アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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3話 Encounters in Chicago

 

シカゴ。かつて風の街と呼ばれたその大都市の輪郭が地平線に見え始める頃、俺たちは「現在」の真の姿を突きつけられることになった。

 

主要幹線道路。そこには、俺たちがこれまで見てきたシステムとは一線を画す、巨大な検問要塞が築かれていた。

 

最新型の監視ユニット『LAW-Gate 01』

半透明の強化ガラスと流線型の白い装甲で固められたそのゲートは、まるですべての「汚れ」を弾き飛ばす清潔な刃のように、ハイウェイを完全に分断している。

 

「……ありゃあ、ただもんじゃねえな」

 

俺はピータービルトの速度を落とした。

最新の電気自動車(EV)たちが、音もなくゲートを潜り抜けていく。

ゲートを通過する瞬間、車内には「スキャン完了。あなたの市民権は100%清潔です」という音声が響いているのだろう。

だが、俺のトラックはどうだ。化石燃料を撒き散らし、非公認の「バグ(仲魔)」を3体も乗せている。

 

「ギギィ……ッ!」

 

助手席のモスマンが、これまでにないほど激しく翅を震わせた。赤い複眼が警告の点滅を繰り返す。

 

「……電圧……。……あのアーク、……高すぎる。……近づくと、……俺の回路、……焼ける」

 

ノッカーも寝台から顔を出し、油の染みた顔を青くさせている。

『LAW』はまだ排除はしないと言った。だが、このゲートは別だ。

スキャンの過程で「最適化」という名の洗脳、あるいは仲魔たちの強制デリートが行われる可能性が高い。

 

「ガハハ……とは言えねえな、こりゃあ」

 

荷台のイッポンダタラも、槌を握る手に力を込めた。

 

「あのゲートの奥には、俺たちの『槌』じゃ届かねえ、冷てえ理屈が詰まってやがる。運転屋、どうする? 突破するか、引き返すか」

 

引き返す道はない。燃料も、そして俺の意地も、前しか向いちゃいない。

だが、正攻法では確実に捕まる。

その時、ずっと黙っていたアリスが、俺の袖をそっと引いた。

彼女の手には、あの古道具屋で手に入れた「錆びた鍵」が握られていた。

 

「……おじさん。……私、……あのおうち、……嫌い」

 

アリスがゲートを指差した。

「冷たくて、……みんな、……笑ってない。……あのおうちに、『おやすみなさい』してきてもいい?」

 

「おやすみなさい、だと?」

 

俺が聞き返すと、アリスは助手席の窓を少しだけ開け、外の冷たい空気を吸い込んだ。

そして、ゲートのセンサー群をじっと見つめ、小さく呟いた。

 

「……おねがい。……みんな、……少しだけ、……夢を見て」

 

アリスが鍵を空中に掲げた瞬間。

俺の目の前で、あり得ない光景が広がった。

『LAW』の監視ドローンたちが、空中で静止したかと思うと、まるで初夏の蝶のようにゆらゆらと力なく降下し始めた。

ゲートの電子音が「最適化完了」というハミングから、深い眠りを誘う子守唄のような低周波へと変化していく。

 

監視員たちも、スキャナーの画面を見つめたまま、カクンと首を落として深い眠りに落ちていった。

ゲートが、眠っている。

いや、システムそのものが「今は夜の時間だ」と誤認させられたかのように、すべての機能を停止させたのだ。

 

「……今だ。抜けろ!」

 

俺はギアを叩き込み、アクセルを踏み抜いた。

漆黒のピータービルトが、無防備に開かれたホワイトゲートを駆け抜ける。

18輪のタイヤが奏でる激しいリズムだけが、静止した空間の中で唯一の「鼓動」として響いていた。

 

ゲートを通過した直後、バックミラー越しにアリスを見た。

彼女は少しだけ疲れたように、俺のジャケットに深く沈み込んでいた。

 

「……おじさん、……通れた?」

 

「ああ。最高に鮮やかな手際だったぜ、アリス」

 

俺は彼女の頭を無骨な手で一度だけ撫でた。

俺たちは、管理社会が築き上げた最強の防壁を「お願い」という名のバグで無力化したのだ。

 

シカゴの夜景が近づいてくる。

だが、そこはかつてのような喧騒の街ではない。

管理され、眠りにつかされた「完璧な静寂」の街。

俺たちはその心臓部へと、18輪の鉄の楔をさらに深く打ち込んでいく。

 

俺はアリスが握りしめた鍵に、かすかに新しい「光」が宿ったのを、見逃さなかった。

 

シカゴの市街地に入った瞬間、俺は奇妙な「無音」に包まれた。

かつて、この街は轟音の塊だった。高架鉄道の軋み、絶え間ないクラクション、数多の人々の怒声と笑い声。だが、今、18輪の怪物の窓越しに広がるのは、磨き上げられた墓標のような群れだった。

 

『LAW』の完全管理下にあるシカゴ・ダウンタウン。

路上には、システムが弾き出した「最適ルート」を等間隔で走る無人ポッドが、血の通わない血管のように整然と流れている。

歩道を歩く人々は、一様に汚れのない衣服に身を包み、視線は前方の虚空に向けられている。彼らの瞳の奥では、網膜に投影された「幸福な情報」が常にアップデートされ、不都合な現実はリアルタイムでデジタル処理され、消去されているのだ。

 

俺のピータービルトが吐き出す真っ黒な煤煙と、地響きのようなディーゼル音は、このあまりにも清潔な空間において、誰かが吐き捨てた鮮血のように場違いだった。

 

「……気持ち悪い街だぜ」

 

俺は重いハンドルを切り、路上の監視ドローンが「バグ」を検知して警報を鳴らす前に、アリスの導きに従って路地裏へと滑り込んだ。

 

「……あっち。……暗くて、……冷たいところ」

 

アリスが指差したのは、かつての名門ホテルが並ぶ一角の、さらにその地下へと続く巨大な貨物搬入口だった。かつては豪華な食材や高級ワインが運び込まれたであろうその口は、今や分厚い鉄扉で閉ざされ、システムの履歴からは「存在しない空間」として抹消されている。

 

俺がトラックを停め、エンジンを切ると、キャビンに重苦しい静寂が降りてきた。

 

「ギギィ……。……ここは、……嫌だ。……古い……。……とても古い、……何かがいる」

 

モスマンが怯えたように俺の肩に飛び乗り、ノッカーは寝台の隅でスパナを抱えて小さくなっている。

 

「ガハハ! ビビるんじゃねえよ! むしろ面白くなってきやがった!」

 

荷台から降りてきたイッポンダタラだけが、一本足で器用に跳ねながら、闇の奥を見つめて鼻を鳴らした。

 

「いいか、運転屋。上(地上)が綺麗になりすぎればなるほど、その裏側には、押し流された『ゴミ』が溜まるもんさ。そしてそのゴミの中には、たまに『神様』が混ざってやがる」

 

俺たちはアリスを真ん中に据え、懐中電灯の細い光を頼りに、地下の暗闇へと足を踏み入れた。

コンクリートの壁には、LAWが浸透する前の古いグラフィティが、剥がれかけの皮膚のように残っている。

 

「……誰か、……泣いてる」

 

アリスがふと足を止め、闇の深淵を見つめた。

俺の耳には何も聞こえない。だが、DDS(悪魔召喚プログラム)をインストールしたスマートフォンが、ポケットの中で不気味な熱を持ち始めていた。画面には、かつて見たこともないような複雑なノイズが走っている。

 

「……スティーブン。あんたの言っていた『真実』ってのは、この穴の底に転がってるのか?」

 

俺は独り言のように呟き、アリスの手を強く握り直した。

懐中電灯の光が、地下駐車場の奥に積み上げられた「ゴミの山」を照らし出した。

いや、それはゴミではなかった。

それは、かつてこの街で信仰され、あるいは恐れられ、そしてシステムの導入とともに「効率的ではない」という理由で廃棄された、巨大な彫像や祭壇の残骸だった。

そして、その残骸の玉座に、一人の「男」が座っていた。

 

玉座に座っていたのは、仕立てのいいスーツをボロボロに汚した、老人とも青年ともつかない不思議な風貌の男だった。

男の背後には、かつてシカゴの繁栄を支えたであろう巨大な機械仕掛けの歯車や、今では誰も読み方のわからない古い契約書が、泥と油にまみれて山をなしている。

 

「……また、招かれざる『迷子』が来たか。それとも、地上を掃除し損ねたLAWの掃除機かな?」

 

男が顔を上げると、その瞳は街の明かりをすべて吸い込んだような、深い漆黒を湛えていた。

 

「いや、どちらでもないな。……お前の隣にいるその娘……。そして、背後に控えている異形ども。……ほう、ピータービルトか。時代遅れの鉄の馬に乗って、この汚濁の底まで何を探しに来た?」

 

男の言葉に呼応するように、周囲の闇から無数の「影」が這い出してきた。それらは、あるものは形を失った肉塊であり、あるものは電子回路が露出した半壊のドローンだった。

LAWのシステムによって「存在価値なし」と断じられ、デリートされる寸前にこの地下へと逃げ延びた、データの残骸――外れ値(アウトライアー)たちだ。

 

「探し物なんて高尚なもんじゃない。ただ、この子がここへ来たいと言っただけだ」

 

俺はアリスを庇うように一歩前に出る。アリスは怯える様子もなく、じっとその男を見つめていた。

 

「……あなた、……とても悲しい匂いがする」

 

アリスの声が、静かな地下空間に響き渡った。男の眉がピクリと跳ねる。

 

「悲しい? ……ククッ、ハハハハ! 愉快なことを言う娘だ。私はかつて、この街の『契約』と『商売』を司った神……。人々がサインするペン先に、コインの裏側に、私は確かに存在していた。だが、今の地上を見てみろ。すべてはLAWの計算式に置き換わり、人々は『欲望』することさえ忘れた。欲望のないところに、商売の神など不要というわけだ」

 

男は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。イッポンダタラが低い唸り声を上げ、ノッカーがスパナを構える。

 

「だが……お嬢ちゃん。お前は私と同じ匂いがする。……いや、もっと質が悪いな。お前は『定義』されることを拒む、純粋な混沌の種だ。……スティーブンめ、ついに『これ』を野に放ったか」

 

男の口からスティーブンの名が出た瞬間、俺のスマホのDDSが激しい警告音を鳴らした。画面には、アリスとこの男を繋ぐ、複雑な魔力ライン(エーテル・パス)が可視化されている。

 

「スティーブンを知っているのか? だったら教えてもらおう。アリスは何者だ。……そして、この錆びた鍵は何を開ける?」

 

俺の問いに、男は冷笑を浮かべ、指をパチンと鳴らした。

すると、地下駐車場の天井を覆う古いモニター群が一斉に起動し、砂嵐の向こう側に「かつてのアメリカ」の断片を映し出し始めた。

 

「それを知りたければ、まずは見せてもらおう。お前がそのピータービルトで運んできたものが、ただのゴミか、それとも世界を書き換える『ノイズ』かということをな」

 

男の影が壁に巨大な魔神の姿を映し出す。シカゴの地下深く、管理社会の盲点で、古き神と新しきバグたちの、長い話し合い(交渉)が始まろうとしていた。

 

「神との取引か。いいだろう、商売の神……いや、メフィストとお呼びすべきかな」

 

俺がそう告げると、男は愉快そうに肩を揺らした。

 

「名前など、今はただのラベルだ。だが、取引の作法を心得ているのは嫌いじゃない」

 

メフィストは、泥にまみれた玉座の肘掛けを叩いた。

 

「取引の内容は単純だ。私が持っている『アリスの記録の断片』をお前に渡そう。その代わり、お前にはこの地下街を襲う『監査官』を追い払ってもらいたい。最近、上(地上)の連中がこのゴミ溜めを完全に焼却消毒しようと、しつこく『洗剤』を送り込んできていてね」

 

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、地下駐車場の静寂が、不快な高周波によって切り裂かれた。

 

「……来たな。無機質な正義の味方どもだ」

 

天井の配管を伝って、数体の白い人型が音もなく降り立ってきた。

それは人間ではない。白磁のような滑らかな皮膚と、顔の部分に「OK」という文字だけを浮かべた発光ディスプレイを持つ、LAWの物理干渉用アバター『監査官(オーディター)』だ。

 

「……ターゲット、……不確定要素。……清掃、……開始」

 

監査官が右手をかざすと、そこから高出力のレーザーが放たれ、積み上げられた古い資料や彫像を一瞬で炭化させた。

 

「ギギィーッ!」

 

モスマンが叫び、天井の梁へと飛び移る。

 

「ノッカー、イッポンダタラ! 荷台の予備パーツをアリスの周りに積め! 防壁にするぞ!」

 

俺の指示に、二体は即座に動いた。

ノッカーが磁場を狂わせる装置を即席で組み上げ、イッポンダタラが重厚な鉄板を盾にしてアリスの前に立ちはだかる。

 

「ガハハ! この清潔な人形どもに、本物の『錆の味』を教えてやるぜ!」

 

激しい戦闘――いや、一方的な「清掃」への抵抗が始まった。

監査官たちの動きは洗練されており、一切の無駄がない。彼らにとって、俺たちはただの「排除すべきエラー」に過ぎない。

 

「アリス、鍵を!」

 

俺が叫ぶと、アリスは震える手で錆びた鍵を強く握りしめた。

 

「……おねがい、……あっちへ、……行って!」

 

アリスが叫んだ瞬間、鍵から放たれた黒い波動が、監査官たちの白い装甲に触れた。

すると、完璧だった彼らの動作に、一瞬の「迷い」が生じた。ディスプレイの「OK」が「ERROR」へと書き換わり、その隙を逃さず、イッポンダタラの巨大な槌が一体の頭部を粉砕した。

 

「……計算、……不能……。……感情、……検知……」

 

残りの監査官たちが撤退を開始する。彼らのロジックでは、理解不能な事象との接触は「保留」すべき案件なのだ。

静寂が戻った地下街で、メフィストはゆっくりと拍手をした。

 

「見事だ。……約束通り、支払い(データ)を渡そう」

 

彼が指を鳴らすと、アリスの脳内に、そして俺のスマホのDDSに、一つの映像が流れ込んだ。

それは、真っ白な研究所。

カプセルの中に横たわる、まだ「名前」も「色」も持たなかった頃のアリス。

そして、その傍らで車椅子に座り、キーボードを叩くスティーブンの姿だった。

 

『彼女は、システムが完璧になればなるほど、その裏側に溜まる「人間の悲しみ」を受け止める器だ。……彼女が目覚める時、ルート666が真実を照らすだろう』

 

映像はそこで途切れた。

アリスは、自分の過去の一部に触れ、呆然と立ち尽くしている。

 

「……わたし、……だれかの、……かなしみ……?」

 

俺はアリスの肩を抱き寄せ、メフィストを睨みつけた。

 

「……これが真実か?」

 

「真実のほんの一片に過ぎないよ、ドライバー。だが、彼女がただの迷子ではないことは分かったはずだ」

 

メフィストは再び玉座に深く腰掛け、闇に溶け込んでいく。

 

「シカゴの夜は長い。……早く行け。監査官たちは、次はもっと大きな『掃除機』を連れてくるぞ」

 

俺たちはアリスを連れ、再びピータービルトへと戻った。

エンジンをかけると、18輪の鼓動が、不安に震えるアリスを優しく包み込むようだった。

 

「行くぞ。次の座標は、アイオワの農場だ。……アリス、お前が誰であっても、俺たちの『積荷』であることに変わりはない」

 

トラックは、冷徹なシカゴの街を脱出し、再び暗いハイウェイへとその鼻先を向けた。

 

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