アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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2話 イリノイの古道具屋

 

ミズーリの平原を抜け、大河ミシシッピを越えてイリノイ州へと足を踏み入れると、世界を覆う空気の「密度」がわずかに変わった。

 

都市部を繋ぐ主要幹線道路には依然として、量子管理システム『LAW』の監視ユニットが冷徹な眼光を放っている。だが、そこから一歩外れた旧道(オールド・ウェイ)に入れば、もはやアスファルトさえも自然に還りつつあった。

 

ひび割れた路面から雑草が顔を出し、かつての繁栄を物語るビルボードの看板は、色あせて何事かを訴えかけるのを止めている。

LAWが「非効率」として切り捨て、地図の更新を止めた場所。そこは、システムの恩恵からも、その呪縛からも等しく見放された、静かな空白地帯だった。

 

ピータービルトの18輪が、劣化した路面を規則的に噛み締める。

助手席に座るアリスは、窓の外を流れる枯れたトウモロコシ畑を、まるで遠い記憶を辿るようにじっと見つめていた。その瞳には、LAWの高性能センサーには決して映らない、風に舞う「何か」が映っているようだった。

 

「……あそこ、……止まって」

 

アリスが不意に小さな指で、地平線の先に佇む一軒の建物を指差した。

そこは、かつてのガソリンスタンドを強引に再利用したような、雑然とした古道具屋だった。錆びついたトタン屋根、傾いた看板には掠れた文字で『Rust & Bones(錆と骨)』と書かれている。

 

「ガハハ! 運転屋、アリスの勘は鋭いぜ! あそこには、いい『匂い』のするガラクタが眠っていやがる!」

 

荷台の特設工房から、地響きのようなイッポンダタラの声が上がった。

彼のような鍛冶の悪魔にとって、歴史の澱みが溜まった場所は、宝の山に等しい。

俺は速度を落とし、巨大な車体を古道具屋の砂利敷きの駐車場へと滑り込ませた。

 

店から出てきたのは、年齢不詳の、背中の曲がった老婆だった。

 

彼女は俺のピータービルトを一目見ると、深すぎる皺を寄せて皮肉げな笑みを浮かべた。

 

「……近頃の、音も立てずに滑る『綺麗な車』には飽き飽きしてたところさ。こんな野蛮な鉄の塊、まだ動いているのが奇跡だね」

 

「……奇跡じゃない。……俺が、……直している」

寝台から這い出したノッカーが、老婆の足元でボソリと呟いた。

 

老婆は驚く様子もなく、油まみれの小さな姿を

「ああ、あんたが担当かい。いい仕事をしてるね」と納得したように眺めていた。どうやらこの婆さん、俺たちの「仲魔」が最初から見えているらしい。

 

アリスは俺の手を離れ、吸い込まれるように店の奥へと入っていった。

俺は老婆に軽く会釈をし、薄暗い店内へ彼女の後を追う。

 

そこは、LAWが「ゴミ」として破棄したはずのアナログな遺物で溢れていた。ゼンマイ式の時計、手回しのコーヒーミル、そして誰が撮ったかもわからない古い白黒の家族写真。すべてが埃を被りながらも、かつて誰かの人生の一部であったという重みを湛えていた。

 

アリスが立ち止まったのは、カウンターの隅にある、古びた真鍮の小箱の前だった。

その中には、ひどく錆びついた一本の「鍵」が転がっていた。

 

「……これ、……知ってる」

 

アリスがその鍵に触れた瞬間、店内の空気が一変した。

キーンという耳鳴りのような高周波。

助手席にいたはずのモスマンが店内に音もなく現れ、激しく翅を震わせる。赤い複眼が最大出力で発光し、俺のダッシュボードにあるスマホ──DDS(悪魔召喚プログラム)の画面には、警告ではなく、未知の「記録(アーカイブ)」が激流のように流れ始めた。

 

DATA RETRIEVED: [ROUTE 666 / ARCHIVE-00]

STATUS: ENCRYPTED BY OLD WORLD.

LOCATION: UNKNOWN (OVERWRITTEN BY LAW)

 

「……それは、単なる鍵じゃないよ、お嬢ちゃん」

 

老婆がいつの間にか背後に立ち、静かな、しかし重みのある声で言った。

 

「それは、この世界が『LAW』によって塗り替えられる前に、誰かが隠した『ドア』の鍵さ。その鍵が選ぶ持ち主は、いつの時代も、帰り道を忘れた迷子だけだ」

 

アリスはその鍵を大切そうに握りしめ、俺を見上げた。

その瞳は、ただの迷子ではなく、進むべき道を見つけた旅人のそれだった。

 

「……これ、……持っていく」

 

彼女の静かな、だが確固たる意志に、俺は無言で頷くしかなかった。

 

イッポンダタラが拾い集めてきた大量の「マニアックな鉄屑」を荷台に積み込み、俺は老婆にいくばくかの紙幣を渡した。今や都市部では紙切れ同然の現金だが、彼女はそれを愛おしそうに受け取った。

 

再び走り出したトラックのキャビンで、アリスは握りしめた鍵をじっと見つめていた。

窓の外では、遠くに見えるハイウェイの監視アーチが、相変わらず無機質な光を放っている。だが、今の俺たちには、その光さえもどこか遠い世界の出来事のように思えた。

 

「……さて、アリス。その鍵がどこのドアを開けるのか、旅のついでに探してみるとするか」

 

俺はアクセルをじわりと踏み込む。

15段変速のギアが、かつてないほど滑らかに噛み合った。

ピータービルトの咆哮は、広大なアメリカの闇を切り裂き、まだ見ぬ「ドア」の向こう側へと俺たちを運んでいく。

 

イリノイの夜は、ひたすらに深い。

俺のピータービルトは、旧い州道の脇にある、廃業して久しいドライブインの駐車場にその巨体を休めていた。

 

街灯ひとつない暗闇の中、トラックのキャビンから漏れる暖かなオレンジ色の光だけが、ここが「世界の終わり」ではないことを証明している。あるいは、ここだけが世界から切り離されたシェルターのようにも見えた。

 

「おい、イッポンダタラ! 荷台で火を使うなって何度も言ってるだろ! 排気筒(スタック)から火の粉が噴き出して、火事だと思われたらどうする!」

 

俺の怒鳴り声に、荷台の奥から「ガハハ!」という、鼓膜を揺らすような無責任な笑い声が返ってくる。

「堅いこと言うなよ、運転屋! この『特製・地獄のバーベキュー』は、一度、鉄を打つ温度まで熱さねえと、肉の芯まで魔力が通らねえんだよ!」

 

「魔力なんて通さなくていいから、普通に焼け! あと、その金槌で肉を叩くのをやめろ。繊維が粉砕されて、ステーキがただのピンク色のペーストになっちまってるじゃねえか!」

 

荷台では一本足の巨漢が、炉の熱気で汗を流しながら、道端で拾った廃材の鉄屑と一緒にステーキ肉を叩き直している。

一般人が見れば、精神に異常をきたすような光景だろうが、これが俺たちの日常だ。

イッポンダタラにとって、調理と鍛造は同じ「創造」のプロセスらしい。

 

一方、狭い運転席周りでは、ノッカーがダッシュボードを無惨にバラバラに分解していた。

 

「……電圧が、……不安定。……カーステレオの、……裏に、……モスマンの、……食べ残しの……電球、……詰まってた」

 

「ギギィ……」

 

助手席の隅で、モスマンが申し訳なさそうに長い翅をすぼめた。

彼は電圧の余剰分が好物だが、たまに我慢できなくなって、トラックの配線をかじったり、予備の電球を「冬眠前のリス」のように変な場所に貯蔵したりする癖がある。

 

「モスマン、お前……。それは非常用なんだぞ。ノッカー、悪いがそいつの頭をペンチの柄で軽く小突いてやってくれ」

 

そんな喧騒と油の匂いをよそに、アリスは助手席のシートを倒し、俺の古いネルシャツにくるまって深い眠りに落ちていた。

膝の上には、あの古道具屋で手に入れた錆びついた「鍵」が、月光を浴びて鈍く、冷たく光っている。

 

アリスは、夢を見ていた。

夢の中のアリスは、どこまでも続く、地平線さえ存在しない真っ白な「グリッド(格子戸)」の上に立っていた。

空もなく、地面もなく、ただ無限に、正確に引き直された幾何学的な線。そこは、量子管理システム『LAW』が構築しようとしている、感情も、ノイズも、そして死さえも効率化された「完璧な未来」の設計図だった。

 

『……拒絶……。……定義、……不能……』

 

どこからか、機械的な、それでいて引き裂かれるような悲鳴に近い声が聞こえる。

 

アリスが手に持った錆びた鍵を、その無機質なグリッドの隙間にそっと差し込んだ。その瞬間、純白の世界に一滴のインクを落としたような、どす黒い「染み」が急速に広がった。

その染みは、次第に音と色を帯びていく。

 

それは、今まさに外で響いているイッポンダタラの下品な笑い声になり、ノッカーがスパナを回す金属音になり、モスマンが喉を鳴らす不気味な羽音になった。

管理された白い静寂が、泥臭く、愛おしい「ノイズ」によって侵食されていく。

 

『……アリス。……開けては、……いけない……』

 

誰かの声がした。スティーブンだろうか、それともこの世界そのものの意志だろうか。

 

アリスはその声に対し、いたずらが見つかった子供のように首を傾げ、ふわりと微笑んだ。

 

「……だめ。……だっておじさんが、……コーヒー、……不味いって……言ってたから」

 

アリスが鍵を力強く回すと、夢の世界の境界線が、ガラスが割れるような音を立ててガラガラと崩れ落ちた。

 

「……ん、……ふ……」

 

小さな寝息とともに、アリスが目を覚ます。

目を開けると、そこには肉が焼ける香ばしいが明らかに焦げた匂いと、カーステレオから流れる古いロックンロール、そしてノッカーとモスマンが「その配線を食べるか食べないか」で真剣に小競り合いをしている、いつもの光景があった。

 

「起きたか、アリス。ほら、イッポンダタラが作った『鉄より硬いハンバーグ』だ。顎が壊れない程度に、慎重に食え」

 

俺が不格好なプラスチックの皿を差し出すと、アリスはまだ夢の余韻を残した瞳で、じっと俺を見つめた。

そして、小さく笑って言った。

 

「……うん。……こっちのほうが、……おいしい」

 

俺は彼女が一体何と比較したのか、その時は分からなかったが、とりあえず「だろうな」と笑って返した。

 

外の世界では、LAWという冷徹な秩序が、効率の名の下に着々と支配を広げている。

だが、この18輪の怪物の中だけは、食い意地の張った悪魔と、油まみれの偏屈な小人と、不思議な少女の、どうしようもなく人間臭い笑い声に満たされていた。

 

「よし、明日はシカゴの手前まで行く。

モスマン、お前はもう電球を食うなよ。夜道が見えなくなったら、お前をヘッドライト代わりにフロントバンパーに縛り付けるからな!」

 

俺たちは、そんな下らない軽口を夜空に放り投げ明日の旅に備えて眠りについた。

アリスが握りしめた鍵は、今はただの古い金属に戻り少女の小さな体温を静かに蓄えていた。

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