アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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7話 コロラドの下り坂──焦土の沈黙

 

「……クソッ、ブレーキが甘くなってやがる!」

 

俺は渾身の力でペダルを踏み込んだが、足の裏に帰ってきたのは、スポンジを押しつぶすような頼りない感触だった。

峠の頂上での「無理心中」とも言える突進の代償だ。過熱したブレーキライニングから、刺すような硫黄と金属の焼ける匂いがキャビンに充満している。

30トンの巨体は重力に引かれ、九十九折(つづらおり)の坂道を猛烈な勢いで滑り落ちていく。

 

「ノッカー、排気ブレーキはどうだ!」

 

「……焼き付いた。……ターボチャージャー、……瀕死。……今は……ギアを……落として、……耐えるしか……ない」

 

ノッカーが剥き出しの配線を必死にバイパスし、トランスミッションの制御を強引に奪い取ろうとしている。

だが、キャビンの中にはもう一つ、過熱したブレーキ以上に「ヒリついた空気」が沈殿していた。

 

「ギギィ……」

 

「ガサッ……」

 

モスマンとコーン君。

賑やかだったはずの仲魔たちが、今はアリスから少しでも距離を置くように、座席の隅や天井の角に身を寄せている。

その視線の先にあるのは、助手席で静かに窓の外を眺めている少女だ。

彼女が先ほど放った「言葉」。

LAWの最高位迎撃ユニットを、一切の物理的抵抗を排して「概念ごと消滅」させたあの慈悲深き死の誘い。

それは、悪魔である彼らにとっても、本能的な恐怖を呼び覚ます代物だった。

 

「……おじさん。……みんな、……どうして……黙っちゃったの?」

 

アリスがふいに首を傾げ、俺を振り返る。

その瞳は、一点の曇りもない。あまりに純粋で、あまりに空虚だ。

鏡のように磨き上げられたその瞳に映る俺は、必死にハンドルを抑え込む、滑稽な男にしか見えなかった。

 

「……ああ、みんなちょっと、高山病にでもなったんだろ。空気が薄いからな」

 

俺は嘘をついた。

彼女の能力を恐れているのは、俺も同じだった。

だが、ハンドルを握っているのは俺だ。ここで俺が彼女を拒絶すれば、この18輪の怪物という「箱庭」は崩壊する。

 

「……そう。……じゃあ、……わたし、……お歌……うたってあげる」

 

アリスが小さく唇を開いた。

それは歌というよりは、風の音に近い囁きだった。

 

「♪ 誰が駒を、殺したの?……それは、……わたし。……だって……」

 

その歌が始まった瞬間、俺の視界が歪んだ。

フロントガラスに映るコロラドの山並みが、巨大なチェス盤のような格子状のグリッドに上書きされ、左右が反転していく。

ガードレールの向こう側にいるはずの木々が、バックミラーの中にだけ存在し、前方は真っ白な空白(キャンバス)へと変わる。

 

「カサッ!? ……鏡の国。……現実が、……裏返る……カサッ!」

 

「……まずい。……これ、……論理崩壊……。……ブレーキ、……もう……存在しない……物理法則が、……消える……!」

 

「……だめだよ。……止まらなきゃ」

 

アリスがダッシュボードを優しく撫でた。

その瞬間、焼けるように熱かったピータービルトの挙動が、一瞬で「静止」へと固定された。

時速100キロを超えていたはずの慣性が、まるで最初から存在しなかったかのように消滅し、30トンの鉄塊が、ゴーストタウンの入り口でピタリと止まった。

 

そこは、LAWの地図から消された街。

かつて炭鉱で栄えたその場所は、今はすべての建物が鏡面のような氷に覆われ、静まり返っている。

 

俺は震える手でタバコに火をつけようとしたが、ライターの火が「黒い花」のように咲いて、すぐに消えた。

 

「……着いたよ、おじさん」

 

アリスは微笑んだ。

その背後、ゴーストタウンの凍りついた窓ガラスのすべてに、現実とは違うポーズをとる「別のアリス」が映り込んでいるのを、俺は見て見ぬふりをした。

 

ピータービルトのドアを開けると、そこには「音」が存在しなかった。

正確には、空気が凍りついたせいで音が伝わる前に割れてしまうような、奇妙な真空状態だ。

 

俺が砂利を踏むと、足元でアスファルトがトランプのカードのようにバラバラと捲り上がり、その裏面には別の街の風景が印刷されていた。

 

「……おじさん、見て。お空が、お池になってる」

 

アリスが指差した空には、雲の代わりに巨大な鯉のような影が悠々と泳ぎ、太陽は水面に映った反射のように、ぼんやりと冷たく揺れていた。

 

この街――かつて炭鉱で栄えたはずの『シルバー・パイン』は、LAWの論理から切り離された結果、重力と因果律が「迷子」になった吹き溜まりと化していた。

 

建物の窓という窓が、すべて鏡だ。

それもただの鏡じゃない。覗き込むと、そこには「もしも俺たちがここに来なかったら」という別の時間軸の光景が映っている。

 

ある窓には、朽ち果てたピータービルトが。別の窓には、LAWのドローンに制圧され、家畜のように番号を振られた俺たちの姿が。

 

「ギギィッ……。……ここ、……気持ち悪い。……影が、……本体から、……逃げ出そうとしてる」

 

モスマンが俺の影を指差した。

確かに、俺の足元にある影は、俺の動きよりコンマ数秒遅れて動いている。それはまるで、主人の意思とは無関係に、この街の「裏側」へ潜り込もうとしている意志を持っているかのようだった。

 

「……データの、……吹き溜まり。……ゴミ箱の、……中身が……腐って、……夢を見ている」

 

ノッカーがキャビンから一歩も出ようとせず、レンチを震わせる。

 

「ガハハ! 面白え! この街の街灯、叩けば鉄じゃねえ音がしそうだぜ!」

 

イッポンダタラが好奇心に勝てず飛び降りると、彼の一本足が着地した瞬間、地面が「ボヨヨン」とゴムまりのように跳ねた。家々の屋根から煙突がニョキニョキと伸び、まるでサボテンのようにトゲを生やし始める。

 

街の中央広場には、巨大な時計塔が立っていた。

だが、その文字盤には数字の代わりに「Yes」「No」「Maybe」「Never」といった単語が並び、針は逆方向に猛スピードで回転している。

 

「カサッ……。……警告。……前方、……『卵』の匂い。……崩れやすい、……非常に……不安定な……知性が……こちらを……見ている……カサッ」

 

コーン君の警告と同時に、時計塔の向こうから、一人の「男」が転がるように現れた。

いや、それは男というよりは、あまりに巨大な「卵」に手足が生えたような、異様なシルエットだった。

 

彼は高く積み上げられた、不安定な石積みの壁の上に腰掛けていた。

その背後では、鏡張りのビルたちが、アリスの視線に合わせてゆっくりと、万華鏡のように色彩を変えていく。

 

「……おじさん、あの人、落ちそう」

 

アリスがそう言った瞬間、世界の彩度が一段階落ちた。

鏡の中に映るアリスたちが一斉に、その卵型の怪異に向けて「死」の予兆を含んだ微笑を向け始めたからだ。

 

アリスは、俺たちが見ている「崩壊した街」を見てはいなかった。

彼女の瞳は、もっと深い場所、この街の皮膚の下を流れる「論理の血管」を凝視していた。俺たちの目には、アスファルトが捲れ、影が逃げ出す混沌として映るこの場所も、彼女にとっては「解くべきリボンが複雑に絡まっただけの箱」に見えているようだった。

 

「……ねえ、おじさん。あの鏡たち、泣いてるよ」

 

アリスが指差した、氷のような鏡張りのビル。

そこに映っているのは、俺たちではない。

かつてこの街で、誰かのために朝食を作り、誰かの帰りを待ち、そしてLAWの『最適化』という名の消しゴムで消されていった名もなき住人たちの、行き場を失った「未練(データ)」だ。

 

アリスが鏡に触れると、鏡面から波紋が広がり、中から無数の「手」が彼女を求めて伸びてきた。

だが、その手は彼女を傷つけようとするものではなかった。

溺れる者が藁を掴むように、ただ「自分たちが確かにここにいたこと」を証明してほしいと、切望しているように見えた。

 

「……みんな、……忘れられちゃったの。……ゴミ箱に、……捨てられた……お人形みたいに。……でも、……わたし、……全部、……見えるよ」

 

彼女がそう呟いた瞬間、俺の脳内にDDS(悪魔召喚プログラム)を介さない、直接的なビジョンが流れ込んできた。

LAWに「非効率」と判定され、預金を凍結された老人。

自動運転のルートから外れたことで、存在を抹消されたパン屋。

「不確定要素」として収容され、感情を去勢された子供たち。

この街が鏡張りなのは、自分たちの姿を誰かに見つけてほしいという、消えゆく者たちの最後の抵抗だったのだ。

 

「ギギィッ……。……アリス……、……それ以上……見ちゃダメだ。……器が、……溢れる」

 

モスマンが怯えたように叫んだ。

彼の複眼には、アリスがそれらの膨大な「悲しみのアーカイブ」を、スポンジが水を吸うように自らの中に引き取っているのが見えていた。

アリスの背後で、あの錆びた鍵がカタカタと震える。

彼女の影は、もはや少女の形をしていなかった。それは幾千もの嘆きが絡み合い、巨大な「黒い女王のドレス」となって、ゴーストタウンの広場いっぱいに広がっていく。

 

「……かわいそう。……みんな、……こんなに冷たいところで、……ずっと……一人ぼっちだったんだね」

 

アリスの瞳から、一滴の黒い涙がこぼれ、跳ねる地面に落ちた。

その瞬間、地面に生えていたサボテンのような煙突たちが一斉に萎れ、鏡張りのビルたちが、まるで溜息をつくようにひび割れた。

 

彼女が見ているのは、世界の「終わり」ではなく、世界から「除け者にされたものたち」の成れの果てだった。

そして彼女は、それを「無かったこと」にはできなかった。

 

「……おじさん。……わたし、……この人たちを……連れて行ってあげてもいい?」

 

アリスが俺を振り返った。

その顔は、慈愛に満ちた聖母のようでもあり、すべてを無に帰す死神のようでもあった。

鏡の中の数え切れないほどのアリスたちが、一斉に俺に問いかける。

 

『連れて行っても、いいかしら?』

 

「……連れて行く? ガハハ、冗談じゃねえぞ、お嬢ちゃん!」

 

石積みの壁の上で、巨大な『卵』が不器用に身震いした。

ハンプティ・ダンプティの顔――それは描かれたような雑な目鼻立ちだが、その瞳だけはLAWのセンサーよりも冷徹に、世界の「重み」を計っていた。

 

「いいかい、小さなクイーン。この街の『未練』は、君の器を粉々に砕く重石だ。一度壁から落ちたものは、二度とは元に戻らない。LAWの王の馬でも、王の家来たちでも、君という器を修復することはできないんだよ!」

 

卵の怪異はそう叫ぶと、不安定な壁の上でフラフラと踊るように足踏みをした。

その瞬間、周囲の鏡張りのビルたちが「パリパリ」と音を立てて、鋭い破片をこちらへ向け始めた。

 

「……意味を、……決めさせろ。……この街の、……無価値な死に、……名前を……」

 

ハンプティ・ダンプティが手を広げる。

すると、アリスが吸い込みかけていた無数の亡霊たちの「手」が、鏡の破片となって俺たちに襲いかかった。それは物理的な攻撃ではない。

「お前は誰だ?」「なぜここにいる?」「お前の価値を証明しろ」という、LAWが突きつけてくる『存在意義の審判』の奔流だ。

 

「ギギィッ! ……思考回路が……凍る! ……意味が、……奪われる!」

 

モスマンが苦悶の声を上げ、ノッカーは必死にピータービルトのエンブレムを掴んで、自分の存在を繋ぎ止めようとしていた。

だが、アリスは一歩も引かなかった。

彼女は、襲い来る鋭利な「意味の破片」を避けるどころか、愛おしそうに両手を広げて迎え入れた。

 

「……あなたは、……落ちるのが……怖いの?」

 

アリスが静かに、壁の上の卵を見上げた。

その背後、広場いっぱいに広がった彼女の影から、無数の「黒い手」が伸び、砕け散った鏡の破片を一つひとつ、優しくキャッチしていく。

 

「……落ちてもいいんだよ。……だって、……おじさんのトラックは、……壊れたものしか、……載せないんだもん」

 

アリスの微笑みが、街の不条理をさらに加速させる。

彼女が選んだのは、彼らを「整理」することではなく、「壊れたまま、自分の一部として受け入れる」という選択だった。

 

「……な、……なんだって……! 壊れたまま……だと? 意味を……定義しないのか!? 救済のロジックはどうした!」

 

ハンプティ・ダンプティが混乱して顔を真っ赤に染める。

論理の番人である彼にとって、「壊れたまま運ぶ」という発想は、自らの存在を否定されるに等しい。

 

「……おじさん。……この人、……もう……疲れちゃってる」

 

アリスが俺を振り返り、悲しげに瞳を揺らした。

そして、彼女は再び、あの卵の怪異に向けて、最も純粋な「解放」の言葉を贈った。

 

「……もう、……壁の上にいなくて……いいよ。……私と一緒に、……死んでくれる?」

 

パキィッ……。

その小さな音は、ハンプティ・ダンプティの殻に走った最初のひび割れだった。

彼が守っていた「意味」も「審判」も、アリスの慈悲という名の猛毒に触れ、一瞬で瓦解していく。

 

「ああ……。そうか……。意味なんて……最初から……なかったんだ……」

 

卵の怪異は、満足げにそう呟くと、自ら壁の上から身を投げた。

地面に激突した瞬間、彼は粉々に砕け散り、その中から黄金色の光――この街に閉じ込められていた、すべての住人たちの純粋な「魂の欠片」が溢れ出した。

アリスはそれを、自身の錆びた鍵で掬い取るようにして、自分の中へと収めていった。

 

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