

横ではアリスが『錆びた鍵』を胸に抱いて静かに微笑んでいた。

 

「……おじさん、……いこう。……みんなが……待ってるよ」

 

俺は1速にシフトを叩き込み、ブレーキを解いた。

30トンの巨体が、重力に従って赤い崖の縁を滑り出す。

フロントガラス越しに、地平線が消え、ただ「無限の闇」が迫ってきた。

 

「……いくぞおおおおおっ!!」

 

俺たちは、世界の記録から消えるために、真っ逆さまにダイブした。

重力から解き放たれ、30トンの鋼鉄が虚空へと吸い込まれていく。

窓の外は、赤い岩肌さえも見えない、濃密で重い「完全な闇」に塗り潰された。落下しているはずなのに、風を切る音すら聞こえない。

 

「……おじさん、怖くない?」

 

アリスの声が、暗闇の中で小さな灯火のように響いた。

彼女の顔は、ダッシュボードの計器の微かな光に照らされ、どこか透明な青白さを帯びている。

 

「……怖くないと言えば嘘になる。だが、この助手席に『世界の終わり』を乗せてるんだ。今さら崖の一つや二つで、心臓は止まらないさ」

 

俺が答えると、アリスはふふっと小さく笑って、俺の袖をそっと掴んだ。

 

「……あのね。……わたし、……生まれる前のことを……思い出してたの。……こんなふうに、……ずっと……真っ暗なところで、……だれかが……歌ってくれるのを……待ってた気がする」

 

「歌、か」

 

「……うん。……でも、……だれも……歌ってくれなかった。……みんな、……『正しいこと』を……喋るのに……夢中だったから。……だから、……わたし、……自分で……歌うことにしたんだよ」

 

アリスの手の中にある『錆びた鍵』が、暗闇を拒絶するようにトクン、と鼓動した。

それは、彼女が「死を乞う少女」として目覚める前の、もっと純粋な、寂しさの記憶。

 

「……おじさんの……トラック、……歌ってるみたいだよ。……ピキピキ、……ドロドロ。……鉄の……歌。……わたし、……この歌、……好き」

 

「ギギッ……。……ボクも、……好き。……おじさんの……音……温かい……」

 

モスマンが、暗闇の中で俺の肩に頭を預けてきた。

 

「ふむ……。音がない場所では、心の中の音が一番大きく響くというが、まさにそれだな」

 

ケットシーが、見えない闇の先を見つめながら静かに言った。

 

「ドライバー、この暗闇は貴殿の『核』を試している。自分を疑えば、このまま永遠に落ち続けることになるぞ。……だが、貴殿にはこのアリス嬢がついている。……彼女という重力がある限り、貴殿が迷子になることはない」

 

「……ああ、わかってるさ。先生」

 

俺は目に見えないステアリングを、これまでで最も強く握りしめた。

俺がここ(運転席)にいる。アリスが隣にいる。

その事実だけで、このピータービルトは虚無を切り裂く一筋の「現実」となる。

 

「……そろそろ、……着くよ」

 

アリスが囁いた瞬間、暗闇の底に、かつて見たこともないような「虹色の地層」が見え始めた。

数千年の封印に耐えてきた、地底の街の輝きだ。

 

 

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