はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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親の罪-3月21日14時45分

時刻は遡る。

(あずさ)が家でメイクをしていた頃。

 

三浦一美(みうらかずみ)と三浦浩平(こうへい)は、車に乗っていた。

 

一美が運転席に、浩平が助手席に座っている。

昨日帰ってきた娘の生活のための買い出しの帰り道。

 

二人とも目の下に隈があって疲労の色は濃いが、数日前とは比べ物にならないほど、心の中には暖かい希望が燃え盛っていた。

 

後ろの席には遮光に使うカーテンや石膏ボード、工具などが積んでいて、ほとんど後部の視界もない状態だった。

帰宅後には浩平が遮光シートを貼るのでさらに視界は悪くなるだろう。

 

「……これで梓も、前みたいに暮らせるかな」

 

妻と二人きりの時だけ使う、歳の割に若く甘えた感じの口調で、浩平が言った。

 

「きっと暮らせるはずよ。これで足りなければ、まだやれることはたくさんあるわ。

一軒家とか、地下室のある家とか。賃貸でもあるはずよ」

 

一美はまっすぐ前を見たまま、固い表情で言った。

浩平はそっと、一美の肩を撫でた。

 

「一美さん。落ち着いて。梓はもう帰ってきたんだよ」

 

一美は皺の寄った眉を僅かに緩め、夫の方を向いて「……ありがと」と笑った。

 

梓が抱える問題は無数にあるし、それは何一つとして解決されていない。

陽光。血液。普段の生活。

昼の世界は娘を拒絶し続けている。

 

そんなことはわかっているが、奇跡的に帰ってきた娘が無邪気に喜ぶ顔を、ほんの一秒でも長く見たかった。

たとえ以前の娘と姿が違っていても。

 

「大丈夫。梓はちゃんと家にいるし、のんびりできてる。遮光ができなくても、夜には僕たちと一緒にご飯が食べられる。大丈夫なんだよ」

 

浩平は笑って見せたが、一美の顔は曇ったままだった。

 

「……こーちゃん。楽観的過ぎよ。梓が食べられるものは、そう簡単に用意できるものじゃない。

太陽の光を遮ることだって日によって日没の時間は違うし、日の出の時間だって違う。梓の部屋の窓も遮光を想定していないし隙間から光が洩れたら——」

 

浩平はまた、一美の肩をそっと撫でた。

 

「一つずつ対応していくこと。梓はずっといる。ね?」

 

一美は一瞬だけ目を閉じて、ふうっと深呼吸した。

そうして愛する夫に笑いかけた。

 

「……ありがと。まだ信じられないのよ。梓が帰ってきたことも。梓が……ヴァンパイアだってことも」

 

今日こうやって呑気に旦那と出かけている間にも、梓が家から忽然といなくなっているかもしれない。

そう思うと涙が止まらなくなってしまって、アクセルに力が入りそうになる。

そういう時にいつも、優しく落ち着かせてくれる人が横にいるのに。

 

本来なら娘を置いて買い物に行くのもイヤだった。

しかし梓を降り注ぐ日光から守るすべがない。

自分たちにとってはただ暖かいだけのこの光が、娘の命を奪うのだという。

 

娘のことになると、冷静になれなくなる。ずっとずっと昔から同じ。

 

「梓が言うんだから本当のことだよ。梓が、またここで暮らしたいって言ったのも本当のこと」

 

浩平は努めて優しく、愛する妻に話しかけた。

昨晩、妻は一年ぶりに、ぐっすりと眠っていた。

手から零れ落ちた娘が、闇の中から戻ってきたのだから。

 

 

ヴァンパイアになったことなど些末な事だと言えればいいが、そうも言えなかった。

そもそも存在しているかもわからない伝説上の生物に、まさか行方不明の娘がなったなんて信じがたいことだった。

しかし親として、娘を信じることこそが最も大切だという鉄則は、二人の中にあった。

 

 

少なくとも40度程度のシャワーを浴びただけで、真皮まで達するほどの火傷を負うような人間はまずいない。

絶叫するほどの痛みのはずなのに、まるで汚れでもついたように呆れる人間もいない。

 

 

そしてその傷が、()()()()()()()()()()()()()()()()()人間もいない。

 

仮にヴァンパイアでなかったとしても、人間の世界の(ことわり)を外れた何かであることは明白だった。

 

 

「……まずは、梓のごはんをどうするかよ」

 

一美はまた自分の口調が固くなっていることを自覚する。しかしそれも仕方のないことだった。

人間の血液。

それを手に入れることが、どれほど難しいか知っている。

 

「梓が次におなかがすきはじめるまでに何とかしないと」

 

娘がおなかをすかせているのに、ご飯を用意できないこと。

それは母親失格だと一美は思っていた。

たとえそのご飯が何であろうと。

 

 

「……一か月ぐらい、って言っていたね」

 

梓がこぼした一言を聞き逃していなかった。

 

梓は一か月ごとに食事をしていたらしい。

梓は人間の血しか食べられない。

 

梓の牙の大きさから考えて、噛まれて無事で済む場所などほとんどない。

映画のように首筋を噛まれれば、頸動脈が破損して数分で死に至るだろう。

 

今のところ文字通り何も口にしていない梓が、お腹がすくとどうなるのか。

はっきりとは分からないが、梓の言葉の端々から、きっと梓の心に深い傷を残すようなことをしてしまうのだろう。

 

 

梓がヴァンパイアにされて間もない頃、自分たちに助けを求めることはできたはずだった。

()()()()()()()()()()()()()

その行動が意味するものは。

 

梓が噓を言うとも思えない。自分の愛する娘はそんな子じゃない。

梓の言うことはきっと本当だ。

 

 

一か月に一人。

梓が行方不明になっておよそ一年。

つまり。

 

「…………っ」

 

浩平は単純な計算をしかけて、首を振った。

“それ”を数えてはいけない。

数えれば、娘の笑顔の後ろに見えてしまう。

奪われた命が。

 

愛しい娘が、別の何かに見えてしまう。

 

 

梓は自分たちの娘だ。

昨日確かに帰ってきた娘だ。

 

そう思うしかない。

 

 

「血液は売買が禁止されてるのは知ってるわよね。普通の方法じゃ手に入れられないわ。職場でも厳重に管理されているし、一つでも持ち出せば自動チェックに引っ掛かってばれる」

 

一美は、港北大学附属病院(こうほくだいがくふぞくびょういん)の循環器内科の看護師だった。

日頃から保管庫に何度も入退室しているので、そのチェックの厳しさやタイミングは知っている。

 

それゆえに、どうすれば大量に持ち出せるのかも知っていた。

それを持ち出すことがどのような罪となるのかも。

それを大量に持ち出した時、病院に、患者に何が起こるのかも。

 

それは不可抗力というきれいごとでもない。

母親だからという口当たりの良い言葉で包むつもりもない。

ただ、三浦一美という一人の人間として貫こうと決めたエゴだった。

 

浩平は後部座席の保冷バッグを見る。

どれほどの数になるのかはわからないが、梓が必要とする量の数か月分ぐらいは、確保できるのだろう。

梓が必要とする時まで、そっとしまっておくつもりだった。

梓はその出所ぐらい想像できるはずだし、知れば悲しむだろうから。

 

「……本当に、やらなきゃだめなのかい」

 

否定してほしかった。他の手があると言ってほしかった。

愛しく賢い妻が、梓が戻ってきてくれたその翌日、その選択肢を口にした瞬間から、浩平の中にはその気持ちがずっとあった。

 

「……私ができることをするだけよ」

 

「僕たちが、だよ。僕たちは夫婦だ」

 

浩平は迷いと恐怖を振り払い、一美に言葉をぶつけた。

 

「僕たちは、梓のために、できることをする。ずっと前からそうしてきたよ」

 

梓がこの世に生を受けた時から。

どれほど厳しい現実が牙を剥いても。

親として娘を守り、娘の未来を支える。

 

「やっぱり、僕が血を提供するよ。採血の道具はAmazonで売っているみたいだし」

 

「大丈夫。こーちゃんが倒れたら家計はどうなるの? 私はシフトだし、職場の上司も梓のことで大変だったのは理解してくれてるから何とかなる」

 

合理的に、論理を組み立てていく。そこに矛盾などないはずだった。

 

「私がだめになっても、あなたがいれば」

 

一美は暗い目をしていた。

 

自分がしようとしていることがどれほどの重罪なのかは理解している。

その結果として、例えば輸血不全で人が死ぬ可能性があることも知っている。

医療に携わり続けたものとして。人の命を救うべきものとして。

許されないことをしても、娘を助けたいと思った。

 

浩平は一美の左肩にそっと手を乗せた。

 

「……一美さん、一人で背負わないで。僕らは夫婦だ。苦しいときも、罪も、ともに背負うべきだ」

 

一美は喜びと胸の痛みを喉の奥に押しこんで、隣の夫を見た。

 

「……ありがとう。こーちゃんもできるやり方で、梓を支えてあげて」

 

「勿論だよ」

 

浩平はそう言って、静かに流れる景色を見ながら、思索に耽る。

ただの会社員の自分が、ヴァンパイアという超常存在になった娘のために何ができるのか。

今のところ思いつくのは、娘が望む時に有給休暇を取って傍にいて、代わりに昼の世界で何かを手に入れてあげることぐらいだった。

 

妻は砕かれた希望を拾い集め、歩み始めた。

自分には、何ができるだろう?

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