アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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19話 Out of the Truth, into the Life.

 

夜空を駆ける白銀の残光。

エリア51の崩壊から解き放たれたピータービルトは、夜明け前のカリフォルニアの空を滑るように高度を下げていった。

眼下に広がるのは、LAWの管理が行き届いた、幾何学的に整列した光の海ではない。

潮風に削られ、霧に包まれた、古き良き……そして壊れかけた街、サンフランシスコだ。

 

「……見えた。……あそこが……わたしの……長い旅の……終点」

 

アリスがフロントガラスの先に指を差す。

霧の向こう側に、錆びつきながらも誇り高くそびえ立つ、巨大な赤い橋――ゴールデンゲートブリッジが、朝焼けの光を浴びて浮かび上がっていた。

タイヤがアスファルトを捉え、18輪の衝撃が車体を揺らす。

空を飛ぶ魔法が解け、ピータービルトは再び、一台の「泥臭いトラック」に戻った。

 

「ガハハ! 潮風の匂いがしやがる。……どうやら本当に、地の果てまで来ちまったようだな、運転屋」

 

ダタラが身を乗り出し、欠けた三度笠を被り直したケットシーと共に、迫り来る赤い橋を見つめる。

 

「……ギギッ……おじさん……橋の……真ん中に……誰か……いるよ……」

 

モスマンの複眼が、橋の中央に立つ人影を捉えた。

それは、白く無機質なコートを纏ったLAWの最高執行官。だが、その背後に軍勢はいない。

手には一冊の「未完の帳簿」を抱えていた。

 

「……あの方は……わたしが……生まれたとき……最初に『おやすみ』を……言ってくれた人」

 

アリスの声は穏やかだった。

俺はギアを落とし橋の中央、その人影の数メートル手前でピータービルトを停めた。

エンジンを切ると、波の音と橋のワイヤーが風に鳴る音だけが聞こえてきた。

アリスは助手席のドアを開け、ゆっくりと地面に降り立った。

その手には、もう光らない、ただの『古い錆びた鍵』が握られていた。

 

「……待たせて……ごめんね。……わたし……『約束』を……書き換えにきたよ」

 

「……おかえりなさい、アリス。そして、ご苦労様。我らが愛しき『終焉の設計図』よ」

 

白いコートを纏った執行官は、感情を排した声で言った。だが、その瞳はアリスを映した瞬間、電子的なノイズのように微かに揺れた。

 

「……おじさん。……わたしね、この鍵を返しにきたの。……世界を壊すための『鍵』じゃなくて……みんなの心に……鍵をかけないでね、っていう……お願いとして」

 

アリスは、執行官の前にゆっくりと歩み寄った。

かつて彼女は、ここへ辿り着いた瞬間に「死」を乞い、世界を道連れに消滅するはずだった。それがLAWの書いた絶対のシナリオだ。

だが今、彼女の背後には泥と火花にまみれた赤いピータービルトが、唸りを上げる猛獣のように控えている。

 

「……アリス、貴方はバグを抱えすぎた。

そのトラックに乗る異形たち……そして、名もなきドライバーとの旅が、貴方の論理回路を修復不可能なほど『歪ませて』しまったようだ」

 

執行官が抱えていた「未完の帳簿」を開く。

そこにはアリスが経験した全ての苦痛と、そして、この数日間で得た「不条理な喜び」が膨大な文字列となって流れていた。

 

「……ガハハ! 歪んでるのが人間の味ってやつだろうが、お偉いさんよ!」

 

ダタラが車体から叫ぶ。

 

「……おじさん……あのアリス……笑ってる……。……ボクの光よりも……まぶしい……」

 

アリスは、執行官の冷たい手に自分の小さな手を重ねた。

 

「……ねえ。……あなたも、疲れたでしょ? ……ずっと……『正解』だけを……探し続けるのは。……わたしと一緒に……『間違い』を……愛してあげて」

 

その瞬間、アリスの持つ『錆びた鍵』が執行官の持つ帳簿へと溶け込んでいった。

琥珀色の光が文字を書き換えていく。

消去の命令が、感謝の言葉へ。

終焉の符号が、継続の余白へ。

 

「……あ。ああ……」

 

執行官の頬を、一筋の液体が伝い落ちた。

それはLAWのシステムが初めて流した、論理では説明できない「涙」という名のエラーだった。

 

「……おじさん。……ちょっとだけ……二人きりで……お話ししてもいい?」

 

執行官が涙に暮れ、ダタラたちが橋の欄干で海を眺めている隙にアリスは運転席の窓越しに俺を招き寄せた。

彼女の姿は、琥珀色の光に包まれながら少しずつ透き通ってきているように見えた。

 

「……あのね。……秘密があるの。……わたしが……おじさんに……一番……言いたかったこと」

 

彼女は俺の大きな手に、自分の透き通りかけた手を重ねた。

その感触は、もう人間の体温ではなく春の陽だまりのような、純粋なエネルギーの塊だった。

 

「……本当はね……おじさんと出会ったとき……わたし……すぐに世界を終わらせるつもりだったの。……でも……おじさんのトラック……すっごくボロくて……エンジンの音が……なんだか『生きてるよ』って……怒鳴ってるみたいで。……それが……おかしくて……ちょっとだけ……旅をしてみようって……思ったんだよ」

 

アリスは悪戯っぽく微笑んだ。

 

「……それでね……おじさんが……無愛想に……『しっかり掴まってろ』って言うたびに……わたしの心の中の……『死神さん』が……少しずつ……消えていったの。……だから、……この世界を……救ったのは……わたしじゃないよ。……おじさんの……下手っぴな……運転と、……その……優しさなんだよ」

 

アリスの瞳から、一粒の光る雫がこぼれ落ち俺のハンドルに触れた。

その瞬間、俺の頭の中に言葉ではない「景色」が流れ込んできた。

それは、管理社会が崩壊した後の緑に包まれた新しい世界。

そこには一台の赤いトラックが、静かに草むらで眠っている。

そして、その助手席の窓辺には、一本の「青い花」が咲いている――。

 

「……おじさん。……これが、……わたしの『秘密の、おしまい』。……おじさんは……これからも……どこまでも……走っていってね。……わたしは……空からも……地面からも……風からも……ずっと……『おじさんのトラック、かっこいいね』って……言ってるから」

 

彼女の手が、淡い光の粒子となって俺の指の間を抜けていった。

 

「……行ったか」

 

俺の隣にいた少女の重みが今は、もうない。

ただ、朝日を浴びたキャビンの中に、微かな琥珀色の光の塵と、彼女が好んでいた古いレコードのような静かな余韻だけが漂っていた。

 

橋の中央で膝をついていた執行官が、ゆっくりと立ち上がった。纏っていた白無機質なコートは、いつの間にか朝焼けに染まり、その表情からは「管理者」としての冷徹さが消え失せていた。

そして、俺に向かって深く一度だけ頷くと霧の向こうへと消えていった。

 

「ガハハ……。静かになっちまったな、運転屋」

 

ダタラが荷台から降り、一本足でアスファルトを力強く踏みしめた。

 

「だがよ、不思議と悪い気分じゃねえ。……俺様の打った鋼が、世界を支える礎になったんだ。職人冥利に尽きるってもんだぜ」

 

「……ギギッ……おじさん……。……空が……とっても……きれいだよ。……アリスが……あっちこっちで……笑ってるのが……見える……」

 

モスマンがキャビンの屋根に飛び乗り、その複眼を黄金色の朝日に輝かせた。彼の放つ光は、もう毒々しいジャミングではなく、夜明けを祝う柔らかな灯火に変わっていた。

 

「ドライバー。貴殿の旅の評価だが……」

 

ケットシーが、ボロボロになった三度笠を橋の欄干に置き、海風に髭を揺らした。

 

「……満点、と言いたいところだが。あやつに『明日』という宿題を押し付けられたからな。採点は、貴殿がこの先、どこまで走り続けられるかを見てからにしよう」

 

俺は何も言わず、イグニッションキーを回した。

V8エンジンが、アリスの秘密を胸に秘めた、これまでで最も力強く、澄んだ咆哮を上げる。

 

「野郎ども、乗れ。……旅はまだ続くぞ」

 

「おうよ! 次はどこの鉄を叩きに行くんだ?」

 

「……ボク……美味しい……ガソリン……飲みたい……!」

 

「ふむ。西海岸を北上するのも一興だな」

 

俺はギアをローに入れ、クラッチを繋いだ。

18輪のタイヤが、サンフランシスコの地を踏みしめピータービルトはゆっくりと、だが確実に新しい世界へと走り出した。

バックミラーに映るゴールデンゲートブリッジは、もはや管理社会の境界線ではなく未来へと続く単なる古い橋だった。

そして、助手席の窓枠には、アリスが残した光の滴から芽吹いたような、一輪の「青い花」が風に揺れていた。

 

あれから数ヶ月が過ぎた。

かつてLAWが支配していた「完璧な空」には、今では不規則な形の雲が浮かび、時折気まぐれな雨が降る。

世界は、ようやく「正しく壊れること」を許されたのだ。

俺とピータービルトは、サンフランシスコから北、オレゴンの深い森を抜けるハイウェイを走っていた。

 

「ガハハ! 見ろよ運転屋!

この先の村で頼まれた『復興用クランクシャフト』だ。

俺様がLAWの廃材を叩き直して作った特級品だぜ。村の連中、腰を抜かすんじゃねえか?」

 

荷台ではダタラが、新しく新調した耐熱エプロンを誇らしげに叩いている。

 

「……ギギッ……おじさん……お花畑……いっぱい……。

……あそこの……蜜……きっと……甘いよ……」

 

モスマンは、以前のような毒々しい発光を抑え、エメラルドグリーンに輝く羽をキャビンの窓から外へ出し、風を楽しんでいる。

彼の放つ微弱な電波は、今では近隣の村々の古いラジオを鳴らす「希望の電波」として親しまれていた。

 

「ふむ。このあたりの魚は脂が乗っていそうで良いな。

ドライバー、次の休憩ポイントには、美味い酒場があるという噂だぞ」

 

助手席のダッシュボードでは、ケットシーが新しい三度笠を深く被り直し、満足げに目を細めていた。

俺は無言でハンドルを切り、シフトレバーを滑らかに操作する。

かつてのような命懸けの逃走劇ではない。

だが、この30トンの巨体は、今も誰かにとっての「希望」を運ぶために、力強くアスファルトを噛み締めている。

ふと、助手席の窓枠を見た。

あの日、サンフランシスコで芽吹いた「青い花」は、枯れることなく、今も瑞々しい色を保ったまま風に揺れている。

 

『――おじさん、……今日のご飯……なに……?』

 

風の音に混じって、そんな幻聴が聞こえた気がした。

俺はバックミラーに映る、自分たちの轍を眺める。

そこには、管理社会の影など微塵もない、ただ真っ直ぐに続く自由な道があった。

 

 

 

 




(完)
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