はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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第二章
「ただいま」(一)-3月20日3時15分


梓(あずさ)は淡いピンクのパジャマに着替えて、三浦(みうら)家のリビングにいた。

 

ぼさぼさだった肩までの黒髪もちゃんと整えられて、白いおでこにキャラクターものの絆創膏が貼られていた。

さっきお風呂で転んでしまったからだ。

 

泥まみれだった爪も白く整えられて、首からタオルを下げている。

 

 

梓はもう一人ではなかった。

 

 

「ごめんね、梓。シャワーがダメだって知らなくて」

 

梓の母・三浦一美(かずみ)が梓の髪の毛を櫛で梳かしながら言った。

まだ目が泣き腫れて赤いが、その顔にもう絶望はなかった。

 

「ううん。普通ダメだってわからないし、別に痛くないから大丈夫」

 

 

二時間ほど前。

 

梓は両親に迎えられ、再び家に帰った。

 

涙に濡れた一美は、ぎゅうっと梓を抱きしめた。

 

血まみれ泥まみれの梓を見て、一美はすぐに温かいシャワーを出した。

 

梓が涙を流しながらも笑顔でシャワーに触れると、白(・)い(・)肩(・)と(・)指(・)が(・)黒(・)く(・)焼(・)け(・)た(・)。

 

梓は久々のことでびっくりして転んで、扉の角で頭を打った。

 

 

慌てて駆け寄ってきた一美に、梓は言った。

 

「ごめんね。私、ヴァンパイアなの。シャワーダメなの忘れてた。お湯、溜めていい?」

 

 

そうして自動給湯が終わるまでの間、パジャマを着た梓は母とリビングで向かい合っていた。

もう腕の傷はすっかり治っていて、真っ白い肌が見えている。

 

目の前には、一年ぶりに見た母がいる。

三浦一美。

長く、ぼさぼさの黒髪をヘアゴムで粗雑に後ろで束ねている。

耳にはピアスの穴が3つあるが、すべて塞がっていた。

歳よりも若く見える柔らかい顔立ちで、右の目元に泣きぼくろがある。

梓の膝先を撫でながら、ゆったりと座っていた。

 

優しくて、頼りになるママ。最後に見た時よりすごく疲れた顔をしてる。

 

梓は、なんだか居心地が悪かった。

自分があまりに醜くて、ここにいる資格なんてないと思い始めていた。

やっぱり今すぐ窓から外に出て、そして今度こそ二度と戻らないべきだと思い始めていた。

 

 

「……夢みたい。梓が帰ってきたなんて」

 

一美が鼻声でつぶやく。一美は梓の顔をじいっと見ていた。

 

「ごめんなさい……ママ」

 

梓は自分の醜さを見透かされているみたいで、謝っていた。

 

「謝ることないのよ。ありがとう。梓。帰ってきてくれて」

 

一美が笑って、梓も笑った。

そこでまた梓の目から涙があふれてきて、母の膝にすがり付いて泣いた。

泣くたびに淡い赤の涙があふれて、一美の白いパジャマに赤の染みができていく。

 

一美は娘の目から流れる赤い涙に内心驚愕しながらも、決して目は逸らさなかった。

現実とは思えない事象よりも、いま現実に目の前にいる娘の方が何倍も大事だった。

 

「私……帰ってくる資格なんかないの。すごく悪いことをいっぱいした。怖くて、LINEも全部無視して、ずっとずっと」

 

「そんなことない。ここは梓の家よ。ここが、あなたの帰る場所」

 

母の一言一言が、梓の心を溶かしていく。

そこからしばらく梓の言葉はもう言葉になっていなくて、何度も何度も泣いた。

 

 

給湯器から音楽が流れてきて、ようやく梓は浴槽に浸かった。

最後にホテルで浴槽に浸かったのが確か2月ぐらいだから、一ヶ月は入っていなかったことになる。

浴槽のお湯には薄い赤の乾いた血が浮いているぐらいで、水は綺麗なままだった。

お湯の温かさはあまり感じないけれど、なんだかすごく懐かしくて、暖かかった。

 

「はーっ……」

 

自分の声が反響する。

お風呂の外で、パパとママが楽しそうに喋っている声が聞こえる。

それだけで胸の奥が熱くなって、動いていない心臓がもう一度動いたような気がする。

 

「そっか……今日、誕生日だったんだ」

 

もうとっくに忘れていた。自分がいくつだったのかも数えていなかった。

ただ昨日と同じ今日、今日と同じ明日の繰り返し。

昼に寝て、夜にちょっとだけ起きて、移動して。

寝て、起きて、寝て、起きて。

おなかがすいたら殺して。

その繰り返し。

 

何にも変わらない、ただ罪だけが重なる毎日が、ようやく終わった。

急に流れる時間が遅くなった気がした。

 

梓はお湯に浸かったまま浴室の壁の鏡を見た。一年前は化け物に見えた自分の顔が、なんだかまた別人のように見える。

やっぱり三浦梓ではないかもしれないけど、この家にいて何度もここから見た自分の顔のようにも思えた。

 

何よりママは、私の顔を見てすぐに私だとわかった。

それは私がまだ、三浦梓だからかもしれない。

 

そんなことありえないなんてわかってるけど、今だけはこの幸せな気持ちに浸りたかった。

 

「ふふっ」

 

胸の奥から暖かいものがたくさん湧いてきて、思わず笑ってしまう。

 

「こんりんざいあらーわれないー いちばんぼしのうまれーかーわりー♪」

 

梓はへたくそな歌を歌った。

人間だった頃によく聞いていた曲のサビの部分。

 

 

そうして梓がお風呂から出た後の三浦家のリビング。時刻は深夜3時を回っていた。

 

ソファの上にさっきと違うパジャマ姿の梓がいた。

その向かいの床に座布団を置いて両親が座っていた。

 

「……ヴァンパイア、って、あの、吸血鬼、って呼ばれるやつかい?」

 

父が、向かいに座った梓に聞く。

三浦浩平(こうへい)。

眼鏡をかけた40代前半の男性。ツーブロックに切りそろえた髪。

一美に比べるとシャープな顔立ちに、少しニキビ痕で荒れた頬。

 

すごく優しいパパ。ママと一緒で、最後に会った時よりすごく疲れた顔をしてる。眼鏡が前と違う気がする。

 

「うん……一年前、噛まれたの。……死んじゃって、ヴァンパイアになって、そこからずっとそう」

 

梓が紡ぐ言葉は、すべてが荒唐無稽だった。

 

だが両親は、三浦梓によく似た人形みたいな殺人鬼の話を信じた。

どんな理屈よりも道理よりも、目の前にまた娘がいることの方が、何倍も大切なことだった。

 

「色々ダメなものは多いんだけど、太陽の光が一番ダメ。浴びると死んじゃうと思う」

 

一美は押し入れから使っていない遮光カーテンを引っ張り出し、梓の部屋の窓につけ、隙間も縫った。

 

「あと流れる水とか、神社とか、お寺も怖いの。十字架とか鈴の音とかも、なんだか怖くて。手が洗えないから、ティッシュを使うことが多いの」

 

梓の手洗い用の洗面器が、洗面所に置かれた。

 

「ごめん、水も食べ物もまったく食べられないの。食べたら戻しちゃうみたい。……食べられるもの? ……人間の血だけ。ごめん、気持ち悪いよね」

 

一美はそっと梓を抱きしめた。

 

「大丈夫。おなかすいてないから。気にしないで。一か月ぐらい食べなくても平気なの」

 

個包装のチョコレート菓子が、リビングのテーブルに置かれた。

 

「うがいもだめなの。口の中怪我しちゃう。痛くはないけど、洗面所汚しちゃうから」

 

新品の歯ブラシが、洗面所のコップに一本増えた。

 

「お菓子もダメ。なんだか食べる気にならない。大丈夫! 今はおなかいっぱいだから」

 

梓のベッドに再び布団が敷かれた。

 

「明かりつけなくて大丈夫。真っ暗でも見えるから。暗いまま過ごすの癖になっちゃって。気にしないで」

 

梓の部屋に明かりが灯った。

 

「眠りたくなったら寝るよ。大丈夫。さっきまで寝てたから。この体だと、寝るのも起きるのも好きな時にできるの。ママもパパも大丈夫?」

 

押し入れから引っ張り出されたサンリオキャラクターのぬいぐるみが、梓のベッドに置かれた。

 

「大丈夫だって! ぬいぐるみなくても寝れるから! 子どもじゃないって!」

 

リビングのテーブルに置かれていた、梓の中学の卒業アルバムが回収された。

 

 

 

梓の部屋は、再びその主を迎え入れた。

荷物は部屋の隅に段ボールやプラケースでまとめられているけれど、机もベッドもそのままだった。

壁の推しアイドルのポスターも、キャビネットの上の家族写真も。

壁に貼られた進路相談面談の案内も、塾の時間割も。

 

「……なんにもかわってない」

 

ずっとずっと、一年間、掃除して待ってくれていた。

私がいつ帰ってきてもいいように。

こんな化け物になったのに。

 

梓はまた視界がぼやけてきて、ティッシュを取って涙を拭く。

今日で何回泣いただろう。でも今は、体の周りを温かい毛布が包んでいるみたいで、何回泣いても自分の罪が積もらない気がした。

 

梓は玄関に放り投げたままのウエストポーチとコートから、スマホを取り出した。

一年の逃走の中でスマホケースは何回か替えたけれど、べったりと黒い血がこびりついていて、なんだかこの家に持って入ること自体が失礼な気がした。ケースを外して中のiPhoneだけ取り出した。

 

 

画面ロックを解除するとLINEのトーク画面だった。

母からのメッセージの下にいくつも、新しい通知が続く。

 

『不在着信』

 

『不在着信』

 

『不在着信』

 

『梓生きてるの?』

 

『おねがい』

 

 

「……生きてるかはわからないけど、ここにいるよ。ママ」

 

つい数時間前まで、そんなに大事だとも思っていなかったスマホが、今はすごく大事に思えてきて、ぎゅっと胸に抱いたままベッドに倒れこむ。

なんだか懐かしい匂いと、干したばかりの布団の香りがした。

サンリオキャラクターの青いペンギンと目が合って、にこりと笑いかけた。

中学からずっと使ってるシングルベッド。

横を見ると、昔ヘアアイロンをぶつけて欠けたベッドの柱が見える。

 

何にも変わっていない。変わったのは自分だけ。

 

「……ううん。ここからまた変われる」

 

真っ暗な個室で泣きじゃくっていた自分と、今の自分はたったの四時間しか違わない。

だけど、そこから何年もたって今ここにいる気がした。

この体と同じく止まっていた時が、動き出した気がした。

 

スマホのホーム画面から消していたLINEを、ホーム画面に引っ張り出した。何百件と通知が来ていた。

 

浩平からもたくさんのメッセージがあった。

それに学校の友達、先生、おばあちゃん、叔母さん、叔父さん……

 

みんなみんな梓の帰りを待っていた。

 

「ありがとう……」

 

こんな人殺しの犯罪者なのに。

 

 

私は戻ってきたんだ。人間の三浦梓のお家に。

 

もう人は殺さない。

 

これ以上怪物にならない。

 

 

梓は一年ぶりに、微笑を浮かべて眠った。

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