はらぺこヴァンパイア 作:棗の
翌朝。
自分が横たわって眠っていることがあまりに新鮮で、起きてしばらく何があったか思い出せなかった。
枕元のペンギンのぬいぐるみを見て、にっこりと笑った。
帰還した梓の過ごした一日は、それまでの何週間よりもずっとずっと長かった。
仕事を休んでくれた両親に、自分のこれまでを説明した。
説明したかったことだけ。罪から目をそらしながら。
誰かに噛まれて死んで、ヴァンパイアになったこと。
ヴァンパイアは人間の血しか食べられないこと。
傷はすぐに治るし疲れないし眠らなくていいこと。
だけど色んな弱点があって、特に太陽の光を浴びられないこと。
一年間ずっと、漫画喫茶を転々としてきたこと。
ラブホテルに泊まったことは、恥ずかしいのと申し訳なくて言えなかった。
自分が怪物になったことや、たくさん悪いことをしたのが怖くて、家に帰れなかったこと。
「……悪いことって、梓が? 本当に?」
善良で、宿題をもうやったって嘘をつくことすらためらう娘がした悪いことなんて。
「うん……たくさん」
「信号無視とかは仕方がないことよ。梓が無事で――」
梓は赤い目でじいっと優しい笑顔を浮かべる母を見た。
それだけで一美は、口をつぐんだ。
娘の踏んではいけない場所を、励ましの靴で踏もうとしたことに気づいた。
娘がヴァンパイアで、
それからは
物やお金を盗んだことは言えたけど、人を殺したことは言わなかった。
13人って数字も言えなかった。
すべてを聞いて両親は、殺人鬼の梓を抱きしめてくれた。
遮光カーテンを閉め切った部屋で梓はぼろぼろに泣いた。
たくさんの話をして、お昼になって、両親がご飯を食べた。昨日の残りのカレーだった。
梓がいなくなって、一か月経つごとにカレーを作っていたらしい。
梓の好きなものだったから。
梓は一口も食べられなかったけれど、みんなで同じテーブルを囲むだけで涙があふれてきて、タオルが梓の赤い涙で染まった。
リビングの周りの扉がすべて締め切られ、一つだけあるリビングの窓も間に合わせでガムテープで貼られた遮光カーテンで塞がれていた。
リビングから繋がる両親の寝室も、ありったけの遮光カーテンで塞がれていた。
食卓の上の食べ物が減っていくうちに梓もちょっと落ち着いてきて、梓は自分の姿を改めて見た。
真っ白い肌や赤い目に、人間だった頃の薄青色のパジャマがすごくアンバランスだった。
なんだか無理やり人間のふりをしているみたいな気持ちになってしまう。
「あ、あの、怖くないの? 牙だよ。刺さると痛いんだよ。目も真っ赤だし、なんか、人形みたいじゃない? この顔」
私は一年前、パパを食べようとしたのに。
この牙で、噛みつこうとしたのに。
「娘が怖いなんて思わないよ。確かに顔はちょっと変わった気がするね。大人っぽくなったかな」
梓の心に一年間かけて育った自己否定のイバラが枯れていく。
「目もきれい。吸い込まれそうだ」
「こ、怖くない? 肌がこんなに白いのに目だけすごく色があって、血みたいな色だよ。涙も赤いし、私の血って真っ黒なんだよ。ドロドロしたオイルみたいな気持ち悪い色」
「別に怖いなんて思わないわ。梓は梓よ。本当に、無事でよかった」
一言一言が耳から入って、胸に溜まって、全身に行き渡って、目から涙であふれてくる。
何度泣けばいいんだろうと思う。
だけど今ならどれだけ泣いたって、目の前にはパパとママがいる。
涙を拭いてくれるし、服が汚れても替えがある。
母の手がそっと梓の頬を撫でる。すごく暖かい。
暑さや寒さはほとんど感じないけど、きっと体温がない自分の体よりずっと暖かい。
食卓の上のカレーが減って行くうちに、何も食べていないけれど、梓の胸の奥も暖かくなっていった。
両親の前のお皿から食べ物が無くなっても、梓の前にはすっかり冷めたカレーがあった。
一美はにっこり笑って、手を合わせた。
「梓も、ね?」
梓は涙で濡れた目で笑って、手を合わせた。
「「「ごちそうさまでした」」」
食卓が片付いて、ソファに座った両親の前に、梓は立った。そして言った。
「……えっと、すごくいっぱい迷惑かけると思うけど、お願い。もう一回、ここで暮らしたい、です。できることをやるから」
梓はぺこりと頭を下げた。
「最初からここがあなたの家よ。梓。おかえりなさい」
梓はたまらなくなって、一美にぎゅうっと抱きついた。
人を殺すためじゃなく、嬉しくて、愛しくて人に抱きついた。
そこからは夜まで、時間を忘れて思い出話。
梓がいなくなった日、梓の塾の帰り道付近で不審者の目撃情報があった。
けれども梓も、その不審者も、全く見つからなかったこと。
すぐに警察に捜索願を出して、一週間、ほとんど寝ずに探し回ったこと。
親戚や学校にも頼んで一か月探したけど、まったく見つからなかったこと。
せめて戻ってきたときのためと、パパとママはそのあと仕事に戻ったこと。
警察も手がかりが無くて、スマホの通信経路も梓が行方不明になって一週間もしないうちに追跡できなくなったこと。
絶対に生きていると思ったから携帯も解約しなかったし、死亡届も出さなかったこと。
前にいた高校からは退学になったこと。
前の学校の友達もそれなりに探すのを手伝ったけど、半年たつ頃にはもう連絡もなかったこと。
携帯のGPSで探そうにもGPSが切られていたし、友達も親戚も一度も姿を見ていないから、手がかりがなかったこと。
最近、若い人の行方不明事件が何件か起きていて、深夜の一人歩きを警戒するように言われていること。
何度か旅行に行ったけれど、梓がいない辛さは消えなかったこと。
クリスマスプレゼントに、梓が行きたいと言っていた推しアイドルのチケットを予約していたこと。
お年玉はおばあちゃんと叔母さんから1万円預かっていること。
今日は誕生日LINEを送って、プレゼントを買いに行こうと思っていたこと。
梓の布団は昨日干したばかりなこと。
エアコンが壊れたから買い替えたこと。
梓が止まった時間の中にいた間、二人の時間は動いていた。
娘が行方不明になった絶望の中でもがいて、それでも進む時間に押されて、前に進んでいた。
止まった時間に取り残された娘が、再び足並みを揃えてくれることを信じていた。
梓は泣きすぎてタオルを二枚もだめにしていた。
一枚は口の中を噛んだ時の血がついて、墨汁を拭いたみたいに黒く汚れていた。
自分は立ち止まっていただけ。
殺して、寝て、食べて、盗んで、その繰り返し。
夏になっても、秋になっても、冬になっても、また春になっても。
変わったのは殺した人の数と人殺しの上手さぐらい。
起きても寝てもずっとずっと夜のままだった。
夜まで話は止まらなくて、浩平と一美は明日も仕事を休むと言った。
明日は梓がお昼も安心して部屋の中を歩けるよう、追加の遮光カーテンを買いに行くと決めていた。
ただ待つだけで毎日を歩んでいた浩平と一美の人生も、また力強く動き始めていた。
「私の部屋だけでいいんだよ。お昼もカーテン閉めてたら気がめいっちゃう」
まさかそんなことを帰ってすぐ言われると思わなくて、梓は慌てて言ったが、一美はにっこり笑って首を振った。
「そのうちね。今は梓のために部屋を使いたいの。ここはあなたのお家よ」
梓はまた嬉しくて泣いた。
何時間も話して、話し疲れた人間の二人が寝て、梓は部屋に戻った。
遮光カーテンが窓の下に縫い込まれていて、ちょっとの光も入らなくなっていた。
梓は明かりのついた部屋のベッドの中で、今日一日の会話一つ一つを記憶から取り出した。
会話の一つ一つが、宝石のように輝いていた。
自分のこの牙も、目も、肌も、体質も、すべてが嫌いで嫌いでたまらなかった。
不気味で怖いぐらい滑らかな肌は、醜い人殺しを隠す殻みたいだと思っていた。
綺麗な見た目で騙して獲物を食べる虫みたいだと思っていた。
でも、それでもきれいだって言ってくれた。
梓はベッドの上で、スマホのインカメを起動して自分の顔を見た。
真っ白な、毛穴もない人形みたいな肌に、異常なほど赤い目がある。
色の無い唇を開くと、紫がかった舌の上に、上あごから生えた一対の牙がある。
人間だったときはちょっと内側に生えていた下の前歯が、きれいにまっすぐ生え揃っている。
私の顔は、生きてた時と違う。
だけど、きれいだって言ってくれた。
「……きれい、なのかな」
ちょっと気持ちが落ち着いてきて、色んな角度から写真を撮ってみた。
ホラー映画の殺人人形みたい。
人が近づくと口を開いて、中に牙が生えてて、ナイフを持って襲い掛かってくる人形みたい。
「……きれい、だったらいいな」
パパとママはきれいだって言ってくれた。
きっとお世辞だし、私が帰ってきたから慰めてくれてるだけ。
梓はメモ帳と乗換案内とYouTubeとグーグルマップしかなかったスマホのホーム画面に、しまいこんでいた色んなアプリを出してみた。
インスタグラム、よく行く文房具のお店のアプリ、服の通販アプリ。
Amazon、加工できるカメラ、動画撮影アプリ、アルバム。
アルバムを開くと、直近数枚の殺人人形みたいな顔の前には、逃亡の中で撮った乗換の案内表やWi-Fiのパスワード、漫画喫茶の料金表があった。
それらの後に、三人の人物が映っている写真があった。
大きな白いホールケーキの前に座って、にっこり笑っている少女。
後ろには”HAPPY BIRTHDAY”の風船。
その後ろには、今日よりもずっと元気そうな両親。
ついさっきまでいたリビングの食卓。
人間だったころの
ちょっと顔まわりがぽっちゃり気味で、右の頬にニキビの痕があって、左目の下に泣きぼくろがある16歳の女の子。
髪も黒髪のくせ毛で、ちょっとぼさぼさしていた。
16歳の割に幼い顔立ちで、中学三年生ぐらいに見えた。
インカメを開いて、画面に映ったヴァンパイアを見た。
「……違う人みたい」
面影はある気がするけど、顔が痩せてるし、なんか大人っぽくなってる。
髪もさらさらのストレートになってる。
ママはどうしてわかったんだろう?
あの時間のあのタイミングにチャイムを押す人なんて、私しかいないと思ったのかな?
それとも、私が梓だって、わかったからなのかな。
もしそうだったら、嬉しいかも。
「……だいすき。ママ。パパ」
スマホの画面の中のヴァンパイアが赤い目を細めて笑った。
牙がスマホの画面の光を反射して、鈍く光っていた。
服の通販アプリを開くと、春服のセールをしていた。
なんだかそれがすごく輝いて見えて、そこからぽちぽちタップしながら、アプリの中の止まった時を動かしていく。
天気と泊まる場所を調べるだけだったスマホが、急にいろんな役割を押し付けられていく。
疲れないし眠くもならない梓は、気が付くと朝までスマホをいじっていた。
いつもは憂鬱な朝が、起きてくる人を待つだけでこんなに楽しくなるなんて思わなかった。