はらぺこヴァンパイア 作:棗の
ヴァンパイアになって、一日中起きていたのはいつぶりだろう。
寝たらそのまま永眠してしまう気がしていた、ヴァンパイアになって最初の数日間以来だと思う。
それ以降は一日中起きるどころか、一日中寝ている日の方が多かった。
今は目の前の現実が楽しすぎて、寝る理由なんて無かった。
両親が買い物に出ている間、色んなことを調べて、部屋の中の懐かしいものを眺めた。
手洗いの洗面器が使えるか試して、部屋にあったセミロングのスカートとニット生地の服に着替えた。
そこまでやってもまだお昼を回ったぐらいだった。
「もしかしてヴァンパイアって、お昼も動けたらすごいことできる?」
疲れないし眠らない。ホテルで五日間ぐらい寝たことはあったけど、五日間起きたことはなかった。
飽きるか気分が悪くなるまでずっと起きておこうかなと思った。
ここは安全な場所。
盗難とか、誰かに扉を開けられるかもとか、明日のお昼の避難先どうしようとか、そういうことを気にする必要もない。
したいことなんてもうないと思っていたけれど、そんなことはなかった。
部屋に生活感を戻したい。
ママが綺麗にしてくれてるけど、ちょっと散らかしても、私の部屋に戻したい。
机の引き出しを開けると、100円ショップで買った入れ物の中にプチプラのアイライナーやチーク、マスカラ、ファンデーション、アイシャドウが残っていた。
頑張って買ったチークにも兼用できるカラーリップもあった。
高校一年の最後にちょっとだけバイトして買ったやつだった。
「メイク道具……ここにあったんだ」
手の甲に引いてみると、まだ使えそう。
一年以上ぶりに自分の机に座った。
少し背が伸びたからか、顔の高さに来るように調整していたスマホスタンドがずれて見えた。
スタンドの高さを調節して、引き出しから折り畳み式の鏡を取り出した。
鏡に映った自分の顔を見る。メイクの時に何度も見たすっぴんの自分とは、全くと言っていいぐらい違う。
元々一重で睫毛も短かったのに、今は奥二重で睫毛も上向いている。
丸っこい、中学三年生ぐらいに見えた顔立ちは少しシャープになって、大学生と言っても通じるかもしれない。
右頬にあったニキビのあとも、右目の下の泣きぼくろも無くなっている。
「……きれい、なのかな」
そもそも鏡を見ること自体が滅多になかったけれど。
一年前、親を殺めかけたあの時に見た、血まみれの姿があまりに怖くて。
それ以来この顔もこの体も嫌っていた。
ヴァンパイアは男女問わず美しい姿を持っていて、人間を誘惑して襲う怪物らしい。
だから自分でなくても、ヴァンパイアになればみんなきれいな見た目になるし、特別なわけじゃない。
別に、美しさで誘惑したいわけじゃない。
ただ女の子としておしゃれがしたいし、せっかくするなら、今の顔に合った形の方がいいと思った。
「ファンデ要らなさそう……色合わないし、最初からチークでいいかな」
解説している人が可愛すぎて、本当に自分でいいのかなって思いながら。
30分後。
「……これ、私?」
メイク動画に出てくるYouTuberの人の顔と、自分の顔を比べてみる。
真っ白い肌が、赤のアイシャドウと赤い目を強調していて、うっすら塗ったチークが人形っぽい輪郭の無さを打ち消している。
鏡を持って前から、右から、左から、自分の顔を見てみる。
自分の赤い目をよく見るとキラキラしているように見えて、カラコンにも見えない。
中に光るビーズを閉じ込めたみたいな目。
カワイイ、かも。
「……ちょっとだけ」
スマホのカメラを起動して、インカメモードにして、一枚。
にこりと笑って一枚。片手でピースして一枚。牙をのぞかせて一枚。
立ち上がって、上からインカメで一枚。
胸のふくらみが強調されたちょっとセクシーな感じ。ネックレスとかも映えそう。
ピアスもいいかも。地雷系もいけそう。
ほんの数日前まで泥まみれ血まみれで人目を避けて歩いていたのに、今のこの顔なら、どんな場所も場違いだって思わずに歩けちゃいそう。
背が伸びてスタイルがよくなったから、ショートパンツとかだって履きこなせる気がした。
やりたいことがどんどん膨らんでいく。
「……た、ただいま。梓」
気が付くと部屋の入り口に
梓は漫画みたいな悲鳴をあげて、スマホを落としてしりもちをついた。
どれくらい撮っていたんだろう。
部屋の床にはせっかく片付けてくれていた服が散乱していて、どれが一番似合うか合わせていたらしい。
「おおおおかえりママ! ごめん、ちょっとメイクしてたら楽しくなっちゃって」
一美がくすりと笑う。
「梓、やっぱり昔と変わってないわ。楽しいことがあると周りが見えなくなっちゃう癖。メイク、上手くできてるわよ」
母からお墨付きをもらえて、ちょっと照れ臭くなって笑った。
少し冷静になって、帰宅した母の荷物を見た。
片手にニトリのカーテンを、もう片手に大きな保冷バッグを持っていた。
すごく大きくて、UberEatsの人が使っていそうな感じのもの。
「ママそれ……保冷バッグ?」
まだ寒い季節のはずなのに、どうして?
「え? ああ、うん。まあね。ちょっと使う用事があるから」
一美はそう言って、梓に光が当たらないことを確認してリビングへのドアを開ける。
その後ろから父も「ただいま、梓」と荷物を大量に持って通った。
「おかえりパパ。買い物、ありがとう」
「どういたしまして。今日からまた三人暮らしだ。パパも張り切って工事するよ。車にはもう遮光しといたから」
ありがとう、とにっこり笑って梓が言った。
「あはは。問題発言だよーパパ。でもありがと」
二人がリビングへ戻って、ちゃんとドアが閉まったのを確認して、自分も廊下に出る。
玄関にはカーテンの留め具や、アルコールティッシュ、包帯、淡いブラウンのコートがあった。
私はここで暮らすんだ。そのために、色々な物を買ってきてくれた。
「……私だって、できることをやろう」
散らかった服をたたんで、机について、引き出しの中のノートの束から一冊出す。
自分ができる家事のリストを作ってみようと思った。
どんな小さなことでも、やっていこう。
梓が部屋で書きものに熱中していた間に、
カーテンの隙間ができないように、金属のフックで止められており、その後ろには石膏ボードで窓を塞いでいるらしい。
「お昼も真っ暗になっちゃうからいいよ」と梓は言ったが、「ここは梓のお家だから」と一美たちは譲らなかった。
洗濯物も浴室乾燥機でなんとかなるらしいし。
そうして、夜。
食卓での食事が終わった。
いつものように一美はお風呂に入り、浩平は食器をシンクに置いて洗い物をする。
この家に娘がいなかった空白の中で繰り返されてきたルーティーンだった。
「パパ待って。私がやるから」
そこに来たのが梓だった。肘までのゴム手袋を両手にして、髪を後ろで縛っている。
赤い目をキラキラ輝かせて、父の顔を見ていた。
「梓……水、ダメなんじゃなかったのかい?」
「素手で触らなかったら大丈夫。それに痛いわけじゃないし」
梓が手をわさわささせて浩平に近寄る。
「……梓、まだ帰ってきたばかりだし、休んでいていいんだよ」
「大丈夫。ヴァンパイアだし疲れなんてないよ。パパこそ、目の下のクマがすごいからちゃんと休んでよ」
元々家事はできることをやっていたけど、今は前よりずっと一生懸命やりたいと思っていた。
疲れないし眠くもならないから、夜通しだって作業できちゃう。
そう思って言った言葉が、むしろ浩平の顔を曇らせていた。
「……梓。ありがたいけど、パパとママは、梓に休んでほしいんだよ」
「ちゃんと休んでるよ。大丈夫。お願い、私もできることをしたいの」
潤んだ赤い目で見つめられて、浩平はそっとシンクの前から退いた。梓がぴょんと跳ぶように移動して、蛇口をひねる。
清浄な水が梓の前に現れて、びくんと体が震える。
何度もあった雨の日。
どろどろに黒く汚れていく服。
足元まで伝って流れていく、泥みたいな血。
「……だ、大丈夫。痛くないから。大丈夫!」
スポンジを持って洗剤をつけて、お皿を一枚手に取る。
おそろしい水の流れが皿に叩きつけられ、水滴が服やゴム手袋に跳ぶ。一つ一つが飛び散ったガラスの破片のように不気味に光って、ぱしゃぱしゃと音を立てる。
「大丈夫……」
ぎゅうっと唇を引き結んで、スポンジを握ってゆっくり皿の上で動かす。
皿の上に溢れた泡に水を流すと、またガラスの破片が飛び散る。赤い目がせわしなく動いて、それが服の上に染みを作るだけで済んでいることを確認している。
一枚洗い終えて、皿をシンク横のラックに立てようと持ち上げた。
ゴム手袋から水滴が流れて、真っ白い二の腕についた途端に黒く染まってドロドロの血が噴き出た。
「あっ……」
慌てて腕を下げて、服に黒い血がつかないようにした。
ぼとりと黒い血の塊がシンクに落ちた時、浩平がそっと蛇口をひねった。
「大丈夫かい、梓」
「へ、平気だよ! 痛くないし、次のお皿洗うから――」
「そうじゃなくて、梓の気持ちの方」
梓が振り向くと、父は優しく笑っていた。
眼鏡の向こうの目に、梓の赤い目がぼんやりと映っていた。
「僕たちは梓が帰ってきただけで本当に、心から幸せなんだ。体は疲れないかもしれないけど、心の疲れにも気を配ってあげるんだよ」
心の疲れ。
わかるような、わからないような言葉。
「で、でも……私、何にもしてないし……遊んでばかりで」
「娘が楽しく家で遊んでいるだけでも、親は幸せなんだよ。帰ってきて、おかえりって言ってくれる人がいるんだから」
梓はまた泣きそうになったけれど、ぐっとこらえた。
本当に両親は、自分のことを深く愛してくれている。
こんな化け物なのに、何の恩返しも出来ていないのに。
「わ、私だって何かしたいの。もう学校にも塾にも行ってないし、お昼は外にも出られないし」
浩平はそっと梓の手から濡れたお皿を取って、ラックに置いた。
タオルを出して、真っ白い肌の黒い傷痕にそっと被せた。
「そしたら、今の梓にできることを一緒に考えよう。パパとママと梓、三人で頑張ればいいんだ」
浩平は柔らかく笑った。
「……私にできること、あるのかな」
人殺しも、警察から逃げることも、何の役にも立たないから。
「パパとママの大切な娘だってことは、梓にしかできないことだよ」
その言葉は梓の胸の奥で弾けて、梓はまた泣いた。
今度もまた、嬉しくて。