アリスは微笑んで死を乞う   作:ベイベ後藤

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9話 ネバダの砂塵(前編)

 

コロラドの寒色に染まった山脈を背に、ピータービルトの18輪が州境を越えた瞬間、世界は一変した。

フロントガラス越しに飛び込んできたのは、網膜を焼くような白茶けた大地。ネバダ州の入り口だ。

 

気温は一気に跳ね上がり、アスファルトの上で陽炎が狂ったように踊っている。ここでは空気さえも砂混じりで、ディーゼルエンジンが吸い込む酸素は、鉄の肺を削るヤスリのように乾いていた。

 

「……あつい。……お空が、……燃えてるみたい」

 

アリスが窓の外を見て、小さく顔をしかめた。

スノードームの中の銀世界は、この暴力的な熱気の前ではあまりに遠い幻のように見える。

彼女の白い肌には、不毛な大地の照り返しが、容赦ない審判のように焼き付いていた。

 

「ギギィッ……。……羽が、……乾いて、……粉になりそう。……おじさん、……日陰! ……日陰、……走って!」

 

モスマンが助手席のシートの陰に逃げ込み、必死に翅を丸める。

 

「馬鹿言うな、砂漠の真ん中に日陰なんてあるか。……ノッカー、冷却系はどうだ」

 

「……ラジエーター、……限界。……水温、……レッドゾーン……間際。……エンジンの……心臓が、……悲鳴を……上げてる」

 

ノッカーが、熱を持ったダッシュボードに保冷剤を押し当てながら、苦しげに答えた。

 

このネバダの砂漠は、LAWにとっても「管理外」というよりは「廃棄場」に近い。

かつての核実験場や、放棄された軍事施設が砂に埋もれ、そこには最新のドローンさえも近づかない、強烈な電磁波の嵐が吹き荒れている。

 

「ガハハ! この暑さ、炉の火を思い出すぜ! だが、なんだか気味が悪りいな……。風の中に、鉄の錆びた匂いが混じりやがる」

 

荷台のイッポンダタラが、珍しく笑い声を途切れさせ、鼻を鳴らした。

その時だった。

地平線の彼方、陽炎が最も激しく揺れる場所から、一つの「点」が現れた。

それは猛スピードでこちらへ接近してくる。バイクでも、パトカーでもない。

 

――蹄の音だ。

 

カチッ、カチッ、カチッ……!

硬質な金属が、熱した岩を叩くような不気味なリズム。

 

近づいてくるのは、全身を返り血のような赤に染めた甲冑を纏い、同じく赤い機械の馬に跨った騎士だった。

その手には、巨大な「黄金の砂時計」が握られ、中では砂の代わりに「誰かの命の残数」のような光の粒が、冷酷に零れ落ちている。

 

「ガサッ! ……警告! ……識別、……『黙示録の四騎士』……赤の騎士(レッドライダー)! ……LAWの……執行官ではなく、……世界そのものの……終焉を……司る者……カサッ!」

 

コーン君が、恐怖でトウモロコシの皮を逆立てて叫んだ。

赤の騎士が砂時計を高く掲げると、ピータービルトの進むべき道が、一瞬にして砂の奔流へと飲み込まれていく。

 

「……あの人、……とっても……急いでる。……でも、……行く手を……塞ぐなら、……だめ」

 

アリスが、膝の上のスノードームをぎゅっと抱きしめた。

彼女の瞳の奥で、またしても「不条理の青い火」が静かに灯った。

その「赤」は、陽炎の中でさえ際立って禍々しかった。

 

ネバダの白い砂塵を切り裂いて現れたのは、錆びた血の色に染まった中世の甲冑を、現代的なタクティカル・ベストで補強したような異形の姿。赤の騎士(レッドライダー)だ。

 

彼が跨る「馬」は、もはや生物ではない。

剥き出しのエンジンブロックを骨格とし、四肢には油圧式のシリンダーが脈打ち、蹄が路面を叩くたびにアスファルトが溶解するほどの熱波を撒き散らしている。馬の眼窩からは、LAWの監視ユニットと同じ不気味な青い光がサーチライトのように放射されていた。

だが、最も異常なのは騎士の背後に背負われた、巨大な二振りの太刀ではない。

彼の手の中に鎮座する『黄金の砂時計』だ。

その砂時計には、上から下へ流れる砂など存在しなかった。代わりに充填されているのは、ネバダの砂漠に消えていった名もなき旅人たちの「最後の叫び」を凝縮したような、赤黒いノイズの粒子。

それが一粒、また一粒と落ちるたびに、周囲の空間から「音」と「色彩」が剥ぎ取られ、世界はモノクロの静止画へと侵食されていく。

 

「……ピピッ……。……ターゲット、……因果の不純物……アリス……および、……運搬車両。……これより……『剪定(せんてい)』を……開始する」

 

騎士の兜の隙間から漏れ出したのは、数千人分の声が重なり合ったような、重層的な電子合成音。

それは感情の欠落したLAWのそれとは違い、明確な「殺意」を帯びた、峻烈な審判の声だった。

 

「……あの人、……とっても……嫌な音。……時計の中の……みんなが、……苦しいって……言ってる」

 

アリスが窓越しに騎士を見つめる。

彼女の中にある「街の記憶」が、騎士の持つ砂時計に共鳴し、キャビン内に悲鳴のような共振音が響き渡った。

 

「ギギィッ……! ……おじさん、……こいつ、……本物だ! ……『死』を運んでるんじゃない、……『死』そのものが、……バイクに乗って……追いかけてくる!」

 

モスマンが恐怖のあまり、ダッシュボードの下に頭を突っ込んだ。

 

赤騎士が砂時計を逆手に持ち替える。

その瞬間、ピータービルトのフロントガラスに、ひび割れのような赤い「軌跡」が浮かび上がった。それは未来の死を確定させる、逃れようのない追跡の線だった。

 

「ガハハ! 天使よりはマシだが、随分と古風な死神じゃねえか! 運転屋、あいつの砂時計を鉄屑に変えてやろうぜ!」

 

イッポンダタラが吠えるが、その声もどこか、騎士が放つ「存在の重圧」に削り取られているようだった。

 

「……ノッカー! ブースト圧を最大まで上げろ! あいつの砂時計が空になる前に、この死の直線をぶち抜くぞ!」

 

俺は15段変速を、文字通り「骨が砕けるような」力で叩き込んだ。

 

「……ねえ、おじさん。あの砂時計、とっても重そう」

 

赤の騎士が放つ絶大な圧力を前にして、アリスの声だけは驚くほど平坦だった。

彼女は震えることも、目を背けることもない。ただ、窓の外で並走する「死の体現者」を、まるで雨上がりに見つけた珍しい虫を見るような、無機質な好奇心で観察していた。

 

アリスが膝の上のスノードームをそっと撫でる。

すると、ドームの中に閉じ込められた黄金の光たちが、赤の騎士が持つ砂時計の「赤いノイズ」に呼応するように、激しく、そして悲しげに明滅し始めた。

 

「……あの砂の中にも、……いっぱい……いるんだね。……帰り道を、……忘れちゃった人たち」

 

アリスの瞳が、深く、どこまでも深い藍色に変色していく。

彼女が見ているのは、騎士の甲冑でも機械の馬でもない。砂時計の中に詰め込まれ、粒子にまで粉砕された、数え切れないほどの「戦士たちの末路」だ。

 

「……あんなに……ぎゅうぎゅうにされて……。……出してあげなきゃ、……だめ……だよね?」

 

彼女がそう呟いた瞬間、キャビン内の温度が氷点下まで急降下した。ネバダの灼熱を嘲笑うような、絶対的な死の静寂。

アリスの指先が、ダッシュボードに置かれたあの「錆びた鍵」に触れる。

その時、彼女の背後の空間が、鏡のように「パリン」と音を立てて割れた。

割れた空間の向こう側から、ゴーストタウンで見せたあの「黒い女王」の影が、無数の触手のように這い出し、アリスの小さな肩を包み込んでいく。

 

「……おじさん。……あの人の時計、……わたし、……壊してもいい?」

 

アリスは俺を振り返った。

その微笑みは、もはや少女の純真さではない。

それは、あまりに巨大な「悲しみ」を背負いすぎて、壊れてしまった神様のような、美しくも残酷な表情だった。

 

彼女の瞳に映る「赤の騎士」は、今や強大な敵ではなく、「早く壊してあげるべき、古びたおもちゃ」に成り下がっていた。

 

「……だって、……あの中にいる人たち、……もう……誰も……愛してくれないんだもん」

 

アリスが鍵を握りしめると、その錆びた金属の表面から、血のような真っ赤な光が溢れ出した。それは赤の騎士の「赤」を塗り潰し、概念ごと飲み込もうとする、より深い、根源的な「終焉」の色だった。

 

「……アリス、しっかり掴まってろ! 野郎ども、振り落とされるなよッ!」

 

俺は15速のシフトレバーを力任せに引き抜き、14速へと叩き落とした。過給機の咆哮が、砂漠の静寂を暴力的に引き裂く。

30トンのピータービルトが、慣性を無視して横へとスライドした。

直後、赤の騎士が振るった『テロ・ブレード』の一撃が、俺たちがさっきまでいたアスファルトをバターのように切り裂いた。熱せられた岩盤から溶岩のような火花が噴き上がる。

 

「ガハハ! かすっただけで荷台の塗装が溶けやがった! 運転屋、あいつの馬のエンジン、俺の金槌でカチ割ってやるぜ!」

 

イッポンダタラが、時速120キロで激しく揺れる荷台から身を乗り出し、巨大な鉄屑の塊を騎士へと投げつけた。だが、騎士は機械馬のシリンダーを唸らせ、空中でその鉄塊を軍刀の一閃で粉砕する。

 

「……計算、……不能。……加速性能、……物理限界を……超越」

 

ノッカーが助手席の下で、過熱して真っ赤に焼けたECUに直接、自身の魔力を流し込んでいた。

 

「……行け。……ピータービルト。……お前の……鉄の心臓を……燃やせ!」

 

騎士が砂時計を高く掲げると、前方のハイウェイが蜃気楼のように歪み、巨大な「砂の壁」がそそり立った。

 

「逃がさない……。汝の時間は、ここで尽きる……」

 

数千人の死者の声が重なった咆哮。

騎士の機械馬から放たれた高圧蒸気が、陽炎を赤く染め上げる。

だが、俺はブレーキをかけなかった。

むしろ、アクセルペダルを床まで踏み抜き、さらに加速する。

 

「アリス! その鍵、今こそ使えッ!」

 

「……うん、……わかった。……この道を、……真っ直ぐに……してあげる」

 

アリスが窓から身を乗り出し、赤く発光する『錆びた鍵』を、そそり立つ砂の壁に向けて突き出した。

彼女の背後から伸びた「黒い女王」の影が、トラックのフロントバンパーを包み込み、巨大な『黒い衝角(ラム)』を形成する。

 

「――邪魔、……しないで」

 

激突。

物理的な衝撃ではない。

アリスの言葉が放たれた瞬間、赤の騎士が構築した「死の障壁」は、まるで砂の城が波にさらわれるように、跡形もなく崩壊した。

それどころか、ピータービルトの突進は騎士の機械馬を真っ向から弾き飛ばした。

火花を散らしながら砂漠を転がる騎士。

黄金の砂時計が彼の手から離れ、宙を舞う。

 

「ギギィッ! ……今だ! ……砂時計、……捕まえた!」

 

モスマンがキャビンから飛び出し、宙に浮いた砂時計に飛びついた。

だが、その瞬間、砂時計の中に閉じ込められていた数万の怨嗟のノイズが、モスマンの複眼を焼き、彼の小さな体を黒い電光が打ち抜く!

 

「ギ、……ギィィィィッ! ……痛い! ……重い! ……みんなが、……叫んでる!」

 

「モスマンッ!」

 

俺はハンドルを左に切り、転倒した騎士の残骸を回避しながら、空中で悶絶するモスマンの真下へトラックを滑り込ませた。

 

「ギギィッ……ア、アァッ……! ……中が、……ボクの中に……みんなが……入ってくるぅ……ッ!」

 

空中でもがくモスマンの体から、黒い電光が火花となって飛び散る。彼が掴んだ『黄金の砂時計』は、今やひび割れた傷口から「死んだ時間」をドロドロとした黒いヘドロのように垂れ流していた。それがピータービルトのルーフに触れた瞬間、塗装が瞬時に錆びつき、鋼鉄が数十年分の年月を飛び越えて朽ち果てていく。

 

「ノッカー! 屋根が腐るぞ! モスマンを回収しろ!」

 

「……無茶を……言うな……。……あれは、……純粋な……エントロピーの……塊だ。……触れれば、……指が……消える……!」

 

ノッカーは青ざめながらも、作業台から一本の太い絶縁ケーブルを引っ張り出した。彼はその先端に、自身の魔力を凝縮した「避雷針」を即席で組み上げる。

 

「……やるしか、……ない。……モスマン、……その……重荷を……こっちへ……回せ!」

 

ノッカーが窓から身を乗り出し、ケーブルの先端をモスマンの脚へ向けて投げ放つ。

激しい放電。モスマンの体を通じ、砂時計から溢れる怨嗟のノイズがノッカーへと流れ込む。

 

「……う、……ぐ……あぁぁぁッ! ……重い、……なんて……情報の……密度だ……。……1945年、……1968年、……2001年……。……世界中の……戦火が、……頭の中に……!」

 

ノッカーの小さな体が、過負荷でガタガタと震え出す。彼の指先から爪が剥がれ、機械のように冷徹だった彼の瞳に、初めて「恐怖」の色が混じった。

 

「ガハハ! 辛気臭え真似してんじゃねえ! その『戦火』とやら、俺の炉で溶かして、新しい鉄の糧にしてやるぜ!」

 

荷台から咆哮が上がった。

イッポンダタラが、砂塵を突っ切るトラックの屋根に、自慢の一本足で飛び移った。彼は灼熱の熱風をものともせず、ノッカーが握るケーブルを、その巨大な素手でひっ掴む!

 

「……ダタラ! ……バカ……やめろ……。……お前まで……腐るぞ……!」

 

「腐ってたまるか! 俺の体は、八百万の鉄を叩き上げた『金槌』そのものだ! 怨念だろうが時間の死骸だろうが、叩いて、焼いて、真っ赤なインゴットに変えてやるよ!」

 

ダタラが叫ぶと、彼の全身が鍛造の炎のような赤色に発光し始めた。

砂時計から溢れ出す黒いノイズが、彼の腕を伝い、その巨躯へと吸い込まれていく。凄まじい熱量。ピータービルトのルーフが熱で歪み、周囲の砂漠の砂がガラス状に溶け始めた。

 

「……おじさん、……みんな……。……苦しそう」

 

アリスが、ルーフの上で火花を散らす二人を見上げ、悲しげに眉をひそめる。

彼女の指先にある『錆びた鍵』が、彼らの苦しみに同調するように、さらに深く、暗い輝きを放ち始めた。

その背後では、脚を一本失った赤の騎士が、機械馬を異様な執念で加速させ、再び軍刀を振り上げていた。砂時計を奪還し、この「不条理の塊」を今度こそ、歴史の闇に葬り去るために。

 

「……ダタラ! ノッカー! 振り落とされるなよ! 地獄の底まで付き合ってもらうぜ!」

 

俺はバックミラーに映る、執念深く食らいついてくる赤の騎士を睨みつけた。

奴の機械馬は脚を一本失い、火花を撒き散らしながらも、欠けたバランスを演算能力で補い、こちらを仕留める間合いを計っている。

まともに走れば、いつかダタラたちの限界が来る。

 

俺はステアリングを握る手に力を込め、ハイウェイの先に広がるネバダの「ある地形」を思い出した。

 

「ノッカー、左側後方のタイヤ……内圧を最大まで上げろ! 右は逆に抜け!

ダタラ、そのケーブルを離すなよ! お前が『アース』だ!」

 

俺が狙いを定めたのは、ハイウェイの分岐点にある、かつての核実験場へと続く「死のヘアピンカーブ」。

そこは路面が砂に埋もれ、ガードレールなど存在しない、時速40キロでも転落する断崖絶壁だ。

 

「……了解。……内圧、……異常上昇……。……ひっくり返るぞ……!」

 

「ガハハ! 面白え! 遠心力に魂を売り渡してやるぜ!」

 

俺は時速120キロを維持したまま、カーブの直前でステアリングを左へ一気に切り、すぐさま右へ猛烈に引き戻した。

「慣性ドリフト」――18輪の巨大な質量が、物理法則に喧嘩を売るように横を向く。

内側のタイヤが宙に浮き、ピータービルトの巨体が右へと大きく傾く。

その瞬間、ルーフの上で「時間の死骸」を抱えていたダタラ、ノッカー、モスマンの三位一体の熱量が、巨大な遠心力によって『赤の騎士』の方へと向かって放り出された!

 

「食らえ、時代遅れの死神野郎! これが俺たちの『今』の重みだ!」

 

ノッカーの避雷針、モスマンのノイズ、そしてダタラが練り上げた情報の熱波。

それらが一本の太い光の杭となって、空中で騎士の胸板を直撃した。

 

「グ、……ガ、……アァァァッ……! 均衡が……、……摂理が……崩れる……!」

 

騎士の咆哮が砂漠に響く。

だが、俺の「博打」はこれだけじゃない。

傾いた車体を路面に叩きつけ直す衝撃を利用し、俺はあえて騎士の進路を塞ぐように、その巨大なトレーラーを鞭のようにしならせて叩きつけた。

 

――ドォォォォォォンッ!!

 

鉄と鉄が激突する轟音。

バランスを崩していた騎士の機械馬は、ピータービルトの側面に粉砕され、そのままハイウェイの断崖から、ネバダの灼熱の谷底へと真っ逆さまに突き落とされた。

 

黄金の砂時計は、モスマンの手から離れ、空中でアリスの目の前を通り過ぎる。

 

「……あ。……捕まえた」

 

アリスが窓から手を伸ばした。

彼女の指先が砂時計に触れた瞬間、狂ったように溢れ出していた黒いノイズが、嘘のようにピタリと止まった。

 

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