はらぺこヴァンパイア 作:棗の
その一室に
黒い長袖パーカーにグレーのサルエルパンツ、足元にはくるぶしの隠れるアンクルブーツという黒一色の出で立ちだった。
「……辛かったわね。もう大丈夫よ。その人たちは、絶対に梓さんを連れ戻したりはしない。私たちがいるから」
対面に座る女性警察官は、優しく諭すように言った。
柔らかい口調と顔つきでありながら、じいっと梓の顔を見て、僅かな変化を観察していた。
女性警察官の前には『
制服を着た女性警察官・井口の傍らには、ゆったりとしたニット生地の服を着た40代ほどの女性がいた。
柔らかい印象で、銀縁の眼鏡をかけている。手元には何も持っておらず、机の上で両手を軽く広げている。
その前には『
「もう怖がらなくて大丈夫よ。あなたは絶対に安全。
私たちはあなたも、お父さんも、お母さんも全力で守るから。
井口は笑って、梓に言葉を投げかける。
梓は赤い目を伏せたまま、口を引き結んでいた。
動いてない心臓がどくどく動きそうだし、胸の奥が重たい感じがした。
私は悪いことをしてる。
「……何でもいいから教えてほしいの。周りに見たことが無い植物が生えていたり、大きな川があったり、遠くに何か建物が見えたりはしなかった?」
井口は笑顔のまま、目の前の真っ白い肌の少女に質問を投げかけた。
手元の書類にある顔写真と、目の前の少女は全く別人のように見える。
真っ白な紙のように白い肌、カラーコンタクトには到底見えない赤い目。
顔立ちも違うし、この年代の少女にしては座高も高い。
前任者が書類を書き間違えたのでないのなら、明らかに別人だった。
しかし被害者の家族は、この白い肌の少女こそが、一年前から
「……すみ、ません。覚えてないんです。山の中を、切り開いたみたいなところで。そこでしか、動けなくて」
梓は目を伏せたまま、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
この一週間、何度も練習したように。
「そこにずっといるように言われていたの?」
「……そういうわけじゃ、ないです。去年の末ぐらいまでは、その……楽しかった、と思います。自然がいっぱいで、鳥の声がきれいで、空もきれい、だったので」
梓は表情を変えず、足元の絨毯敷きの床と、自分の靴先を見たまま呟く。
あまりにも申し訳なくて。
目の前の警察の人たちにも、自分が殺してきた人たちにも。パパにもママにも。
「……大きな川とか、面白い形の山とかはあった?」
井口が笑顔を貼り付けたまま尋ねた。
「……ごめんなさい。わからないです。小さな川はあったんですけど、川としか呼んでなかったので」
梓は頭の中の台本から言葉を切り取って、それに悲しみで味付けして出した。
「水や食べ物は、どうやって得ていたの?」
「畑で野菜を、作ってました。種は、《ダディ》が外から持ってきたって言ってました」
梓はまたも、事前に用意しておいた台本から切り取って、言葉を並べる。
細めた目の裏に、降りしきる雨の日を思い浮かべて。
「牛肉や鶏肉は出たことがある?」
「……いいえ。ありません。健康なお野菜とお水で、体が健康になるって言われたので」
井口は笑顔を貼り付けたまま、一向に進まない時間を進めようとする。
「その《ダディ》さんはどういう人? 顔のほくろとか、髪型とかは覚えてる?」
「コミュニティーのえらい人たちが、何か儀式とか、外から人を連れてくるとか、そういう話はしてた?」
「他に歳の近い人はいた? 梓さんみたいに、元々外にいて連れてこられた人が」
「勉強を教えてもらったり、農業のやり方を教えている人はいた?」
「どれくらいの人がいた? どういう家があったの?」
矢継ぎ早に放たれる質問に、梓はただ繰り返すのみだった。
「ごめんなさい……思い出したく、ないんです……」
そういって持ってきた黒いハンカチで顔を覆って、涙を流した。
梓の心は、その嘘の空白期間にあった本当の現実を思い出すだけで、涙を作ってくれた。
井口は僅かにため息を吐いて、横にいる女性カウンセラーの遠藤に目くばせした。
一旦、この哀れな被害者の気持ちを落ち着ける場面だと促した。
「……梓ちゃん、ごめんなさいね。梓ちゃんが本当に無事でよかった。すごく怖い所だったのね」
梓はこくりと頷いた。
井口は耳につけたインカムからの指令を拾ったが、小さく首を振った。
この子からは情報は引き出せない。可哀そうで見ていられない。
そう言ってこの場から去りたかった。自分が警察官ではないのなら。
カウンセラーの遠藤は、梓を落ち着けるために、梓が行方不明になる前の楽しかった記憶の話をしている。
その間に、願わくば別室の刑事たちが何らかの見立てをしてほしかった。
何が悲しくて、一年もカルトに監禁され心身に重傷を負った少女を尋問しなければならないのか。
あの気の毒な親御さんたちに捜索願は取り下げましたと言って終わりでいいはずなのに、上はそう認めなかった。
警察署に特異行方不明者『三浦梓』の実母から電話があったのは昨日の昼のこと。
つい先日、自宅に娘が帰ってきたと涙ながらに言っていた。
一年前、一切の痕跡なく姿を消した当時16歳の少女。
家族への事情聴取では家庭内の不和は見られず、事件性があると判断し、即座に特異行方不明者とされた。
特異行方不明者とは、一時的な家出などと異なり、事件性や自殺などの危険性が高い行方不明者を指す言葉である。
より捜査の緊急性が高く、多くの警察官が投入される傾向がある。
行方不明地点と思われる被害者の通う塾から自宅までの経路で鑑識が調査したが、痕跡は全くなかった。
被害者の血痕が経路付近で発見されたが、それ以降は途切れていた。
多数の警察官を投入し探すも、その後一切の痕跡は無し。
携帯プロバイダからは、行方不明から五日後に
おそらくスマホ本体かSIMカードの破壊が行われたと見て、所轄の世田谷警察署と連携し捜査本部を設置し捜索を開始。
しかし、防犯カメラや聞き込みでは全く成果なし。
16歳の制服の少女など数千人はいる中で、雲をも掴むような捜索だった。
家族に対して、言えない悩みがあったのかもしれない。
実は恋人がいて、駆け落ちを試みたのかもしれない。
16歳といえば多感な時期だ。親に言えない悩みなど幾らでもある。
真面目に見える子でも心の中では何を考えているかなんて誰にも分からない。
そう思った刑事が被害者の実母の三浦
そこから断続的に聞き込みや防犯カメラの確認を続けるも、一切の成果は無し。
学校にも戻っておらず、数名いた被害者の友人に聞くも成果なし。
他の特異行方不明者事案も何百とあり、その広大に広げた網に引っ掛かることを祈っていた。
そうして迎えた翌年――すなわち今年の3月末。
突如として三浦梓本人が、なんと自宅に帰ったと言うのだ。
すぐに捜査本部に刑事含め数名が集められ、本日。
三浦夫妻それぞれと梓本人に、特異行方不明者の発見手続きの前に、任意で個別面会が行われた。
三浦一家から聞かされた、三浦梓失踪事件の内容は、想像以上に大きな山の一角だった。
その物語はこうだった。
——被害者・三浦梓は一年前、塾帰りに何者かに背後から殴られ気を失った。
気がつくと山の中の閉鎖的なコミュニティにいた。
コミュニティではデジタルデトックスの真似事をしており、スマホは取り上げられていた。
そのコミュニティで他の拉致された人達と一緒に、都会の毒を抜くためと称して電気ガス水道の無い、自然回帰派のような生活をさせられていた。
山の中を切り開いたようなところで、村や町はなかった。
最初は逃げようとしたが、周りの人たちや、《ダディ》と呼ばれるお兄さんが優しくて、信じられないが楽しく暮らしていた。
朝から夜まで畑を耕し、薬膳と称して何が入っているかもわからない食べ物を食べさせられたが、こんな生活もいいと思っていた。
それが終わると太陽の当たらない小屋で長時間暮らした。
面白い話をたくさんしてくれたし、体にいいと思っていたので逃げようとは思わなかった。
今思うとおかしかった。
去年の末頃に状況は一変した。
都会の毒素が流れてきていると言われ、自分を含むそこにいた人たちは病院のような場所に閉じ込められ、色んな薬を飲まされ、手術みたいなことをされたりした。
思い出したくないけどすごく痛かったし、毎日吐いたりしていた。
そこからずっと暗い部屋に閉じ込められて、久しぶりに明るい所で見た鏡で、目や肌の色がなんだかおかしいことに気付いた。
ここはおかしい、逃げようと思った。
従順なふりをして、一年に一回ある下界との交流会に立候補して、山を下りた時に命からがら逃げた。
何日も走って、体調がおかしくて、なんとか両親と再会したのが、3月26日だった——
三浦一美と三浦浩平は警察署へ出頭し、そのシナリオを語った。
一年前、被害者の両親から提供された写真とは似ても似つかない、赤い目と白い肌の大人びた少女と共に。
そうして、今。
急遽、刑事二名が別室で待機し、被害者本人に個別で面会を行っている。
警戒心を抱かせないよう、若い女性警官と女性カウンセラーが対応している。
そんな三浦梓への聞き込みは、既に一時間を過ぎていた。
「……マル
白髪交じりの壮年の男性刑事が、モニターを見たまま呟いた。
モニターには三浦梓と井口、遠藤のいる部屋の様子が映っている。
手元には井口と繋がるマイクがあるが、スイッチは切られていた。
「一年前の事件ですからねぇ。着のみ着のままで帰ってきたんでしょう」
傍らの刑事よりやや若い、中年の男性刑事が手元の資料を見ながら言った。
何度見てもカメラに映る少女は同一人物には見えない。化粧をしているようにも見えない。
病的に白い肌に、カラーコンタクトにも見えない赤い目。
別人を差し出したという可能性もある。
三浦一家全体がグルで、何か別のことを隠している可能性もある。
もっともそんなことをなぜするのかという動機が無いが。
手元の手書きメモに目を落とす。
『
『自然回帰派カルトでの経験により
『正規の医療機関での検査はPTSDにより拒否』
『被害者の実母の知人とされる元医師による診断』
『裏付け:被害者自宅に石膏ボード等による遮光を確認』
そんな文字が記されている。
「……現場、結構人目ありますよ。ここで16歳の女の子を殴って誘拐って厳しくないですか?」
中年刑事は、印刷したGoogleマップの一枚を壮年の刑事の前に差し出した。
現場の写真では、監視カメラこそないが
被害者が誘拐された翌日に聞き込みをしたが、手がかりは無し。
現場に残された血痕のDNA鑑定によれば、それは被害者本人のものだった。
加害者の痕跡は何もなかった。
つまり供述の『背後から殴られ気を失った』は、嘘である可能性が高い。
「マインドコントロールだろう。実際はそこで勧誘されて、穏便についていった可能性もある」
壮年の刑事が、表情を変えずに言った。
一年間外界から隔離され、しかも最初の半年ほどは楽しかったと被害者は言ってのけた。
その過程で、誤った事実を刷り込まれ真実は消えた可能性が高い。
何らかの怪我を負ったことは事実だが、誘拐ではなくただの勧誘だったのかもしれない。
「親子の仲は良好、母親は医療従事者。父親は都内の会社員。家庭内での不和は見られず……。
そんな家の子が勧誘だけで何の連絡もなくホイホイついていきますかね?」
中年刑事は誘拐のセンを疑い続けていた。しかし物証は何一つとしてない。
「これ、行方不明者のリストからあたった方がいいんじゃないですか?」
様子の違う別の紙を中年刑事は手に取った。
ここ一年で都内と横浜市内で発生した特異行方不明者のリストがある。
いずれも防犯カメラに最後に映った地点付近を捜査したが、争った形跡もない。
DNA鑑定可能な人物のみ鑑識が調査したが、犯行現場と思われる地域には毛髪一つ落ちていない。
得意行方不明者の絡むその連続した事件は、世間では《
都内と
その中のどれが、今回のヤマに繋がるのか。
この目の前の、自然回帰派カルト被害者とつながりがあるのか。
カルトに、よほど人攫いに秀でた実行犯がいると見ていた。まるで幽霊のような。
中年刑事は、ここ一年で発生している――つい先日3月19日にも発生した――《痕跡の無い連続失踪事件》との関連性を疑っていた。
ちょうどこの被害者が行方不明となった前後から、一か月に一件程度発生している。
偶然の一致とは考え難い。
少なくとも一年前から、この自然派カルトは犯行に及んでいたのだろう。
警察に一切嗅ぎつけられることもなく。
ここ一年、何の手がかりもなかったその実行犯の尻尾が、失踪から戻ってきた被害者の証言という形で掴めるかもしれない。
《ダディ》と呼ばれる人物を首謀者とする自然回帰派カルト。
山を切り開き数十名を収容可能な村を作れるほどの組織力を有する。
マインドコントロールに秀で、防犯カメラの死角を把握している誘拐の実行犯が構成員として存在する。
信者に対し自然回帰派の生活を強制し、昨年12月頃から突如として医療行為と称し、信者に非合法の手術や薬剤の投与を行った。
それによってモニターに映る被害者は、重篤なPTSDと光過敏症に類似した病気を患った。
仮に類似の《痕跡の無い連続失踪事件》が同一犯とすると、その犯人像としての特徴は、白く細い手、黒いフード、背丈は160センチ前後。
犯行現場付近の防犯カメラに映っていた。いずれも背後からのみであり、顔や体つきはうかがえない。
ただ手が細くその肌の色から、
三浦梓を誘拐し、その他少なくとも13名を誘拐したカルトは、何を狙っているのか。
山中に多くの一般人を誘拐し、労働させ、何をしようとしているのか。
人体実験か。化学兵器か。テロか――
今はまだ、幸いにもこの邪悪なカルトは誘拐と拉致監禁だけだ。
ある時を境に、社会全体に牙を剥くかもしれない。その前に対処したい。
明らかに緊急性の高い事案。
しかし目の前の唯一の手掛かりは、一時間も口を閉ざしている。
「すみません、覚えていないです」「必死で夜通し逃げたので、どこを通ったかもわからないんです」「思い出したくないです。ごめんなさい」「もう帰りたい」
そんな言葉を涙ながらに漏らすだけで、対面する警察官も情にほだされ士気が下がっている。
自分たちとて、命からがら死地から帰った、娘と同い年程の被害者少女に尋問紛いのことなどしたくはない。
しかし絶対に何かを隠している。
あるいはマインドコントロールで何か隠されている。
貴重な手掛かりが哀れな少女の記憶の片隅から出土するはずだ。
その確信は二人の刑事の中にあった。