はらぺこヴァンパイア 作:棗の
アンチライトを使った翌日の朝。
朝から楽しいことがあった。
今朝の7時。
梓の頭をそっと撫でて仕事へ行こうとする
目を焼くような白い光を耐えて、「いってらっしゃい」と手を振った。
実際は目を瞑ったままだったけれど。
「梓!? だ、大丈夫なの!?」
一美は慌てて梓を抱きしめ、玄関のドアを開けて部屋に戻した。
梓は「大丈夫だよ」と笑って言って見せた。
「ふふ。びっくりした? 太陽の光、大丈夫になったんだよ」
「……ほ、本当に? すごく顔色が悪いけど」
「元々この色だよ。ね、帰ったら詳しく話すから。いってらっしゃい」
梓はいたずらっぽく笑って、母を見送った。
あわただしくスーツに着替えて鞄を持った父も玄関先まで送迎すると、目をまんまるにして驚いていた。
ようやく「いってらっしゃい」が言えた。ヴァンパイアでもできるんだ。
帰ったらネタばらしして、今度のお休み前にもう一度薬を買えば、次の日曜のお昼から買い物に行ける。
梓はスマホのタイマーを見た。
薬を使った時から72時間セットしていて、これが鳴るまで普通の人間として暮らせる。
アンチライトのお金をどうするかとか、無くなった後どうするかとか。
そんなことよりも、まず「いってらっしゃい」が言えたことが嬉しかった。
そうして今。時刻は8時。
こうやってテレビを見ていると、お休みの日の過ごし方と何も変わらない。
カーテンが全部閉まっているのも夜だと思えばいいし、そもそもカーテンの方はなんだか怖くて見れないから関係ない。
部屋から持ってきたノートを開き、『食べ物』とページの上に書いて、食べ物特集で出た食べ物をメモしていく。
ノートに色んなことを書くこと。
それは昔からの梓の趣味だった。
自分が気に入ったノートやシール、ペンを集めて、自分の好きなことを書いていく。
読み返すわけじゃないし、日記でもないけど、ただなんとなく好きな事だった。
「……ほんとに食べ物のニュースって多いなぁ」
梓はヴァンパイア化して一年の間、自分の変化について色々と気づいたことがあった。
今の梓は、
そういうものを見ても美味しそうとか、おなかすいたとか思うことがない。
ごはんの時間に食べ物を並べられても全く食べられないのは寂しいと思うし、申し訳ないとは思うけど、食べたいとは思えなかった。
ヴァンパイアになってすぐ、ご飯を食べようとしたけど、食べられなかった。
財布に入っていたお小遣いでケーキを買ったけど、口に入れたら黒い血と一緒に吐き出してしまった。
おなかがすいていたから、無理やり流し込もうとしたけど、喉を通る前に勝手に体が吐き出してしまった。
そこからお金を無駄にしないために、何も食べないし何も飲まなかった。
黒いどろどろにまみれたショートケーキのいちごの映像が頭にこびりついていて、そこからケーキを見るとなんとなく悲しい気持ちになってくる。
紅茶も飲めなかった。
おなかがすいて喉が乾いてるのに、飲もうとすると口の中を怪我して、黒い血と一緒に吐き出してしまう。ごめんなさいって謝って捨てた。
だけど。
こうやって人間の食べ物の情報を見ていれば、美味しそうと思う気持ちを心の奥底から引っ張れるかもしれない。
この家に帰ってきて、もうないと思っていたやりたいことがたくさん溢れてきたみたいに、きっと忘れてるだけだと思うから。
梓は食べ物関係の特集をどこか作業的に見ながら、食べ物の名前をメモしていく。
自分が好きだったものも書いてみた。
ママの作った甘めのカレー。たっぷり甘いシフォンケーキ。
サバの塩焼き。ファミレスのハンバーグ。温かいコーンスープ。
キットカットのいちご味。午後の紅茶。
ちょっと脂の多い物とか甘い物がたくさんあって、だから少し太ってたんだと思う。
テニス部で運動していたからダイエットにはなっていたのかも。
気になって冷蔵庫の上を見てみる。
一年前と変わらず、お菓子入れになっている入れ物があった。
中を見ると、キットカットのいちご味が一袋入っていた。
買っていてくれたんだ。いつ帰ってきてもいいように。
「……ごめんね。ママ」
おぞましいもの以外何も食べられない化け物で。
気分が沈む梓とうってかわって、テレビではマクドナルドのCMが流れていた。
アップテンポなBGMで、期間限定のハンバーガーのことを話している。
CMの中ではお父さんと息子が家で楽しそうにハンバーガーを食べている。
友達と何度も行ったけど、もう行けない。食べられないから。
キットカットを箱に戻してソファに戻ると、別のCMになっていた。
昼休みの学校の教室で、制服を着た男の子と女の子が周りの人に隠れてスマホでメッセージを送りあっている。
まだ付き合っていない感じの関係の会話が何度か続いて、昼休み終了のチャイムと同時に『またあとで』のメッセージが送られた。
梓のペンを持つ手が止まる。
CMでは場面が変わって、クラス替えの掲示板の前で女の子二人が喜んでいる。
スマホのインカメで掲示板の前で写真を撮っている。
りんごのロゴマークが出てきて、iPhoneのCMだった。
「……学校」
心の奥底で何かが動いた気がした。
別のCMになって、学生が大人と一緒に勉強している場面。
家に帰っても勉強して、電車に乗って、試験会場へ。
部屋の机で参考書を見ていると、スマホに通知。
知っている大学の合格通知だった。
冒頭に出てきた大人へ、受験生の子がメッセージを送る。
『夢見た場所へ』の文字のあとに、知っている予備校の名前が出てきた。
「……塾」
人間の梓が行っていた場所。ヴァンパイアになるその直前まで通っていた。
テレビをつけたまま、梓は部屋に戻って本棚を見た。
生きていた頃——高校一年生の3月に買ったばかりの受験対策問題集の赤い本。
まだ最初のほうしかやっていないけど、少し覚えのある問題。
壁には塾の時間割が貼ってある。
週2で学校終わりに通っていた。数学と物理と英語の三教科。
ちゃんとした大学に行って、ちゃんとした大人になりたかった。
部屋の隅にまとまった服の入った箱をひっくり返すと、クリーニングの袋に入ったままの紺色のブレザーとチェック柄のスカートが出てきた。
念のためにと二着買っていた、生きていた頃の高校の冬服。
一着はヴァンパイアになってすぐ血まみれになって、警察に見つかるのが怖くてばらばらに切って捨ててしまった。
私がいたはずの場所。私がやるはずだったこと。
全部全部途中で止まって、今でも止まり続けている。
テレビの番組表を開いて、学校が舞台のドラマを探した。
今日はない。明日もない。大人の話ばかり。
自分用のタブレットを開いて、Netfrixで学園ものドラマを検索する。
梓が昔見たドラマがたくさん出てくる。
ノートとペンを自分の部屋の机に置いて、タブレットで学園もののドラマを見ながらメモしていく。
『学校でできること』と書いた新たなページの上に。
部活。
太陽の光が平気なら、ほとんどできるはず。
ヴァンパイアなら足も速いし力も強い。運動部だってできるかも。
吹奏楽とかはできないかも。息していないし、このヴァンパイア流の呼吸でちゃんと楽器が演奏できるかわからない。
勉強。
今は眠くならないし疲れないから、何時間だってできるはず。
飽きちゃうかもしれないけど。
お昼休み。
ご飯は食べられないけど、みんなと遊ぶことはできる。
ご飯を食べられないのをどうやってごまかそうか。
登下校。
厳しいかも。真冬でも太陽が出てない間に登校するのは難しそう。どんなに早い部活でも太陽が昇ってから朝練だし。
ここだけは、車で送ってもらうとかできないかな。
地下鉄だともしかしたらいけるかも。
文化祭。
飲食系だとまずいけど、それ以外は大丈夫。
劇とかは、この見た目じゃ怖がられちゃうかも。
友達とお手洗い。
行くふりをすればばれないかな。手も洗えないから、ハンカチだけ持っていけば。
プール。
出来ない。元々ほとんど泳げないし、ちょっとでも火傷するとプールが真っ黒になっちゃう。
修学旅行。
中学の時みたいに京都のお寺とかじゃなければ大丈夫。きっと行ける。
期末テスト。
前の日に徹夜を気にしなくて大丈夫。寝る必要もないから。
友達。
「……できるのかな」
元々そんなに友達が多い方でもなかったし、別に社交的な性格でもないと思う。
でも頑張りたい。
こうやって一緒に笑って、一緒に遊んで、一緒に頑張って、一緒に受験できる友達がほしい。
梓はドラマのシーン一つ一つを見ながら、そこに自分を重ねていく。
意外とできることは多かった。
恐ろしい太陽の光の下だけれど、今の自分なら練習すればできるはず。
梓の心のずっと底にある、二度と開けないと誓って封じた気持ちの箱が開いていく。
淡く光る暖かいものが、闇に包まれた心のなかで弾けていく。
もう一度、学校に行きたい。
みんなと一緒に、普通の生活をしたい。
心の底から溢れてくる気持ちに合わせて、ペンを書く手が速くなっていく。
梓は赤い目から、淡い赤色の涙を流していた。
積み重なる罪から逃げるため、人殺しの怪物に徹するとき封じ込めた気持ち。
それが動いていない心臓を揺さぶって、止められない感情の波に変わっていった。
諦めていたもの。ヴァンパイアに奪われたもの。動かなくされていた時間。
もう一度ほしい気持ちが止まらなくなっていた。
学園ものドラマの一話が終わって、次の話をタップしようとして、机の上のスマホが目に留まった。
iPhoneの端にこびりついた黒い汚れ。梓の血か、梓が殺した人の血かわからない罪の証。
そこから13個の黒い影がぬうっと出て、梓の周りに立ち上がって、見下ろしている気がした。
梓が奪った命たちの影。
——何の罪も償わず、盗んだお金で買った薬で学校へ行こうなんて。
——なんて勝手な。子どもの言い訳だ。
キラキラ光る気持ちの濁流に、真っ黒い罪の影が混ざる。
梓はペンを置いてノートを閉じて目も閉じた。
「だって……私だって、なりたくてなったわけじゃない……!」
ヴァンパイアなんかなりたくなかった。
確かに疲れないし眠くならないのは便利だけど、そんなもの別に望んでいなかった。
親に一年も迷惑をかけ続けても欲しいものなんてこの世になかった。
好きで殺したわけじゃない。
食べないと死んじゃうから。
食べないとおかしくなってしまうから。
13個の黒い影たちが、声なき叫びをあげて梓の背中を踏みつけた。
痛い。
でも殺された人たちは、きっと何倍も、何十倍も痛かったと思う。
特に私が殺すのに慣れていなかった、最初の頃の人たちは。
理由も、意味も分からなかったと思う。私がそうだったように。
殺されたことに理由なんてなかった。ただ、空腹のヴァンパイアの前にいてしまっただけ。
許してくださいと言えるようなことじゃない。
私がその分を生きますなんてことも言えない。
どうやって償えばいいかなんてわからない。
だから17歳の少女は、罪の影たちの怒りが過ぎ去るのをただ目を閉じて待った。
何回も、何十回も、罪の鞭が振り下ろされて、それでも目を開けず、全てから目を逸らした。
まるで雷が通り過ぎるのを待つみたいに。
ふうっと息を吐いて目を開けると、もう何もいない。
目の前のタブレットがスリープモードに入っていて、手元のノートに赤い涙の染みがちょっとついているぐらい。
「……諦められないよ」
一度封を破って溢れ出した気持ちが止められない。本当に勝手な子どもだと思う。
梓はタブレットを触って、次の話を再生する。
またペンを持って、赤い涙の染みの上から文字を書いていく。
新たな決意を胸に抱いて。